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第四話 アメとムチ

「じゃんじゃん食べてね〜。ほら雪人、これも食べろって」

 くたくたの背広を着たサラリーマンや、大きな鞄を肩にかけた部活帰りの学生達が賑わう場所、牛丼屋。少し忙しない雰囲気のなか、俺は伊東を連れてテーブル席に座った。ここに来たのは、ある人物に呼ばれたからだ。その人物とは……。

「ユウジ、何が目的なんだ?」

 目の前に出されたほかほかの牛丼に俺は眉間にしわを寄せた。伊東は珍しそうに俺の牛丼に見入っている。

 ユウジはぱんっと両手を合わせて頭を下げた。

「いや、この前は本っ当に悪かった! その罪を償おうと思ってさ」

 ほぉーっ。その償いが一杯二百九十円の牛丼ですか。俺と伊東を合わせても六百円にもならない。ワンコインでお手軽な罪滅ぼしですね。

「いやいや、計算間違ってるよ。正確には五百八十円」

「そこ、威張ってんじゃねーよっ」

 俺の真剣なツッコミを、ユウジはけらけらと笑い飛ばした。本当に悪いと思っているんだろうか? 怪しい……。

「梶山君、これはどうしたらいいんですか?」

 俺の隣りでちょこんと牛丼を待っていた伊東が、備え付けの紅しょうがが入っている容器を指差した。

「これは好みで、すきなだけ入れていいんだよ」

 ユウジが俺の代わりに答えた。『すきなだけ、ですか』と、感心した様子で紅しょうがを見つめる伊東。太っ腹ですね……と、彼女なら目を輝かせて言うだろう。

「小春ちゃんは牛丼屋、初めて?」

「あ、はい。そうなんです」

 伊東が恥ずかしそうに笑った。

「女の子はあんまり、こういうとこ来ないだろ」

 伊東の牛丼がやって来たところで、俺達は箸を取り牛丼を食べ始めた。

「そっか、そうだよね。ごめんね、オレ今、金がなくてさ」

「そんな謝らないでください。ご馳走してもらえるだけで充分ですから」

 慌てて伊東がユウジに微笑みかけた。俺はその隣りで、けっと悪態を吐いた。

「伊東、いいんだよ、そんなこと言わなくて。たっぷりご馳走してもらうんだから」

「牛丼限定だけどな」

 ユウジが歯を見せて笑った。その顔はまっさらで無邪気な少年みたいだ。こういうとこがあるから憎みたくても憎めない。なんてお得なキャラしてんだか。

 一口、二口と牛丼を口にかき込んで、ユウジが『そう言えば……』と、俺と伊東の顔を交互に見た。

「雪人達って名前で呼ばないんだねぇ」

 唐突なユウジの言葉に、俺は持っていた箸を落として目を丸くした。隣りの伊東も同じリアクションを取っている。

「は? 名前で呼んでるよ」

「違う違う。下の名前だよ。雪人は小春ちゃんのことを伊東って呼ぶし、小春ちゃんは雪人のこと、梶山君って呼んでるじゃん」

 そう言われてみれば……そうかも。俺は伊東に目線を移した。伊東は顔を赤くして牛丼をつついている。

「オレが彼氏を差し置いて、小春ちゃんって呼ぶのはなんだかねぇ」

「じゃ、やめればいいじゃん」

「今さら無理っ」

 即答の答えに俺はがたんっとテーブルから肘を落とした。

「私は全然気にしてないですよ」

 牛丼を半分食べ終えた伊東が満足げな顔をした。よっぽどこの店の牛丼が気に入ったらしい。目が爛々としている。

「私も梶山君からユウジって呼ばれてるのを聞いて、勝手にユウジ君って呼んでいますから」

「う〜ん、小春ちゃんみたいな可愛い子に名前で呼ばれるなんて、オレって今すっごく幸せだよぉ」

 はいはい……と、俺はユウジを軽くあしらった。お前は酔っ払いか。素面でも酔えるユウジは伊東に話しかける。

「でもさ、小春ちゃんは雪人に小春って呼ばれたい〜って思わないの?」

「え、えーっと……」

 返答に困った伊東は、耳まで真っ赤に染めて器に付いたご飯粒をつついた。

「伊東が困ってんじゃん。変な事聞くなよ」

 『こいつは気にしなくていいから』と、俺はユウジを指差した。ユウジが『何だと!』と声を上げた。そんな俺達のコントを見て伊東がくすくすと笑った。




 夜空にぽつぽつと星が顔を出し始めている。ユウジと牛丼屋の前で別れて、俺達は家に帰る道を歩いていた。

「今日は楽しかったです」

 俺の隣りを歩いている伊東が笑って言った。『そっか。そりゃ良かった』と、俺は彼女の笑顔を見て安心した。

 この間の佐々木さんの告白以来、俺の心は不安定になっていた。

 伊東が変な事を考えていないか、悪い何かを考えていないか。前は笑っていたけれど、本当はどう思っているんだろう?

 ヤキモチ、妬いてくれてたら、それはそれで嬉しいかも……。

「梶山君、あぶないっ!」

 彼女の声が聞こえたと同時に、俺の両目から星が飛び出た。何が起きたのか分からなくてしばらく時間が止まっていたが、後からじぃんとした痛みが額から体中に広がった。思わず額に手をやると、さっきまでなかった違和感がそこにあった。

「〜っ、痛い……」

「電柱におでこをぶつけたんですよ。大丈夫ですか?」

 彼女が綺麗な桜色をしたハンカチを差し出してくれた。俺は『大丈夫だから』と、ハンカチを彼女に返した。

 日頃しない考え事をするもんじゃないな。俺は腫れ物を触るみたいに額の違和感に手をやった。指先が触れた瞬間、ぴりっとした痛みが体を襲った。

 でも日頃しない考え事のおかげで、俺はあることを思い付いた。それは、彼女を持つ男であれば必然的に考えることで……。

「こぶが出来てるかも」

「えっ、ちょ、ちょっと大丈夫ですか?」

「……分かんない。俺、鏡持ってないし、代わりに見てくんない?」

 俺は彼女の目線に合うように背中を丸めた。彼女は踵を上げて心配そうな表情で俺の額に視線を向けた。

「あ、大丈夫みたいですよ。赤くなってるけど、そんなに腫れてないみたいです」

「そっか、良かった……」

 そう言って俺は彼女の細い腕を優しく掴み、彼女の唇に自分の唇を近付けた。あと少しで……という距離で彼女がそっぽを向いた。

「だ、だめです」

 茹蛸みたいに真っ赤になっている。少し潤んだ瞳が可愛い。

「なんで?」

 俺は離れようともせず、彼女の耳に囁いた。

「……梶山君、何だか変です」

「そう?」

「だ、だって、最初の頃はこんな感じじゃなかった、です……よ」

「伊東がアメリカに行ってる間に変わったのかも。……ね、こっち向いて?」

 そっと彼女の顎に手を掛けた。目線だけは横を向いていたけれど、ちらっと俺を上目遣いに見て静かに目を閉じた。

「可愛い……」

 いよいよ彼女の桃色の唇に辿り着く、そんな雰囲気が流れたときだった。聞き覚えのある声だな……そう認識した時、俺は道の壁に持たれかかっていたのだ。

「え、え?」

 意味が分からない。

 今までの流れだと、俺は彼女と甘いささやかな時間を過ごしているはずなんだ。

 なのに、なんだこの展開は。

 どうして今度は右側が痛いんだ。

「……佐々木さん?」

 伊東の驚いた声で俺にタックルを決めた奴の名前が分かった。よろよろとふらつく足に鞭打って、タックルを決めた佐々木さんの腕を取った。

「何考えてんの?」

 こればかりは笑って許すわけにはいかない。なんてったって、恋人同士の甘い時間を邪魔したんだ。それを笑って許せるほど、俺はまだ人間が出来ていない。

 しかし、様子がおかしい。佐々木さんはぐったりしていて、自分の力で立ち上がろうとしない。

「おい?」

 声を掛けても返事がない。

「どこか怪我をしたのかもしれないです」

 伊東が心配そうに佐々木さんの顔をのぞき込んだ。俺も腕から手を放して、その場に腰を落とし、佐々木さんの様子を見た。すると張り詰めた糸が切れたかのように、佐々木さんが声を上げて泣き出したのだ。しかも俺に抱き付いてだ。

「ちょ、ちょっと」

 待ってくれよ、今隣りには伊東がいるんだよ。変な誤解されたら困るんだから。

 そんな俺の心を知ってか知らずか、佐々木さんの腕に力が入る。

「梶山先輩に会いたかったんです……」

 泣きじゃくりながらそう話す佐々木さんの目には、白い目で遠巻きに見ている周りの野次馬の目など一切入っていない。

「分かった、分かったから。泣きやんでくれよ」

「梶山先輩ぃぃ……」

 はいはい……と、俺はどうしようもなくて、ぽんぽんと軽く佐々木さんの背中を優しく叩いた。

 叩いた後ではっとした。

 ちらっと俺の横にいる伊東に目線を移すと……。

「佐々木さんの家まで送ってあげたらいいんじゃないですか?」

 何だか刺がある言い方に聞こえるのは気のせいなのだろうか。いや、きっと気のせいなんかじゃない。伊東の全身から怒りのオーラが見える……ような気がする。

「ま、待てよ。伊東も一緒に……」

「ごめんなさい。今日は早く帰らないといけないんです。じゃ、失礼します」

 ぺこりと丁寧に頭を下げた彼女は、さっさとこの場を去ってしまった。

 最低だ。

 周りの白い目に囲まれて取り残された可哀相な俺と泣きやまない女の子。

 最低なシチュエーションだ。

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