第五話 紅葉シーズン到来、一泊二日の塾合宿スタート(二日目)
合宿二日目の早朝、六時半頃。
「皆さーん、起床時刻ですよう。用意を済ませて、速やかに昨日の宴会場へ移動してね」
佐登子さんが507号室へ入ってきて、大声で叫ぶと、
「あっ、おっ、おはようございます。おばさん」
高史はすぐに目を覚まし、むくりと起き上がった。
桃香と葉奈子、麻恵もそれからほとんど間を置かずに目を覚ました。
「よく眠れましたか?」
佐登子さんはその四人に質問する。
「まあ、一応は。僕、かなり疲れていたので」
高史は素の表情で答えた。
「わたしは、あまり眠れませんでした。芽衣さんに何度も蹴られて。お布団移動させたんですけどね」
葉奈子は苦笑いした。
「ああ、やっぱり。ワタシ、子ども会のキャンプでめいちゃんと同じ班だったんだけど、お隣のお布団で寝たら何回か蹴られてたよ。めいちゃーん。起きてー」
桃香は爽やかな表情を浮かべて、芽衣の頬っぺたをペチペチと叩く。
「んうん。まだ眠い」
芽衣はぴくりと反応し、お布団に包まった。
「芽衣さん、おしりが半分に出てるよ。本当に寝相悪いのね。よぉーし」
葉奈子はにやりと笑った。
「はなこちゃん、もしかして」
桃香は心配顔になった。
葉奈子は手のひらにハァッと息を吹きかけた。
「芽衣さん、起きなさい!」
パチーンッと乾いた音が響く。
その瞬間。
「きゃぅ!」
芽衣は飛び起きた。
「なっ、何が起きたの?」
久実もパチッと目を覚まし起き上がった。
「大成功ね」
葉奈子はにっこり微笑んだ。
「もう、ひどいなハナコン」
芽衣はムスッとふくれる。
「真夜中の仕返しよ。わたしも痛かったんだから」
葉奈子はにかっと笑い、舌をぺろりと出した。
「さて皆さん、早くお着替えして移動してね」
佐登子さんは爽やかな表情で次の指示を出す。
「はーい!」
久実は返事するや否や、
「うわっ」
高史は咄嗟に目を手で覆う。
久実がパジャマの上着を勢いよく脱いだのだ。乳首も一瞬見えて見えてしまった。
「くっ、久実さん。ダメでしょ。もう五年生なんだから、高史先生の人目を気遣わなくちゃ」
葉奈子は慌てて注意する。
「ごめんなさーい」
久実はぺこんと頭を下げて謝った。
「アタシもタカシっちの目の前でも特に気にすることなく着替えれるけどね。まあ、体育の着替えも男女別だからな」
芽衣はにこにこ笑う。
「……」
高史は逃げるようにトイレに駆け込んだ。ここで着替えることにしたのだ。
みんな私服に着替えたのを佐登子さんが確認すると、昨日の夕食時と同じ宴会場へ。
朝食を取り終えてそれぞれのお部屋へ戻ったあとは、各自荷物をまとめ、出発の準備を進めていく。
「皆さん、そろそろ出発しましょうか?」
もうまもなく七時半になろうという頃、佐登子さんは再び507号室に足を踏み入れた。
「佐登子おばちゃん、今から始まるやつ見終わってからーっ」
久実は駄々をこねる。
付けられていたテレビ画面左上には、7:29という時刻表示。何かの番組のEDが流れている最中だった。それが終わり七時半になると、今度は乳幼児向けの教育系テレビ番組が始まった。
「上河内さんは、こういう番組が好きなのかな?」
「うん!」
高史が問いかけると、久実は満面の笑みを浮かべて勢いよく頷いた。
「ワタシも大好きです」
「わたしも毎週欠かさず見てるよ」
「私はたまにー」
桃香、葉奈子、麻恵もこの番組がお気に入りのようだった。
「そうか。僕、こういう系の番組見たの、一〇年振りくらいかも」
高史も視聴してみる。
久実は瞬きもほとんどせず、熱心に見入っていた。
麻恵、桃香、葉奈子、そして佐登子さんも同じく。
「そんなに面白いかな?」
芽衣だけはあまり興味を示さず、番組の途中から携帯ゲームで遊び始めた。
(たまには、こういうアニメもいいな。最近は深夜アニメばっかり見てて、こういう子ども向けの紙芝居風の絵柄のやつは見なくなってたし。それに、声優もあの人だったし……)
一五分ほどの番組を見終えて、高史はそんな心境に陥る。先ほどやっていた番組は、『舌切りスズメ』という有名な日本昔話のアニメ版だった。
「ねえ、高史くん、そろそろ行くよーっ」
「……あっ、わっ、分かった」
物思いに耽っていたところをいきなり麻恵に話しかけられ、高史は少し動揺した。
他の塾生達はすでに、お部屋から出ていた。
※
一同は桑名から名古屋へ戻り、新幹線で京都駅へ。
大階段で有名なJR京都駅構内を少しうろうろしたあと、清水寺へと向かった。
「ここに来たの、小四の遠足以来だーっ」
「京都市内が一望ね」
「絶景だぁーっ! この風景は何度見ても飽きないよ」
久実、葉奈子、麻恵はとても楽しそうに、かの有名な清水の舞台の上から欄干にもたれるようにして街を見下ろす。
他の四人はそのすぐ後ろ側から眺めていた。
「ちょっと怖いです。斜めになってるし」
桃香はその中でも一番後ろ側から眺めていた。
「ねえ、芽衣ちゃん。ジェットコースターや観覧車は怖いけど、ここは平気なんだね」
「そりゃまあ、動いてないからな」
麻恵の質問に、芽衣は堂々と答える。
「じゃあ、こうすればどうかな?」
麻恵はにこっと笑う。
「きゃっ、きゃあああああっ。麻恵、下ろせ、下ろしてぇぇぇ」
芽衣は麻恵に背後からつかまれ、ふわりと持ち上げられた。足をバタバタさせて必死に抵抗する。
「これこれ、麻恵。芽衣ちゃん怖がってるからやめなさい」
佐登子さんは優しく注意する。
「ごめんね芽衣ちゃん」
麻恵はにこやかな表情で謝罪の言葉を述べて、芽衣をそっと下ろしてあげた。
「ああ~、怖かった~」
芽衣はホッと胸をなでおろす。
「芽衣さん、情けないよ」
葉奈子は微笑み顔で言った。
「だって、怖いものは怖いんだもん」
芽衣はムスッとした表情で言い訳する。
一同は続いて地主神社へ立ち寄った。ここには恋占いの石が二つ置かれてある。石から石へ目を閉じたまま辿り着くことが出来ると、恋の願いが叶うといわれている有名なパワースポットだ。
「私、やってみる!」
「アタシもやるぜっ」
「あたしもーっ!」
麻恵、芽衣、久実が挑戦してみることにした。その三人は石の横に立ち、目を閉じると向かいにあるもう一方の石に向かって歩いていく。
「三人とも、絶対恋愛とか関係なくやってるね。わっ、麻恵さん成功してるし。すごい」
葉奈子は目を見開いた。
「麻恵やるわね」
佐登子さんも喜ぶ。
「めいちゃん、ズレ過ぎだよーっ」
桃香は叫ぶ。
「きゃっ!」
芽衣は前にこてんとつんのめった。すぐ横を歩いていた久実が足を引っ掛けたのだ。
「あーん、クーミン。目ぇ開けて歩いたら反則だぜ」
「えへっ。芽衣ちゃんの倒れ方かわいかったよ」
久実は舌をぺろりと出した。
「今度アタシにイタズラしたら、またおばけ屋敷に付き合ってもらうからな」
芽衣はてへっと笑って注意する。
「ごめんなさぁーい」
久実は顔を引き攣らせた後、ぺこんと頭を下げて謝った。
「ねえ、タカシっちは好きな人いる?」
芽衣は高史のもとへ駆け寄り、興味津々に尋ねてみた。
「……いないよ」
一瞬間があったあと、高史はすぐに否定した。
「嘘だー。照れてる」
芽衣はくすりと笑う。
「めいちゃん、失礼だよ」
桃香は困惑顔で注意した。
「お母さんはやらないの?」
麻恵は尋ねてみる。
「うん。だってもう叶ってるから」
佐登子さんは幸せそうな表情でおっしゃった。
こうして一同はここをあとにして、音羽の滝へ。
「ご利益、ご利益」
「めっちゃ美味しそう」
久実と芽衣は三つに分かれて流れ落ちる水のうち、彼女達側から見て一番右端のものを柄杓に注いだ。ごくごく飲み干していく。続いて真ん中を流れるお水を注ごうとしたところ、
「欲張って全種類飲むとご利益が消えちゃうよ」
佐登子さんはその二人の背後からさらりと伝える。
「そうなの? 危なかったー」
「マジで?」
久実と芽衣はぴたりと動きを止め、柄杓を元置いてあった所へ戻した。
「それに、飲みすぎるとおなか壊しちゃうかもしれないわよ」
佐登子さんは付け加える。
「ここのお水は、飲んでも特にご利益は無いそうよ」
葉奈子はさらっと伝えた。
「えっ!? 健康・学業・縁結びのご利益があるってママから聞いたよ」
「あたしもあると思ってた。違うの?」
「それ、観光用の宣伝文句よ」
目を丸める芽衣と久実を見て、葉奈子はくすっと笑う。
「そうなんだ……なんかママに騙された気分」
芽衣はちょっぴり落ち込んだ。
「この三つの流れは仏・法・僧への帰依、若しくは行動・言葉・心の三業の清浄を表していて、滝そのものが信仰の対象となってるの」
「へぇ。葉奈子お姉ちゃん物知りだね」
「ハナコン博識だーっ」
久実と芽衣は、葉奈子から伝えられた豆知識に感心する。
「葉奈子ちゃんは小学校の時のあだ名、博士だったからね」
麻恵は自慢げに伝えた。
「なんか恥ずかしくて嫌だったよ、そのあだ名」
葉奈子は照れくさそうに言う。
「僕もその言い伝え、聞いたことがあるな」
高史も話に加わった。
一同は清水寺を出たあと合宿最後の締めくくりとして嵐山を訪れ、観光名物となっているトロッコ列車に乗り込んだ。トロッコ電車は自転車と同じくらいのゆっくりとしたスピードで、線路を駆け抜けていく。
「ここの紅葉も、あんまりきれくないですね」
葉奈子はちょっぴり残念がっていた。
「まだちょっと早かったわね。一番の見頃は今月下旬みたいだけど、さすがに期末テスト直前に遊ぶわけにもいかないからね」
「お母さん、その否応無くやって来る現実を思い出させないでぇー」
「僕の高校もその辺りから部活禁止になるよ」
麻恵と高史はげんなりした。
「アタシ達には関係ないな」
「中学生は大変だね」
芽衣と久実は得意げに言う。
「わたしにとっては、定期テストは楽しみの一つよ。わたし、紅葉の時期になると落ち葉を集めて、焼きイモしたくなるなぁ」
葉奈子は風景を眺めながら呟く。
「ハナコン、食いしん坊だなぁ」
芽衣はにっこり微笑んだ。
「あたしは天ぷらにして食べたーぁい!」
久実は嬉しそうに言った。
「久実さん、ここの落ち葉は食べられないよ」
「でも葉奈子お姉ちゃん、箕面で売ってたよ、もみじの天ぷら」
「あれは、食用の紅葉を使用して一年以上塩漬けしているのよ」
葉奈子は優しく豆知識を教えてあげる。
「えっ、そんなに時間かかるのぉ?」
久実はがっくり肩を落とした。
「あの、くみちゃん。下を見て。お船さんだよ」
桃香は慰めるように話しかける。
「あっ、本当だーっ」
久実は途端に元気を取り戻し、大きな声で叫んだ。
車内からこれもまた嵐山の観光名物、保津川を下る遊覧船が見えてきたのだ。
「アタシは、乗りたくないな。酔うし」
芽衣は苦い表情で言う。
「速度の合成と分解の図を思い出しちゃうな」
葉奈子はにこにこ顔で呟く。
「あたしは流水算。学校の授業でちょっと前に習ったよ。よく分からなかったけど」
「アタシも意味不明だったぜ。あれめっちゃむずいよな」
久実と芽衣は笑いながら言う。
「流水算か。懐かしいなぁ」
高史は小学校時代の哀愁を浮かべた。
こんな感じで一同は紅葉狩りを十分堪能したあと、阪急嵐山駅へ。あとはまっすぐ帰るだけとなった。
「高史くん、私、明日までの宿題まだ全然出来てないよ。先生に叱られちゃう」
「アタシもだぁーっ。計算ドリルと漢字ドリル、全然やってねぇ。やべぇ」
帰りの阪急電車の中で、麻恵と芽衣はふとその現実を思い出してしまった。
「じゃあ、僕がやってあげるよ」
高史は快く引き受けた。
「わぁーい。嬉しい」
「タカシっち、全部任せたぁーっ」
麻恵と芽衣はバンザーイして喜ぶ。
「高史先生、ダメですよ」
葉奈子は困った表情を浮かべた。
「高史ちゃん、麻恵と芽衣ちゃんのためにならないからね」
佐登子さんからも注意される。
「やっぱ、よくないのかな?」
高史は少し反省した。
「あーん、葉奈子ちゃーん、お母さーん」
「サトコン、ハナコン、冷たいこと言わないでー」
「麻恵さん、そろそろ期末テストを意識した方がいいよ。芽衣さんも、今しっかり勉強しとかないと後々大変だからね。というか、芽衣さん。お菓子を買い過ぎ」
葉奈子は、大きな菓子袋を持っていた芽衣に指摘する。
「だって、アタシお菓子大好きなんだもん」
芽衣は遊園地内やホテル内、観光地の土産物店などで買ったお菓子を食べながら嬉しそうに言い訳する。
「私も大好きーっ」
麻恵も同調する。麻恵も芽衣に負けないくらいお菓子を購入していた。
「タカシっち、あーん」
芽衣は高史の口元に、スナック菓子を近づけた。
「あっ、どっ、どうも」
高史は右手で掴み取り、自分で口に入れた。
「ハナコンもどうぞ」
芽衣は葉奈子の口元にもポップコーンを近づけた。
「じゃ、一つだけね」
葉奈子はこう言って自分の手で取り、お口に含んだ。
「そういやクーミン、さっきから大人しいな」
芽衣は、普段とは様子が違う久実に疑問を抱く。
「あっ、久実ちゃん、なんかお顔が赤いよ」
「お熱、あるんじゃない?」
麻恵と佐登子さんは指摘した。
「大丈夫?」
桃香は心配そうに問いかける。
「なんかあたし、今、すごくしんどくって」
久実はゆっくりとした口調で答えた。
「久実さん、本当にお熱があるよ」
葉奈子はおでこに手を当ててみた。
「あの、僕が上河内さんをおんぶして、おウチまで連れて帰りましょうか?」
「さすが高史ちゃん、気が利くわね。ワタクシが、久実ちゃんちまで案内するわね」
佐登子さんや、生徒達も高史の気配りに感心する。
高史以外は、久実のおウチの場所を知っていた。
阪急夙川駅で降り構内を出た後、
「高史お兄ちゃん、おんぶぅ」
久実は高史の肩に手を掛け、甘えるような声でお願いしてくる。
「もちろんいいよ。しっかりつかまってね」
高史は快く従ってあげる。
一同は春になると桜並木で美しく彩られる川沿いの道を、北方向に向かって歩いていった。川から外れて住宅街を東方向へ歩き進むこと約五分、久実のおウチに辿り着く。
佐登子さんが代表して、門すぐ横にあるインターホンを押した。
『はーぃ』
お母さんが出たようだ。
「お母様でいらっしゃいますか。久実ちゃんが、お熱出しちゃったみたいで。送ってきました」
佐登子さんはインターホン越しに伝える。
「あらま、それはどうも。ご迷惑お掛けしてすみません」
それから数秒後、久実のお母さんが玄関から出てくる。
「ママァ」
久実はかすれた声を上げた。
(高いな、背)
高史は少し見上げる。
お母さんは久実の言っていた通り、一七三センチくらいだった。
「あっ、あの僕、山際舎で、新しくボランティア講師を務めされていただいております、瀬戸山高史と申します」
「あらぁ、あなたが。久実の言ってたとおり、誠実で優しそうな人ね。久実をおぶって下さり、ありがとうございます」
久実のお母さんは深々と頭を下げ、丁重に礼を言った。
「いやあ、べつに礼を言われるほどのことでは……」
高史はかなり照れてしまう。
「この子、遠足とか野外活動とかの帰り、しょっちゅう風邪引くんですよ。遊び疲れちゃって」
お母さんは笑顔で説明する。
「久実ちゃん、大丈夫?」
麻恵は心配そうに問いかける。
「うん、まあ……なんとか」
そう答えるも、久実はぐったりしていた。
「上河内さん、もう少し、頑張ってね」
「うん。ありがとう、高史お兄ちゃん」
高史は久実をおぶったまま、二階にある久実のお部屋へ連れて行く。
久実のお母さん以外のみんなも後に続いた。
部屋に辿り着くと、高史は久実をベッドの上にそっと下ろしてあげた。
華奢な体格の高史だが、久実も身長の割に体重は軽いため難なくこなすことが出来た。
(小学生らしさが出てるな。机の上以外は、碧ちゃんの部屋にもよく似てる)
高史は久実のお部屋を見渡してみて、こんな第一印象を持った。
学習机の上は雑多としており、教科書やプリント類、ノートは散らかっていた。部屋一面に、女の子らしく可愛らしいぬいぐるみがたくさん飾られてある。
本棚には幼稚園児から小学生向けの少女漫画誌や少女コミック、児童図書、絵本、アニメ雑誌などが合わせて二〇〇冊くらい並べられていて、普通の小学校高学年の女の子が好みそうな、ティーン向けファッション誌は一つも見当たらなかった。
「パジャマに着替えよっと」
「うわっ!」
高史はとっさに目を覆う。
久実がいきなり立ち上がり、スカートを脱ぎ下ろしたのだ。リス柄のショーツが、一瞬目に映ってしまった。
「久実さん、朝も言ったけど高史先生がいるのに、突然脱いじゃダメよ」
「ごめんなさい、葉奈子お姉ちゃん」
葉奈子に優しく注意され、久実はぺこりと謝る。
続いて久実はシャツ一枚姿となった。ブラジャーは当然、まだ付けていない。
高史は壁の方を向いてやり過ごす。
久実はパジャマに着替え終えると、すぐさまお布団に潜り込んだ。高史に取ってもらった、ナマケモノのぬいぐるみを隣に置いて。
「久実、お熱計ろうね」
お母さんもお部屋に入って来て、久実に体温計を近づける。
「うん」
久実はパジャマの胸ボタンをはずし、わきに挟んだ。
一分ほどして体温計がピピピっと鳴ると久実はそっと取り出し、お母さんに手渡した。
「38.4分かぁ」
お母さんから伝えられると、
「そんなに、あるの?」
久実はしんどそうに、不安そうに呟く。
「あ、久実ちゃん、鼻水が垂れてるよ」
麻恵は咄嗟に、学習机の上に置かれてあったボックスティッシュから何枚か取り出し、久実の鼻の下にそっと押し当ててあげた。
「ありがとう、久実お姉ちゃん」
お礼を言って、久実はしゅんと鼻をかむ。
「お夕飯は、食べられそう?」
お母さんは優しく問いかけた。
「ううん、食欲全然湧かなぁい。でも、あれは食べたいな。前にあたしが風邪引いた時に、作ってくれたやつ」
久実はとてもゆっくりとした口調で希望を伝える。
「あれね。ママが丹精込めて作ってあげるわ」
お母さんはにこっと微笑みかけた。
「ありがとう、ママ」
久実はとても嬉しそうな表情を浮かべる。
「申し訳ございませんが、山際先生も手伝っていただけないでしょうか?」
「もちろんいいですよ」
久実のお母さんからの頼みを、佐登子さんは快く引き受ける。
こうしてこの二人は、一階キッチンへと向かっていった。
それから十数分後、二人は戻ってくる。
あの間、桃香は苦しむ久実のために、絵本を二冊読んであげた。
「お待たせ」
久実のお母さんが作ったのは、コーンスープだった。
「ありがとう。ママ特製の」
「食べさせてあげる。久実、あーんして」
お母さんは小さじですくい取り、ふぅふぅして少し冷ましてから久実のお口に近づける。
「あー」
久実は口を小さく広げて、幸せそうに頬張っていく。
(風邪引いた上河内さん、とっても幼く見える)
高史はそう思いながら眺めていた。
「風邪引いた時って、ママの手料理がいつも以上に美味しく感じられるよな」
芽衣はにこにこ顔で呟いた。
「美味しかったぁ。ごちそうさまぁー」
食べ終えた頃には、久実の全身から汗が大量に流れていた。
「汗べとべとだけど、お風呂入ってますますこじらせちゃうと大変だから、ママがタオルでお体拭いてあげるね」
「ありがとう、ママ」
「どういたしまして。ちょっと待っててね」
お母さんは機嫌良さそうにそう告げて、お部屋から出て行った。
「遅くなってごめんね」
数分のち、お母さんはお湯を張った洗面器と、二枚のバスタオルを手に持って戻って来る。そしてそのセットを、久実の枕元にそっと置いた。
「待ってましたー」
久実は寝転んだまま、小さく拍手した。
「そっ、それでは、わたくしは、これで」
高史は慌ててこのお部屋から出て行った。
高史は、気まずく感じ、お部屋から出て行った。
「高史お兄ちゃん、いなくなっちゃった」
久実は残念そうに小さな声で呟いた。
「高史さん、久実の裸を見るのに罪悪感に駆られたのね。あの、高史さん、申し訳ございませんが、キッチンテーブルの上に置いてある風邪薬、お水に溶かして後で持って来ていただけないでしょうか? コップはその辺にあるのをどれでも使っていただいていいので」
お母さんは扉を開け廊下に出て、階段を下りようとしている高史に叫びかける。
「わっ、分かり、ました」
高史はもう帰ろうかと思っていたが緊張気味に承諾の返事をして、階段を下りキッチンへ向かっていった。
「久実、お体拭くからパジャマ脱いでね」
「うん」
お母さんに頼まれると、久実はゆっくりと上体を起こす。パジャマのボタンを外して上着を脱ぎ、次にシャツも脱いだ。きれいなピンク色をした小さな乳房が露になる。
「久実、お腹は痛くない?」
「うん、大丈夫」
「それじゃ、拭くね」
お母さんはお湯で絞ったタオルで久実の首、うなじ、背中、腕、わき、お腹の順に丁寧に拭いていく。その後に乾いたタオルで二度拭きしてあげた。
「ありがとう、お母さん。汗が引いてすごく気持ちいい」
久実は恍惚の表情を浮かべた。
「どういたしまして。久実、パジャマ着せるからバンザーイしてね」
お母さんは嬉しそうに微笑む。
「はーい」
久実は素直に返事し、両腕をピッと上に伸ばした。
お母さんはシャツとパジャマの袖を通してあげ、ボタンも留めて着衣完了。
「次は下を拭くね」
続いてお母さんは久実のズボンとショーツを一緒に脱がし、下半身も拭いてあげる。
「んっ!」
おへその下からおしりにかけてなでるように拭かれた時、久実は思わず甘い声を漏らす。
「きゃはんっ」
足の裏を拭いてもらった時には、くすぐったがってかわいい笑い声を出した。
「はい、拭き終わったよ久実。足上げてね」
お母さんは同じように乾いたタオルで二度拭きし、ズボンとショーツを穿かせてあげた。
「久実ちゃんのお母さん、すごく手際良いね」
「手馴れてるな」
麻恵と芽衣は感心する。
「そりゃぁ、久実のおむつを交換してあげたことが数え切れないほどあるからね」
お母さんは使ったタオルを絞りながら微笑み顔で言う。
「あたしが赤ちゃんの頃の話でしょ。ママ、恥ずかしいよぅ」
久実は照れ笑いする。
他のみんなはくすっと微笑んだ。
「あのう、上河内さんの体は、拭き終わったのでしょうか?」
それから少しして、高史はお部屋の外から問いかけた。
「うん、もう大丈夫よ」
お母さんが答えると、
「しっ、失礼、します」
高史は恐る恐る、お部屋へ足を踏み入れた。そして右手に持っていた小児用風邪薬入りコップをお母さんに手渡す。
「お手数をかけて申し訳ございません。じゃあ久実、お薬飲みましょうね」
お母さんはそれを久実の口元へ近づけた。
「ママ、これ、あたしの好きなやつじゃなぁい」
久実はぷいっと顔を横に向ける。
「久実、わがまま言わないで。高史さんが作ってくれたのよ」
お母さんは笑顔でなだめる。
「それは嬉しいんだけど、味が……ねえママ。メロン味のお薬は無いの?」
久実はお母さんの目を見つめながら訊く。
「ごめんね、切らしてるの」
お母さんは申し訳なさそうに言う。
「えーっ、じゃああたし飲まなーい」
久実は頬を火照らせながらぷくっと膨れた。
「お薬飲まないのなら、坐薬を使おうかしら」
「えっ! やっ、やだやだやだぁー。お薬、飲むよ、飲むよ」
お母さんがにこっと微笑みかけると、久実はびくっと反応し勢いよく上体を起こし、お薬をちびちび飲み干していく。
「久実ちゃん、坐薬が怖いんだね。気持ち分かるなあ。お尻に入れるの、私もちっちゃい頃風邪引いた時お母さんにしてもらったことがあるけど、逃げ回ってたよ」
「アタシも。嫌だよな、お尻にプチューってされる時のあの他に例えようのない感触」
麻恵と芽衣は同調する。
「私は坐薬を使った方が良いと思うけどな。早く効いてくるし」
葉奈子は笑顔で意見する。
「坐薬、怖い怖ぁい。それじゃあたし、もうおねんねするよ。おやすみ。ケホンッ」
久実は苦虫を噛み潰したような表情でこう告げて、お布団に潜り込んだ。
「久実ちゃん、お大事に。火曜日の授業、もししんどかったら無理せず休んでね」
「久実ちゃん、ばいばーい。ぐっすり休んでね」
「クーミン。明日までに絶対治しなよ」
「久実さん、お大事に」
「くみちゃん、お熱下がってるといいね」
「じゃ、上河内さん、お大事に」
佐登子さん&他の塾生達&高史は優しく話しかけ、久実のお部屋から出て上河内宅をあとにした。
久実は、翌朝にはすっかり元気になったそうだ。




