追放された聖女と魔王がいる辺境の村
朝日が差し込む木造家屋の食堂。テーブルには焼きたてのパンと野菜スープが並んでいた。
端正な少年ユーリが朝食の準備をしていると、階段から小さな足音が聞こえた。
「おはよう、イリナ。今日のスープはイリナの好きなニンジン入りだよ」
降りてきたのは金髪と金色の瞳の6歳の少女。小柄な体に似合わぬ威厳と非人間的な雰囲気。名はイリナ。5年前、ユーリが森で拾った魔族の赤ん坊だった。
イリナは無表情のままティーカップを手に取り、一口すすって言った。
「兄上。あの女は余が焼き払うまで滞在するつもりか?」
冷たい声音に、ユーリは頭を抱えた。
「物騒なこと言わない。マリアさんは教会から派遣されたお客さんだよ」
イリナの目が細まる。次代魔王候補として、最近魔王の血が確認されたばかりだった。
「あの女は兄上を狙っているのでは?」
「そんなことないよ」ユーリは軽く否定し、「そういえば今日、マリアさんと薬草の買い物に行くけど」と続けた。
ティーカップがパリンと砕けた。
「デートではないか!」
イリナの周囲に黒い炎が立ち上がった。天井が揺れ、窓ガラスが震え出す。
「ちょ、イリナ!落ち着け!魔力が暴走してる!」
ドアが開き、薄紫の髪の少女が飛び込んできた。聖女マリア。冤罪で王都を追放され、この村に「魔王監視」の名目で送られた元聖女だ。今ではすっかり快活だ。
イリナの目が赤く光る。
「貴様ぁ!」
黒炎が室内に広がり始める。
「うわぁ、また始まった!」マリアは急いで浄化魔法を詠唱した。
「イリナ!マリアさんは敵じゃない!」ユーリが必死で宥めた。
こうして普通の朝食が魔王と聖女のバトル場と化すのは、この家の日常だった。
王都からの委託品を受け取るため、ユーリとマリアは市場へ向かっていた。
「今日は天気がいいね!」マリアは明るく言った。彼女にとってはちょっとしたデート気分。
「ああ、久しぶりの晴れだね」ユーリが空を見上げた。
二人の後を小さな影がつけていた。イリナだった。護衛という名目の尾行である。
「ユーリくん、このハーブ知ってる?王都では高級品なのよ」
「へえ、王都ではこんなものが珍重されるんだ」
木陰からイリナの低いうなり声が聞こえる。「過剰な接近……記録しておくべきか……」
市場の薬草屋で、若い女性店員がユーリに声をかけた。
「いらっしゃい!今日はお妹さんは?」
「ああ、イリナは家で――」
その瞬間、店の裏から黒い炎が噴き出した。
「な、何!? 火事!?」店員が叫ぶ。若い女性がユーリに話しかけたことにより、隠れていたイリナの嫉妬心が爆発したのだ。
マリアは即座に浄化魔法を詠唱する。「天上の慈雨よ、この地に降り注げ!」
市場に小雨が降り注ぎ、黒炎は鎮まった。しかし市場は突然の雨で混乱。
「なんだこの雨は!」「荷物が濡れる!」「予報になかったぞ!」
ユーリは状況を察し、すぐに衣料品店に走った。小さなリボンを買い、木陰にいるイリナに差し出す。
「イリナ、これ。似合うと思うよ」
イリナの目が輝いた。「兄上……これは……我のためか?」
リボンを受け取ったイリナはたちまち機嫌を直し、黒炎も雨も収束。
市場の人々は首をかしげたが、元聖女と魔王候補が住む村では珍しくもなかった。
イリナはリボンをつけ、ご機嫌なまま三人で家路についた。
「まったく、イリナったら……」マリアはため息をつきつつも優しくイリナを見守った。
数日後、ユーリは薬草を求めて山に出かけた。
「少し遅くなるかも。イリナを頼むよ」と言い残して。
夕暮れ時、ユーリが村に戻ると、自宅から不穏な風が吹いていた。
「……何だ?」
恐る恐るドアを開けると、応接間の空間に黒い亀裂が走り、異空間の紫の景色がちらりと見えた。
ユーリは呆然と立ち尽くした。「……ただいま?」
泣き声と共に小さな影が飛びついてきた。
「兄上ぇぇぇええ!!」
イリナが泣きながら抱きつき、その後ろに疲れ果てた表情のマリアが立っていた。
「ユーリ……もうちょっと早く帰ってこれてたら……」
「何があった?この亀裂は……」
イリナは顔をユーリの胸に埋めたままつぶやく。
「兄上が帰らぬので寂しくて……“世界の構造”をちょっと割った」
「ちょっと、じゃないわよ!」マリアが叫んだ。「村ごと異空間に吸い込まれる寸前だったの!」
「なんでそんなことに……」ユーリが問うと、マリアは深くため息をついた。
「さらわれたかもって冗談で『デートでは?』って言ったら……」
イリナが小声で続けた。「兄上が他の女と仲良くする妄想で空間が悲鳴を上げた……」
ユーリは頭を抱えた。「繊細すぎるだろ、この魔王!」
三人は一晩中、魔力抑制・浄化魔法・古代文字の封印術で空間修復に奮闘。何とか元に戻した。
また別の日。マリアのもとに小さな召喚状が届いた。
「魔王法廷、開廷のお知らせ?」
リビングには黒いローブを纏ったイリナが座り、手には『魔王ルールブック』。
「──被告・聖女マリア。“兄上とデート”“過剰接近”“微笑みすぎ”の罪により開廷する!」
マリアは呆れ顔でユーリを見る。
「はあ? 冗談でしょ?」
ユーリは苦笑い。「イリナが張り切ってるから付き合ってあげて」
イリナは真剣そのものだった。
「第一の罪状。昨日兄上に5秒間笑った。村人平均は1.3秒。重罪」
「……数字で責めてくるの!?」マリアが目を丸くする。
ユーリも苦笑。「統計の使い方、間違ってないけど悪用してる」
「第二の罪状。聖女は容姿も悪くない。胸も……そこそこ……」
イリナはちらりとマリアを見て赤面。「兄上の好みに合う可能性がある。重罪」
イリナの魔力が暴走し、紅茶カップが炎上。
「火! 火が!」マリアが慌てて水をかける。
イリナは知らんふり。「……我の手が勝手に。事故だ」
「絶対わざとでしょ!」ユーリが即ツッコミ。
「第三の罪状。兄上への贈り物。先日の手編みマフラーは明らかな魔王領侵略行為」
マリアが憤る。「あれはユーリが風邪ひいたからでしょ!魔王領って何よ!」
イリナは木槌を叩いた。
「静粛!法廷侮辱罪!」
騒動は昼まで続き、最終的にマリアには「一週間兄上への微笑みを制限する」という意味不明な刑が下った。
ユーリがため息をついた。
「これで満足?」
イリナはにっこり。
「魔王の裁きは絶対である」
マリアは「もう!」と叫びつつも、イリナの幼さに思わず頬を緩めた。
村の夏祭りの日。提灯が灯り、屋台が立ち並び、村人たちで賑わっていた。
イリナは初めての祭りに目を輝かせていた。黒い服ではなく、ユーリが買ってくれた浴衣を着て。
「兄上、今日は“戦”である!」
「“祭”な」ユーリは苦笑した。
マリアも薄紫の浴衣で合流。
「お待たせ!どう?」
「兄上と色を合わせるとは……卑怯な手だ」イリナが睨む。
「偶然よ!」マリアは慌てて否定した。
イリナがマリアを指差す。
「聖女!勝負だ!」
イリナがマリアを真っ直ぐに指差す。
「えっ、いきなり?」マリアが戸惑う間もなく、イリナは胸を張った。
「兄上と同じ色の浴衣を選んだその狡猾さ。断じて許されぬ! ここで白黒つける!」
「偶然だってば!」マリアは額に手を当ててため息をついた。
こうして、縁日でイリナ vs マリアの真剣勝負が始まった。
最初の種目は射的。
イリナは屋台のおじさんから渡されたコルク銃を手にすると、慎重に標的に狙いを定めた。
「よし……我が的中率を見せてやる!」
指先にこっそり魔力を宿し、標的の景品を次々に撃ち落としていく。
「ダメだろ!魔力は禁止!」ユーリが慌ててツッコむ。
「兄上、誤解である。我はただ……指の力を信じたのみ」イリナは平然と銃を構え直す。
「いやいや、その発光してる指は何だよ!」
屋台のおじさんもぽかんと口を開けていたが、イリナの勢いに押されて見なかったことにした。
続いてはヨーヨーすくい。
マリアは静かに袖をまくると、真剣な眼差しで水面を見つめた。
「紙の強度と水の表面張力……風の流れを読めば……理論上85%の確率……!」
細かく角度を調整して慎重に糸を水中に入れた。
だが――
ぷつん。
あっさり紙が破れ、ヨーヨーは水底へと沈んだ。
「あれ……計算上おかしい……?」
マリアが固まる中、イリナはぷっと吹き出す。
「フフフ……これが実戦と理論の違いよ、聖女!」
「う、うるさい!」マリアは顔を赤らめた。
このあとも次々と勝負は続き、三人で次々と屋台を巡り、平和な時間が流れていた。
だが一度だけ空気が凍りつく瞬間があった。
マリアが綿菓子をユーリに「あーん」と差し出したその時――
「むっ!」
イリナの周囲に不穏な魔力が立ち上る。
すかさずマリアがもうひとつの綿菓子を差し出した。
「ほ、ほら。イリナの分もあるわよ」
その一言で事態はなんとか収束した。
夜空に花火が上がる。
三人は小高い丘に腰を下ろした。
「きれいだな」ユーリが空を見上げる。
イリナとマリアは静かにうなずいた。
イリナはそっとユーリの袖をつかみ、寄り添った。
「兄上……我は……楽しかった」
小さくも心からの言葉。
マリアはそんな二人を微笑みながら見つめた。
最初は任務だった村が、今では大切な場所になっていた。
「私も楽しかった。ありがとう、ユーリ。イリナ」
花火の光が三人の穏やかな笑顔を照らした。
「なぜ追放された聖女と魔王が一緒に平和に暮らせたのか?」
村人は首をかしげながらも語った。
「魔王はなんだかんだでいい子だった。空が割れたこともあったけど、兄ちゃんが宥めてた」
「聖女は最初は無表情だったけど、今じゃよく笑う」
「その横にはお人好しの青年がいて、あの人がいるからこの村は平和なんだろう」
追放された聖女と次代魔王。
世界を滅ぼしかねない二人が集ったのは辺境の村。
だが、そこで繰り広げられるのは王都への反乱ではなく、優しさに満ちた日常だった。
「兄上! 今日も晴れじゃ!」
「マリア、魔力制御の練習手伝ってくれる?」
「はいはい、魔王候補さま。今日は爆発させないでよね」
時に空間が歪み、時に黒炎が上がる。
だが確かに三人の平穏な日常は、そこにあった。