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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

欺瞞の右手

作者: 短足使い

途中、若干のグロ描写があります。


苦手な方はご遠慮ください。

僕には二つの手があった。

と言っても、僕の体が人の形を保っている時点でそれは至極当然のことである。

いままで僕の意のままに十七年の時を共に生きてきた他でもないこの手。

僕は今、他でもないこの手が心から憎くて憎くてしょうがないのであった。


時の総理大臣によって『昭和』が発表されてから既に早二十年。

思うに、僕がこうして退屈な授業を聞き流しつつ空を見上げている間にも、世界の何処かでは名も知れぬ兵隊の操る戦闘機が焼夷弾を雨粒が如く降り撒いていることだろう。

『時代が時代だ』と言い捨てるには余りにも残酷な事実。

ただそんな無残な光景を僕は見たことがなく、想像で補完しようにもその画は一端の高校生の脳内で思い描ける範疇から逸脱していた。

よって僕の目蓋の裏に映し出される地獄絵図は当然のことながら常に現実味に欠けている。

「ミサキ!いつまで空ばっか見てる気だ?」

とっさに聞こえたその声を聞くまで僕は授業の終了にさえ気付かなかった。

「おう、ジョウか。今日は生徒会はいいのか?」

僕のことを「ミサキ」というあだ名で呼ぶ青年は私の友人で、下の名を丈二といった。

「あぁ、この時期生徒会は暇なんだ」

そういってジョウは笑ってみせる。

因みに、「ジョウ」というのは丈二のあだ名で、ミサキというのは僕のあだ名だ。

「ジョウ」はもちろん彼の名前から安直に僕が付けたもので、「ミサキ」は「潮見佐紀人」という僕の名前から彼が考えて付けてくれたものだ。

ジョウはこの学校の副会長を務めており、四限の後の昼休みにはしばしば生徒会の用事で教室からいなくなる事があった。

そうなると人付き合いが苦手な僕は必然的に一人きりで昼食を食べることになってしまう。

なので、彼がこの時間ここに居てくれるというのは僕にとってささやかな幸せだった。

「なぁ、ミサキ。お前最近絵の方はどうだ?」

「何がさ?だから前にも言っただろう、僕はもう絵は辞めたんだ」

彼の問いにそう答えると僕はいかにも罰が悪そうに視線を手元の弁当箱へと落とす。

二人の間にのみ存在する微かな沈黙。

僕にはジョウがうなだれた顔をしているであろう事が見ずとも分かった。

「あぁ…そうだったな。」

予想通り落胆混じりの声でジョウがそう返す。

僕は口の中に広がる罪悪感と情けなさとのせいで、いま飲み込んだ卵焼きの味がよく分からなかった。


僕の右腕は時々鉛筆を持ち、線を描いた。

直線、曲線、濃い線、薄い線…。

やがて一枚の紙の上に生み出された様々な線達は一つの絵になった。

ただ、その絵は百歩譲っても上手いなどと言えるものではなく、良くて人並みと言うのが関の山の出来であった。

対してジョウの描く線達は、そのどれもが命を吹き込まれた様であった。

当然のことながら大量の「生きた線」で構成されたジョウの絵は美しく、躍動感があり、見る人々に感銘を与え続けた。

加えて、時々人目を盗むようにしてノートに雑な絵を描き殴る僕とは違い、美術部に属していたジョウは大勢の目の前で堂々とその洗練された技術を揮って鮮やかな絵を何枚も完成させていった。

やがて彼の得意とするモダンなタッチの女性画は次々と賞を取るようになり、いまや彼の右腕に輝かしい未来を期待する者も少なくない。

かくいう私もその一人であることに違いはないが、その胸中にはなんとも吐露し難い複雑な感情の存在があった。


元々、僕が絵を描くようになったきっかけはジョウの影響だった。

貧しい家の生まれだった僕は子供の頃欲しかった玩具を全く買ってもらえず、その度に駄々を捏ねていた。

その時、「ないんだったら欲しがってばかりいないで自分で描いてみればいいよ」と、スケッチブックと鉛筆を手渡してくれたのがジョウだった。

以降、初対面を果たした小学生の頃から約5年。

同じ全寮制の高校へと進学した僕らは、現在二人で一つの部屋に住み寝食を共にしている。

部屋にいる時、専ら僕らは他愛もない話題に華を咲かせていたのだが、ジョウは一日に一度決まった時間になると必ず黙って絵を描いていた。

前々から語ってくれていた画家という夢に向かけ、彼は一度も努力を怠ることをしなかった。

そんな所を日々近くで見ていた僕にとってその姿は非常に尊敬できるものであったが、それは同時に僕のチンケな自尊心を常に傷付ける対象でもあった。


 『才能』と一言で言ってしまえば実にあっけないが、そんな神からの些細な贈り物の有無に泣いた創作者は何人いるのだろう。

どんなに努力しても残酷なまでに差を見せつけて退かないソレは、求めると求めないとに関わらず常に無作為に選ばれた人の子のみへ与えられる。

思えば、子供の頃スケッチブックと筆入れだけを持ち、ジョウと一緒にあらゆる場所へ行っては目を惹く物を片っ端から描き続けた。

山を描き、鳥を描き、川を描き、魚を描き、野を描き、花を描き、時には互いを描きあった。

幼い頃に夢中になったその遊びはいつも互いの作品を発表し合うことでひとたびの終わりを迎える。

そのようにして僕らは日々変わってゆく互いの感性を褒め讃え合った。

しかし、そんなただ絵を描いているだけで幸せを感じられた僕らにも来るべき変化は等しく訪れる。

ジョウはいつしか絵を描く道具を安っぽい鉛筆から上等な絵筆に変え、僕らが幼少期に必死に培ってきた黒白だけで作りだす鉛筆独特の濃淡は彼の絵から完全に消え去った。

代わりにジョウの絵に現れた豊かな色彩は驚くほどに鮮やかで、いつか模写した風景や動物達が写真になって甦ったかと思うほどであった。

一方僕はそんな彼の変化や成長を自分のことのように喜んだ。

しかしもちろんそれは表面上の話である。

本当の事を言えば当然彼が自分を置いて遠くへ行ってしまうようで淋しかったし、何よりも歩調を早めていく彼の成長に自分が引き離されているという現実が、劣等感と言うでだけでは済まされない鬱屈とした気分を作りだすのであった。

しばらくして、とうとう『このまま頑張っても自分ではとうていジョウの背中を追うことはできない』と判断した僕は、下唇を強く噛みつつ今まで描いた絵を焼却炉で全て燃やしてしまった。

思えば、あの時一瞬で灰になったのは決して絵だけという訳ではなかったのだろう。


なんら形状の変わらない僕とジョウの右手。

僕には、一見同じそれらがどうしてこうも差のある絵を描くのかが常に疑問である。

同時に、そんなことを考えさせる不甲斐ない自身の右手が大嫌いだった。

もしかしたら僕は本当は左利きなのかもと思ったこともあった。

過去に一度、通過する列車の車輪と線路との間に故意に手を挟んで切断してしまおうかとも考えたが、いざ列車を間近で見てみるとあまりの勢いに恐怖を覚え断念してしまった。

そうして運よく生き延びた僕の右手は、今も尚何も成し遂げられぬままだらしなく僕の手首から先に垂れていた。


 ある日、僕は土日の休みを使って街へと出かけた。

だが特にこれといって用があった訳ではなく、いうなればこれはただの散歩に等しい。

と言うのは、近年特に様変わりの激しいこの街がまるで成長する我が子のようで、それを日々見守ることが嬉しかったからである。

人々は日々斬新な衣服に身を包み、街絵描きが描く往来は実物に伴って日ごとに色彩豊かになっていく。

そんな街の様子はこのように絵描きによって一片に切り取られ、それを運良く貰った子供ははしゃぎながら父母へ自慢しようと家へと走る。

他愛ないそんな風景がなんとも微笑ましい。

加えて、そうして街を散歩している時だけはジョウへの劣等感や鬱屈とした気持ちを忘れていることができた。

よって散歩が僕の趣味になるのにあまり時間はかからなかった。

「ん?なんだあの店?」

いつもの角を曲がったところで見慣れない看板が目に入る。

大通りを過ぎ、店の数ももうほぼなくなったかと思った頃に現れたその店は、察するに何やら骨董品屋のようだった。

薄汚れた茶色の看板はおよそ人の目を惹けるような代物ではなく、店側が全く商いをする気がないことを物語っている。

にしてもこの店はどこか気味が悪く、僕は一刻も早くこの場を立ち去ろうとした…が次の瞬間―ドクン―と一度胸騒ぎがし、不思議なことに気分は一転して急にこの店へ立ち寄る気になった。

考えてみると、なにやら外から覗き見るに異国の絵画なども取り扱っている様であり、自分としても興味がないと言っては嘘になる。

「お、おじゃまします…」

店に入る客とは思えない台詞とともにガラス戸を開けて中へ。

「…」

どうやら誰もいないようである。

「あれ?もしかして準備中かな?」

そう思い一度外に出てガラス戸に貼ってある紙を見直してみるとそこには『商い中』としっかり書かれてあった。

奇妙に思いながらももう一度中へ。

入ってから陳列されている品々を改めて見渡す。

絵画、壺、笛、杯、小棚、置物等々…決して分野ごとに分けられることなく、実に無作為に各所へ雑に置かれた商品群。

「ん、これは…」

この店の何に惹かれて入ったのかも分からないまま店内の骨董品を見渡していると、がらんとした壁に数本の掛け軸が掛っているのに気が付いた。

「へぇ、こんな錆びれた店の割にはけっこういい絵を飾ってるもんだ」

誰もいないのをいいことに中でも最も心惹かれた一本に手を伸ばす。

その掛け軸には、恐らく中国語と思われる漢字のみで書かれた長文があり、加えてその傍らには色鮮やかな蛇が描かれていた。

「ふぅ~ん、なかなか綺麗だな…」

「ありがとうございます…」

「え…!?」

気付くと僕の手がその蛇に触れた瞬間、さっきまで全く人の気配のなかった店の奥に、まるで随分前からそこに居たかのように酷く背の曲がった老婆が鎮座していた。

「し、失礼ですがおばあさん…いつからそこに?」

「さぁ…?いつからでしょう…」

ゆっくりとそう答えた老婆にほとんど表情はなく、今しがたこの店を小馬鹿にした僕に対して怒っているようにも見えるし、逆にそう装って意地悪な笑みを浮かべているようにも取れる。

また、既にボケており本当に自分がいつからそこにいたのかを覚えていないことも考えられる。

そのように、こちらが考えれば考えるほど実像が霞んでゆく老婆の独特かつ不気味な存在感がなぜか僕には非常に怖かった。

「あの…じゃあ僕は急ぐので、これで…」

すぐにでも立ち去らねば…と、僕が極めて強引に会話を切り上げて店を出ようとすると、

「お待ちなさい坊や…」

「え…?」

見ると、振り返ろうとする僕の学生服の端を老婆が弱弱しく掴んでいた。

僕はここにきていよいよ気味が悪くなり、

「う、うわっ!…な、なんですか!?お金なら持ってませんよ?」

と、突き放すように言い捨てると同時にその細い手を強く振り払った。

力なく振りほどかれる老婆の右腕。

「坊や…なにをそんなに怖がっているんだい?それに…」

「…?」

「お金なんか取りはしないよ…」

先程までとは一変して孫をあやすような優しい表情を浮かべる老婆。

彼女は更にこう続けた。

「ただ…今しがた坊やの触れた蛇の掛け軸…ほれ、そこにあるだろう?」

振りほどかれたばかりのしわくちゃな手が壁の掛け軸を指し示す。

「それをね…ちょいと坊やに…貰って欲しいんだよ…」

「え…?」

老婆はここでやっと伏せ気味だった頭を上げ、まじまじと僕の目を覗きこんだ。

すると、泥団子のように濁りきったその双眸に見入られた瞬間に僕の思考は止まり、気が付けば先程となんら変わらないもと居た往来に戻って来ていた。

唯一変わった事と言えば、いつのまにか僕の小脇には件の蛇の掛け軸が抱えられていたことである。

ちなみに気になって調べてみた所、さっきの骨董品屋は幾度同じ通りを捜してももう二度と見つけることはできなかった。


 「だからぁ、そこで私は言ってやったわけ!『女子生徒の生足を見てるだけで給料貰えるなんて随分と助平な良いお仕事ですね!』って!」

「ふ~ん。」

あくる日、昼休み、教室。

いかにも快活そうな少女のよく通る声が食事中の僕の鼓膜を近距離から劈く。

なにやら女子生徒をいやらしい目つきで見ていた体育教師の話題らしいが、僕の覚えている限りこの話はこれでもう5度目だ。

「ねぇちょっと聞いてんのミサキ?あんたブルマ姿で走るのがどれだけ恥ずかしいのか分かる?」

「分かるか馬鹿女。そもそも男子の体育着は短パンだし、それに元々見られて困るものなんてないしな!」

「最低!ミサキの馬鹿!」

「じゃあなんでシズはそんな馬鹿と一緒に昼飯食ってるんだよ?」

「えぇ…それは、その…」

そこでシズはやっと黙りこんだ。

もちろん僕は、彼女が隣の組の人気者でありながら男っぽい性格のため女子グループ特有の雰囲気をあまり好まないことを知っていた。

ゆえに彼女は、昼休みに隣のクラスの僕の所まで時々、弁当持参でやって来るのであった。

そんな彼女にとって僕は唯一の避暑地的存在であることももちろん分かっていたし、だからこそこの有効な切り返しができたのだ。

「ったく…すぐそういうこと言うんだからミサキは。そういうたまに凄い性格の悪いこと言う所、昔から全然変わってないよね。」

「お前こそ、何にも考えずに思ったことをそのまま言う所とか全然変わってないよな」

「まぁね!」

「なんで機嫌良さげなんだよ…」

ちなみに『ミサキは昔から○○~』というのは、僕とシズが昔からの幼馴染同士だからこその彼女の口癖だった。

というのも、元々家の近かった僕らは物心ついた頃には既にもう友達だったのである。

だからこそ別々の中学校に三年間通った後に高校で再会を果たした時には『綺麗になったな…』なんて感じることもあったが、幸か不幸か外見とは対照的に彼女の中身は全く変わっていなかった。

正直で落ち付きのある子に育ちますようにと『明鏡止水』という大層な言葉から付けられた「止水シズ」という名前に込められた願いは不幸にもその大部分が叶わず、結果としてシズ本人はやや粗暴さも目立つくらいの元気過ぎる少女に育ったのであった。

だが、男尊女子の横行するこんな時代において、そんなシズの彼女らしい性格が僕は秘かに嫌いじゃなかった。

「やぁ、今中さん。」。

…とそこで、ちょうど生徒会室から戻って来たジョウが僕らに近づきつつシズに声をかけた。

「あ、丈二くん。こんにちは」

「…」

声に反応してジョウに向き直った彼女はいつも通りどこか余所行きな態度だ。

思えば昔からこうだった。

僕と二人で遊んでいる時に後からジョウが来ると、突然罰が悪そうに何らかの事情をつけて先に帰ってしまうし、僕との会話で十中八九出てくる汚い言葉や罵り文句は、ジョウの前となるとぱったりとその影を潜めた。

昔一度、「シズはジョウのことが好きなのではないか?」とも考えたが、かれこれ五、六年そういった動きを見せてこないのでその線も考えづらい。

結果、僕はいままで『シズはジョウのことがやや苦手なんだろう』というぼんやりとした推測で自分を納得させてきたのだった。

「じゃあそろそろ昼休み終わるから戻るね。じゃあねジョウくん、ミサキ!」

「うん、また今度。」

「もう来なくていいぞ~」

「うっさい馬鹿!」

シズはそう言い残して教室の後ろの戸からそそくさと出ていく。

それと同時に僕の胸にはよく分からない寂寥感が生まれた。

互いに年を重ねていくにつれ、知れば知るほど逆に相手のことが分からなくなる奇妙な感情。

今の僕には、これが恋と呼べる代物なのかさえ分からなかった。


 「お、なんだその掛け軸!随分と格好良いな!」

空もすっかり茜色に染まった夕方。

学生服を着替え終えた僕が部屋の壁に掛け軸を掛けている時にジョウは遅れて帰って来た。

なにやら今日も放課後に生徒会の集まりがあったらしい。

よって、授業以外の用事がなかった僕はそそくさと先に寮に帰ってきており、結果としてこの状況に至るというわけだ。

「で、どうしたんだこんな上等な物?」

「これか?う~ん…前に街を歩いていたら、骨董品屋のお婆さんがもう店を畳むからってタダでくれたんだ。」

「本当か!いやぁ~お前の運も捨てたもんじゃないな!」

「はは…そうかもな。」

そう嘘混じりに言い繕いながら内心では『本当にそうなのだろうか』と僕は思っていた。

初見の時こそ魅了されたものの、いざこうして見てみるとどこか怪しげな生気すら感じさせる蛇。

それは紙の中で虎視眈々と何かを企んでいるようにも見えた。

考えてみれば、一見なんの変哲もない美術品が持ち主を呪い殺すなんて作り話は怪談の典型例として頻繁に耳に入る。

故に、僕も最初から自分の身に何かあったらすぐにこの掛け軸を学校裏の焼却炉で燃やす心づもりでいた。

だがとりあえず今は何の害もなく、なにやらジョウも喜んでいる様なので僕はこれを良しとして、その日はいつも通りに床に就いた。

数時間後、奇異と不思議に満ち満ちた朝がやって来ることなどもちろん知る由もなく。


 「おい、いいかげん起きろ少年。」

「ん…なんだもう朝か?」

「何を寝ぼけておる…友人を見習え。彼は一人で起きて真面目な面でとっくに出かけたぞ」

「あぁ…ジョウは部活があるからな…もうすぐ大きな発表があるからきっと休日も学校で絵を…」

…と、今一度生温かいまどろみに堕ちてしまおうかという時、現在自分の直面しているなんとも不思議な状況に僕はやっと気付いた。

「(え…?いま僕は誰と喋った?)」

一応確認してみるとここは間違いなく僕とジョウの部屋である。

布団から蝸牛のように顔だけを覗かせて周囲を観察し始める。

隣にはキチンと片づけられたジョウの布団や彼の机があるし、念の為寝返りを打って後ろも確認すると、当然のことながらいつものように僕の机があった。

そう、ここは間違いなく僕らの部屋である。

では僕は今しがた誰と会話をしたのだ?

老人のようなしゃがれた低音に更に不気味さを織り込んだような独特な声。

もっと不思議なのはその声に、『耳から入って鼓膜を震わせ脳に届いている』というよりも『直接脳の内側から響いてくる』ような印象があったことだ。

こんな感覚は十七年間生きてきて初めてだと自信を持って言い切れる。

「おい、いい加減目は覚めたか?」

まただ。

僕の錯乱は依然として止まず、それどころかより増すばかりだ。

「おい、どうやって僕に話しかけてるのかは知らないが、お前は誰なんだ?どこにいるんだ?」

「おいおい、私が分からんのか?私なら…ほれ、今もこうしてお前の目の前に居るではないか」

「え…?」

ここでようやく僕にもある事が思い当った。

まさかと思ってその『心当たり』の先を見る。

気持ちばかりの深呼吸を一つ置き、意を決して虚空に向かいこう唱える。

「もしかして、お前が喋っているのか…?」

「やっと分かったのか。そもそも…声とは必ずしも口から発される音波とは限らん。今の私を見ればそのことが嫌でも分かるだろう?なぁ少年よ」

「…」

『唖然とする』という言葉の意味を初めて身を以て知る。

それほどまでに僕には、掛け軸に描かれた蛇が僕に向かって話しているという嘘のような現実を受け入れることが難しかった。

「まぁ、なにはともあれよろしく頼むぞ少年。」

そう言って平面の世界から再度僕を凝視する蛇。

きっと蛇に睨まれた蛙は、こんな動揺を胸に抱いているのであろう。


 「おい、お前名前はなんだ?」

「なんだ少年、随分と礼を欠いた物言いだな。お前、私がなんだか分かっているのか?」

「分かるか!ただの喋る掛け軸だろ!」

この年にして自分の適応力に我ながら感心さえ覚える。

なぜならこれほどまでに衝撃的な現実を突き付けられてから、ものの数分でこいつと真っ当な会話を交わしているからだ。

「ほう、お前には私がそう見えるのか。」

「そう見えるもなにも、それ以外のなんだって言うんだ?」

「私は神だ。」

蛇はいとも簡単にそう言い捨てた。

絵なので当然のことながら、依然ピクリとも動かない蛇。

それでもその言葉を発する蛇の表情が真剣なのはおおよそ雰囲気で分かったし、なにやら奴は僕に嘘をついている様子ではなかった。

「か、神?神ってあの神さまか?紙の間違いじゃないのか?」

「ふん、なにを言うか少年。貴様まさか神を唯一無二の存在だとは思っていないか?」

「はぁ?」

「神はこの世のありとあらゆる所で現存しておる。まぁ、愚かしい人間にはその存在を認識することは難しいだろうがなぁ」

「じゃ、じゃあなんで僕にはお前が見えてるんだよ?」

焦るな、とでも言いたげな間を置いて蛇が続ける。

「いいか少年。お前にとって神はどのような存在だ?」

焦れたのか質問を質問で返す蛇。

「えぇ…っ!そ、そりゃあ、善良な人間の願いを叶えてくれるものだろ?」

「ほほう、では何故神は人の願いを叶えるのだと思う?」

「何故って…それは良い人間へのご褒美みたいなもので…」

「笑わせるな少年!」

「ぐっ…!?」

怒号にも似た念が一瞬の頭痛になって響く。

「いいか少年、まず神は一人ではない。望まれる限りこの世のいたる所に実に多種多様に神は生まれる。人間から見て是非付き合いたい神もいればその逆もまた然りだ。そして…」

「そして…?」

「これは特別に教えてやるからよく聞くことだ…いまお前が言ったことには二つ間違いがある」

「…」

「一つ。神が人を助けるのは決して善行の褒美などという意味合いからではない。単に自分達の暇つぶしの為だ」

「えっ…?」

「そして二つ。さっき言った通り神は必ずしも善行を好むわけではない。よって神が救うのは『良き人間』ではない。自分にとって『救うことで娯楽に成り得る人間』だ」

「…」

このように訳の分からない内容を一気に捲くし立てられた経験がなかった僕は激しく混乱した。

神を自称する者は今までも何人か見てきたが、そのどれもが胡散臭く白々しい奴ばかりだった。

僕が元々無神論者だということもあり、少し疑ってかかると件の者共は稚拙な予言などで周囲の人間の信用を勝ち得ようとし、挙句彼らは次々とボロを出した。

それにそんな子供騙しにいちいち釣られている程、戦時中の国民に心の余裕はない。

よって、神の証明なんてものは全てイカサマであると僕は勝手に高を括っていた。

だが、いざ目の前に見えるこれはどうか?

まず人の姿に非ず、そもそも歴とした生物であるかどうかすら怪しい。

そしてあの念を使った伝達。

悔しいがここまでは今までの贋作の神々と比べ明らかに一線を画している。

しかし、何においても証拠というものは必要である。

僕は勇気を振り絞り、『神』へ次の質問を投げた。

「な、なら神様…一つ質問をしてもいいでしょうか?」

「お、やっとそれらしい口調になってきたな。構わんぞ。」

「貴方が神であるという何らかの証拠を見せていただけますか?」

言った。確かに言ってやった。

今までこれで何人の凡人がその正体を露にしてきたことか。

僕はこの時、『きっと今回も嘘に決まっている…』と当然のように考える反面、『もし…もしコイツが本物の神だったら…』などという浅はかな希望的観測も僅かながら胸に抱いた。

「ほほう、私を試そうというのか少年?いいだろう、では私は何をすればいいのだ?」

「え…?」

これには素直に驚いた。

今までの偽物達のやり方はあらかじめ自分の用意した手品を奇跡と称して一方的に見せ、そこから信用を勝ち得ようとするのが典型的だった。

しかし、今この蛇はなんと言ったか?

『なにをすればいいのだ?』と言ったか?

予想外過ぎる展開にかえって僕の方が動揺を隠せずにいるのがなんとも不甲斐ない。

「では…」

一瞬で激しく思考を巡らせる。

なにを命じれば自分はこの蛇を神と信じられるのか。

僕が本当に欲しい物はなにか?

僕の心からの願いは…

「では神よ…僕に…僕に溢れるほどの画力をください。」

それはきっと心からの声だった。

表面上では『ジョウとの競争に負けた、追いかけることを辞めた』などとすんなりと諦めたようなことを言っておいて、僕の口はこんな時に限ってなんとも都合良く、そしてなんともみっともない願いをあっさりと吐露した。

本来、技術というのは努力をしない者が易々とねだって良い代物ではない。

自分に与えられた才覚の量と真摯に向き合い、その上で弛まぬ努力をした敬うべき人間の中でも、その一握りにのみ与えられる勲章…それが技術である。

そんな物を簡単に人に与えられる訳がない。

なにより仮に貰えるとしても、きっと僕はそれを受け取る資格のない人間だ。

しかし、ものの数秒でここまで巡らせた僕の葛藤はその後の蛇の一言であっさりと幕を下ろすことになった。

「なんだ、そんな下らないことでいいのか?」

「え?できるの?」

「ふん、私にとっては造作もない。おい少年、お前利き腕はどっちだ?」

「右…です」

「ならばその右手で私に触れ、目を閉じて三つ数えよ。」

「あ、はい。」

言われた通りに右手で蛇の部分に触れ、深く目を閉じて三つ数える。

一つ…二つ…三つっ!

ゆっくり目蓋を開けて右手を見るも、そこになんら変化は見受けられない。

「え?これって別になんにも変わってないんじゃ…」

「ククク…どれ、ここは一つ試してみるがいいさ」

あまりにあっさりとした儀式に依然として半信半疑なまま机に向かう。

久しく取り出してなかったスケッチブックを引っ張り出し、空白のページを開いてから昔のように鉛筆を走らせてみる。

「え…うそだろ?」

なんと驚くことに、僕の絵は自分の目から見ても一目瞭然に分かるほど飛躍的に上手くなっていた。

線もブレず、濃淡も鮮やかで、寸分の狂いもない構図が確固たる立体感を作り出している。

何も考えずに描きだしたソレはいずれ僕のよく見知った街の絵になった。

きっと無意識化で大好きな街並みの光景をスケッチブクに投影したのであろう。

そのまま時間も忘れ描き続け、気付けば描き終わった頃にはもう夕方になっていた。

「おい、少年。いい加減に質問に答えろ。これで私を神と…」

「認める!もうあんたの言うことならなんでも信じるよ僕!」

「ふ…なんとも都合の良い人間よ。」

最早ここまでの奇跡を見せられて否定できるはずなどなかった。

「なぁ、あんた名前はなんていうんだ?」

「名だと…?そんなものは私にとってなんの意味もない。存在そのものが特別な私にとって、個体識別など不要なのだ。分かったかミサキとやら」

「え、なんで僕の名前を?」

「お前が昨日、ジョウとかいう少年にそう呼ばれていただろう。いいか、私は食事も睡眠も必要とせず、ここに掛けられている間ずっと耳目を働かせているのだからな?」

「へぇ~、神様はなんだってお見通しってわけだ。やっぱり凄いんだな!」

先程までの怪訝な態度もどこへやら。

僕がこの蛇に対して抱いていた感情は数分で疑念から敬意に変わり、以降は分かりやすいおべっかがスラスラと口から出た。

「ふふ…本当に切り替えの早い奴だなお前は。」

「あ、ところで神様。」

「なんだ?」

彼が本物の神様であると認めたと同時に生まれた、些細な質問を投げてみる。

「願いって、あと何個叶うんですか?」

僕はいままで、このような都合の良い創作話を何度か聞いたことがあった。

そこでは必ずといっていいほど『願いの数』について制約があるのだ。

きっとこの都合の良い現実にもそれくらいの制限くらいはあるに違いないと思ったのだ。

しかし、その返答も私の予想とは大きく違っていた。

「『何個』だって?別に数に制限などないぞ。お前が願うことならばいくつでも叶えてやろう。」

「え?それ本当に…じゃなかった。本当ですか?」

「あぁ、私は嘘を言わない。」

「凄い!貴方凄いよ、神様!」

「ふん…知っておるわ。ただ…いいかミサキよ。」

「はい?」

「先にこれだけは言っておくぞ。私はお前に信用して貰う為、これまでは努めて色々なことを教えてきた。だが…」

「…」

ここで途端に蛇の語調がドスの利いたものに変わり、

「これ以降は私自らお前に何かを教えることはない。お前が自分で気付き、疑問に思い、私に質問してきた時は全て真摯に答えるが、その他例外は一切ないと思え、分かったか?」

「は…はい。」

さっきまでの穏やかな雰囲気から一転した蛇は、一瞬にして元の怪しい印象を取り戻す。

「良い返事だ。では最後の最後に一つだけ私から教えてやろう。よく聞けよ?」

「(ゴクリ…)」

「私は…あまり性格が良くないぞ?」

「え、それってどういう…」

―ガチャ!―

「ただいま。」

「えっ!あ、ジョウ…お帰り。」

絶妙なタイミングで帰ってきたジョウ

「あぁ…って、おいその絵ってもしかして…」

「え…あぁ、これか?が、頑張ってるジョウのこと見てたら俺も久しぶりに描きたくなってな…久々にしてはなかなかだろ?はは…」

我ながら不自然過ぎる嘘に息が詰まる。

僕は、こんな嘘ではかえってジョウに怪しまれるだろうと思い反射的に顔を伏せた。

しかし、ジョウの反応は思っていたものと大きく違っていた。

「ぐ…ひぐっ…」

「ど、どうしたジョウ!?泣いてるのか?」

「ち、違っ…ぐっ…!」

両手で顔を隠してはいるものの、ジョウは明らかに泣いていた。

嗚咽交じりの豪快な落涙は次々と彼の学生服の袖に染みを作る。

一方僕は親友の突然の涙の意味が分からず、どうしていいやら定かではない。

「おい、お前どうして泣いてるんだ?」

「だって…ミサキが…絵っ…描いてるから…っ」

「え?」

「俺のせいで…ミサキ…絵辞めたのかと思ってたっ…からっ…また描いてくれて…俺…おれっ…!」

「ジョウ…」

僕はここで思い知った。

取り残されて一人で腐っていた自分と違い、弛まぬ努力で日々成長していったジョウは、あろうことか自分のこと以上に僕のことを考えていてくれたのだ。

幼い頃に僕に絵を描くことを勧めておいて、おおげさにも『結果的に自分が彼に絵を辞めさせるキッカケを作ってしまった』と後悔していたのだ。

それを知った僕は目から鱗だった。

愚かしくも僕はまるで当たり前のことかのように、悩みなどジョウよりも遙かに下手な僕にしかないものだと勝手に決め付け、勝手に思い込んでいた。

だがそれは大きな間違いだった。

先を行く彼にも彼なりの悩みがあり、なんとその悩みがこんな僕への寛大な配慮によるものだったのだ。

「ひぐっ…ジョウ…俺…ごめっ…おれ…」

気付くと、僕の目にも涙が溢れていた。

年頃故の劣等感によって大好きだった親友をあまり良く思えなくなり、幼稚にも『絵を辞めた』なんて言って知らず知らずの内に逆に彼を傷付けていた僕。

そんないきさつを全て知ったからこそ僕の思いは溢れ、心に収まりきらない分の感情は止めどなく両の眼から零れ落ちた。

「なんでお前まで…泣いてんだよ…」

依然グシャグシャの顔でジョウが笑う。

「ひぐっ…ぐ…へへ…」

負けないくらいグシャグシャの顔をした僕も笑う。

そのまま僕らは抱き合って、いつの間にか凍ってしまった関係をゆっくり元に戻すように、まるで子供の頃に戻ったように色んなことを語らい合った。

夜更かしをしてずっと喋っていたため、翌日の授業には二人揃って遅刻したものの、僕らの心は今までにないくらいに澄んだものであったに違いない。

その日から、僕には目に映る全てが明るく見えた。

気の持ち様だけでこうまで世界は変わるものなのか、と驚き感動する日々が続いた。

僕の趣味でしかなかった散歩はいつの間にか僕らの趣味に変わり、二人でよく画材を買いに行っては他愛ないことで無邪気に笑い合った。

なぜか名物の街絵描きがいつの間にか通りからいなくなってしまったのは残念だったが、これからは僕自身がこの右手で絵を描いていくのだと決めた。

季節はもうすぐ初夏を迎える。

僕の心は、陽光のように朗らかだった。


 「おかえりミサキ。どこへ行っていたんだ?」

「今日はちょっとジョウと美術部にね。なんかジョウの奴が推薦してくれたみたいで、今度の大会に部員じゃない僕の絵も応募してくれるみたいなんだ。」

「ほう…それは良かったな。」

「だから締切までにもっともっと頑張って、ジョウに負けないくらいの絵を描かなきゃいけないんだ。僕頑張るからさ、神様も応援しててよ。」

「ん…?それは私に『自分の絵を優勝させてくれ』という願いを叶えろというのか?」

「そ、そんなわけないよ!悪いけど、もう僕は神様にお願いすることなんかないと思うよ。」

「ほう…それはこの先ずっとか?」

「うん、もちろんもう一生ないだろうね!だって、もう他に欲しい物なんかないからさ」

僕は力強く頷いて見せ、今日も自分の机でそそくさと絵の練習を始める。

好敵手と切磋琢磨しながら腕を磨くということの楽しさを知り、あの日、神様に画力を貰ってからは僕もジョウのように毎日絵の練習に励んだ。

以前では考えられなかったこの幸せな日々を、僕は永遠に続けばいいと思った。

しかし、この願いには一つの矛盾があった。

そもそも永遠なんてものは、この世に存在しなかったのである。


 その日の空は黒かった。

いや、正確には赤黒いと言うべきか。

とにかく、天が崩れ地が割れたかと思うほどの轟音で飛び起きた僕らは一瞬で自分達のおかれた状況を理解し、急いで机の横の防災頭巾を被った。

「ミサキ!なにしてんだ、早く出ろ!」

「だって…だって僕達の絵が…」

「そんなのまた描けばいいだろ!早くしろ!もう残ってるの俺達だけだぞ!」

走っているのか転んでいるのか分からない程に前のめりになりながら部屋を出る。

寮の廊下にある大きな窓からは、今まさに焼け野原になりつつある見慣れた校庭の信じられない様が見渡せる。

「なんだよ…なんだよこれ…」

「アメリカの空襲だ!クソ…こんな基地も建物もないような田舎を焼いてどうするってんだ…!」

古くなった空襲警報なんかよりも遙かに大きいプロペラの音が大気を揺らす。

なんとか外に出るとそこには一面の赤が広がり、焦げ付くような臭いを残して全てが消し炭に変えられていく光景があった。

どこからか聞こえる、男女どちらのものかさえ分からない絶叫が僕らの恐怖心を更に煽り、その足取りをより一層頼りないものにする。

「ジョウ…どうしよう…ジョウ…ねぇ、ジョウってば!」

「五月蝿いっ!お前も少しは考えろ!くそっ…!そもそもどっちが非難区域なのかも分からねぇ!」

「熱い…息が…息が苦しい…っ」

街一帯を取り囲んだ炎は、僕らの街やそこにある空気を食いながらどんどん成長した。

途中、僕が転んだ時に熱せられた木材で左肩を火傷した。

右手で左肩を押さえながら、転んだ時に切った右足を庇いつつ必死に走る。

それでも大幅に落ちる僕の速度。

しかし、「もう駄目だ」と涙を流しながらうなだれる僕の左手をジョウの右手は決して離さなかった。

「一緒に生きて…同じ大会に絵を出すんだろ?」

「…」

充分に呼吸ができなかった僕はただ首を縦に振ることしかできず、それでもジョウは嬉しそうに笑った。

こんな時なのに変な話だが、そんなジョウの表情がなんだかとても心強かった。

「おい…頑張れ!あと少しだ!」

「ぅん…はぁ…はぁっ…!」

その時―

「ぐわっ―」

「えっ―」

僕らの体は宙へ飛んだ。

実際は、僕らのすぐ後ろに落ちた弾の爆風で上斜め前方に飛ばされただけなのだろうが、瞬間、まだ自分達がなぜ宙を舞っているのかさえ分からない僕達からしたら、それは確かに小さな飛行に違いなかった。

「…ぐぁっ!」

僕らの体は砲丸のように綺麗な放物線を描いて―ドスン―という地味な音と共に前方へ落ちた。

「ぐぅ…うぁ…」

軋むような痛みが背中に走る。

そのまま体が裂けてしまうのではないかという程の声も出ない激痛。

しかし、そんなことも言っていられない。

さっきは僕が助けられた。

なら次は僕が助ける番だ。

「ジョウ…ジョウ…大丈夫?」

まだ目蓋は完全に開いていなかったが、確かに握られたジョウの右手の感触で彼がすぐそばにいるのだということが分かった。

「ジョウ…ジョウ…いるんでしょ?返事してよ?」

まだ薄ぼんやりとではあるが、徐々に視野が開けてくる。

「ジョウ…もしかして気絶してるの?ジョウ…ジョ…えっ!?」

やっと視界を取り戻した瞬間、僕の背筋は凍り、言葉を失った。

なぜなら、僕が握っていたジョウの右手には、いままであったはずの手首から先がなかったからである。

「ジョ…ジョウ…どこ?」

体を起して辺りを見渡す。

少しして、やや遠くに右腕を抱える体勢でジョウがうずくまっているのを見つけた。

「ぐぅ…ぐぁあああ…!」

「ジョウ…ジョウ…大丈夫か?」

僕がどんなに声をかけてもジョウは血の止まらない右手を庇いながら呻き声を漏らすばかり。

その後なんとか立ちあがった僕らは、まるで二人三脚をビリケツで走るように互いの体を支え合いながらノロノロと進み、奇跡的に二度目の爆撃を喰らうことなく防空壕まで辿りついた。

中では、幸運にもほぼ無傷で逃げて来れたらしいシズとも会うことができ、僕らは互いに涙を流しながら抱き合った。

そうして僕らは何週間にも思える数時間を穴の中で過ごし、思う存分僕らの街を破壊し尽くして行った黒い点々達は、やっと遠くへ飛び去って行った。

次いで、やっとのことで警戒態勢が解かれ人々が地上に上がっていく。

外に出た僕は、目の前に広がる硝煙と灰色の空を見て思った。

空が焼け落ちたみたいだ。


先日、僕らがものの数時間のうちに失ったものはあまりに大きかった。

『街と、絵と、友の右手。』

言葉にすればこれほどまでにあっけないのに、その実、とてつもない喪失感が僕らの心に大きな穴を開けていった。

そしてなにより僕が悲しかったのが、ジョウの変化である。

ジョウは右手を失ったあの日から一気に塞ぎこみ、僕ともまともに会話すらしてくれなくなった。

彼の心にあった絵への情熱という灯火は、愛用の絵筆や過去に描いた名画達と共に灰の中へ消え去った。

考えてみれば、右手だけを失った彼がああなるのはとても自然なことだった。

それほど「絵描きから利き手だけを奪って命まは奪わない」という事が酷な話なのである。

鳥から翼を、魚からエラを、獣から牙を、歌手から声を、詩人から言葉を、冒険家から脚を…。

『いっそ殺した方がまだマシ』とはこういう場合のことを言うのだろう。

数週間前、仮初の画力のおかげで手に入れた僕とジョウとの幸福な時間は、あの時止まったまま依然として一秒も動かなかった。


 件の空襲から一週間経った八月のある日。

僕らがやっと一時的な住まいや代わりとなる学校等を確保してもらった頃、僕は一人で学生寮の跡地に来ていた。

というのも、少し気になることがあったのだ。

元々僕とジョウの部屋だったはずの真っ黒な炭の山を、手頃な木の棒を使ってどんどん掘っていく。

すると、予想通りこれだけの被害状況においてなぜか唯一全く焦げていない『見慣れた掛け軸』を見つけた。

「おう、久しいなミサキ。」

「おい、その薄っぺらい口上はいいから今すぐ僕の願いを叶えろ」

「おいおいなんだミサキ?しばらく見ない間に随分と口調が変わったな。それにお前、もう一生願いなどないと言…」

「五月蝿い!いいからすぐに僕の願いを叶えろ!」

「ふん、脆弱な人間風情が…少し不運に遭ったからといって逆上しおって。よかろう、何だ?お前の願いとやらは?」

「この戦争を…終わらせろ」

「…ほう。いいのかその願い聞き届けて?」

その時蛇が一瞬ニヤついたように見え、それがただでさえ虫の居所が悪い僕の神経を逆撫でする。

「当たり前だ…早くしろ!」

「本当にいいのか?後悔しても知らんぞ?」

「いいに決まってるだろ!戦争が終わって悲しむ奴が何処にいる!?御託はいいからさっさとしろ!」

「ククク…本当に人が変わったようだなミサキよ…まぁ私は今のお前の方が好きだがな。」

「…」

「そう怖い顔をするな。よし、では前のように私に手を翳して目を瞑り、三つ数えてから元に戻せ。」

言われたまま業務的にその儀式を終える。

「…うむ、お前の願い、確かに聞き届けたぞ。」

「できるだけ早くしてくれよ?戦争が終わるまでにまたあんな空襲に遭ったらと思うと気が気じゃないんだ」

「分かっておる…心配せずとも明日の朝には効果が見込めるだろう…」

「本当か?信じていいんだな?」

「あぁ、本当だとも。前にも言っただろう、私は聞かれたことには正直に答えると。」

「あぁ、そうだったな。じゃあとりあえず明日を待つとしよう。」

そうして僕は拾い上げた掛け軸を巻き取ってから備え付けの紐で縛り、これを最初に貰ってきた時と同様に小脇に抱えて臨時住宅へと持ち帰った。

 

しかし依然として悪い夢の中にいるようだ。

あの空襲があってから僕とジョウの全てが狂ったのだから。

「もうすぐこの戦争も終わるからな…ジョウ。」

隣でぐっすりと眠るジョウにそう話しかける。

最近になりなんとか右手を失ったという現実を受け入れられるようになったジョウは、ここ数日やっと充分に睡眠を取れるようになった。

久々に見るジョウの寝顔は相変わらずで、その顔に僕は凄く安心を貰った。

不意に時計を見ると、もうすぐ午前八時を回ろうかという所。

しかし僕は決して早く起きたという訳ではなく、正直な所、昨日した蛇との約束が守られるかどうかが不安でよく眠れなかった。

「にしてもあの蛇の言ってたこと…一体何が起こるんだろう…」

―朝のうちに何かが起こる―そう不気味に言い放った蛇の声が思い出される。

しかし僕がどれほど考えてもその答えが出るはずもなく、僕はただ来るべき果報をただただ寝て待つことしかできなかった。

「…」

そんなことを考えていると、ふと周囲に変化があることに気付いた。

なにやら酷く動転した様子の大人が一人、部屋に入って来て、別の大人へと耳打ちをする。

すると、耳打ちをされた大人も同様に一瞬で平静を失い、以下これの繰り返しである。

もしや、これがあの蛇の言っていた“変化”なのか?

そう思った僕は喜び勇んでその大人達の元へ走り、なにがあったのかを聞くと、大人達は小声で恐る恐るこう教えてくれた。

「い、いまさっき広島にアメリカの新型爆弾が落とされて、一瞬で何万人っていう人が死んだらしいんだ」

「え…?」

僕は自分の耳を疑った。


 結果から言おう。

確かに「戦争を終わらせる」という僕の願いは叶った。

僕が蛇にそう願った翌日、広島に落とされたアメリカの新型爆弾は一瞬にして数万という人々の命を奪い、加えて、まるでそれを鼻高々と自慢するかのように真っ黒なきのこ雲まで上げてこの国の大地と誇りを蹂躙した。

その三日後には長崎にも同様の物が落とされ、こちらも目を覆いたくなるほどまでに残酷な数字を叩き出した。

いままで政府によって行われていた日本軍の絶対的有利という嘘の戦況報告を全て鵜呑みにしていた国民達は、数日後に日本が無条件降伏をすると、まるで信じられないかのようにただただ唖然とするばかりであった。

こうして日本の敗戦という形でこの戦争は幕を閉じ、先にも言った通り、結果的には僕の願いは叶うことになった。

「おい、お前…これは一体どういうことなんだよ?」

もちろんこの結果に僕が納得いく訳もなく、夜に人気のない調理場へ掛け軸を持って行って、蛇に対し一対一の状況で説明を求めた。

「お前、いくらなんでもあの幕切れはないだろ?結果さえ合ってれば過程はどうだっていいっていうのか?えぇ!?」

「ふん、なにを言いだすかと思えば…」

「何っ…!?」

「ミサキ、お前何か勘違いしてないか?お前は具体的に“どのように”戦争を終わらせるかまでは願っていないよな?」

「ぐ…」

「それに私は何度も確認したはずだぞ?『本当にその願いを聞いていいのか?』と」

「…」

確かにそうだ。

僕はこの蛇に揚げ足を取られる余地のある言い方をした。

「なぁミサキ…」

「な、なんだよ?」

「言っておくがここ数日で死んだ人間共の数は、もしも今後この国が戦争を続けていた場合、終戦までに死んだであろう数と同じだからな?」

「え?」

僕はここでなにかに気付いた気がした。

「だからな、結局は早いか遅いかだけで結果は同じってわけだ。理解したか?」

「なぁ蛇…」

「ん…なんだ?」

僕は、今しがた思い当った恐ろしい心当たりを即座に確認する。

「お前…なんで僕の願いを無限に叶えられるんだ?」

「…ククク」

「だっておかしいじゃないか?僕がいままでいろんな作り話で見てきた神様っていうのは、不思議な力で三つまで主人公の願いを叶えた。だけどお前はどうだ?無償でいくつでも叶えてくれると言う。お前、なにか裏があるんじゃないのか?」

「ククク…フフフ…ハ~ッハッハッハ!」

僕がそう言うと蛇は、今までにないくらい愉快そうに高らかに笑った。

「おい、質問には答えるんだろう!早く教えろ!」

「おい、ミサキ!私もかれこれ数千年という時を生きているがそこに気付いた人間はお前が初めてだぞ!褒めてやるわ!ハ~ッハッハッハ!」

「い、いいから答えろ!」

「フフ…いいだろう、教えてやろう。それはな…お前がさっき口にしたような加算式の神と違い、私は零式の神だからだ。」

「はぁ…?」

言葉の意味する所が理解できず、僕は首を傾げる。

「ふん…愚かな人間風情には分からんか。どれ…」

蛇が―キッ―と睨むと、近くに置いてあった二つの杯が宙に浮き、そのうちの一つに水道から出た水が半分くらいまで注がれた後に僕の目の前に置かれた。

「いいか?この片方のグラスに注がれているのが、お前の知らない赤の他人の持つ幸せ、そしてこの空の杯がお前だ。」

「…」

「普通、善良な神ならば自分の力を用いてここ…つまりお前という杯に新たに生み出した幸せという名の水を注ぎ入れる。だがその方法では注げる水の量に限度がある…そこで私は考えた。」

「…はっ!お前まさか!?」

「そうだよ…なにも水は私達が生み出して注がなくてもいいんだ…こうして一方の杯からもう一方の杯へ、移してやればいいんだよ…」

蛇がそう言うのと同時に、水の入っていた杯が宙に浮き、独りでに傾いて空の杯へと水を移した。

「え…ならお前、どうやって僕の絵を上手くしたんだ?」

「…あぁ、それか。お前…以前街にいた絵描きのことを覚えているか?」

「…っ!」

無意識化に感じていた“新しい自分の絵”に対する既視感の謎が今やっと解ける。

「お前…もしや…」

「あぁ、あの絵描きの右手にあった画力を根こそぎ奪ってお前の右手に入れ込んだ。あの時はお前、さぞ喜んでたよなぁ?他人が努力して手に入れた技術を一瞬で盗めたのがそんなに嬉しかったのか?ククク…」

「いや…違…俺は、そんなつもりじゃ…」

「お前、あの絵描きがその後どうなったか知ってるか?」

「え…」

「ある日を境に急に絵が下手になってしまった可哀想なこの絵描きは、そのせいでこの街で仕事を貰えなくなってしまい、とうとう実家帰りを余議なくされた。」

「そんな…あの絵描きがいなくなったのは…俺の…俺の…」

「更にこの男の何が可哀想かって、この絵描きの故郷…どこだと思う?」

「ま、まさか!?」

「そう…広島だよ。」

思いっきり頭を丸太で叩かれたような衝撃が襲う。

「可哀想になぁ、この男。知らず知らずのうちに文字通り他人に技術を盗まれた挙句、実家に帰ったらすぐ家族ごとドカンだ。」

「いや…違…違う…」

「この男、なんて悲劇的な生涯なんだろうなぁ、ミサキよ。もしコイツが“とある他人”の幸せの為に犠牲になってたとしたら、その他人は今頃どこでなにをしてるんだろうなぁ?」

「ぅ…おぅえぇぇぇえぇえぇえ―」

いままで必死に堪えてきたものが一気に溢れだした。

「おやおや汚いねぇ」

過去、僕がなんの努力もなしにこの蛇から与えられたと思っていた幸せの数々は、本当は他人から奪ったものだったのだ。

挙句その絵描きは僕の小さな幸せのためだけに画力だけではなく命までも奪われた。

知らず知らずのこととは言え、自分がいままでどれほどのことをしてきたのかを今やっと知って、僕には込み上げる感情を液体ごとただ垂れ流すことしかできなかった。

「実に滑稽だなミサキ…ククク」

隣で響く蛇の嘲笑も聞こえないくらいに、僕はひとしきり嘔吐し続けた。


 「おい、お前を破棄するにはどうすればいい?」

内心もう二度と口も聞きたくない蛇にこう質問する。

なぜなら昨晩の蛇との会話後、僕は全ての元凶たるこの掛け軸を破棄し、神を名乗るこの卑しい蛇をひと思いに殺してしまおうと考えたからだ。

しかしいくら燃やそうと、破ろうと、どこか遠くへ捨ててきてもしばらくするとこの掛け軸はなぜか僕の手元に戻って来た。

それを酷く不気味に思った僕は、いままで散々弄ばれたり謀られたことを一時忘れ、自らの自尊心を大いに傷つけながらもこの質問を蛇にぶつけるに至った。

「あぁ…やっとお前もその質問をしてきたか。」

察するに、どうやら歴代の持ち主達も最終的には必ずこの質問を蛇にしていたようである。

「しょうがない、じゃあ言うぞ。私を破棄したければお前が死ぬ前に、私が次の持ち主を探さなければならなくなる『合言葉』を言え。そうすれば私は自然とミサキの前から消えよう。」

「なんだよその漠然とした方法は!せめてなにか…なにかヒントはないのか?」

「ないな…これに関してはお前が自分で辿りつく他ない。」

「ふん、分かった。もういい!」

「さて、お前なんかにわかるかねえ…」

いままでのようになぜか質問には熱心に答えてくれるものの、最後には不敵な笑みを浮かべてこちらを嘲笑してくる。

それがアイツのやり口だということは分かっていたが、それでもあの笑い声を聞いて尚冷静でいることはなかなかに困難を極めた。


 「大丈夫か、ミサキ?」

「ちょっと…なにか変なものでも食べたの?この頃ずっと顔色悪いじゃない」

ジョウとミサキはこうして毎日僕を励ましてくれた。

思えば蛇から真実を聞かされた日から僕の体調は日増しに悪くなった。

それに加えて僕が特に悩まされたのは悪夢だ。

蛇から名も知らぬ絵描きの存在を聞かされてから、毎日自分の右手で自らの首を絞める夢ばかりを見ていた。

罪悪感だけでは言い表せない感情が、知らず知らずのうちに僕の精神を削っていく。

こうして思考を巡らせている瞬間にも、この右手には画力と命を奪われた絵描きの無念が渦巻いているのだ。

そんな右手が僕の体を蝕むのは、当然といえば当然である。

「もういっそ…この右手を誰かにあげてしまえればいいのに…」

我ながらなんとも無責任なことを口にする。

散々欲しがっておいていざ責任を感じると放棄だなんて、そんな都合の良いことがまかり通る訳がない。

「僕は…僕は一体どうすれば…」

このままこの右手と共に過ごし、罪悪感で日々心を摩耗させていったら、僕はきっと早死にするだろう。

それほどまでに、もはや僕のような人間が生に執着することはおこがましく滑稽だった。

「…この右手さえなければ…この右手さえ……っ!」

ここで、突然ある妙案を思いつく。

「そうか…これなら…ははは…僕はなんて良い奴なんだ…ククク…ハハハハハハ!」

皆が寝静まった後の人気のない廊下で一人静かに笑う。

その笑い声は、どこか蛇のソレに似ていた。


 「ほう…これがお前の答えか、ミサキ」

いつもよりもやや上機嫌で話しかけてくる蛇。

「いいか、ジョウ?これから大事な話をする」

「なんだミサキ、急に改まって…それに、わざわざこんな所じゃないといけないのか?」

先程思いついた妙案を実行する為、僕は掛け軸を手にしてから速やかにジョウをいつもの人気のない調理場へと連れてきた。

「なるほど…私の声はそちらの少年には聞こえんのか。だから私を無視するのか。随分な態度だな、ミサキ」

そう続ける蛇になど気もくれず、僕はジョウに説明を続ける。

「いいか、ジョウ?これからお前にある贈り物をしたい」

「え、贈り物?誕生日ならまだ先だけど…貰っていいのか?」

そういって嬉しそうに微笑むジョウ。

しかし、これから僕が何をしようとしてるか。きっとそれを言ったらジョウは怒るだろう。

だからこそ本人にこちらの意図を感付かれないうちに、一刻も早くこの厄介な“贈り物”を渡す必要がある。

「だけど、ここで僕に何を貰ったかは、今後誰にも言わないでくれ。いいか?」

「うん…事情は分からないけどいいぞ。なんだ?そんなに恥ずかしいような物なのか?」

「いや…それじゃ、少し俺の指示に従ってくれ」

「おう。にしても…なんでお前、こんな時に掛け軸なんて持ってきてるんだ?」

「いいから、まずここに右手を置いて…」

僕は手近な所に掛け軸を広げて、そこにジョウの手首までしかない右手をそっと置かせた。

「よし…じゃあそのまま目を瞑って…」

言いながら、僕も蛇の上に右手を乗せる。

「(いいか?さっき言った通りにしろよ?)」

目線で蛇にそう問いかけると

「(ククク…分かっておる…)」

と、なお上機嫌に蛇が嗤う。

「おいミサキ、これ一体なんのつもりだ?まさかからかってるのか?」

とうとうジョウがこの儀式を怪しみだした。

僕は急ぐように続ける。

「…いいか、ジョウ!これから僕が三つ数えたら、手を戻してから目を開け…いいか?分かったな?」

「お…おう。」

僕はもの凄い剣幕でそう言いくるめ、すぐに数を数えだす。

「いくぞ…一つ…二つ…三つ…良し!」

「ん…もう目を開けていいのか?……えっ?な、なんだこれっ!?」

ジョウが驚くのも無理はない。

なぜなら僕は、散々僕を苦しめたこの曰く付きの右手を、彼の手首までしかない右腕に付け替えたからである。

いまジョウの右腕の先にはさっきまで僕のものだった右手がしっかりと付いていた。

一方僕はというと、先程までのジョウ同様に手首までしかない右腕の先には包帯が巻かれていた。

「おい…っ!なんだよ?これどういうことだよミサキ!?」

一瞬にして僕らの右手の状態が入れ変わったことに動揺を隠せない様子のジョウ。

「いいかジョウ…僕はな、お前に絵を描き続けて欲しいんだ…」

「え…?」

「この不思議な現象については残念だけどお前に説明することはできない…だけどこれだけは分かってくれ!俺はお前が日がな一日悔しそうに失くした右手を見ているのに耐えられないんだ!」

「ミサキ…お前…」

「だからこそ僕は決心できた。お前に…他の誰でもないお前に…僕の右手を使って貰おう!ってな。」

「お前…お前…」

ジョウは泣いていた。

それは決して失くしたはずの右手を取り戻せたからという理由ではなく、どうやら純粋に僕からの厚意に感じ入っているようである。

「俺…描くよ!これからミサキの分まで上手くなって…絶対に画家になる…っ!」

「おう…それでこそジョウだ。僕の右腕、大事にしてくれよな。」

こうして僕はあろうことか自身の右手をジョウに贈ることによって、『この上ない善人』として晴れてあの絵描きの遺恨を振り払うことに成功した。

我ながらなんと美しすぎる詭弁だろう。

これであの悪夢からも解放される。

ちなみに周囲の人間の記憶は『もともと空襲で右手を失ったのはジョウではなくミサキだった』というように書き換えられていた。

結果として僕は右手を失ってしまったものの、ジョウとの間には以前と同じ、いやそれ以上の絆を手に入れた。

「なんて完璧な流れなんだ。」

その夜、布団の中で一人こう呟くとそれを聞いていた蛇がこう返した。

「さぁ…果たしてそう上手くいくかな?」


 終戦からしばらく経った頃。

季節はすっかり秋になり、徐々に復興の進んでいた街並みにはようやく季節の色彩が戻りつつあった。

「ふぅ…今日も退屈な授業だったな。あ、僕の弁当箱も開けてくれるか?」

「おう。」

あの日以降、右手が使えない僕の為にジョウは甲斐甲斐しく尽くしてくれた。

最初は色々と不便なこともありそのせいで塞ぎこんだりもしたが、ジョウの献身的な助けもありいまでは充分に心の健康も取り戻した。

「ほら、自分で食えるか?」

「馬鹿にするなよ!もう左手で箸を使うのなんてどうってことないさ。」

「ははは…それは失礼したよ」

あれ以降、ジョウは言葉通り次々と素晴らしい絵を完成させていった。

最初の頃はあの絵描きに画風が似ていたものの、しばらくすると絵の印象も変わり、彼は日に日に元の画風を取り戻していった。

そんなジョウの絵が再び評価されるのに時間はかからなかった。

ただ…そこにはやはりどこか置いて行かれているような寂しさがあり、あれほど大胆に右手を差し出した僕の思考は依然として女々しさに溢れた。

「お。」

「ん、どうした?」

ジョウの後ろから弁当箱を持ってこっちに向かってくるシズの姿が見えた。

「おう、シ…」

「こんにちは、ジョウくん!」

「やぁ、シズさん」

え…?

「あ、ついでにミサキもオッス!」

「お…おう!…って、ついでってなんだよ!」

あれ?シズってこんなにジョウと親し気だったか?

それに…

「えぇ!?それ本当ですかシズさん?」

「そうそう!これがね…」

いつからジョウはシズのことを下の名前で呼ぶようになったんだ?

「…ねぇ…ねぇ、ミサキってば!」

「え?」

ふと我に返ると不満気なシズの顔が目の前にあった。

「も~う、なにぼーっとしてんの?いま私の話聞いてた?」

「え、いや…ごめん」

「うわっ…なに謝ってんのミサキのくせに。なんからしくないな~。ねぇ、ジョウ君!」

「うん、そうだね。」

「「ははは…」」

おかしい。これは明らかにおかしい。

いつの間にか二人が仲良くなっている。

そしてなぜそれにこうまで僕は動揺しているのだろう?

おかしい。確実に何かがおかしい。

この頃から、僕はまた徐々に体調を崩していった。


 「おい、ミサキ。どうした?お前最近やけに顔色が悪いじゃないか?」

体調不良による睡眠不足のせいで大きく寝坊して目覚める。

僕は三限からでも授業に出ようとゆっくりと支度を始める。

「五月蝿い。もうお前なんかに用はないんだ。大人しく掛け軸の中で眠ってろ…」

「前にも言っただろう、私は睡眠も食事も一切必要としないのだ。それよりお前、さては怖いんだろう?」

「なに…?」

不意に釦をかける手が止まる。

それもそのはず。

憎いはずの蛇が放ったその一言は恐ろしいくらいに僕の核心をついていた。

「親友のジョウがお前の右手を使ってどんどんと遠くへ行ってしまうのが怖い。奴が使いだした時より様々な物を手に入れていくあの右手が怖い。いつか彼が自分を見捨てるんじゃないかという疑念が怖い。なにより…」

「や、辞めろ…」

「そんな親友に初恋の幼馴染を取られるのが怖い…違うか?」

「…っ!」

悔しいことに蛇の言うことはそのどれもが当たっており、僕はただ辞めろというしかできなかった。

「ちがう…ジョウは俺を見捨てたりなんかしない…ジョウは…ジョウは…」

そう言いながらゆっくりとカバンを持って部屋を出ていく。

後ろで僕を見送る蛇がニヤけているのが見ずとも分かる。

僕は今日も学校へと急いだ。


 なんとか三限には間に合ったものの、慢性的な体調不良のせいで僕はまともにノートを取ることさえできず、ほとんど机に突っ伏したまま放課後を迎えた。

「なぁミサキ、お前本当に大丈夫か?」

「そうだよ。具合悪いんならちゃんとお医者さんに見せた方が…」

「五月蝿いっ!」

「「…っ?」」

僕はとうとうあろうことか自分を心配してくれたジョウとシズに当たった。

危うく『全ての原因はお前達だ』と言いそうになるもその一言だけは必死に飲み込む。

「ちょっとアンタ、せっかく人が心配してあげてるのに…」

「シズさん…いまは何も言わないであげてください」

「え…ジョウくんがそういうなら…いいけど…」

糞…糞…糞…。

目の前で仲良さ気な所を見せつけてくる二人が腹立たしくなって僕は一人、先に帰ると言って教室を出た。

「ミサキ、俺は今日…生徒会の用事で一緒に帰れないけど、帰ったらちゃんと安静にしておくんだぞ。」

「…」

僕はそのまま無言で学校を後にした。


 僕が教室に忘れ物をしたと気付いたのは寮に戻った僕が数時間ほどの昼寝から覚めた頃だった。

あいにくあの教材がないと今日の宿題がこなせないので、僕は重い身体を引きずってもう一度教室へ向かうことにした。

一歩一歩、地に沈み込むように歩を進め、なんとか日の暮れないうちに再び学校へ到着した。

校舎に入り、自分の組の割り当てられた教室を目指す。

しかし、その途中にすこし奇妙なものを見た。

生徒会室の明かりが点いていなかったのだ。

確かさっきジョウは今日は生徒会の用事があると言っていた。

ジョウが日程を間違えて覚えていたとしたら、なかなか珍しいこともあるものだ。

しかしそれならばなぜ僕が昼寝をしている間に寮に帰って来なかったのだろう?

僕が知り得る限り、品行方正なジョウに限って用もなく学校をうろついたり、帰宅途中に寄り道をしたりするはずがない。

そう考えると尚更不思議である。

しかし、この些細な疑問は僕が教室に着いた時に一瞬にして解けた。

「おい、お前らなにやってんだ?」

「えっ…?」

「ミ、ミサキ!なんでここに?」

教室には、夕暮れの橙に頬を染められたジョウとシズの二人が残っていた。

「なるほど…お前ら、そういうことか…」

「ちょっと…あんた何か勘違いしてない?」

「そうだよミサキ!これは違っ…」

「何が違うってんだ!?別にやましいことがないんならそんなに動揺もしないだろ?」

とうとう決定的場面を見てしまった僕は溢れる感情が言葉となって止まらない。

「お前はいいよなジョウ!成績優秀で頭脳明晰、人当たりも良くておまけに絵まで達者と来たもんだ!そりゃあそんな女の一人や二人落とすのも訳ないよな?」

「ちょっとミサキ…っ!」

「シズ、ちょっと黙ってろ!」

「ミサキ…俺は…俺はそんな…」

「お前、善人面して内心こう考えてるだろ?」

もはや心のダムは決壊し、溢れ出る心情に際限はない。

ついには思ってもいないことまでが、勢いだけで口を出た。

「『ミサキの馬鹿が右手をくれて良かったぜ』ってな!」

「…違っ!」

「え…なによ、『右手をくれて』って?」

「そりゃあそうだよな?昔からあんだけ頑張ってきたお前の右手が消し飛んで、俺の右手が生き残るなんてどう考えても道理に合わないもんな?」

「俺は…俺は、そんなこと考えてなんか…」

「口でならなんとでも言えるさ!どうだよ?僕からまんまと貰い受けたその右手の使い心地は?」

「…っ!」

―ゴッ!―

静止していたはずの僕の体が後方へ飛ぶ。

豪快に机を跳ね飛ばしながら倒れ込み、そこでやっとジョウに殴られたと気付いた。

「ふん…なんだよ?言い当てられた途端に逆上かよ?」

「俺は…俺はお前のことを…」

「もういい!もうお前の言葉なんて聞きたくない!」

「俺を介して知り合ったソイツと、俺の右手でよろしくやればいいじゃねぇか!もういい…もう俺はどうだっていいさ…」

僕は口の端の血を手の甲で拭い、のろのろと力なく立ち上がる。

「じゃあな…ジョウ、ミサキ…もう二度と会わないだろうけどな…」

僕はそう言い残して教室を走り去った。

鞄も宿題も友も思い出も…その一切を置き去りにしたまま。


 「これじゃいい道化だな…」

破れかぶれのまま教室を飛び出した後、行く当てもなくただ歩きながら一人呟く。

さっきまで追いかけてきた二人を振り払うのに全力疾走を続けてきた足はいまや重々しく、僕は心身ともに今にも崩壊寸前だった。

「チンケな嫉妬や劣等感で友を遠ざけて…見ず知らずの人の幸運を根こそぎ奪って…いざそれが重くなったら偽善を口実に他人になすり付けて…そのツケがこのザマか…」

これほどまでに惨めな気持ちは初めてだった。

ここまでずっとごまかしてきた思いをとうとう抑えられなくなり、僕はその場で堰を切ったように泣きだす。

「…ひぐっ…俺の人生って…一体なんだったんだ…っ」

そのまま歩くと、前方に川が見えてきた。

この一帯で最も大きかったその川は、どうやら連日の雨によって水位が上がっているようであった。

「…っぐ…これは…丁度いいや…」

考えてみれば、右手のない僕には毒薬の瓶を開けることもできなければ、首に縄を巻くこともできない。

マッチも擦れなければ、逆手で手首に刃物を突き立てることも難しい。

「全く…全く都合がいいな…」

僕は河原へへたり込み、残っている左手で石を次々と拾ってはそれらを学生服の襟の中へ放り込んだ。

しだいに腹周りが石のゴツゴツした感触でいっぱいになると、次はポケット…果ては靴の中にまで砂利を流し込む。

立ち上るのも困難なくらいに体が重くなった所で僕はゆっくりと川へ向き直った。

「よし…あの夕陽が見えなくなったら飛び込もう…」

暗示するように自分に言い聞かす。

しかしいざそう決めると夕陽はなかなか落ちてくれない。

「早くしろ…早くしてくれ…でないと…」

後に続く―この覚悟が折れてしまう―という言葉だけは必死に飲み込む。

夕陽を見上げると、不意にいままでの楽しかった思い出の数々が思い出された。

「僕…幸せだったんだろうな…」

子供の頃の僕は、どんなに下手糞でも純粋に絵を描くことが好きだった。

それがなぜ今こんな結末を迎えようとしているのか、我ながら笑えてくる。

「ふう…」

とうとう、遠方の山間から差し込む橙がゆっくりと細くなってきた。

徐々に夕闇に押し負けて行くあの夕陽がまるで自分のようでどこか情けない。

「よし…いくぞ…」

もうほとんど消え失せた夕陽が、いよいよ全て見えなくなる。

「一…二の…三っ!」

―バシャーン!―

「っぷ…ぐぁ…」

その川が見立て通り深かったと一瞬で分かる。

僕の両手は無意識に生を掴もうともがくが、川の流れと石の重みがそんなことを許すはずなどない。

「ぐ…ぶはっ…っ!」

水底へ向けて何者かに足を引っ張られるように僕の体は沈んでいき、いつの間にか僕の声は音を失い、代わりに大小様々な水泡が順々に天へと登っていった。

「(これで…これで死ねる…)」

だんだんと薄くなっていく意識の中でそう考える。

もはや視界も霞み、苦しさもなくなってきた。

「(これで…これで僕は…)」

―バシャッ!―

その時、明らかに僕以外の塊が川へ投げ込まれた音がした。

その塊は川の勢いをものともせずもの凄い勢いで僕に近づいてくる。

―ガシッ―

遠のく意識の中でさえ、何者かに強く腕を掴まれたことが感触で分かる。

するとソレは、流れや石の重さなどものともせず、一気に僕を水上へと引き上げた。

依然ピントの合わない両目は徐々に大きくなる灰色を映し、少しして僕はその灰色へと押し出される形で乗り上げた。

「げほ…げほっ…!」

「ミサキ…お前…なにしてんだよ!」

「え…?」

僕はやっと、ジョウに助け出されたことに気がつく。

「『もう会わないだろう』なんて言うからもしかしてと思って来てみたら…なんだよそれ…」

「ジョウ…」

ジョウは明らかに僕よりも泣いていた。

ジョウに対して凄く申し訳なくなった。

「あのな…言っとくけどな…別に俺とシズさんは恋人でもなんでもないんだよ!」

「…えっ?」

「シズさんはな、最近元気のなかったお前を心配して俺に相談してきたんだよ!」

「な、なんでそんなこと…」

「分からないのか?」

「…。」

「お前のことが好きだからだよ…」

「…っ!?」

瞬間、言葉を失う。

ジョウを好きだったはずのシズは本当は僕のことを?

錯乱した思考に理解が追い付かない。

「なぁ…こんなことしてどうするつもりだったんだよ?死んだら…死んだら全部おしまいじゃないか…」

「ぐ…ひぐっ…」

さっき一人で出し尽くしたと思っていた涙がまたも溢れてくる。

僕らが二人で泣きあうのはこれで二度目だった。

「ごめん…ごめんジョウ…僕…ぼく…」

横になったまま震えながら必死に謝る。

するとジョウは僕の肩にそっと手を置き言った。

「なぁ、もう遅いからさっさと帰ろうぜ」

その言葉にまた涙が溢れた。


 思えば簡単なことだった。

「もう自分には神は必要ない。」

それだけの言葉を口にするだけで、蛇は掛け軸ごと僕の前から姿を消した。

きっと、あの蛇は人の心の暗い部分に惹かれて現れるのだろう。

あの時、僕がジョウに対して抱いていた嫉妬や劣等感。

それに付け込むように骨董品屋は僕を誘い入れ、まんまとあの邪神を押しつけたに違いない。

「おい、ミサキ…いつまでやってるんだ?もういいかげん明かりを消してくれよ?」

「いいや、もう少しだけ…もう少しだけ描かせてくれ…これは僕の最高傑作になるかもしれない!」

「お前それ毎日言ってないか?」

「いいんだよ!」

「「はははは…」」

あの日ジョウに助けられた僕はそれを機に自分を見つめ直し、なんとか心を持ち直すことができた。

最初の頃はぎこちなかった僕の左手も、最近では日に日に腕を上げていると我ながら実感できている。

ジョウの…いや、かつての我が右手を脅かす日もきっと近いだろう。

「まぁ明日は日曜日だからいいけどな…あ!」

そう言った途端、ジョウがニヤニヤしながら僕を見てくる。

「な、なんだよ?」

「その絵ってもしかして、明日のデートでシズさんに渡すプレゼント…だったりとかする?」

「ばっ…馬鹿!そそそ、そんなんじゃねぇよっ!」

「ミサキは嘘をつくのが下手だなぁ!」

「うっ…五月蝿い五月蝿い五月蝿いっ!」

そうして今日も、他愛のない一日が過ぎていく。

思えば僕は、たった一つの右手という大事な物を失った。

しかし今では、それ以上に幸せな日々が手に入った。

「まったく焼けるねぇ…じゃあ、俺は先に寝させてもらうぜ。おやすみ、ミサキ!」

「ふん…とっとと寝ちまえ。さて…」

そうして布団に入ったジョウとの会話を終え、再びパレットで色を作る。

色が付かないように慎重に重石を移動させながら少しずつ山吹色を落としていく。

「シズの奴、喜ぶかなぁ…」

そうして彼女の好きな向日葵を描きながら、今日も夜はゆっくりと更けていった。

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