叶うたび、笑え
最初に出会ったのは、寂れた骨董品店だった。
仄暗い店内に、仏像や壺が無造作に並んでいる。空気は湿り、カビの匂いが鼻を刺した。
そこに――あった。
奥の棚の片隅。埃をかぶったサルの玩具。
まるで、こっちを見て笑っているようだった。
「いらっしゃい……何か、お探しで?」
しゃがれた声が、背後から響いた。
振り向くと、そこには痩せこけた老人が立っていた。
皮膚は紙のように薄く、まるで骸骨に皮を貼り付けただけのような顔だ。
何より気になったのは、その口元――まばらに残る歯の隙間から、ねっとりとした笑みを覗かせていた。
「いや、特に欲しい物があって入ったわけではないのだけれど」
なんとなくそう答えてみる。
「そうですか、これなんかどうですか? 結構いいものですよ」
そう言って店主はサルの玩具を勧めてくる。はっきり言って、いいものには見えない。ただのくたびれた玩具にしか見えない。
「これは何なんですか? そんなにいいものには見えないけれど」
「これはね、願いを叶えてくれるサルですよ……」
「願いを叶えてくれる?」
「ええ。皆さんね、これを手に入れると……最後は笑顔になるんですよ……へへへ」
ぞわりと、背筋が冷たくなる。
願いを叶える?そんな馬鹿げた話は信じないはずなのに――なぜか、手が勝手に伸びてしまいそうになる。
サルの玩具も、店主も、ただの胡散臭いものじゃない。何かが、違う。
「どんな願いを叶えてくれるのさ」
「なんでもですよ」
そう言って店主はニヤッと笑った。歯が数本しか残っていなくて、笑い方が嫌らしく見える。
「前の持ち主はね、娘さんがずっと病気で寝たきりだったそうでねぇ」
店主は、まるで面白い冗談を言うように笑った。
「ところがですよ、この玩具を手に入れたその夜にね、娘さんがパッと目を覚ましたんですって! まるで何事もなかったみたいに!いやぁ、まったく、奇跡ですよねぇ?」
その話しぶりが、妙に愉快そうだった。
「そんな願いが叶ったものなら、手放すわけないじゃないか」
「それがですね、自分の娘は治ったから、また次の困った人に渡って欲しい、ってことで手放したんですよ。何とも徳の高い話ですね」
自分なら、そんな有り難いものなら手放さない。願いを叶い続けてもらったらいいんじゃないか? と思う。
「それしか話はないの? それってただの偶然じゃないかな」
「いえ、その前の持ち主の話もありまして、前の持ち主は金持ちになることを望んでその夢を叶えたって話ですよ。今では自分の店を構えて手広くやっているとか」
前の持ち主も、その前の持ち主もなんでサルの玩具を手放したのだろうか。願いが叶ったのに手放しているというのが気にかかる。何か理由があるのではないのか。
「まあいいか、そのサルの玩具を買うよ。いくらなの?」
「8,800円です。八は末広がりで縁起がいいもんでね。この値段です」
8,800円・・・。そんなに高い金額でもないし、話のネタになると思って買ってみるかな。
「よし、その値段で買うよ」
「へい、まいどあり!」
こうして、僕はサルの玩具を手に入れた。
◇◇◇
玩具を手に入れた僕は、家に帰ると早速それを手に取って眺めた。
古びたサルの玩具。ボタンを押せば動くのだろうか。試しに手の部分を押してみるが、何の反応もない。
「願いを叶える玩具ねぇ……。」
試しに呟いてみる。
「お金持ちになりたい。」
何も起こらない。やっぱりただのインチキか。
だが、ふと耳を澄ますと――カチ、カチ、と微かな音がした。
どこかで歯車が動くような、不気味な音。
振り返るが、何も変わった様子はない。
気のせいか……そう思いながら、その日は眠った。
翌朝。
目が覚めると、テーブルの上にあったはずのサルの玩具が、枕元にちょこんと座っていた。
……おかしい。
確かに昨晩、テーブルに置いたはずだ。
寝ぼけて蹴り飛ばしたのかもしれない。
だが――違和感がある。
サルの頭が、微妙に傾いていた。
まるで、俺を覗き込むように。
「……?」
喉がひゅっと鳴る。
恐る恐る拾い上げた。
その瞬間、気づく。
サルの口元が――笑っている。
そんなはずはない。
……いや、最初からこうだったのか?
昨夜見たときは、もっと無表情だったはず。
だが――違う。
鏡を覗き込んだときの自分と、サルの表情が、まったく同じなのだ。
背筋に冷たいものが走る。
嫌な予感を抱えたまま、仕事へ向かうと、奇妙なことが起こった。
通帳の残高を確認すると、見慣れない入金がある。
「……え?」
桁を数える。
七桁の金額。
「なんだよ、これ……。」
明細を見ると、遠縁の親戚の遺産相続だという。そんな話、一度も聞いたことがない。
「まさか……。」
不吉なものを感じながらも、サルの玩具のことが脳裏をよぎる。
店主が言っていた「願いを叶える玩具」。偶然とは思いたいが、タイミングがあまりにもできすぎている。
その夜、サルの玩具を見つめながら、ごくりと喉を鳴らした。
「……もっと、お金が欲しい。」
カチリ。
鈍い音が響いた。
どこから……?
いや、違う。
――俺の口の中からだ。
全身に冷や汗がにじむ。
息を呑む。喉の奥で何かが詰まるような感覚がする。
何かが、俺の歯を動かしている。
だが――俺は、触れていない。
いや、それどころか。
サルが、こっちを見ている。
──確かに。
息が詰まる。
目を逸らしたい。
だが、逸らせない。
まるで、サルの視線に縫い止められたかのように。
翌日。
今度は職場で、急にボーナスが支給された。しかも、普段の倍以上の金額だった。
「やっぱり……。」
そう呟いた瞬間、視界の端で何かが動いた気がした。
サルの玩具が――微かに震えている。
カチ、カチ、と、誰かの奥歯を鳴らすような音がした。
目を凝らすと、口角がほんの少し、にやりと歪んでいる。
まるで、"次の願い"を待っているかのように。
確信めいたものを感じた僕は、試しに別の願いも口にしてみることにした。
「いい彼女ができますように。」
数日後。
偶然立ち寄ったカフェで、理想の女性と出会った。
まるで運命のように話が弾み、すぐに交際が始まった。
このサルの玩具は本物だ。そう確信した。
だが、奇妙なことも起こり始めた。
最初に振り込まれた遺産の話を調べると、その遠縁の親戚は、僕が願い事をした夜に突然亡くなっていた。
さらに、職場でボーナスが出たのは、上司が事故で入院し、人手不足になったからだった。
新しい彼女は、僕と出会う直前に婚約者に裏切られ、絶望していたらしい。
「これ……まさか。」
願いを叶える代わりに、誰かが犠牲になっている?
不安を抱えながらも、僕はやめられなくなっていた。
どんどん願いを叶えた。欲望にまかせて。
だが、ある日、異変に気づいた。
鏡の前で、そっと口を開ける。
そこに映ったのは――歯の隙間から覗く、血塗れの歯茎。
乾いた喉が、カラカラと音を立てる。
「……なんだよ、これ。」
指で奥歯に触れる。
グラリ。
――おかしい。柔らかすぎる。
不安を押し殺しながら、そっと引く。
ズルッ。
まるで熟れすぎた果実の皮のように、血とともに剥がれ落ちた。
カチ、カチ、カチ――。
サルの玩具が、ゆっくりと歯を鳴らす。
カチ、カチ、カチ――。
俺も、笑っている。
鏡の中の俺が、サルのように歯を鳴らしている。
――いや、歯がないはずなのに。
口を閉じろ。閉じろ……!
だが、閉じられない。
カク、カク、カク。
口角が裂けるように引きつる。
「やめろ……!」
喉から絞り出した声が、笑いにかき消される。
カチ、カチ、カチ――。
顎が勝手に開き、歯茎から血が滲む。
乾いた唇がひび割れ、皮膚が裂ける感触がした。
それでも、笑う。
――歯がないのに、笑う音がする。
サルの歯が鳴るたびに、俺の顔の筋肉が引き攣る。
顎が外れる。
それでも、笑う。
歯茎から血が滲み、舌が痙攣する。
それでも、笑う。
サルの玩具が歯を鳴らすたびに――俺も笑わされる。
もう、止められない。
サルの笑いと、俺の笑いが、完全に重なった。
カチ、カチ、カチ――。
サルの玩具が、機械仕掛けの歯を小刻みに鳴らし続ける。
思い出す。
あの店主も、歯が数本しか残っていなかった。
――そうか。そういうことか。
視界が揺れる。
体が鉛のように重い。
ふと、視界の隅で微かな動き。
サルの玩具が、ゆっくりと首を傾げた。
俺と、同じ笑顔で。