悪役令嬢、登校する
マリアーナが初めて学園に登校する朝がやってきた。まだ慣れない制服に袖を通して後宮を出ると、すでに通学のための馬車が待っていた。そして馬車の脇には一人の侍女が立っていた。誰かと思って顔をよく見ると、それは知っている人物だった。
「あなたは……ルデスター?」
「お久しぶりです殿下。私が通学の護衛にあたることになりました」
「なぜ侍女の姿をしているの?」
「今回は皇都内のみの移動ですので、周囲をいたずらに刺激しないようにいたしました。鎧姿ですと周囲の注目を集めてしまい、かえって危険になります」
マリアーナがヒルダに何かを言おうとしたところで、第三者が割って入った。
「マリア、おはよう」
「フィリウス様!」
フィリウスがトコトコとマリアーナに駆け寄ってくる。それに気づいたヒルダは片膝をついて騎士の礼をとる。ヒルダはフィリウスとは初対面だが、皇族の顔は知っていたので、子供がフィリウス皇子だとすぐにわかった。
「みおくりだけならさきぶれはいらないよね。はい、これ」
フィリウスは小さな包をマリアーナに差し出した。
「これはなんでしょう?」
「プレゼント。あけてみて」
さすがに断るわけにいかず、マリアーナは包みを受け取って開けてみた。中身は大きめのハンカチに見えた。
「スカーフ。がくえんにつけていって」
「ありがとうございます」
そう答えたものの、着けて学園に登校していいのか、マリアーナにはわからなかった。
フィリウスはヒルダの方を向いた。
「おねえさんはごえいのきしさん?」
「はい」
「ひざをついたらへんそうしてもばれちゃうよ」
そう言われてヒルダは立ち上がり、胸に手を当てる礼に変えた。
「なにかいいたそうだね」
フィリウスにそう言われてヒルダはギクリとした。フィリウス皇子は三歳とは思えない言動をすることがあると聞いていたが、ここまでとは思っていなかったのだ。何も言わずに黙っていても妙な誤解を受けるだけだ。そう思ったヒルダは馬車に乗ってから言うつもりだったことを口にした。
「私も学園に通っていましたが、スカーフを着けた女生徒はいませんでした」
そう言われてもフィリウスは動じなかった。
「おねえさんはなんさい?」
「フィリウス様、むやみに女性に歳をたずねるものではありませんよ」
放置しておくと二人の会話が変な方に行くのではないかと危惧したマリアーナは、フィリウスを諌めた。
「私は構いません。二十一です」
「じゃあしらなくてとうぜんだね。いままではせんそうをしてたからみんながまんしてたんだ。せんそうをするまえはスカーフでおしゃれしたせいともいたんだ。おかあさまにそうきいたよ」
今度は二人ともびっくりした。年齢を訊いたときは不躾だと思ったが、それには相手を慮った理由があったのだ。しかもスカーフをしてよいのかちゃんと調べてある。これが本当に三歳児の言動だろうか。
婚約者の皇子のプレゼントで皇后のお墨付きとあっては是非も無し。マリアーナは馬車の中でスカーフを改めた。マリアーナの故郷の伝統的なデザインをあしらったものだ。さすがにこれを選んだのは大人だろう。
「殿下、これをお使いください」
ヒルダがどこからともなく手鏡を取り出した。
「あなたが持ってて……もうちょっと上に向けて」
手鏡を見ながらスカーフを首に結び、形を整える。シンプルな制服のアクセントとしては少々派手な気もするが、悪くない。ヒルダに似合っているかなどと訊いても相手を困らせるだけだろう。そう思ったマリアーナは外の風景に目をやった。
オリスティの都市では王宮や領主の館、あるいは教会や広場を中心に放射状に道路を敷くことが多い。だが帝国の都市では碁盤の目のように道路を敷くことが多い。皇都もそうだった。皇都の道路の多くは直線で距離が長い。
馬車の行き先を見ると、制服姿の人影が大勢集まっている建物が見えた。おそらくあれが学園なのだろうとマリアーナは見当をつけた。
更によく見ると、学園の手前にある建物から多くの生徒が出てきては学園の中に入っていくのに気づいた。
「ルデスター、あの大きな建物が高等学園ですか?」
「はい」
「その手前の小さな建物はなんでしょう?」
「学生寮です」
「ガクセーリョー?」
「学園の一部で、皇都に屋敷がない領主貴族の子弟たちが集団で生活している建物です」
説明を聞いてもマリアーナが釈然としない表情をしていたので、ヒルダはなにかまずかったのかと気になった。
「なにかご不審な点がありましたか?」
「いえ、そういうわけではないのですが、領主貴族という言い方が不自然だと思ったので」
「不自然でしたか?」
「ええ、まるで領主でない貴族がいるみたいだと思ったので」
「もちろんいますが」
二人は互いの顔を見て十秒ほど黙り込んでしまった。先に沈黙を破ったのはマリアーナだった。
「その貴族たちはどうやって生活の糧を得ているのですか?」
「ほとんどの者は中央政府で官僚として働いています」
一ヵ月の旅で帝国のことはだいたい知れたと思った自分は甘かった。マリアーナはそう痛感した。あのときなぜ教えてくれなかったのか、そう言いたくなったが呑み込んだ。ヒルダはオリスティでは貴族イコール領主だとは知らなかったのだろう。
「……なるほど」
マリアーナはそう答えるしかなかった。中央政府で要職に就いた者は自動的に爵位が与えられるらしい。オリスティ王国でもそうした事例はたまにあったが、爵位と領地はセットになっていた。だが帝国ではそうではないようだ。帝国での中央政府の存在の大きさを、予想もしない形で知らされることになった。
学園の前には馬車を停車させるためのスペースがいくつか用意されていた。馬車通学する生徒は結構多いようだ。そのスペースのひとつだけに皇室の紋章をあしらった標識が立ててある。どうやら皇族専用らしいとマリアーナは見当をつけた。
予想どおりマリアーナを乗せた馬車はそのスペースで停車した。まず先にヒルダが降りて、周囲の安全を素早く確認する。確認ができたところで車内のマリアーナに手を差し出した。その手をとってマリアーナは下車した。
「それでは放課後にお迎えに参ります」
ヒルダはそう告げると馬車に乗って戻っていった。残されたマリアーナは自分が周囲の生徒から注目されていることに気づいた。皇室の紋章が付いた馬車から見知らぬ女生徒が降りてきたのだから当然そうなるだろう。そう思ったマリアーナは少しでも颯爽としているように見えるようにと、背筋を伸ばして歩き出した。
門をくぐって他の生徒たちと一緒に建物に向かって歩く。だがここから先、学園のどこに行けばいいのかわからない。迎えの人間がいるかもしれないと思って周囲に視線を巡らしていたら、急に声をかけられた。
「そこの貴女!」
声をかけてきたのは女生徒だった。襟の線の色によると三年生らしい。もちろん面識はない。その台詞から察するに、迎えの人間ではなさそうだ。
「私ですか?」
「他に誰がいるの!」
自分にビシッと指を突きつけている女生徒を見て、マリアーナは貴族にしては下品だと思った。だがすぐに、ひょっとしたら帝国では許されているのかもしれないと思い直した。
「なにか御用でしょうか?」
「これを見てもわからないの!」
女生徒は自分が身につけている腕章を見せた。
「『風紀委員』ですか?」
「そうよ」
ドヤ顔をしている女生徒に、マリアーナは(女生徒にとっては)斜め上の質問をした。
「『風紀委員』とはなんでしょう?」
「知らないの?」
「学園に登校するのは、今日が初めてですので」
それを聞いた女生徒は勝ち誇ったような表情になった。
「そのラインの色は四年生ね。十六歳なのに学園に通ったことがないの?」
「私の故郷には学園はなかったので」
「辺境出身なのね。どんな田舎なのかしら」
「……確かに皇都からはかなり離れています」
マリアーナは相手の思考が理解できなかった。首都から遠く離れていれば確かに辺境だが、だからといって田舎とは限らない。他国との貿易によって首都並みに栄えている辺境都市は珍しくないし、その経済力を背景に王族も無視できない発言力を持つ領主もいる。中でも国境線と接している領地は国防上も重要で、必要があるから大規模な兵力の保有が認められている領主もいる。もちろん大兵力を有しているということは国内での発言力も大きい。これらの重要な領主たちには特別に辺境伯という爵位が与えられている。
これはオリスティ王国の話だが、帝国にもほぼ当て嵌まるはずだ。帝国にも辺境伯という爵位はある。軍隊は国軍に統一されているが、国軍のルーツは領軍であり、今でも領主は国軍に対してある程度の発言力を持っているらしい。
全ての辺境が重要なわけではないが、辺境というだけで相手を見下す女生徒の態度がマリアーナには理解できなかった。少なくとも相手の名前や爵位、領地は真っ先に確認すべきだろう。
「私は生徒会の一員なの。生徒会はわかる?」
「確か、生徒による学園内の自治組織ですね」
「そうよ。生徒会のメンバーのうち、校則に違反している生徒に注意を促し、校則を守るように指導するのが風紀委員なの」
「つまり今の私は校則に違反しているのですか? どの校則に違反しているのでしょう?」
「それよ、それ!」
女生徒はマリアーナの首元を指さした。
「これですか?」
マリアーナは覆い隠すようにスカーフを手で触った。
「スカーフを身に着けてはいけないという校則はないはずです」
「あるわよ」
「どの校則でしょうか?」
マリアーナはあらかじめ渡されていた生徒手帳を取り出した。この世界の生徒手帳にも校則が載っている。
相手が折れなかったので自信を失ったのか、女生徒は校則とは別のことを持ち出した。
「周りをよく見なさい。スカーフを着けている人なんていないでしょう」
「戦時中は自粛していただけです。もう戦争は終わりました」
マリアーナにそう言い返されたが、女生徒はそれに反論できなかった。そこで強硬手段に訴えた。
「校則違反の疑いが晴れるまで、それは生徒会で預からせてもらいます」
女生徒はスカーフに手を伸ばそうとしたが、その手をマリアーナは払いのけた。
「お断りします。これは大切なものです。他人に触らせるわけにはいきません」
二人の間の緊張感が高まったところで、思いがけない第三者が現れた。
「何をやっているんだ?」
二人は声がした方を振り返った。声の主はアードリヒ皇子だった。
「アードリヒ様!」
皇子にキラキラした視線を送る女生徒に、マリアーナはやや冷めた視線を送った。こういう手合いはやはり帝国にもいるようだ。それにしても皇族をいきなりファーストネームで呼ぶとは、この女生徒は皇子と特別に親しいのだろうか?
「殿下、おはようございます」
「おはよう、レネスティ嬢にシュタイン嬢。黒山の人だかりができているから何事かと思ったら、貴女たちだったか」
皇子の方はファミリーネームで呼んだところを見ると、特に親しいわけでもないらしい。互いに名前と顔は知っているのだから顔見知り程度だろう。
皇子にそう言われて周囲を見た女生徒は驚いた様子だった。風紀委員が登校してきた生徒に注意しただけでは黒山の人だかりはできない。マリアーナが皇室の紋章が付いた馬車から降りたのを見た生徒たちは、マリアーナが皇室に縁のある人間らしいと察したのだ。その人間が風紀委員を相手に一歩も引かない論戦を展開したので見物人が集まったのだ。学園を囲う塀に視線を遮られて、女生徒はマリアーナが馬車から降りてくるところを目撃できなかったのだ。
「私は風紀委員としての仕事をしていただけです」
女生徒はそう言って胸を張る。
「途中からだけど君たちの会話は聞こえていた。君の真面目さと勤勉さは僕もよく知っているよ。でも今回はレネスティ嬢の方が正しい」
アードリヒの言葉を聞いた女生徒は明らかに落胆した表情を浮かべた。だがしつこく食い下がった。
「ですが校則を確認するまで、スカーフを生徒会で預かることはできるはずです」
「本人が同意した場合はね。生徒会のメンバーといってもしょせんは生徒だ。同じ生徒に対しては注意しかできない。指導や強制は教員にしかできないはずだよ」
皇子にここまで言われればさすがに引き下がるだろう。マリアーナはそう思ったが、予想は裏切られた。
「で、では同意できない理由を教えてください」
女生徒は皇子に更に食い下がった。それはアードリヒではなく自分に訊くことだろうとマリアーナは思ったが、アードリヒはマリアーナに振らずに自分で答えた。
「あのスカーフは弟のフィリウスが婚約者に贈ったものだ。それで納得してもらえるかな」
皇子の予想外の言葉を聞いて、女生徒のみならず周囲の生徒たちも十数秒ほど沈黙した。彼らは大急ぎで考えていたのだ。皇室に縁がある十六歳の女性、フィリウス皇子が婚約者に贈ったスカーフを身に着けていて、アードリヒ皇子は彼女をレネスティ嬢と呼んだ。これだけのヒントをもらえばさすがに正体に気づく。
周囲の人だかりが再びガヤガヤしだした。だがマリアーナは先ほどとは空気が変わったことに気づいた。どちらといえば周囲の視線は自分の方に暖かった。風紀委員というのは生徒の間では人気がないらしい。だが今の視線は自分に冷たい。
顔色が青くなった風紀委員を無視して、アードリヒはマリアーナに話しかけた。
「お付きの人間はいないのかい?」
「放課後に迎えに来ると言って戻りました」
「それは酷いな。校長室に案内するよ。事情を話せばちゃんと取り計らってくれるだろう」
アードリヒはそう言うと建物に向かって歩き始めた。マリアーナは風紀委員に何か声をかけるべきかと考えたが、何を言っても逆効果になりそうな気がしたので、黙ってアードリヒの後をついていくことにした。
建物に入り、廊下から人気がなくなったところで、マリアーナはアードリヒに話しかけた。
「殿下、先ほどは助けていただき、ありがとうございます」
「礼には及ばないよ。大したことじゃないし、僕が守ったのはフィルのプレゼントだから」
いずれ義兄となる人は、さっきの風紀委員より手強い相手だとマリアーナは思った。
「シュタイン嬢は僕の婚約者候補だったんだ。彼女の父親は中央政府の官僚で、真面目で勤勉で有能らしいよ」
マリアーナは先ほどアードリヒがシュタイン嬢のことを真面目で勤勉だとは言ったが、有能とは言わなかったことを思い出した。おそらくそれがアードリヒのシュタイン嬢に対する評価なのだろう。
「彼女も根は悪い人間じゃないんだ」
無能な働き者ということか、マリアーナはそう納得した。
「心得ました」
ヒルダは修練場で通常を訓練をしていたところ、再び二階の執務室から呼び出しを受けた。騎士団長の執務室に入ったとたん、空気が冷たくなっていることに気づいた。
「今朝は通学中のレネスティ殿下の護衛をしたはずだな」
いきなり騎士団長にそう言われて、ヒルダは必要な手順をすっ飛ばしたことにようやく気づいた。初日はマリアーナを担当教諭のところへ案内するよう、あらかじめ言い含められていたのだ。
ヒルダは今朝の記憶を大急ぎで脳内再生した。そしてあの十秒ほどの沈黙で余裕がなくなって切羽詰まったことに気づいた。マリアーナが黙ってしまったので、何か不興を買ったのではないかと心配したのだ。その後のことは気もそぞろになっていたのでよく覚えいていない。
ここでヒルダはまた切羽詰まってしまった。気がついたらそのときのことを騎士団長に向かって早口でしゃべっていた。ヒルダが我に返って口を閉じたところで、騎士団長は冷たく言い放った。
「護衛対象の安否確認よりいいわけの方が重要か?」
ヒルダはダメ押しの失態を演じたことに気づいた。
「すぐにパニックに陥るようでは優秀な騎士とはいえんな。今日はもう帰って休め。出仕してよくなったら連絡する」
放課後になり、マリアーナは校門から外に出た。迎えの馬車がないか探す。皇室専用スペースに一台だけ停まっている。学園にはアードリヒの他にヨルクとカルラも通っているから馬車は四台あるかもしれないとマリアーナは思っていた。三人と自分は下校時間が違うのかもしれない。
馬車のそばに立っていた侍女が、自分の姿を見ると礼をした。あれが自分の迎えらしいと思ったマリアーナはそちらに歩いていった。
侍女はヒルダではなかった。ヒルダは『迎えに来る』とは言ったが『自分が』とは言っていなかった。だからマリアーナは特におかしいとは思わなかった。
その後、マリアーナがヒルダの姿を見ることはなかった。
無能な働き者:「間違った努力をして事態を悪化させてしまうが無能であるがゆえにそれに気づかず、働き者であるがゆえに間違った努力を延々と続けてしまうが、善意で行動しているので罰することもできない、いない方がマシな人物」という意味。
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