第五話 ふいうち
暗い夜道。俺は何故か彼女でもない、ただの大学の後輩の女の子と歩いている。
……何やってんだろ、俺。
あのまま、泣き出した彼女を放っておいても良かったんだけど、あまりにも大声で泣くもんだから、無視することが出来ず……。伊東は伊東で機嫌が悪くなっちゃったし。
本当、何やってんだろ。
「……梶山先輩」
ぐすっと鼻をすすりながら女の子、佐々木さんは俺の服の裾を掴んだ。
「何だよ」
「……怒ってます?」
「聞かなくても分かるでしょ?」
そりゃ当然怒ります。俺は女神様でもなければ菩薩様でもない。そう言ってやると、俺の服を掴んでいた佐々木さんの手が放れた。すると突然、
「お、怒らないでくださぁぁいぃぃ!」
どんな感情が込み上げたのか知らないが、やっと泣きやんだ佐々木さんが、また子供のようにわめき出した。俺は慌てて佐々木さんに優しい言葉をかけた。
「わ、悪かったよ。怒ってないからさ。泣きやんでくれよ」
「ほ……本当ですか?」
俺は頭が外れてしまうぐらいに上下に動かして頷いた。もう何も言うまい。早く佐々木さんを帰して伊東に謝らないと。……ひょっとして、今日は厄日なのか?
いろいろハプニングがあったが、やっと目的地である佐々木さんの家に着いた。
「ありがとうございました」
まだ鼻をぐずぐずさせている佐々木さんが頭を下げた。『別にいいよ』と、苦笑いの俺は軽く手を上げて帰ろうとした。しかし、それを佐々木さんの俺を呼ぶ声が止めた。
「なに?」
「あのお願いがあるんです」
ちらっと上目遣いの佐々木さんは、文句なく可愛らしい。大抵の男ならすぐに落ちてしまうだろう。
しかし、俺は違う。
俺には伊東っていう心に決めた人がいるのだから。
「お願いって?」
早く帰りたい雰囲気を言葉に匂わせながら素っ気ない態度を取った。そんな俺を何とも思わないのか、佐々木さんはゆっくりと俺に近寄って来た。
「あ、前髪に糸屑が付いてますよ」
「え?」
一瞬、俺の目は佐々木さんから自分の前髪に移った。その一瞬、佐々木さんはひょいっと背伸びをして、俺の唇に柔らかい感触を押し付けた。
「……」
何が起きているのか分からない。しかし、この柔らかい感触の正体は理解出来た。唇だ。
俺の目線がスローモーションのように自分の口元に移動した。
「……ちょ、ちょっと!」
勢い良く、佐々木さんの唇から顔を背け、体も離した。思わず、自分の唇に手をやる。
何考えてんだ、こいつは!? 目を点にして佐々木さんの顔を見ると、佐々木さんはけろっとした表情で俺を見ていた。
「大丈夫。黙っていれば伊東先輩にはバレませんから」
これがさっきまで泣いていた子なのか? 今は口元を緩めて笑っている。
「どういうことだよ……」
「あたし、梶山先輩じゃないとダメなんです。だから、あたしの彼氏になってください」
「な、何言って……」
どうしたらいい? どう言ったら諦めてくれる?
俺の頭には何も言葉が浮かばなかったが、次第に伊東への罪悪感でいっぱいになった。事故とはいえ、キスはキス。俺は彼女以外の人とキスをしてしまったんだ。
「今、伊東先輩のこと考えてたでしょ?」
すっかり泣きやんだ佐々木さんが、俺の顔をのぞき込んだ。
「と、とにかく。俺は駄目だから。彼氏なら他を当たって? 佐々木さんだったら、俺より良い人に会えるよ」
ありきたりなセリフだ。だけど、今はこれしか浮かばない。……もう帰りたい。今日は本当に疲れた。
「梶山先輩より良い人なんて……いません」
ぽつりと呟くように言葉を落とした佐々木さんの表情が、さっきまでの笑顔から悲しそうな表情に変わった。それはとても切なくて、俺の心がぎゅぅっと締め付けられた。
「佐々木さん?」
「や、やだ、先輩。何マジメな顔してるんですか?」
俺の呼び声に、はっと我に返った佐々木さんは、悲しい表情を打ち消し、いつもの笑顔に戻った。
「そ、そろそろ家に入らないと親がうるさいですから」
『じゃあ、また明日学校で……』と、佐々木さんは玄関のドアを開けて家の中に入っていった。