水も滴る
ちらと視線を落とした腕時計は、もうすぐ十七時になろうとしている。
定時前のこの時間、営業部では、外回りから社員が続々と戻ってくるところだった。
少し前に戻った私は、明日の取引先へのプレゼンに使う資料のチェックをしていた。上司にダブルチェックを頼む前に、目を皿のようにしてミスがないか探す。こういう大事なときほど、ミスは自分で見つけられないものだが、気は抜けない。
そうしてパソコン画面と向き合うことしばし。恐れているようなミスも見つからず、ほっと息を吐く。上司に明日の朝一に確認をお願いして、デスク周りの片付けにかかった。
これなら定時で帰れそうだ。
昨日は残業になってしまったからなぁ、と思い返し、込み上げてきたあくびを噛み殺す。今夜はさっさと帰って早めに寝よう、明日のプレゼンに備えて。
ふと窓の方を見ると、白く雨が降り始めていた。外回りから、全員は戻っていない。ひとりだけ足りなかった。連絡もなく直帰もありえないから、この雨の中、帰社途中なんだろう。
「⋯⋯⋯⋯」
私はロッカーからタオルを一本持ってきた。
そうしてデスクに戻ると、ちょうどそのひとりがオフィスに戻ってきたところだった。
「おぉ、お疲れ」
彼は気さくに片手を上げた。髪も、スーツの肩も、裾も濡れていない。持っている営業鞄はスリムで、傘が入っているということもなさそうだ。
「お疲れ、⋯⋯」
私はとっさに、タオルを携える手を後ろに隠した。
「あれ、なんで濡れてないの」
降り始めてから、すでに五分は経っている。車で移動したとしても、駐車場からこのビルまで、少し距離がある。雨に全く降られないはずがなかった。
彼はのほほんと笑った。この暢気そうな雰囲気に見合わず、営業部のエースなのだから侮れない。
「降る前にビル入ってたんだよ」
エレベーターを待っている間に降り出したのだという。
エレベーターは二機あるが、片方が終日メンテナンス中なので、今日は長く待たされても不思議ではなかった。
「そう、降られなくてよかったね」
「いやぁ、せっかく、水も滴るいい男になれるかと思ったのに」
彼はさぞ残念そうに言った。こういう冗談も営業の秘訣なんだろうか。
私は笑いながら茶化した。
「滴る水も人を選ぶってことかな」
「ひでぇ」
そう言いつつ彼も笑って、それぞれデスクへ戻る。
彼が本日の結果を上司へ報告している。よくやった、と上司が褒めるのを尻目に私は、用意していたタオルを、鞄にぐいと押し込んだ。
2020/10/26
備えあっても憂いちゃう。




