異形
月明かりのない闇夜。
炭焼き窯から覗く火が、
うずくまる一人の男を
赤く浮かび上がらせている。
袖なしの毛皮を羽織り、
太く毛深い腕がのぞいている。
〝ソマ〟は、炭焼きを生業としていた。
三十代前半の大柄な男で、口数が少なく、
朴訥な人柄である。
夜の山は、静かながらも、
案外ざわめきに満ちているものだ。
風が木々を揺らし、
遠い谷川のせせらぎを運んでくる。
虫の音に、
動物が枯れ葉を踏み分ける音。
寝ぼけた鳥が時折たてる、叫び声。
そして芽吹いたばかりの青葉の香り。
蒸した土の匂いに、
枯れ草の芳香が混じる。
昼間は気づかないような、
下草の可憐な花の香り。
獣たちの気配。
火に彩られ立ち昇る煙を目で追うと、
その先の夜空には
こぼれんばかりの満天の星々が煌めく。
一人ではあるが、決して孤独ではない。
豊かな命の気配に包まれ、
山に抱かれながら、
炭がたてる密やかな音を聞き分ける。
炭を焼く仕事を、〝ソマ〟は好きだった。
窯口の青煙を見守りながら、
いつしかまどろんでいた彼は
ふと、何かが気にかかり目を覚ました。
ー周囲の様子がおかしい。
辺りの音が消えていた。
薪の燃えるパチパチという
音がするだけである。
急に、山の中にただ一人取り残された
寂寥感が募ってきた。
カサリ、カサリ。
そこへ、枯れ草を踏む
小さな音が近づいてくる。
〝ソマ〟は、音のする方へ
太い首を回し目を凝らすが、
漆黒の闇があるだけだ。
カサリ、カサリ。
動物の足音のようだ。体重は軽い。
しゅうしゅう、という音も重なる。
『息の音だろうか?』
傍の鉈を、太い右手で掴む。
脇の下には汗が滲んだ。
夜陰の木々の間から、
白く柔らかな毛並みが浮かびあがった。
つぶらな黒目がほのかに輝く。
「なんだ、ウサギっこか。」
夜にウサギとはどうしたものかな。
そんなことも考えたが、
懐かしい旧友に、
はからずも出くわした感覚。
〝ソマ〟は違和感を振り払い、
ウサギに話しかけていた。
その瞬間──ウサギの顔の、
光のあたらない側。
ちょうど眼のあたりか。緑色に
光るものがあることに気づいた。
不気味なエメラルド色の光が、
夜陰の中で異様に浮かび上がる。
耳鳴りのような「ゴォォ…」という息継ぎ。
その吐息は、長い孤独を耐え抜いた末の、
かすれた嗚咽のよう。
土の腐ったような、鉄錆びたような、
生き物の内側を嗅いだような臭いが
吹き付けた。
「ひっ‥」
手を後ろにつき、後退る。
しかし目は異形のウサギに
吸い寄せられたままだ。
ウサギはなおも近づき、とうとう全身が
夜陰から抜け出し、
窯の火に照らされた。
半身は白く、普通のウサギそのもの。
つぶらな黒い瞳が
濡れたように光っている。
一方で、反対側はどす黒く染まり、
眼は憎悪の緑に冷たく燃え、
目の前の人間を見据えていた。
異形の怪物の口が裂け、
人間の歯のような白い列が覗く。
ー見てはいけない物を見た。
〝ソマ〟の耳の奥で鼓動が大きくなる。
化物が何ごとかを囁いた。
地底を擦るような音。
嗤い声のようでもある。
世界から色彩が消えた。
狭窄した視野いっぱいに、
異形の存在が広がる。
屈強な男の太い脚の間に
水たまりが音もなく広がり、
湯気を立てた。
朝日が山に差し込み、
季節外れの霜を溶かした。
窯の火は消え、白い煙が一筋
立ち昇っている。
〝ソマ〟はすでに絶命し、
首は力無く垂れていた。




