再生の道とは「市民の成立」の道である──グランドデザインなき日本の末路と、その突破口
私たちはいま、日本という国が根幹から崩れていくのを目撃している。
少子高齢化や財政破綻の危機、都市と地方の格差、企業の空洞化、教育の形骸化、政治の劣化。
これらはバラバラの問題ではない。
本質的には、この国には「グランドデザイン」が存在してこなかったという一点に集約される。
日本には「国としての意志」がない
明治維新以降の日本は、常に外圧に反応する形でしか動けてこなかった。
明治は西洋列強への追従、戦後はアメリカの占領と冷戦構造への従属、そしてバブル崩壊以降はグローバル資本主義の波に翻弄されている。
「国家として、どういう未来を描くのか?」
この問いに真正面から答えようとした指導者は、ごく少数しかいない。
例えば、石橋湛山は小国主義を掲げた。しかし彼が首相になったのは遅すぎ、病に倒れた。
その後を継いだ政治家たちは、小粒だった。
戦後の復興と高度成長期を支えた企業人たちも、金儲けと成長こそが正義という「利潤教」に取り憑かれていった。
そして1990年代以降、日本の支配層はグランドデザインの不在を、利権による癒着と空気による支配で補ってきた。
すべてが利権で絡み合う社会構造
日本社会のあらゆるレベルが「しがらみ」と「空気」によって縛られている。
●企業は政治家に金を出し、政治家は便宜を返す。
●自治体は業者との長年の付き合いを優先し、若い挑戦者を排除する。
●メディアはスポンサーを失いたくないから、権力には噛みつかない。
●一般市民は「長いものに巻かれろ」の空気のなかで、黙って従う。
このような構造のなかで、新たな政治運動が芽を出しても、「利権に預かれるなら協力するが、そうでないなら沈黙する」という姿勢が主流になってしまう。
「市民運動」を名乗る人々ですら、裏で既得権益と結びついていたり、政党とのパイプを自慢していたりすることが少なくない。
「再生の道」は例外であり、試金石でもある
そのなかで、石丸伸二氏の掲げる「再生の道」は異質である。
彼は明確に、「従来の構造では何も変わらない」と断言し、地方行政の透明化を徹底して実践した。
●決裁過程の見える化
●議会との正面衝突
●しがらみの一切排除
これを本気でやろうとすれば、当然、敵は多い。
利権から弾き出されることを恐れる人々は、表向き応援しながら、内心で潰そうとすらする。
支援に名乗りをあげた大企業家からの提案すら断ったというのも、「金を出せば口も出す」という日本的構造を断ち切るためであろう。
では、その志は成功するか。
問われているのは「市民」が存在しうるか、という根源的な問いだ
ここで問われるべきは、石丸氏一人の力量ではない。
この国に、「市民」という存在が成立しうるかどうか、である。
「市民」とは、単なる生活者でも、納税者でも、投票者でもない。
それは、社会の根幹について自分の頭で考え、未来に責任を持とうとする主体のことだ。
だが日本では、そのような市民は育ってこなかった。
政治は「専門家がやるもの」。
自分の生活と社会の構造がどうつながっているか、想像すらされない。
何かを批判すれば「意識高い」と笑われ、手を挙げれば「出る杭」として打たれる。
これは教育の失敗でもあり、文化の貧困でもある。
本当の変革には「利害を越えた倫理」が必要だ
変革が起きるには、「金を出すが口は出さない」という態度を取る経済人が必要である。
そして、「家族に心配をかけるからやめた」ではなく、「この社会の未来を子に誇れるか」を軸に立ち上がる市民が必要である。
だが、今の日本でそれがどれほど可能だろうか。
既に都議選候補予定者の一部が、個人的事情で辞退を表明している。
家族の生活、職場の理解、友人の冷笑。
そうした「日常」が、志ある者たちの足を引っ張っている。
それでも希望はあるのか
希望は、「今この瞬間に考えているあなた」の中にしかない。
政治や社会のことを本気で考える人が、どれだけ少数であっても、一人ひとりが市民として立ち上がれば、それは空気に変わる。
変化は、熱量と継続でしか起きない。
石丸ブームを一過性で終わらせるのか、それとも10年かけて「市民社会の根」を育てるのか。
それは、我々自身に問われている。
再生の道とは、すなわち「市民の成立の道」である。
それは、日本が本当の意味で国家として成熟できるかどうかの分岐点だ。