森の異変
家を出たオレは、いつものように森へ向かう。
谷川の滝を過ぎ、石段を横目に進む。
斜面を降りかけて、ふと違和感を覚えた。
葉や枝を風が揺らすざわめきが、
今日に限って聞こえない。
鳥の鳴き声も、虫の声もない。
いつもなら清浄な空気が満ちている林間に、
じっとりと嫌な湿り気を帯びた、
妙な澱みがあった。
差し込む光さえ、普段より薄暗い気がする。
谷川のせせらぎの音が小さくなった。
まるで森全体が、沈黙し、
これから起きる何事かを固唾を呑んで
待っているようだった。
なんだろう。こんな胸騒ぎは初めてだ。
背中に汗が伝うのを覚えながら、
呼吸を整え、意識を広げて周囲を探る。
鍛錬の成果で、今は数キロを
走査できるようになっていた。
ー探知範囲ギリギリの辺りに、
ひとつの波紋を捉えた。
これまで見てきた動物達の波紋は、
綺麗な同心円状に広がり、
柔らかく周囲に溶け込んでいた。
しかし今感じるのは、ギサギサの棘を持ち、
ドクンドクンと脈打つ異様な波紋だ。
大きくなったり、小さくなったりしている。
冷たくも、焦げるような感覚。
酸のように爛れ、膿のように粘つく。
ーこれは、〝憎悪〟だ。
オレは身体から意識を抜け出させ、
偵察してみることにした。
「〝斥候〟。」
意識はフワリと頭上に浮かび、
木々の梢を通り抜ける。
枝葉がオレの中を擦り抜けていく
感覚が心地よい。
たちまち林冠の上空30メートル程に達した。
遠くの山々の尾根に残雪が白く輝く。
湿度を十分に含んだ大気は、
うっすらと霞んでいる。
含まれる細かな水分を
クローズアップして見ると、
それぞれの水滴が
微細なプリズムのように働き、
陽光を拡散させている。
そのような水滴が無数に
大気中に満ち、小さな虹を
空いっぱいに散りばめていた。
ゆったりとした大気の流れにあわせ、
漂う光の粒。
大気の波濤の先端にあたるところには、
白い雲が形成され、ゆっくりと波打ち、
姿を変えていく。
その遥か上空には
高層雲が筋状に流れている。
低層雲とは違う理に沿った動きだった。
解放の爽快感に震えながら、
眼下に目を向けた。
新緑を湛える森の表面を
風がザワザワと揺らし渡って行く。
尾根を二つほど超えた先には
〝ソマ〟さんの小屋がある。
普段は炭焼きの煙が途絶えることはないのに、
今日に限っては煙が見当たらない。
憎悪の波動の中心は、〝ソマ〟さんの小屋へ
行く小道の途中、
半分ほどの距離にある。
辺りの森には赤黒い澱みがわだかまり、
清冽な空気を締め出しているのが
わかった。
高度を少し下げ、再び枝葉を通り抜ける。
木々の枝の下に出て、
本体の頭上3メートルくらいに浮かんだ。
身体と繋ぐ臍帯を、
練り上げた気で補強し伸ばしつつ、
憎悪の存在に向けて近づいていく。
波動の正体は、一羽のウサギだった。
上空、背中側から見ると、
半身が白い毛で覆われ、
もう半身は黒く染まっている。
普通のウサギの2倍ほどの大きさだ。
正面に回り込むと、その顔には
おぞましくも人間のような口がついていた。
半開きになった口から、
白い歯列が覗き、長く太い舌を
涎が伝い垂れている。
笑っているようにも見える。
顔の黒い毛に覆われた側には、
緑色をした片目があった。
不気味に光っている。
白い毛に覆われた側の眼は、
乾き白濁し、目やにが縁取っている。
散り敷いた針葉樹の枯葉の上を、
黒い影が這いずるように村の方角へと
進んでいる。
頭や眼を動かすことなく、
前脚で探りながら進んでいる様子を見るに、
視覚は無いようだ。
この禍々しい存在を、
フィオナや母さんが暮らす村へ
行きつかせる訳には行かない。
オレはここで魔物を迎え撃つ覚悟を固めた。




