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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

作品、本に関わるもの

蜘蛛の糸と小説家になろう

作者: モモル24号

◇◇◇


 子供の頃に教わったお話しの中に、蜘蛛の糸という話しがあった。


 有名な作家さんの作ったお話しで、悪い事をいっぱいした人が、唯一助けた蜘蛛に助けられる話しだ。仏教のお釈迦様に絡めた、お話だったのかな。物語に登場する主人公の極悪人は悪いことをいっぱいして地獄へ落ちた。


 ただ、そんな悪いことをいっぱい行った極悪人の主人公だったけれど、たった一度だけ善行をした。その時に助けられた蜘蛛を見て、お釈迦様様が地獄から抜け出せる機会を与えた。


 小さな蜘蛛から地獄へと垂らされた糸に気づいた主人公は、助かった地獄を抜け出せると思い、細い蜘蛛の糸を掴む。


 でも糸に気づいたのは、主人公だけではなかった。次から次に糸にしがみつき地獄から逃げようとする人達を見て、主人公はこのままだと糸が切れてしまうから登ってくるなと、人々に叫んだ。


 案の定、糸は切れて主人公は地獄へと逆戻りしてしまう。唯一の機会だったのに、自分勝手な振る舞いをしたから糸は切れた····話しは終わる。


 ずっと腑に落ちなかったのは、それが教訓のようにお釈迦様に都合良く、話しの筋が歪められていたからなのだとわかったから。


 子供の頃に蜘蛛の糸のお話を聞いて思ったのは、閻魔様はなんで、主人公の善行を見逃して地獄行きにしたのかなとか、良い行いをしてない人達が助かろうとするのが間違っているのに、お釈迦様は悪い人達も助けようとしたのって頭がグルグルになった覚えがある。



 大人になると、昔の不思議についてあれやこれや調べ語る人達がいた。

 世の中にはそうしたいろんな考察をする人々がいて、蜘蛛の糸についても意見があった。


 お釈迦様がお釈迦様なのに、すごく意地悪で始めから助ける気はなかったとか、主人公が反省しているかみたかったとか、切れるに決まっている蜘蛛の糸で助かるわけはないけれど、優しい蜘蛛の気持ちを汲んであげて機会を与えたなど、意見があげられていた。


 そもそも蜘蛛を踏み潰すのが気持ち悪かっただけで、お釈迦様はそれを気づいていても言えなかった··なんて意見もあった。


 私がいま思うのは善行と悪行のバランスが釣り合ってないな、だ。何度も強盗殺人を繰り返した極悪人が、一生にたった一度、蜘蛛を助けただけで地獄から抜け出せるのはおかしい。


 それって、自分勝手な理由で多くの人をたくさん巻き込んで殺害しながら、この人は蜘蛛を一匹殺さずに助けたから無罪です、って裁判所で判決が出るようなものだ。事実は事実なのに、精神が病んでいたから許されるのも腑に落ちないけれど。


 それに糸が切れるとしたら、理由もなく自分勝手に助かろうと群がる人々が糸を掴んだ瞬間、彼らのところから切れれば良かったわけで、主人公が焦り叫ぶまで待つ必要がなかった。


 勧善懲悪とか、行いに対する報酬で捉えるならば、主人公が良い行いをした、これは正当な権利で何もしていないお前たちが権利を得るのはおかしい、そう叫ぶのは間違っていない。


 他にも蜘蛛の糸ではなく丈夫な縄にすべきだったとか、これはお釈迦様を悪くするため、仏教を貶めるための話しで隠された陰謀論に発展するものまであった。


 ただ、陰謀論はあながち間違っていないのでは、と思えた。理由は絵本にするため、教訓づくりに蜘蛛の糸の話しは、都合良く解釈出来る部分で終わっていたから。


 少なくとも、昔に私が見た絵本では、そうならないように良いことを行い、悪いことはやめましょうねと、読み聞かせてくれる人が使いやすい教材になっていた気がする。




 そのまま社会に出て生活をしてゆくうちに、良い悪いの判断基準の元を植え付けるのは大切なんだと分かるようになる。それと同時に、良いことをしようと頑張っても、悪いことをしたものが得をするし、許されている現実に、苦しんだ。


 どんなに良いことを頑張って来ても、少しでも悪いことをすると叩かれる。悪いことばかりしても、少し良いことをしただけで褒められる。


 何が良くて何が悪いのかを決めている、偉い人の身内なら何をしても許されて守られる。


 息苦しい世の中になった。蜘蛛の糸をはじめ、幼い頃に押し付けられた価値観なんて、自分を苦しめ損する。

 いや得をするために偉い人達が、害を受けないように上手く押さえつけるためにあるのかもしれないなんて陰謀論に賛同したくなるくらいに。


 そう思っていた時に、私は新たな事実に到達する。


 そもそも蜘蛛の糸という話しは、教訓なんかのために書かれていなかったと。誰かが都合良く、教訓にしやすい部分を利用しただけで、童話は童話でも元は新人作家を発掘するための場で掲載された作品だったとか。


 私が知る蜘蛛の糸は、教訓や教育のために今で言う切り抜き記事みたいなものだった。誰かが教材に使うために使いやすい場面だけを切り取った不完全なもの。

 教育の目的からは、その場面を使うのに丁度良かったのだと思う。

 誰かが意図して思考を誘導したり注目を浴びたりしたいために、全体は載せず、その話しの背景も載せずに、都合の良い解釈とともに切り抜いた、創作の創作。


 目的があってその場面を切り取っただけので、悪いとは言い切れないから子供だった当時はもやもやしたのだと思う。


 誰彼の言うことを盲目的に信じてしまうのとは違うかもしれないけれど、根底がすでに間違っているから矛盾が出てくる、それがわかってどこか納得した。



 蜘蛛の糸は善行をして助けてもらうお話しなんかじゃなく、なかなか芽が出ず苦しんでる新人作家を有名作家達に引き上げてもらう深層心理が書かせたもの、という当時の状況を踏まえた考察もあった。


 どういう意図があったのかは、作家自身にしかわからない。でも、教わったお話しよりも人の心理がわかりやすいし、最初と最後の蓮の池の蓮のくだりが、あまりにも泰然としていて説教臭さを消してくれる。


 蓮は蜘蛛と一緒に絵本に出てくるけれど、そんな終わり方だったかな。

 蜘蛛の糸の、終わり部分の蓮の池の蓮のくだりを、私は知らなかった。


 そもそも、どういう経緯で作品が作られたのかも、知らなかった。

 その時代に生まれていないから仕方ないにしても、例えいたからって気づけたかどうかは、お察しの通りだ。


 もっとも、その情報それ自体も結局はネットを介した情報なので、原文がそのまま正しいのか、検証が必要だ。その話しが、そう思わせたい誰かの誘導なのかもしれないのだから。



 言える事があるとするならば、与えられた情報から何を考え、どう行動するのかは、人それぞれ自由なのだと思う。

 蜘蛛の糸の主人公のように、群がる人々のように、助けようとした蜘蛛のように、憂うお釈迦様のように、そして蓮の池の蓮のように。


 本当に事実を知りたいのならば、自分で残されている昔の資料を探すことだろうし、論拠の元の正しさは、どれだけその事について調べ尽くしたのかにもなるかもしれない。


 極論、暴論になるけれど、信じられるものなんてないのかもしれない。

 なぜなら根拠となるものを探っていくと、結局誰かの意思で作り出された、思惑を乗せた()()に、ぶつかるのだから····。



◇◇◇

 

 蜘蛛の糸にも元になるネタがあったようですが、蓮の花の部分は作家のオリジナルのようです。この話しをどう読むのかは人それぞれ解釈があると思います。


 少なくとも蜘蛛の糸の物語に私が思うのは、小説家になろうを始め一掴みのチャンスを手にしたい姿が、この蜘蛛の糸の話しにに例えられるなぁ、でした。


 物語の舞台は小説家になろう、極悪人ではないと思いますが主人公や地獄の亡者は作家の方々、蜘蛛は作品を読んで助けられた読者の方々、お釈迦様は出版社、蓮の池の蓮は世間といった感じでしょうか。個人の感想なので異論反論は認めます。



 チャンスが目の前に舞い込んだ時、私なら蜘蛛の糸の主人公の行動を責められないと思います。好機を掴んだその状況下で、一緒にみんなを引き上げようとするような善人になれる自信はありません。


 きっとみんなで這い上がろうぜ、口に出して言いつつも、どこか自分だけ抜け出したいと考えてしまうでしょうから。


 これは頑張ったから私が得たチャンスなんだって、吠えてしまいそうです。頑張った自負が、あるなら尚更でしょう。


 登り詰めて極楽に辿り着いた後ならば、きっと心に余裕が出来て、支えてくれた方々やこれから伸びそうな後進に目をやる事はあるかもしれませんが、それは置かれた状況が違いますからね。


 小説家になろうの書き手の方の中には、蜘蛛の糸を掴んで極楽に辿り着いた人もいれば、糸が切れて作品の海に埋もれていった方もいるかもしれませんね。



◇◇◇




 そうは言いつつも、文章の綺麗な作品、上手い展開、魅力的なキャラクター、読んでいて楽しい作品には駆け上がってもらいたいものです。



 


 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 前半部分は蜘蛛の糸と、公式企画夏のホラー2023の帰り道を絡めて物語を作ろうとしたものです。恥ずかしながら蜘蛛の糸の原文を読まずにものを語ろうとした、私自身の失敗談でもあります。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



※ 追記 ※


 現在の芥川賞が新人にスポットライトを当てる役割をいまだに担っている、そういう見方をする人もいるようです。

 出版社の箔付けのためとも言う方もいます。発表の時期だけ話題には上がるものの、その後パッタリと消えてしまう印象が強い気がしますね。


 純文学という、文学に対する目的意識の棲み分けのせいなのでしょうか。小説家になろうもそうですが、ネットで良くも悪くも読んだり調べたりする事が簡単になった世の中で、世の中に作品を知らしめる事の難しさだけは伝わってきます。

 スポットライトを当てる目的であるにしても、光の熱量が足りてないのではないかと思わざるを得ません。



 

 ちなみに小説家になろうにもジャンルがありますが、純文学の定義は何だろうとなりますよね。

 一般的には、純粋な芸術性を目的とする文学とされています。

 つまり、純文学とは、読者のための娯楽を重視するよりも、作家が興味を持つ分野の芸術への意識によって描かれた美的文学作品のことだそうです。

 主に明治時代から用いられ始めた用語です。


 個人的な見解を申し上げますと、文学に限らず物事を芸術性に高めていく事は、日本においては良くある事ですよね。たかが〇〇、みたいに馬鹿にされる事でも、極めれば褒めたくなる心理は良くわかります。面白いかどうかとなると、別の話しになる気はしますが。


 話しがそれましたが多くの作家や書評家などによって、純文学は高級な小説を前提としていたり、作家自身の体験をつづった「私小説」と同一としていたり、「純文学」という名称をめぐる議論が繰り返されています。

 そのため、明確に何を純文学とするかの結論は出ていないのが実情のようです。


 ただ小説家になろうの会話だらけの漫画のセリフ、アニメの台本のような作品を見ると、純文学とは何かが対比しやすくなった気がします。

 文章を読ませることはどういうことなのか、文章で作る芸術性はこういう作品なのか、それがハッキリしています。


 どちらが良い悪いというのは好みもあるかと思います。小説家になろうの作品がコミカライズやアニメ化にされやすいのは、読者の好みに合わせた作りに、作家の方も合わせているためでしょう。


 情景や世界観を想像してに浸りたい読者の方ならば、地の文のしっかりした作品を選ぶのでしょう。


 ジャンルの活性化具合を見ると、純文学をはじめ、文字で読ませるジャンルの作品が振るわないのは、小説家になろう作品の読者人口の嗜好のあらわれなのかもしれません。


 誰がチャンスをその手にするのかわかりませんが、ものを書き、読むという文化がいつまでも盛り上がってくれるのなら、そのどちらも好きな私としてはそれで良いのかなと思います。

◆ 蜘蛛の糸の原文参考資料。


インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)


 「蜘蛛の糸 原文」 で検索可能ですが、小説家になろうとは違う外部サイトになります。閲覧の際にはご注意下さい。



※ 2023年9月6日 本文後半に追記。

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― 新着の感想 ―
[一言] 蜘蛛の糸の話ですが 「カンダタはカイジになれなかった」これにつきる。 外的状況に流されずに機会を生かし最善を尽くす 善悪ではないわけで。カンダタという人間の限界を見せたのがアノ話なわけであり…
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