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3分読み切り短編集

水も滴る

作者: 庵アルス

 ちらと視線を落とした腕時計は、もうすぐ十七時になろうとしている。

 定時前のこの時間、営業部では、外回りから社員が続々と戻ってくるところだった。

 少し前に戻った私は、明日の取引先へのプレゼンに使う資料のチェックをしていた。上司にダブルチェックを頼む前に、目を皿のようにしてミスがないか探す。こういう大事なときほど、ミスは自分で見つけられないものだが、気は抜けない。

 そうしてパソコン画面と向き合うことしばし。恐れているようなミスも見つからず、ほっと息を吐く。上司に明日の朝一に確認をお願いして、デスク周りの片付けにかかった。

 これなら定時で帰れそうだ。

 昨日は残業になってしまったからなぁ、と思い返し、込み上げてきたあくびを噛み殺す。今夜はさっさと帰って早めに寝よう、明日のプレゼンに備えて。

 ふと窓の方を見ると、白く雨が降り始めていた。外回りから、全員は戻っていない。ひとりだけ足りなかった。連絡もなく直帰もありえないから、この雨の中、帰社途中なんだろう。

「⋯⋯⋯⋯」

 私はロッカーからタオルを一本持ってきた。

 そうしてデスクに戻ると、ちょうどそのひとりがオフィスに戻ってきたところだった。

「おぉ、お疲れ」

 彼は気さくに片手を上げた。髪も、スーツの肩も、裾も濡れていない。持っている営業鞄はスリムで、傘が入っているということもなさそうだ。

「お疲れ、⋯⋯」

 私はとっさに、タオルを携える手を後ろに隠した。

「あれ、なんで濡れてないの」

 降り始めてから、すでに五分は経っている。車で移動したとしても、駐車場からこのビルまで、少し距離がある。雨に全く降られないはずがなかった。

 彼はのほほんと笑った。この暢気そうな雰囲気に見合わず、営業部のエースなのだから侮れない。

「降る前にビル入ってたんだよ」

 エレベーターを待っている間に降り出したのだという。

 エレベーターは二機あるが、片方が終日メンテナンス中なので、今日は長く待たされても不思議ではなかった。

「そう、降られなくてよかったね」

「いやぁ、せっかく、水も滴るいい男になれるかと思ったのに」

 彼はさぞ残念そうに言った。こういう冗談も営業の秘訣なんだろうか。

 私は笑いながら茶化した。

「滴る水も人を選ぶってことかな」

「ひでぇ」

 そう言いつつ彼も笑って、それぞれデスクへ戻る。

 彼が本日の結果を上司へ報告している。よくやった、と上司が褒めるのを尻目に私は、用意していたタオルを、鞄にぐいと押し込んだ。

2020/10/26

備えあっても憂いちゃう。

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