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黒猫からの3つのプレゼント

作者: ひまびと

 猫を探していた。

 あの時の黒い猫。

 まるで、昔見たアニメのワンシーンのような出来事。3ヶ月前、ちょうど、今頃と同じ夕方だった。




 コンビニからの帰り、コンビニで手渡されたレシートを道端に捨てたところで、女性の声で「ねえ、あんた」と呼び止められた。

 女性に縁のない俺は、気にせず、そのまま歩いていると「そこのあんたよ」と、さっきより少し強い口調で言われて、初めて振り返った。が、そこには女性の姿はなかった。


 「こっちよ」と少し高いところから聞こえてきたので、その方向に視線をやると、塀の上に、黒猫がこちらを見下ろしていた。


 「やっと気づいたわね。ニートさん」と笑みを浮かべたような気がした。だが、間違いなく、その女性の声の出所はその黒猫であった。

 俺は驚きながらも、なぜか心は落ち着いていて、とっさに出た言葉は「猫が喋るなんて、まるで、アニメだな。しかも、設定がありきたり」と口に出してしまった。が、その黒猫は、俺の方を見下ろしたまま「ありきたり?」と鼻で笑った。


 「そう、ありきたりなのよね。誰が、こんな設定にしたのかしらね」とフフッと笑った。


 「だったら、あんたならわかると思うけど……あんたが今まで見てきたそのありきたりなアニメ。その猫が人間化したときのことを思い出してみなよ」


 メス猫が人間化、もしくは、猫耳を持つ女キャラ。今まで見てきたアニメでは、みんな……かわいいと相場が決まっている。


 「ま、まさか」


 俺の動揺を見下ろしながら、黒猫は、またフッと鼻で笑った。


 「そこまであんたは理解しておきながら聞かないの。お前は何者だって?アニメの世界では当たり前でしょ?」


 「あ、お……お前は何者……ですか?」


 自分で言っておきながら、締まらない一言だった。だが、目の前の黒猫はその言葉に満足したらしく、姿勢を正した。


 「私は、あんたの諦めたもの、そのものだよ」


 「は?」


 その返事に納得いかなかったのか「だから、あんたの諦めたものなんだって。わからないかな?このニートが」と、吐き捨てるように言った。

 その強い口調に、少し胸が締め付けられるような感覚があった。昔から、こういう口調を聞くと萎縮してしまう。極端に苦手だった。苦手になった。


 「いいか?今、あんたは、気づいてないかもしれないけど、あんたは変われる。変わりたいけど、変われないって感じてる。だから、私からあんたに3つのプレゼントをしてあげる」


 「ちょ…ちょっと、待て。なに勝手に話を進めてるんだ?猫のお前がなんで決めるんだ。俺はこのままでいいんだ。変わるつもりもねぇし、満足もしている」


 30代後半に差し掛かろうとしている俺は、この現実に飽きていた。何をやってもうまくいかないし、第一、面白くない。面白くないこの世界のために、頑張っても意味なんてない。自分以外の人間も、誰1人、いいヤツなんていないし、分かってくれる人もいないということを知った。人とつるんで、無理して楽しそうにしているの奴らがバカらしく思える。


 こんなくだらない世の中で自分を変えたって、無意味だ。

 勝手なこと言うなよ。


 だが、黒猫は「だけど、すでにあんたは1つ受け取ってるんだよ」と言う。


 「はあ?何ももらってねぇけど?」


 「私と出会ったことだ」


 俺は何を勝手なことをと思いつつも、反論の言葉が出てこなかった。


 「2つ目は、電話すること」と言いつつ、黒猫は、素早い動きで塀から飛び降り、俺の脇を通り過ぎたかと思うと、また、塀の上に戻った。その口には、俺のスマホ?

 俺は、自分のポケットに手をやった。スマホがなくなっていた。

 黒猫がスマホを操作している。何か、質の悪い夢を見ているようだった。

 勝手に進んでいく展開に、目の前の黒猫を制止する言葉を思いついた。


 「俺は、他人の携帯を勝手に見るヤツは信用できないんだ」


 プライバシーの塊であるスマホ。俺のものを見ても大した情報はないけど、誰しも見られるのは嫌なはずだ。これで、あいつを止められるんじゃあないか?

 予想通り、黒猫のスマホを操作する手、いや、前足が止まった。そして、視線がこちらに向いた。


 「確かにあんたの言う通りだ。いくら私に想いがあろうとも、初対面の私をいきなり信じろと言っても無理だわ。証明出来るものがないわ。そんな私がスマホをいじってもいいなんて、都合が良すぎるわよね。だけど、今日からの関係だけど、あんたへの友情を示すことは出来るわ」


 「じゃあ、示してみろよ」と強気で返す。相手が猫だから。


 「女の私から言いにくいんだけど……いいわ。友情のためだから」と、姿勢を正し、こちらを見下ろした。


 「あんた、チャック開いてるわよ」


 え?


 俺は、頭を下げ、覗き込むようにして、股間を見た。全開だった。

 コンビニでしばらく立ち読みした。ジュースを買った。部屋で食べるお菓子も吟味した。その間、多くの客が往来したし、夕方の時間帯にいる若くてかわいいお気に入りの店員もいた。顔から火が出そうだし、膝から崩れ落ちたい気分であった。

 チャックを上げようとした時、上の方から聞き慣れたシャッター音が聞こえた。


 「友情の証だ」と笑みを浮かべた。


 「順番が逆になってしまったけど、これが3つ目。友情の証。どうせ、プレゼントのお礼なんて、あんたは言うつもりないと思うから、いらないわ。これで終わりにしてあげる」


 何がお礼だ。バカにした証拠写真をとって何様だ。


 「3つとも大事なんだけど、とにかく、2つ目があんたにとって一番大事なの。スマホに登録したから、明日必ず電話すること。それで、すべてを取り戻せるから」


 そう言って、黒猫は俺の足元に降りてきて、スマホをおいた。


 「あ、そうそう。あんた、電話する気ないでしょ。お見通しよ。でも、ごめんなさい。明日中に電話しないと呪われちゃうんで、よろしく」


 「それじゃあ、絶対にかけなさいよ」という言葉だけを残して、黒猫は塀を軽々と越えて去っていった。




 それから3日後。

 俺は、家から電車で約30分のところにある観光地にいた。

 ここは、県内でも有名な神社。数百年の歴史がある由緒ある神社で、県外からわざわざ訪れる人も多い。そのため、この境内まで長く続く参道沿いに土産店や飲食店等の多くの店が立ち並ぶ観光地である。そのなかで、一番の激戦区である参道入り口がある交差点。そこにあるお店の前に、俺は立っている。

 電話するつもりなんてなかった。でも、昔、流行った不幸の手紙とか、チェーンメールみたいに、3人に送らないとみたいなノリのものが苦手だった。あの頃も、友達に送って、胸をなでおろしたものだ。

 結局、あの黒猫の言葉どおり電話をしたところ、呼び出された。


 「いらっしゃいませ」と笑顔で若い男性が声をかけてきた。高校生くらいに見える。


 「あのぉ、今日、ここに来るように言われて」


 「ああ。奥さんに聞いています。どうぞ入ってください」


 案内されるがまま、店内に入った。一目でわかる時の経過。土足のままで入る店内の床は、傷が多く黒ずんでおり、窓は少し透明度を失っている。店内に並ぶお土産品の数々は多く、きれいに並べられているが、それを支える陳列棚や什器類の錆や痛みが隠れようがなかった。

 そんな商品の隙間を縫うように奥へ進み、レジ裏を通り、さらに奥。少し動物の臭いが漂うところに、背中を丸めた小太りの女性が座っている。服装や髪の様子から、かなりの年齢を重ねているように見える。


 「あのぉ」と声をかけると、その女性が顔だけをこちらに向ける。そして、その女性の奥にはブルドックが、女性の手に顔をすり寄せていた。

 「ああ、あんたかい?」と、女性の鋭い眼が俺を射抜く。顔や首もとに深く入ったしわが、その女性に貫禄を与えた。


 「はい、沢田と申します。宜しくお願いします」


 「いつから働けるんだい?」


 いきなりの言葉に、少し狼狽した。一応、志望動機等の面接に聞かれそうな基本的な質問に対しての回答は考えてきていたが、その女性の重圧に圧倒され「いつでも大丈夫です」としか返事が出来なかった。


 「じゃあ、今日から働きな。若人、若人はいるかい」


 「はい、奥さん、なんでしょ」と、先ほど、店のなかに案内してくれた高校生位の男性が笑顔で入ってきた。


 「若人。今日から、この人を教育しな」


 「はい、わかりました。じゃあ、早速いきましょうか?」


 「あ、はい」と若人と呼ばれた男についていこうとしたが、手に持っているものを思い出した。


 「履歴書は?」


 「いらないよ。捨てるのに困るんなら、そこに置いときな。あとで、処分しておくから」


 俺は、持って帰るのも変だと思い、レジの脇において、若人の背中を追った。




 「さっき、奥さんから呼ばれていたとおり、僕は、若人って言います。お名前をお聞きしてもいいですか?」


 「沢田です」


 「沢田さんですね。よろしくお願いします。さっそくですけど、お店を案内します。地元の方でしたら、このお店のことご存知かもしれませんけど、一応、新人さんが来ましたら、一通り案内するっていうのが決まりなんで……」


 若人に連れられ、店内に再度入り、ぐるりと歩いたあと、その店が所有する来客用の駐車場を含めた敷地内。そして、この観光地のエリアを歩いた。それだけで、約3時間を要した。おかげで、この店のおおまなか業務内容がわかった。

 大きく分けて3つの業務があった。観光客に対して、接待や販売をする店内業務。観光地に訪れた来客を呼び込みや、駐車場を管理する外回り業務。そして、来客者を案内したり、誘導したりする観光案内業務である。

 俺の目の前にいる若人は、観光案内業務が担当であり、そして、俺もここの担当になる予定らしい。

 店の方に戻りながら「まあ、簡単に言うとこんな感じです。とりあえず、あの飼い犬のブルドックにそっくりな奥さんには逆らわないこと。これだけ守れば、ここで働けます。あ、給料はそんなに良くないですけどね」と若人は笑った。


 急に、店の外が騒がしくなった。道を挟んだ真向かいのお店の客引きと何か言い合っている。


 「素人目から見ても、この観光地の一等地なんだってわかりますよね?別に仲が悪いわけでもないんですが、こういう場所ですから、時々、お客様を取った、取られたみたいな事で言い合いになるんです。ちょっと行ってきます。お店の方に戻っておいてください」


 そう言い残すと、若人は、その外回り担当の中年の男性の横について、大きな声を張り上げた。「行ってくる」というのは、あれに参加するのが目的だったようだ。てっきり、仲裁に行くのかと思って感心していたのに。

 言われた通り店内に戻った。店内のレジ付近で、奥さんが立っており。俺が入ってきたのに気づいたようであった。


 「おや?ひとりかい?」


 「若人さん、外の言い合いに参加しています」


 「また、やってるのかい?しかも参加って。若人もガキだねぇ」と豪快に笑った。


 「あんた。若人に比べたら、歳もいってるから、若人のことをガキに見えるかも知れないけど、あいつは、なかなか見所がある。なまいきかも知れないがちゃんと仕事を習うんだよ」


 奥さんはそう言いながら、数歩を歩き、腰を曲げた。その手を伸ばす先には紙くずが落ちており、それを拾ってから店の中に戻っていった。

 それと入れ替わるように、若人が戻ってきた。


 「すみません。お騒がせしました。でも、日常茶飯事。商売ですから、相手も本気、こっちも本気です。だから、負けてられないって感じなんですよ」


 すると、店の奥から「若人、新人さんと便所掃除してきな」と濁った声が飛んできた。


 「わかりましたぁ」と、大声で言葉を返した。若人は「行きましょう、こっちです」と俺を連れてきたのは、参道の途中にある公衆トイレだった。


 「ここは、お店の?」と聞くと、「まさかぁ。ただの公衆トイレですよ」と若人は笑った。


 「さあ、さっさと終わらしましょう」の言葉と同時に、手際よくトイレ掃除の準備を始めた。

 俺は、わからなかった。


 「なんで、公衆トイレを?」


 「え?汚れているからですよ。トイレは、きれいにしておかないと。きれいな方が、お客様も安心でしょ?汚いよりは、きれいな方が良くないですか?」


 「だって、お店のものじゃあないでしょ?」


 「たしかに。でも、きれいな方がいいじゃあないですか?」


 「だけどな……」と俺が言葉を続けようとしたとき、若人が「そんなことより、あれ見てくださいよ」と指差した。


 年齢差のカップル。高級そうなスーツを着た男性と、肌の露出が多く、スカートの丈が短い若い女性。

 「あれ……絶対、不倫ですわ」と真剣な表情を見せた。



 その後、掃除を終わらし、店の周りの掃除をしたところで、陽は沈みかけていた。

 奥さんが店の奥から出てきて、俺の顔を見るなり「おつかれさん。今日のところはいいよ。客も少ないみたいだし、初日だしね。帰っていいよ」


 「え、そうですか?やった!!」と若人が喜んだが、「あんたは居残り。もうすぐ、団体さんが帰ってくるから、売店の手伝いだよ」


 「えぇ。そうなんですかぁ?」と肩を落とした。


 あっという間に1日が終わった。家に帰ると、そのまま、ベットに倒れこんだ。久々に外の空気を吸ったような気がした。そして、いつの間にか、眠りに落ちていた。



 次の日から、流されるがまま、お店に出勤し、若人について仕事をしていた。

 お客様の車の誘導に観光案内、そして、売店での売り子。お店のすべてのことをやった。若人曰く、「最初の3か月間は、すべての仕事をするんです。そうすることで、このお店の業務の全体が理解出来ます。理解が出来れば、自分に与えられた仕事の意味や、すべきことが見えてくるって奥さんが言っていました。実際、僕もやりましたし、他の方もやっています」とのことだった。


 そして、1日の業務の中に、必ずトイレ掃除が含まれていた。


 毎日、いろんなお客様がこの地に訪れていた。

 夫婦、友達、カップル、ベビーカーを押している家族、高齢者、車いすの方に、一人旅の人。また、来られる手段も様々で、自家用車はもちろんのこと、公共交通機関、観光バス。人の様子や、手段が多岐にわたっているが、すべてに対応しないといけない。



 常に臨機応変な対応を求められる仕事である。が、若人は、嫌な顔をするどころか、笑っていた。


 「あの二人組の女の子。どっちがタイプですか?」


 「高齢者の夫婦かぁ。僕もこんな感じの隠居生活したいものです」


 「あの子供かわいいなぁ。あ、僕、ロリコンじゃあないですからね」


 目につくこと、なんでも楽しんでいた。そして、「やっぱりきれいな方が、お客さんうれしいでしょ」と言い、トイレ掃除を嫌な顔一つしなかった。そして、初めてお店に来た時に見た奥さん同様、何も言わずに、落ちている紙くずや空き缶、ペットボトルを拾っていた。


 その様子は、ごく普通であった。まるで、人間が空気を吸うように、人間が歩くように、人間が笑うように、ごく当たり前の行動のなかに組み込まれていた。



 時々、テレビで見る、都会での大きなイベントのあとに自主的に掃除していますと、大きな袋を持った若者たちが、都会の通りを闊歩する映像。そして、ごみ袋が積み上げられた映像を流しながら「若者たちは、街を汚すだけでなく、きれいにもします」みたいな、美談として取り上げられる。

だが、ここにはそんな美談は存在しない。だから、大きなゴミ袋が積み上げられることもない。

 目の前で、若人がしているのである。俺も仕事だけでなく、ごみが目に付いたら拾うように心がけた。




 そんな日々が1か月続いた。

 1人でトイレ掃除をしていると、「頑張ってるにゃあ」と、頭の上から、女性の声が聞こえてきた。見上げるとトイレを囲う塀の上で、黒猫が見下ろしていた。


 「様になってきているにゃあ」


 「今さら、猫っぽく話しても、いまいちだわ」


 「まあ、まあ。気にするな。それよりも、約束通り電話したんだにゃあ。しっかり仕事もしているみたいだし。感心、感心」


 「うるせぇよ。それに、もっとちゃんと説明しろよな。説明があったら、もっとカッコイイ仕事をお願いしていたところだぜ」


 「でも、そんなに悪くないでしょ?」


 そう言われれば、そうかもしれない。1ヶ月前に比べると、生きているという実感がある。だが、認めたくはない。


 「そんなことより、今日は何の用だ?また、3つプレゼントがあるのか?」


 「そんなもの、もうないにやぁ。あの日に渡したのがすべて。そして、今日は、あんたの顔を見に来ただけ」


 「そうかい。じゃあ、好きなだけ見ていいよ。俺、さっさとトイレ掃除終わらして、次の仕事に戻らないといけないから」


 「ソウスル……ニャア」


 黒猫は、塀の上でお腹をくっつけ、日向ぼっこをするように、静かに伏せた。

 俺も、視線を感じながら掃除をする。そして、それが終わるころには、黒猫はいなくなっていた。

掃除を終え、トイレから離れようとしたとき、トイレの脇に設置されているゴミ箱周辺が散乱していたので、手早く片付け、若人の所に戻った。




 若人は観光案内が終え、戻ってきたお客様を店内に誘導していた。俺も、手伝いに入る。お客様の誘導を終え、店の外へ出た。若人が、何か真剣なまなざしで遠くを見ていた。


 「ねぇ、沢田さん。あの後ろ姿、ゾクゾクしませんか?めっちゃべっぴんな気がしませんか?」


 若人が興奮ぎみに言ってきた。その視線を追うと、スタイル抜群の女性が1人で歩いている姿があった。


 「やめておけ。あれは、がっかりするパターンだ」


 特に、なんの確信もないが、少なくともかわいかったためしがなかった。ただ、それだけである。

だが、若人は、俺の言葉をどのように受け取ったのかわからないが「じゃあ、あの人がべっぴんだったら、沢田さんのおごりですよ」と言い、女性を追った。


 女性の脇を通りすぎ、しばらくしたところで何か忘れ物をしたようなわざとらしい演技をする。そして、踵をかえし、こちらの方に振り返りゆっくりと歩いてくる。女性の横を通り過ぎる時、目線は不自然な程、女性に向けられ、すぐに目を離す。そして、こっちまで戻ってきた時の若人の表情を見て、結果を察した。


 「何でわかったんですか?さすが、先輩です。僕とは経験値が違いますね」


 いや、たぶん、俺よりおまえの方が経験値高いかもよと思いつつも、フッと鼻で笑い、先輩面をした。


 「じゃあ、お昼、ごちそうさま」


 「え?そうなんですか?」


 「当たり前だろ。タダでリスクなんて負うわけないだろ。リスクにはリターンが付き物だ。社会人の常識だよ」


 若人は、大きなため息をつきながら「わかりましたよ」と肩を落とした。



 後続のお客様が戻る前に、店内の整頓や店回りの片づけを始めた。


 「きれいにしときましょうね。お客様も汚いよりは、きれいな方がいいに決まっていますから」と若人は口癖のように言いながら、僕に指示を出してきた。

 一回り以上の年齢差だが、悪い気はしない。それは、どこか惹かれる部分があるのだろう。俺に持っていないものを持っている。たぶん、そこだと思う。

 そして、今日も若人と共に業務をこなして行った。



 この店に訪れて3か月経った。

 だんだんと近づく、観光シーズンの繁忙期。徐々に増えてくるお客様の数。そして、奥さんの声量も大きくなっていった。


 「沢田さん、ちょっといいかい?」と奥さんに呼ばれた。


 「ここに来たとき言ったよな。3か月間の試用期間経て、その後、最終的に続けるかどうかの確認の上、採用を判断すると」


 そんなの聞いたか?と俺は首を傾げるが、この3ヶ月間でわかったことがある。若人にも言われたこと。「奥さんに逆らうな」


 「で、どうするんだい?」


 この3か月間、ただ、若人について働いてきた。以前、勤めていた仕事に比べると、どこか生きているという気がした。どちらかというと、自分の中で楽しくなってきているような気もする。


 「もしよかったら、このまま……」とすべてを言い切る前に、「よし、分かった。では、明日から、観光案内を覚えな。1人で出来るようになって一人前じゃあ。若人に伝えておく」と言うだけ言って、店の奥へ入って行った。



 「沢田。いい加減に数字上げて来い。この半人前が」という前職の頃の声がよみがえってくる。だが、ここでは、成長させてくれる何かがある気がした。



 店の外へ出た。間違いなく来客者が増えてきていた。そして、足元に落ちているゴミも増えているような気がする。僕は、それを拾い、店舗の外に設置しているゴミ箱に入れてから、若人の姿を探した。


 忙しい日々のなか、自然と体が慣れてきていた。体力的にも余裕が出てきて、帰ってすぐに寝るということはなくなった。家の鏡の前に立つと、日焼けした自分の顔が映っていた。心なしか、少し引き締まったような気もする。


 我が家のトイレはきれいにされていた。母親はマメで、きれい好き。トイレだけでなく、この洗面も。また、俺の部屋も、勝手に入ってくる。文句を言っても、俺が目を離しているうちに掃除をしてくれていた。だから、我が家はきれいだった。それが普通だと思っていた。

 だけど、この3ヶ月でいろんなことに気づかされていた。そして、そのきっかけを作ったのはあの黒猫。


 黒猫と話したくなった。


 僕は、初めて会った場所を探す。


 1時間ほど、行きつけのコンビニから、自宅までの道筋を中心にあたりを探したが見つからなかった。すでに周りは暗くなっていたので、この日はあきらめた。

 次の日、仕事の合間にも、黒猫の姿を探した。

 見つけた。と思ったが、あの黒猫ではなかった。第一、しゃべらない。しゃべらないのが普通なのだが。

 同じように黒猫を探す日々が続いていた。だが、結局、見つからなかった。

 数日後、夕方、トイレ掃除をしているところに、一匹の黒猫が塀のところでこちらを見下ろしていた。あの黒猫だ。


 「おい、探したぞ」


 初めて、俺から声をかけた。

 だが、帰ってきた声は「にゃあ」という声だけだった。


 「ふざけてないで、しゃべれよ」


 「にゃあ」


 「お前、言葉は?」


 黒猫は、ただ見下ろしていた。





 あ、そっか……






 僕は、黒猫に微笑み、そして、トイレ掃除に戻った。

 トイレ掃除を終えても、今度はその黒猫は姿を消していなかった。

 黒猫の頭を軽くなでると、その黒猫はゆっくりとその場から離れて行った。



 「ねぇ、沢田さんって彼女いないんですか?」と休憩中に若人が言ってきた。


 「ああ、いないよ」


 「そう言う人に限って、かわいい彼女の写真を携帯に入れてたりするからねぇ」と、俺の携帯に手を伸ばし、写真のアルバムアプリをクリックした。


 「お前、何勝手に……」


 「あれ?変な写真。彼女に頭下げてるんですか?」


 俺が深々と頭を下げている写真であった。思わず、「あっ」と思い出した。

 黒猫が言った言葉。


 「これが3つ目。友情の証。どうせ、プレゼントのお礼なんて、あんたは言うつもりないと思うから、いらないわ。これで終わりにしてあげる」


 まるで、黒猫に対して、深いお辞儀をしているような写真。


 今、まさに黒猫に伝えたかった事だった。


 黒猫は、すべてを知っていて、この写真を撮っていたんだ。


 「名前くらい、聞いとけばよかったなぁ」


 「え?知らない女なんですか?」


 「違うよ」と、俺はその画面を閉じた。





 繁忙期も直前。


 「だんだん、忙しくなってきたね。これから、ほとんど休みがなくなるよ。だから、鋭気を養うのも含め、今度の水曜日は休みにするよ。みんなに言ってきな」


 奥さんの言葉。一番下っ端の俺、そして、その隣には若人。


 酷使したと思われる、そのしわがれた低い声がその人生の重みを感じる。

 それと同じように、この店も長年、お客様を受け入れた傷や汚れがあった。

 汚いわけではない。だけど。


 「奥さん、お休みのことは、まだ、誰にも言ってないんですよね」


 「何だい?」


 奥さんの言葉は絶対だった。だけど、言いたかった。


 「せっかく、お店を閉めるんでしたら、掃除しませんか?」


 僕は、足元に視線を落とした。


 「なるほど」と奥さんは笑みを浮かべた。


 「これから、お客様がたくさん来られるのだから、お客様の居心地が……」と僕が言い終える前に、奥さんが「新人の割には、わかってるじゃあないか。よし、じゃあ、大掃除にしよう。かなり傷んでいる店だから、きれいになるかどうかはわからないけどね」と笑みを浮かべた。


 奥さんが店の奥に向かって「ちょっと、あんたたち、窓ふき用の洗剤と床用のワックス、あと適当に掃除道具を買ってきな」と叫んだ。


 年季の入った声だが、とても良く通る。


 奥から、お店で働く息子二人が顔を出す。


 「マジかよ、掃除すんの?休みじゃあないのかよ」


 「うるさい。さっさと買ってきな」


 奥さんの言葉は絶対であった。

 隣の若人の顔を見た。若人も含め、他の仲間の休みを奪ったわけだ。奥さんの息子でさえ、文句を言っている。



 若人は笑っていた。


 「いいんじゃない?お客様のために……ね」



 そう、自分ではなく、大切な方のために。



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