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スポットライト

作者: 無川 凡二

 ついさっき目を開いた瞬間に、明日を置いてきた。そう確信するほど醒めた頭を遠巻きに眺めている私の目は、形をえることのない焦燥をその小さな背に感じていた。

 寝具に染み込んだ熱が肌に返され、焦点の合わない暗闇を泳ぐ目。空間はカチカチと静寂を刻んでいる。思惟の綻びを波引かせながら、その満たされない空白を僕は、今何時だろうか、という他愛のない無為で埋めた。

 早く寝なければいけない。

 この時間が刻一刻と明日の予定に響くことを感じながら、焦りの主がそれではないことにふと気付く。恐らく時計はもう十二時を回っている。変化のない闇にさらされ続けた二つの目は既に僅かな光に満足し、何千回とすり減るほどに見続けた天井の隅へと吸い込まれ焦点を合わせた。

 眠れ、眠れ。何も思うな。何も考えるな。今は一心に明日へと沈まなければいけない。反芻する思考も止めて、僕は意識を解こうとする。しかし意思とは裏腹に、意識はじっと、その暗闇を見つめていた。

 酷く近視眼的な光景だった。視線の先には特別な意味はない。何もないということが、そこを僕の逃げ場に仕立て上げている。すり抜ける程見飽きた視覚の裏で、僕は得体の知れない何かから身を隠す様に息を潜める。次第に息が苦しくなっては、ついに僕の息が止まった。

 すると示しを合わせたかの様に、静寂を引きずる摩擦を、通りを横切った車が響かせる。僕は誰にも気づかれない様に重ねて息を吸っていた。タイヤに砂利が絡まる音は僕の頭の中で乱反射し、たちまち絡まりあって一つの像を成す。脳裏に焼き付いた記憶は暗闇の片隅に映し出され、まるで昨日の出来事の様に蘇った。

『夜に起きている奴はダメだ』

 過程は覚えていない。ただ、普段は穏やかな両親が、その時だけは氷柱の様な様子だったことを覚えている。

『おじいちゃんは夜の方が冴えてるなんて言うけれど、そんなの嘘っぱちだよ。逃げているだけだ。だからおじいちゃんは社会で生きていけないんだよ』

 風化してなお傷の残る、胸に刺さって朽ちた幼少期の記憶。お前は違うだろう、と二人は釘を刺す様に僕に言った。小さな僕はものの良し悪しもわからず、何故そうなのかを尋ねようとしたが、その冷ややかな目が、僕にはとても人二人分の目には見えず、黙って肯くことしかできなかった。

 後になってから、その目は一人では抱えきれない、大きな都合の威を借りて人を支配しようとする者の、冷めた機械を見る様な目であることが分かった。そしてその頃にはその目は人を介さずとも、常に僕を監視する様になっていたのだ。

 じっと、固まって暗闇を見つめる。頭は澄んでいて、呼吸は滑らかだった。それがとても許されないことである気がした僕は、息を殺し、何もしないということを止められなかった。無法に縛られた体に抵抗する様にぐるぐると思考がもがきまわり、その自責の中で増えゆく後ろ指たちに圧迫される。気がつくと、否定の言葉を繰り返し聞いて、聴いて、聴き続けて、何かが破裂しそうな衝動とともに、僕は跳ね起きる。

 闇の中、蒸した心地の悪い空気が、冷たく肌をなぞっていた。嘘の様に部屋は静かで、荒げた僕の息と、時計の規則正しい音だけが響いている。

 そうだ。彼らは今、眠っているのだ。

 明かりのスイッチを押すと暗闇は裏返り、僕は観念して深いため息をついた。

 時刻はおよそ午前の二時を指している。明日の予定が終わるまで起き続ける、僕の第二の戦いが始まりを告げた。

 カレンダーを眺める脳裏で明日の予定を振り返る。まるで居残りをさせられている様な居心地の悪さを覚えながら、スマホで行き先の駅の見取り図を調べて、印をつけてゆく。それを一通り済ませると、ノートパソコンを開く。次は期限の近いレポートに手を付ける。昼間はあれだけ手がつけられなかった問いの数々が、静けさに助けられすらすらと進んでゆく。瞬きの刹那、まぶたの裏に祖父の背中が見えた気がした。

 いつの日か、夜を生きることを許される時代がくるのだろうか。或いは、より未来には眠らないで生活する時代がくるのだろうか。人類は、火と共に暗闇を打ち破り、雷を隷属して光を人工的に生み出す術を得た。人為と自然の闘争の中には、常に暗闇との対立があった。明かりのついたこの部屋、クローニングされた昼の中で暮らすことが可能になった今、夜という不文律を律儀に守り続けているのは、僕らが未だに眠ることを止められないからだ。ヒト遺伝子の組み替えはタブーとされている。人為は種と闘争することを望まない。果たしてその聖域はいつまで許されるのだろうか。

 ふと、使い慣れない言葉がレポートに入力された。ニュアンスに不安を覚えて、僕は検索をかける。パソコンは微細な電気信号を通して、遠くのコンピュータと対話をする。早く速く、それは一瞬の出来事だ。

 僕の知らないうちに会話は終わり、結果だけがそこに残された。

 何を話して来たんだい? 君の声はどこまで届いたのかな。そんな些細な冗談を思っては、推敲を重ねる。

 地球の裏側は昼なのだから、そことつながることのできる彼らにとって、昼夜は僕らほど重みを持たないのだろう。僕だけが夜に取り残されている。

 レポートが一段落すると、蝉の声が響き始めた。まだ四時だというのに、辺りは錚々と夏の音を響かせている。

 朝だ夜だというのは人の都合だ。僕は蝉の歌に揺られながら、自然を羨んだ。誰かが人々の都合を守らないものを許すほど、世間は優しくはなかった。だが、野生のままに生きてゆけるほど、僕は強くない。だから僕もただの人で、唯一の自由な時間は、そのために献上されなければならない。

 突然、スマホの通知が鳴った。僕は雷に打たれた様に固まり、動けなくなった。

 何もかもが、不意と、無為に、ほどけてゆく。遠くの流れがつながって、巻き込まれて、循環が繰り返されていた。それは昼も夜も続いているのに、僕はそれを切り離して拒絶していたのだ。孤独とは、つまり、自家中毒なのだということを不意に思い出した。

 僕を後ろから俯瞰する、僕の目。そこに並んだ批判的な視線たちも、紛れもなく僕の一部であり、僕の目だったのだ。密室で溶けた年輪は一枚岩に、黒く干上がった秩序を空転させていた。それに従った僕が、ひとりでに苦しんでいる。その点において、僕は一人ではなかったのだ。同じ苦しみを宿すものたちを思いながら、僕はその一部に溶けていった。僕は息を吸う。

 都市の呼吸が再開される。僕は息を閉じた。昨日を引きずった体が、ひとりでによろよろと歩き出している。背には後ろ指が刺さり、まるで処刑台にのぼる様な心持ちだった。窓の向こうから、光が差し込んでいる。偽物の光に慣れた目を焦がすほどの日が、世界を照らしている。スポットライトの下、僕を中心に回る世界は、明転によってかき消える。

 最後に胸に残ったかたちのない衝動を殺すため、僕はカーテンに手を掛けた。


 今日が始まろうとしている。

2021/08/28

テーマは「夜更かし」

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