第1話:氷姫と呼ばれる理由
「それでお前は何が言いたいのかしら?」
わたくし、クラリス・アルトレイドが視線を落とした先で、貴族学院の新入生が膝を震わせている。髪型も服装も明らかに第三級貴族のそれ。財力も家格も及ばぬ分際で、よくもまあわたくしに話しかけてきたものね。
「あ、あの…昨日の茶会でご招待いただけると思っていたので…」
哀れな顔で言葉を絞り出す様は、まるで乾いた雑巾のよう。
「招待?あら、勘違いね。わたくしの茶会は『価値ある人間』だけが参加できるの。あなたがリストにないということは、単にそれだけのことよ」
周囲から小さな笑い声が漏れる。満足。このような見せしめがなければ、群がる虫けらたちは決して学ばないのだから。
「アルトレイド家当主の一人娘」「次期伯爵夫人」「氷姫」——わたくしにはいくつもの二つ名があるけれど、最後のものがもっとも気に入っている。
冷酷無比な美貌の持ち主として恐れられるのは、アルトレイド家に生まれた宿命といえるかもしれない。
振り返れば、5歳の誕生日に父上から言われた言葉が全ての始まりだった。
「クラリス、忘れるな。アルトレイド家は千年の歴史を持つ名門だ。お前もその名に恥じぬよう、完璧であれ」
それから毎日、エチケット、舞踏、音楽、文学、そして何より人心掌握術——
失敗すれば厳しい叱責が待っていた。涙を見せることは弱さの証。感情をむき出しにするのは下賤の者のすること。
そうして十年。わたくしは完璧な貴族令嬢となった。少なくとも表向きは。
「クラリス様、また誰かを泣かせたの?」
付き人のエリザベスが呆れた声で言う。彼女だけは十年来の側近として、わたくしの素顔を知っている数少ない人間だ。
「うるさいわよ。あの程度で泣くような軟弱者に価値などないわ」
足早に中庭へと向かう。実は今日、議会で重要案件を通した父上へのプレゼントを考えていたところなのだ。もちろん、そんなことは誰にも言わないけれど。
そこで見つけた小さな命が、わたくしの日常を狂わせるとは思いもしなかった。
「……みゃあ」
足元で鳴いたのは、やっと目を開けたくらいの子猫。灰色の毛並みに、青みがかった澄んだ瞳。
「この学院に動物など入れてはいけないはずよ。誰かが捨てていったのかしら」
ただでさえ気難しい父上は動物嫌い。屋敷に連れ帰れば間違いなく叱られる。
それなのに、わたくしの手は勝手に子猫を抱き上げていた。
「ほら、怖くないわよ。貴族の血を引く者がこんな小さな生き物に恐れるわけないでしょう?」
子猫は安心したように、わたくしの胸元で丸くなった。暖かい。その小さな命の鼓動が、わたくしの心に奇妙な感覚を呼び起こす。
「今日だけよ。明日には捨て…いえ、誰か引き取り手を見つけるわ」
そう言いながらも、すでにわたくしは破滅へのカウントダウンを始めていた。これが「氷姫」の評判を台無しにする第一歩になるとは、まだ知る由もなかったけれど。
「クラリス様、それは…猫ですか?」
エリザベスの驚いた声に、わたくしは高飛車に鼻を鳴らした。
「見て分からないの?これは新しい実験材料よ。生体を使った科学実験のね」
「でも、撫でていらっしゃいますが…」
「黙りなさい!これはただの…準備運動よ。」
わたくしはエリザベスの目を避けながら、子猫の頭を優しく撫でていた。この小さな命との出会いが、わたくしの人生を大きく変えることになる。それも、とても突飛な方向へと——。
運命の歯車は、すでに回り始めていたのだ。