タマネギと恋に落ちたのは保存庫の中でした
終業の鐘と同時に見習い書記たちは一斉に筆を置き、事務所を飛び出していった。
「お先に失礼します」の一言もなく。
まあいい。
私も昔はそうだった。
若さってのは年上を踏み台にして回っていくのだろう、なんて卑屈すぎるだろうか。
馬車に揺られ、町の市場へ立ち寄る。
保存庫の食材を少し補充したかった。
干し肉や黒パンはもう揃っている。
でも何か一つ野菜を足して、少しだけ自炊感を出したい。
「あら、リーヴェラ。今日はタマネギが安いわよ!」
仲の良いリンスさんに声をかけられて、店前で足が止まる。
目に入ったのは、安売りされていたタマネギ。
「シチューにしようかな」
と、適当に手に取り袋に放り込む。
家に帰ると、さっそくタマネギを保存庫に片付ける。
疲れていたのでその日は食事を作らず、パンをかじって簡単に済ませた。
一人暮らしの利点はこういうときにしか実感できない。
そのままベッドに倒れ込むと、あっという間に眠り込んでしまった。
今日もまた、なんとなく生き延びただけの一日だった。
家に帰って着替えるのも億劫だ。
今日の夕食は何にしようかと保存庫を開けるが、たいしたものはない。
あるのは安売りで買ったタマネギだけだ。
「今日もパンと干し肉でいいかぁ……」
保存庫を閉めかけた、そのとき。
奥の暗がりから、低く湿った声が響いた。
「……なぜ我を見捨てる」
ぞわりと背筋に冷たいものが走る。
慌てて保存庫を閉めて、固まった。
いま、声がした? いやいや、そんなわけない。
心臓がばくばくいっている。
耳を塞いでも残響のように言葉が蘇る。
「や、やだ……疲れてるんだ、私」
そう自分に言い聞かせ、保存庫の前から離れた。
深呼吸をしても胸の奥のざわめきは消えない。
それでも、保存庫を再び開ける勇気は出なかった。
「……今日もパンと干し肉で十分」
自分に言い訳をするように呟いて、リーヴェラは夕食を済ませた。
翌日仕事から帰った私は、また保存庫の前で立ち尽くしていた。
「昨日は疲れてたのよね」
自分に言い聞かせるように扉を開ける。
中にはあの日と同じ、寂しげに転がる玉ねぎ。
そのはずなのに。
「なぜ私を見捨てる、リーヴェラ」
ぞくり、と全身の血が引いた。
まただ。
声がした。
しかも今度は、私の名前を、呼んだ?
「……っ、は、はい!? ちょ、ちょっと待って!? なんで私の名前知ってるの!?」
保存庫の奥をのぞき込むと、タマネギが静かにこちらを見ていた。
目なんてないはずなのに、見つめられている感覚がある。
「おまえが、私を拾ったのだ」
低い声が答える。
心臓がどくどくとうるさくて、息が詰まる。
「は、幻聴じゃない……よね? いやでも……タマネギでしょ? ただのタマネギ……だよね?」
手が震えて、保存庫の扉を思わず閉めた。
けれど、その向こうから確かに声が続いた。
しばらく黙り込んでから、再びゆっくりと開く。
そこには、ただ一つ転がるタマネギ。
けれど、確かにこちらを見つめている気がした。
「……あなたは、タマネギ……よね?」
「……ああ、私はタマネギ……」
一瞬の間。
「……いや、違う……そうだった気もするが、よく思い出せない。けれど、確かに――名があったはずだ。尊き響きが…」
タマネギの尊き名前とはなんだと、思わず口元がゆるむ。
タマネギとの妙な会話は、気づけば怖さよりもおかしさのほうが勝っていた。
タマネギはしばらく黙り込んでいたけれど、しばらくしてため息のような声をこぼす。
「……私は、もとはタマネギではない」
「え?」
「そうだ。呪いを受け、この姿に変えられた。そして、この呪いを解く唯一の方法は……」
言いよどんで、タマネギは苦しげに続けた。
「私を、食らうことなのだ」
「え……食べたらいいの?」
私は思わず口に出してしまった。
タマネギは、少し間を置いて、弱々しい声で答える。
「……いや、まだ、その覚悟は。……私は食べられることでしか呪いを解けない。…だが、怖い」
「……そっか。無理にとは言わないよ。今日は見てるだけでいい?」
「……すまない」
そう言うと、タマネルは保存庫の奥でころりと揺れ、少しだけ安心したようだった。
保存庫の奥に転がるその存在は、タマネギと呼ばれるのをどうにも嫌がっていた。
いくつかの候補を出した上で、仮の名として「タマネル」と呼ぶことにした。
それでようやく、彼は納得したように静かになった。
それから私とタマネルは毎日のように会話を続けた。
保存庫を開ければ、必ずと言っていいほど彼は文句を言う。
「剥く覚悟はあるのか、リーヴェラ」
「いや、まだ……」
「……いいかげん、調理してくれないか。私の賞味期限、残りわずかだ」
「今日は無理かな。疲れた」
朝、出勤前に会話することもあった。
「今日の夕食は何だ?」
「今日はシチューにしようかな」
「とうとう私の出番かっ…!」
帰宅後にやっぱり疲れたからと断れば、無念と悲壮感を漂わせていた。
別の日には、半分だけ調理してみようと提案する。
「炒めてみる?」
「炒っ!?……いや、もう少し待ってくれ」
そんなやり取りを毎日繰り返しているうちに、
タマネルのため息は少しずつ軽くなり、私も彼との会話を楽しみにしていた。
今日はいよいよ、タマネルの皮を剥いてみることにした。
保存庫の前に立ち、タマネルを手に持つ。
「……大丈夫?」
「……うむ……だが、少し緊張する」
そっと皮を剥き始めると、タマネルは小さな声で呟いた。
「……ああ思いだした。私はかつて騎士であったのだ」
「え、騎士?」
「そうだ。王国に仕え、剣を振るい。今の姿を見てからは想像もつかぬだろう」
私はつい笑ってしまう。
「うーん、なるほどね。そういう過去を聞いちゃったら、無理に食べるのも怖いかも」
タマネルは皮を一枚剥かれるたびに、不思議と自分の記憶と向き合うようだった。
そして、ちょっと照れくさそうに言う。
「恥ずかしい話ではあるが、リーヴェラとこうして会話できるのは、楽しい」
「うん、私もだよ、タマネル」
その日はそれ以上皮を剥くことなく、保存庫を閉めた。
外の夕暮れが差し込む中タマネルはころりと静かに揺れ、私はその様子を少し微笑ましく眺めていた。
あの日からタマネルは少しずつ、思い出したことを口にするようになった。
かつての騎士としての記憶、王国で剣を振るっていた日々や仲間たちとの戦い、そして誇り高かった自分の立場。
そんな話を聞くと、私はつい微笑みながら、自分の疲れた日常の愚痴もつい吐き出してしまった。
終わらない仕事の書類の山や、気を遣う後輩たちの些細な出来事。
タマネルは相槌を打つこともせず、ただじっと聞いてくれているようでその沈黙が心地よかった。
まるでどんなに小さな私の愚痴も、価値あるもののように扱ってくれるかのようだった。
日に日に、タマネルの様子に変化が出てきた。
皮の表面に、ほんのわずかだが芽のようなものが見え始めたのだ。
それはつまり呪いの時間が刻一刻と迫り、賞味期限が近づいている証でもあった。
保存庫の奥でころりと揺れるタマネルを見つめながら、私は少しだけ緊張する。
「そろそろ……本当に覚悟を決める時が来るのかもしれない」
そんな気持ちが、自然と胸の奥に広がっていた。
タマネギとの奇妙な会話を続け一ヶ月。
タマネルは覚悟を決めた真剣な声音で私に語りかけてきた。
「…私の命もあとわずかなようだ。リーヴェラ。私の命を君に託す」
「わかった、シチューに入れてみるよ」
私は今日買ってきたばかりの肉を取り出した。
タマネルは保存庫の奥で、少し緊張した声を漏らす。
「……ついに、この時が来たのだな」
「うん、でも大丈夫だよ」
包丁を手に取り、私は迷わずタマネルを鍋に入れた。
タマネルは小さく息をつき、少し安心したように揺れる。
「…信頼している。ありがとう、リーヴェラ」
鍋の中で温められるタマネルの姿を見つめながら、私は心の中でそっとつぶやいた。
「さあ、元に戻る時だね……」
シチューが出来上がる頃には、タマネルの反応はもうなかった。
鍋から立ち上る湯気は、玉ねぎと肉、ハーブの香りが混ざり合い、部屋中に満ちていた。
濃厚な香りに、思わず深呼吸をする。
「……ああ、いい匂い」
私は小さなスプーンでシチューをすくい、口に運んだ。
柔らかく煮えた肉と、甘くほろりとした玉ねぎの味が広がる。
「……呪いは解けたかな、タマネル」
保存庫の奥を見やる。タマネルはもういない。
けれどどこかで彼が、私のことを見ているような、そんな気配がかすかに残っていた。
いつもの日常に戻ったリーヴェラ。
保存庫の中のタマネルを見つめていた日々が嘘のように過ぎ去り、少しだけ寂しさを感じていた。
その晩珍しく後輩を誘ってお酒を飲み、笑いながら帰宅する。
酔いも手伝って気分は軽く、足取りもふわりとしたまま、自宅に帰る。
「リーヴェラ……」
その低く澄んだ声に、思わず足が止まる。
誰もいないはずの暗がりに、確かに人影があった。
鎧を纏った男性が、静かにこちらを見つめている。
「誰……?」
「リーヴェラ……やっと、会えた」
胸が跳ね、驚きと喜びが同時に込み上げる。
「タマネル?」と、思わず口にする。
「ああ。だがもうタマネルではない。本当の名は――サイネル。リーヴェラのおかげで、呪いが解けた」
サイネルは微笑みを浮かべ、ゆっくりと一歩近づく。
夜風に揺れる鎧が、彼の落ち着いた存在感をより際立たせる。
その姿を目にした瞬間、リーヴェラはこれまでのタマネルとの生活を思い出した。
タマネルとして保存庫でころりと転がっていた日々、毎日の楽しみやり取り。
居なくなってしまった寂しさも、こうしてサイネルとして目の前にいる今、すべて報われる気がした。
「こうして会えて……本当に嬉しい」
リーヴェラは一歩近づき、鎧の彼を見つめる。
サイネルの瞳にも、同じ安堵と喜びが宿っているのがわかった。
「私もだ、リーヴェラ。君と過ごした時間は本当に楽しいものだった。君のことが忘れられなかった」
リーヴェラは胸がじんと熱くなるのを感じた。
長い奇妙な日々タマネルとしてのやり取り、そして別れの寂しさを思い出していた。
サイネルは静かに一歩近づき、柔らかく笑みを浮かべた。
「これからも、ずっと一緒にいたい、リーヴェラ」
その言葉に、リーヴェラの頬は自然と紅くなる。
「うん、私も。ずっと一緒にいたい」
夜風がそよぎ、遠くの街灯が二人を優しく照らす。
長く奇妙でそして少し切なかった日々を経て、二人の新しい日常が始まったのだった。




