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消えない花の庭

 市立図書館の裏に、小さな(にわ)がある。

 もとは植え込みだったらしいが、今は季節を問わず何かしらの花が咲いている。まるで魔法のように。最初にそれを見つけたのは、春の終わりの午後だった。

 僕────朝井浩介あさいこうすけは、受験勉強と現実逃避の狭間(はざま)で、図書館を徘徊(はいかい)していた。大学にはとっくに合格していたが、春休みが終わって大学生活が始まるまでの空白期間が手持ち無沙汰でたまらなかった。そして、裏口を通って、何の気なしに図書館の建物(たてもの)を回り込んだ先で、その庭に出くわした。

 花壇とも温室とも違う、不思議な空間だった。ラベンダーの紫が(かぜ)に揺れ、チューリップが咲き誇り、(さくら)のような花弁が一面に舞っていた。今の季節にこんな花が全部咲いてるなんてあり得ない。まるで――作り物みたいだ。

「また、変な人が来た」

 不意に、声がした。

 少女(しょうじょ)だった。

 小さなベンチに腰掛けて、古めかしい本を開いていた。黒髪のロングで、白いワンピース。まるで絵本から抜け出してきたような雰囲気(ふんいき)の子だった。

「えっ、いや、(ぼく)はただ……」

「勝手に入ってきておいて『ただ』? ここは、知ってる人だけが来ていい場所(ばしょ)なんだけど」

「え、図書館の敷地内(しきちない)だよね……?」

 彼女はすっと立ち上がって、こちらに近づいてきた。背は小さく、僕よりも頭一つ分くらい低かったけど、目がすごく鋭くて、(みょう)に圧がある。

「じゃあ、質問。どうしてこの庭、普通の人には見えないと思う?」

「……見えない?」

「うん。見える人もいるけど、たいていは気づかずに通り過ぎるの。だって、この庭、地図にも載ってないし、図書館の人も誰も知らないもん」

 そう言われて、僕はなんとなく理解(りかい)した。

 この庭は、たぶん「普通の場所」じゃない。

「見える人は、何かを(わす)れた人」

「……?」

「あるいは、何かを思い出したい人。だから、あなたは後者(こうしゃ)

 少女はニッコリ笑って、ふっと後ろを向いた。

「浩介くんって名前だよね?」

「え、どうして……」

「だって、昔ここで会ったことあるもん。わたしと」

 少女の言葉は、にわかには信じがたいものだった。

 ────(むかし)会ったことがある?

 まるで昔の恋人を名乗るオカルト話のように聞こえたが、彼女は真剣(しんけん)だった。

「えっと……僕、君の名前を────」

「覚えてないのは当然(とうぜん)。小学校のときだもん」

「小学校?」

「うん。6年の春。転校してきた子がいたでしょ? わたし、その子」

 記憶の(そこ)を探るように、僕は昔の教室の風景を思い出そうとした。確かに、6年の始業式(しぎょうしき)に転校生が来た。けど、彼女の顔も名前も出てこない。

「人の記憶って、意外といい加減。楽しいことよりも、どうでもいいことを覚えてたりするし」

 少女は、白い花びらを指先(ゆびさき)ですくい上げるようにして言った。

「でも、わたしは覚えてる。浩介くんが、この庭で泣いてたこと」

「……僕が?」

「小学校の帰り道に、家でつらいことがあって。ここでひとりで泣いてた。それを見て、声をかけたのが最初」

 その瞬間、頭の奥に────ぱちん、と何かが(はじ)けた。

 あった。そんなこと。

 あのときは確か、両親が離婚(りこん)した直後で、家がごたごたしていた。気づけば知らない裏道を歩いて、気がついたらこの庭にいた。そして、誰かと……話した。

「……君の名前は?」

「さあ、思い出せるかな?」

 彼女はにやりと笑った。

 思い出したい。でも名前が出てこない。

 そのもどかしさに眉をひそめる僕に、彼女はそっと一冊の(ほん)を手渡してきた。

「ヒントはこれ。わたしがその時読んでた本。ずっと、ここに置いてあるの」

 表紙はすっかり色あせたハードカバーで、題名は英語で書かれていた。

『The Garden That Never Fades』

(消えない庭)

 ページをめくると、中には子ども向けの童話(どうわ)が書かれていた。魔法(まほう)の庭に迷い込んだ少年と、そこに住む少女の話。時を止める花、記憶をたどる風、そして消えない庭────。

「これ、僕がここに来たときも()んでた?」

「うん。一緒に読んだ。わたし、これを読んでる時だけ、現実のこと忘れられたから」

 彼女の声は、少しだけ震えていた。言葉にはしなかったけど、彼女にも辛いことがあったのだと、直感(ちょっかん)でわかった。

「だから、君もこの庭に来たんだ」

「そう。辛いことがあって、世界(せかい)が嫌になったとき。でもね、この庭はね、誰かが“忘れたい”って強く願うと……入り口が(ひら)くの」

 そして、こう続けた。

「そして誰かが“思い出したい”と願うと、その人にしか見えない花が()くの」

 僕はふと、見渡す。チューリップ、ラベンダー、桜のような花。

 その中に────見覚えのある、白い小さな花があった。小学校のとき、図鑑で調べて「()きだ」って言った、あの花。

 スズランだ。

 スズランは、小さな白い(すず)のような花だった。僕が子どものころ、家の近くに咲いていて、図鑑で調べて名前を覚えた。(はかな)くて、でも静かに咲いている姿が好きだった。

「思い出したでしょ?」

 少女は、花の(まえ)にしゃがんで微笑んだ。

「浩介くんが“スズランってかわいいな”って言ったの、今でも覚えてる。わたし、そのときね、うれしくて、その後スズランのしおり作ったんだよ。葉っぱで挟んで、日記帳(にっきちょう)にずっと入れてた」

 僕は何も言えなかった。思い出せなかった自分が、少し(くや)しくて。

「……ごめん。ほんとに、全部忘れてた」

「いいよ。そんなもんだよ、子どもの頃の記憶なんて。でもね、こうして思い出せただけで、わたし、うれしい」

 少女は立ち上がって、僕の顔をじっと見た。

「でもね、浩介くん。もうすぐ、この庭は()えるの」

「……え?」

「この庭は、忘れたい人と、思い出したい人の願いが交差(こうさ)する場所。でも、誰かが“前に進む”って決めたとき――庭は、もう必要なくなるの」

 その言葉の意味がすぐには理解できなかった。でも、彼女の目は真剣だった。

「わたしはずっとここにいた。ここにしかいられなかった。現実(げんじつ)が怖くて、前に進めなかった。でも……今日、浩介くんにまた会えて、思い出してくれて、やっと決められたの」

 彼女はそっと胸元に手を当てる。

「この庭から、出ようって」

「それって……」

「わたし、もうここにいないの。現実には」

 一瞬、風が止まったような気がした。スズランの白い花が、音もなく()れている。

「小学校の春、転校してきてすぐ、病気で入院して、そのまま……」

 少女は言葉を濁した。けれど、すべてを理解するには、それだけで十分(じゅうぶん)だった。

 彼女は、もう――この()にはいないのだ。僕は言葉を失って、ただ彼女を見つめた。

「でもね、(たましい)っていうのは、記憶の中に残ってる限り、どこかにあるって思う。わたし、この庭で、浩介くんが来るのをずっと待ってたんだよ」

「どうして……そんな」

「お別れ、言いたかったから」

 (なみだ)が溢れていた。自分でも理由がわからなかった。ただ、子どものころの約束が――ようやく()たされたような気がした。

「わたしの名前、思い出した?」

 その声に、口をついて出た言葉は────

「……七海、だ」

 彼女の名前。七海ななみ 梨花りか。確かに、小さな墓標に刻まれていた名前を、僕は何度(なんど)も見ていた。けれど、それが「彼女」だと、ずっと気づけなかった。

 七海は、最後に一つだけお願いをした。

「この本、持ってて。わたしの代わりに、誰かに渡してあげて。迷ってる誰かが、この庭を見つけられるように」

 ────七海が()ってから、世界は少しだけ違って見えるようになった。

 春が終わり、大学生活が始まった。慣れない講義や課題、たまに訪れる孤独(こどく)。それでも、あの日あの庭で過ごした時間は、確かな“手触り”として僕の中に残っていた。

 図書館の裏に行ってみたこともある。でも、もうあの庭はなかった。見渡す限り、ただの植え込みと芝生だけ。あんなに咲いていた花も、七海の姿も、(かげ)すらない。

 けれど、本だけは残っていた。

 『The Garden That Never Fades』

 あの古びた本。七海が渡してくれた、唯一の形見(かたみ)。僕はその本を大学の図書館の掲示板に貼られた「譲ってください・譲ります」コーナーに、匿名(とくめい)で置いた。メモを()えて。


『もし、あなたが何かを忘れたいと思っているのなら

あるいは、何かを思い出したいと思っているのなら

この本が、道を示してくれるかもしれません。』


 数日後、本はなくなっていた。誰が持っていったのかは、知らない。でも、それでよかった。

 ────きっと、誰かがまた、あの庭にたどり()くのだろう。

 季節が過ぎ、僕は忙しない日々に揉まれながら、それでも時々、(そら)を見上げる。

 花が咲く匂い、風の音、遠い日の記憶。七海との思い出は、消えない。

 あの(にわ)の花のように、静かに、心に咲き続けている。

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