お屋敷でドーナツを
その家の門はとても立派で、高さがあって屋根もある。そこから高さは半分程度だが、白漆喰の塀があり、ぐるりと敷地を囲っている。塀にも瓦葺の小ぶりな屋根があった。どんな金持ちが住んでいるのだろう? と、思わず立ち止まって見てしまう人も少なからずいそうだ。
「数寄屋門って言うんだよ」
隼人がいつか言っていた。
そんなお屋敷に人狼の兄弟、朔と満は住んでいた。二人のために隼人が用意した住処だ。五百坪はある。
昭和の時代、戦後の混乱に乗じて手に入れたって隼人は言っていた。人形の時でさえ隠れるように、近所に姿を見せずに人狼兄弟はここで暮らしている。だから近所は空き家と思い込んでいるらしい。何十年も変わらぬ姿なのだから、そうする必要がある。ついでに言うと、満月の夜には二人して地下牢に籠るらしい。
「バンちゃん、ボケーっとしない。ほら、行くよ」
隼人が解錠する間、僕はボケッと門や塀を眺めていた。いつ来ても圧倒される立派さだ。隼人は木造の門扉の横に取り付けられた通用口、小さな、やっぱり木造の引き戸を開けて中に入った。慌てて僕も引き戸をくぐる。すると隼人が、今度は中から施錠した。
尻尾があるんじゃ買い物にも行けないだろうと来る途中、食料品や飲料をいろいろ買い込んだ。かなり重くなったけど、持っているのはもちろん僕だ。僕一人だ。隼人は手ぶらで、少しも持つ気なんかサラサラない。
門を入ると飛び石のアプローチになっていて、玄関の間口は二間、引き戸を開けると上がり框に朔が座り込んでいた。
「朔、来たよっ!」
隼人が微笑む。
「うん……」
いつも強気の朔が、情けない顔で隼人を見上げた。それでも上がり框に乗せた、ふさふさした尻尾を少し揺らした。
広縁を通って奥に行く。純和風の屋敷はよく手入れされているけれど、かなり古いものだ。そして異様なのはだだっ広い庭だ。
漆喰塀の際にこそ植栽があるものの、庭には何もない。外観や、建物の感じから日本庭園が広がるものと思ったら、芝が植えられているだけだ。
「ドッグランだよ」
と、隼人が笑う。朔と満が駆けまわって遊ぶために、隼人はこんな庭にした。
満は畳の上にカーペットを敷き、そこにソファーやローテーブルを置いた部屋にいた。隅っこで、立てた膝を抱いた上に顔を伏せている。ソファーじゃなくて床に直にだ。泣いていたんだと思った。サラサラのロングヘア、いつでも女装している満、涙で滲んだアイラインが物悲しい。
それでも、隼人が来たのに気付くとパッと顔をあげ、
「隼人ぉ~」
と、やっぱり少しだけ尻尾を振った。
隼人はソファーに座ると、買ってきたドーナツを食べると言い出した。三歩歩けば忘れるくせに、甘い物の事は忘れない――違った、あれは確かニワトリだ。ハヤブサは貯食する。隠した場所を忘れたりしない。そうか、食べ物の事は忘れないってことか。
「バンちゃん、朔に聞いてコーヒー淹れて」
朔が頷いて、キッチンに連れて行ってくれた。
ところが、
「たっぷり砂糖を入れるんだ。コーヒーメーカーで淹れたって判るもんか」
と、朔がコーヒーメーカーをセットした。すぐにボコボコ音がし始める――朔の手、指先が尖がっている。
「少しずつだけど、人形が解けてるようなんだ」
僕の視線に気が付いて朔が言った。
「このままじゃ、狼の姿になったまま二度と人形に戻れないんじゃないか。そしたら隼人と一緒にいられなくなるって、満は泣いてる」
朔も同じ不安を抱えているんだろう? そう思ったけれど、何も言わずにいた。
「なにこれ!」
朔の予測に反して、コーヒーメーカーのコーヒーだと、すぐ隼人にバレた。
「ボクはね、バンちゃんがドリップしたコーヒーが飲みたかったんだよっ!」
「隼人、たまにはこれで我慢しろよ」
と、朔が言うと
「なに? 朔は心配して駆けつけたボクに、コーヒーの一杯もご馳走してくれないつもりなの!?」
「えぇと、それ、バンが淹れたんだよ?」
朔、それ、嘘。違うって、最初に認めてるよね? 我慢しろって言ったよね?
「ボクを騙せると思うなっ! バンちゃんの匂いがしない。コーヒーメーカーで淹れてる! 朔、本当にワンちゃん? コーヒーで鼻が可怪しくなってる?」
隼人、それ言っちゃダメ、朔を『犬』呼ばわりしちゃダメ。
「隼人、怒んないで。ミチルのドーナツ、あげるから。はい、隼人の好きなオールドファッション」
唸りだした朔を抑えながら、満が隼人にドーナツを差し出す。
「ホント? 貰っていいの? ミチル、今日も可愛いね」
一瞬で隼人が機嫌を直す。
隼人、おまえ本当に神なのか? いや、神はもともと怒りっぽくって気紛れか。
朔の話によると、こないだ満月城界隈に出没していた妖怪『夜行さん』の正体を暴いて、夜行さんと化していた怨霊を成仏させた日から不調が出始めたらしい。
あの日、二人して普通に就寝したけれど目が覚めたら三日も経っていた。そのあとも、なんだか疲れが取れないと思っていたらお尻がムズムズし始めて、尻尾が勝手に出てきたらしい。さらに手足の指が尖がり始め、心なしか体毛も増えてきた。
そう言えばあの満月の夜、満も朔も狼に変化しなかった。いつもなら満月を見ると本人の意思に反して狼になって大暴れするのに、あの日は人形のまま隼人の指示に従っていた。
「うーーん……なんであの夜、二人は狼にならなかったんだろう?」
真剣な顔で隼人が言う。すると朔が
「おい、隼人。隼人が大丈夫だって言ったんじゃないか」
と、慌てる。
「ボクが? 朔、ボクのせいにしないでよ」
言い募ろうとした朔に、そっと満が耳打ちする。
「隼人、忘れちゃったんだよ……」
満の顔を見て、朔が青ざめる。隼人、おまえ、ハヤブサは間違いでニワトリなんじゃないのか?
見かねて僕が
「隼人、なんとかしてあげてよ」
と言うと、
「バンちゃん! ボクが二人を見捨てると思ってるんだ?」
と、例によって鶏冠……じゃない、お冠だ。
「とりあえず、この屋敷に異変が起きてないか確認する。もっとも、何かあればボクがとっくに感知しているはずだから念のためだ。バンちゃん、行くよっ!」
って、僕も一緒に行くのかい? まだ、ドーナツ一個も食べてないぞ?
怒らせるのも面倒なので、渋々隼人についていく。
「大丈夫、バンちゃんの分、食べとくから」
と、満がニッコリ請けあった。
さっと屋内を回り庭に降りた。
「さすが狼の巣。ネズミどころかゴキブリ一匹いやしない」
「どこかに隠れてるんじゃないの?」
「天井裏はもちろん、床下もくまなく見ている。ボクが見落とすはずもない」
――忘れてた。隼人はウジャトの目で見ていたんだ。全てお見通し。朔がコーヒーメーカーを使ったのもお見通しってわけだ。嘘つきめ、なにがバンちゃんの匂いがしない、だよっ!
「あ……」
急に隼人が一本の木に駆け寄った。椿だ。
「メジロの巣だ」
「メジロって人狼に悪影響があるの?」
すると軽蔑しきった目つきで隼人が僕を見る。
「ただのメジロにそんな力があるわけないじゃん」
泣きたい気分で椿を見ると、枝の隙間の葉陰に壺のような塊が見える。きっとあれがメジロの巣なんだろう。隼人の趣味の一つに、鳥類の子育て動画の鑑賞があったことを思い出す。
中でもハヤブサの子育て風景は大好きで、
「うわぁ、真っ白け! モコモコ! ふわっふわっ! カラスに食われるなよ」
なんて、ぶつぶつ言いながら食い入るように見ているときがある。
きっとメジロの巣にヒナがいないかと期待したんだろう。でもあいにく今は営巣の時期じゃない。隼人の関心はすぐメジロの巣を離れた。
「塀の外に呪い札が貼られているわけでもないし……なんでだろう。バンちゃん、判る?」
「僕に判るはずないやん」
「訊いたボクが馬鹿だった。ごめんね、バンちゃん。無知なのを再自覚させちゃって」
もう、ヤダ。早く家に帰りたい。家に帰ってクローゼットに籠りたい。隼人が僕のために、わざわざ工務店に注文して作ってくれた、あの居心地のいいクローゼットが恋しい……
「バンちゃん、妄想してないで、帰るよ。早く来ないと置いてくよ」
「はいはい、待って」
隼人、僕を置いて行っちゃわないで!




