意識旋風
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
あら、つぶらやくん、家庭科でも質問がある?
他の先生から聞いてるわよ。君がちょくちょく質問に来るって。今年に入ってから、けっこう積極的になったんじゃない?
それで、どういった質問かしら?
――どうして洗濯機は服を洗う時、槽を回転させるのか?
うんうん、それはね。汚れをはぎ取るのに遠心力を使うと、都合がいいからよ。
遠心力、もう理科で習ったりしたかしら?
かみ砕いていうと、回転している物質に対して働く、外側へ離れていこうとする力のことね。洗濯槽を回転させると遠心力が働いて、洗濯物たちは中のドラムの壁へ押し付けられる形になる。
この力は、衣服に染みた水や洗剤にもかかるわ。外へ引っ張られる際、強い力で繊維の間を通り抜けていくそれらは、同時に衣類に絡む汚れも巻き込んで、外へ外へと連れ去っていく。これによって衣類がきれいになっていくって寸法よ。
回ることは体ひとつでもできる、私たちになじみ深い動き。けれど、そこから生まれる力は遠心力、ひいては物理的な力にとどまらないケースも存在したみたいなの。
つぶらやくん、この手の話が好きだったでしょ。時間があるなら聞いてみない?
むかしむかし。あるところに、三郎という百姓がいたわ。
彼は先祖代々受け継いだ田畑の世話をしつつも、冬になると町へ出稼ぎに行き、生計を立てるという、当時の多くの百姓と同じような生活を送っていたそうね。
あるとき。三郎が秋に備え、田畑にかかしをこさえ始めたころ。不意に横殴りの風が吹き付けた。三郎が首にかけた手拭いが外れかけるとともに、土へ刺したばかりのカカシが横へかしいでしまうほどで、三郎はとっさに手拭いの端をつかんで抑えたわ。
けれども、風は止まないまま巻いていく。西から吹いていたものが、じょじょに北へ、更には東へ、背後の南へ。やがて元の西へ戻っては、2週目へと入っていく。
逆らって歩くことなど、まともにできない強い風。その勢いは、1周するたびに強くなり、三郎はたまらずその場にうずくまってしまったわ。下手に立っていると、そのまま飛ばされかねなかったから。
カカシはというと、ほとんど土から抜けかけていたけれど、ぎりぎりのところで踏みとどまっている。強さとともに、風が巻く速さを増していくせいで、その場でくるくると回転を続けるにとどまっていたそうよ。
もう何週もすると、それに雨が混じってくる。これが普通の雨とは違い、生暖かくてほんのり臭って、まるで人肌を伝う汗のようにも思えたとか。
ようやく風がやみ、立ち上がろうとした三郎だけど、不意に目の前がくらんでバタりと倒れてしまったわ。
ほろ酔いをだいぶ越え、泥酔の一歩手前といった状態。自分の指先、四肢のいずれも、三尺ばかり(約1メートル)遠ざかってしまったかのような感覚を覚えているところで、ひょいと三郎の顔を覗き込んできた人があったわ。
「おう、吉盛。大丈夫だったか?」
誰だ、吉盛とは?
三郎はそう声に出そうとして、ぐっと息が詰まってしまったの。
自分の名は確かに三郎のはず。なのにどうして。
どうして吉盛と呼ばれて、すとんと腑に落ちそうになってしまったのか。
ましてや、自分を見下ろしてくるこの……この……。
「典太。何を妙なことをいうんだ?」
ふと、頭に浮かんだ言葉が、口をついて出てしまう。
典太もまた少し顔を引きながらも、口元をもごもごさせて言いよどみ、やがて自分は庄兵衛だと答えたそうよ。
ようやく起き上がれるようになった三郎は庄兵衛とともに、他の村人たちへ尋ねまわり、確信を強めたわ。
自分たちの認識が、おかしなものになっている。相手の顔を目にし、頭に浮かぶ名前は本来とは違う別人のもの。そしてそれをあやうく、すんなりと受け止めてしまいそうな反応を、誰もが見せてしまう。
不幸中の幸いとでもいうか、どうやら村の人たちの認識はほとんど共通のものらしかったわ。
三郎に対して誰もが「吉盛」と認めたし、庄兵衛に対しても「典太」だと口にする者ばかりだった。そして三郎と庄兵衛の頭に浮かぶ村人たちの名前も、一人としてたがわず、同じ名前のものだったのよ。
――何者かの意図が働いている。
考えを巡らせてしまうけど、猶予がそれほどないことも、三郎たちは薄々感じていたわ。
この一刻ですでに、三郎と庄兵衛は「吉盛」と「典太」と呼ばれることに、ますます忌避感を抱かなくなってきた。むしろ「三郎」と「庄兵衛」と呼ばれることの方に、不快感を募らせ始めていたのだから。
でもその中でただ一人、名前が分からない者がいたわ。
齢10歳で、親の畑仕事を手伝っていた少女。彼女の元の名前は「さなえ」だったけれど、それとは別の名前が誰にも浮かばなかったのよ。三郎における吉盛、庄兵衛における典太に相当するものが。
「さなえ」は一向に目を覚まさない。脈こそ弱弱しく打っているけれども、息はいくら手をかざしても感じられなかったわ。さなえの親であるはずの両親が、彼女の名を何度も呼び、抱き上げて肩を揺さぶった。
彼女を起こすためだけじゃない。自分の中で薄れていってしまう、「さなえ」の感覚を放すまいとする、必死の抵抗に思えたの。
さなえ以外の者は、余すことなく本来の名と別の名が浮かんでいる。なのにどうして彼女だけ……。
ふと、もう一度自分の畑を見やった三郎は、気づいたわ。
両親がさなえの名前を呼ぶたび、自分が作ったカカシが風もなくかすかに震えるのを。
ぴんと、頭の中で糸がつながってしまう。三郎はカカシへ駆け寄り、あえてその肩へ強く手を置いたの。
同時に、遠目に見るさなえの身体がビクンと、釣り上げたコイのように跳ね上がった。これまで見られなかった反応に、両親はひときわ強く呼びかけをし始める。
――もう一手、確証を得たい……!
三郎はカカシの手に優しく手を置き、つぶやく。
「お前の名は、『あやたち』だ」
この不可思議な乱を裁つ者。
三郎がほとんど本能のまま口にした名前だけど、効果はすぐに現れる。
両親を含め、これまで「さなえ」としか呼びかけなかった周りの者たちが、彼女を「あやたち」と呼び始めたのよ。その大半が言い直すけれど、両親さえもがつい「あやたち」と口にする頻度が増してきてしまう。
カカシの震えは、なお激しいものになった。特に頭の部分は大きく前後に揺れて、まさに「しゃべろうとしても、口をふさがれてしまっているしぐさ」に思えたのよ。
三郎は腰帯にさしていた鎌を抜く。その刃をカカシの顔にあてがうと、ぐっと力を込めて一文字に切り裂いた。
一瞬、「さなえ」にも影響が出るのではと我に返ったが、両親たちの騒ぎがにわかに大きくなった気配はしない。肉体的なものは、影響を与えないらしかった。
無理やり開かれた口。そこから息が漏れ出すか細い音が、三郎の耳をかろうじて揺らす。
マワセ……マワセ……と。
ぐっと三郎はカカシの手をつかみ、その足を地へ埋めたまま回していく。先ほどの風のときとは逆方向へと。
あのときもカカシは地面から抜けることなく、強い風に身を任せるままになっていた。それと反対のことをしたならば。
ほどなく、三郎の期待通りに風が吹き出したの。
カカシを一周回すたび、先ほどと同じように強まっていく。東から北へ、北から西へ、西から南へ……。
遠目にも、村人たちが風を避けようとうずくまり出すのが見えたわ。でも、まだ足りない。
すでに三郎の手ぬぐいはどこかへ飛んでいたけど、構わず続ける。もう何週もして、なびく自分の頭髪が目を覆って、前さえろくに見えなくなりかけたとき。
あの汗のごとき雨が、肌を打ち始めたの。同時に、自分の中をほとんど占めていた「吉盛」の意識が弱まっていく。元あった「三郎」の自覚が、ふつふつと湧き出してきているのを、彼は感じていたわ。
何週回したかしら。
カカシがボキりと腰から折れてしまうのと、汗混じりの強風がぴたりと止んだのはほぼ同時のことだった。
三郎は、まぎれもなく「三郎」に戻っていた。吉盛の名は、完全に別人の名だと認識できるようになっていたわ。
村人たちも本来の名前に戻っている。さなえも目を覚まし、無事を喜んだ両親にもみくちゃにされるも、きょとんとしていたみたい。
この奇妙な事件はひっそりと幕を閉じたけれど、その年の出稼ぎで、三郎が顔を合わせた人の中に「吉盛」と「典太」を名乗る者がいたわ。
同村である彼らは、やはりあの事件のあった日、同じように汗の混じる風を浴びていた。そして再び風を受けるまでの数刻、自分たちはそれぞれ「三郎」と「庄兵衛」になっていたと語ったのよ。




