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我の螺旋

作者: 三蒼核

我の螺旋





ここに来た時には晴れていた空が雨に変わり、しとしとと屋根を叩く雨音が聞こえる。


やはりイギリスは雨が多くジメジメしている。気の抜けない仕事中にそんなことを考える。雨は嫌いだ。持病の頭痛が酷くなる。



ーーFrom A.D.2021_England-Oxford



綺麗に整頓された研究室にカチコチという時計の音が響いている。

その音に次いで聞こえてくるのは呼吸音だ。恐怖が入り混じる浅い呼吸。そして早い鼓動。無言で、静寂と言われる時間が続いても、世界は決して真の無音にはなりえない。生きるとは常に音と共にある。

これは先日僕のカウンセラーが言っていた言葉だ。


「助けてくれ‥か、金ならないぞ」


こめかみに銃口を押し付けられ跪いた男がやっとの思いといった様子でそう絞りだす。なんともありきたりの命乞いをするこの男の名前は、ドクター・ノーマン・オーウェル。


彼は決して頭が悪いわけではない。むしろ、天才の部類に入る人間だ。MITへ飛び級で入学し、現在オックスフォードに自分の研究室を持ち、今まで映画や小説の中だけの存在だったナノマシンの研究をし、その道の第一人者として名を馳せている。即ち、賢さと語彙の豊富さは比例しない。これは僕の経験則だ。


仕事柄天才と呼ばれる人間と関わる事が多いが、彼らだって只の人間だ。この穏やかな日常がいつまでも続くと無意識に思い込んでいる、信じ込んでいる只の人間だ。


その日常がなんの予告もなしに急に脅かされたら誰だって頭が真っ白になる。誰もが今日が人生最期の日だと思って生きていない。無条件に明日が来て当然と思っている。まともな人間であれば、その思考は正常だ。だから毎回ありきたりな命乞いをされたところで、哀れには思わない。


「頼む‥殺さないでくれ。私がなにをしたっていうんだ」


僕があれこれ考えているとドクター・ノーマンが唸るような声でそう言う。


それはそうだ。自分がとった如何なる行動言動がこの状況を引き起こしているのかその原因を知りたいと思う思考は十二分に理解できる。本人が納得できるかどうかは別として、僕はその質問に答えることにした。


「何もしていません。いや、正しく言えばこれからするんです」


「一体何を言っているんだ。意味がわからない」


「わからなくて結構です。理解させる為に言っているんじゃありません。事実を言っているだけです。ドクター・オーウェル。二十年後あなたは革新的な医療ナノマシンを開発し、ロンドンでナノマシン会社を設立。ナノマシン市場を独占する。それこそ、他国の参入する隙を与えないくらい世界はあなたの開発したナノマシンで溢れかえる。その技術が、我が国には必要なんですが、あなたの存在は必要ないんですよ」


「ハイになっているのか?知り合いに腕の良い医者がいる。紹介しよう。だから銃をおろしてくれないか」


ドクターの目から恐怖の色が薄くなり、哀れみの色が濃くなった事からも、どうやら本気で僕をジャンキーと思ったらしい。


「ドラッグはやっていません。僕は随分前からクリーンだ」


そう言うと、ドクターは何かに気付いたような表情になり、その顔は急に血の気を失ってゆく、それはこの状況に対する恐怖ではないことは博士の表情から明らかだった。


「ブルーノ? 君はブルーノ・オリオラスか?」


聞き覚えのない名前だ。知り合いの名前か。それとも、適当な話をして僕の隙を伺っているのか。だが、ドクターは僕の目を真っ直ぐに捉えていた。微表情を読んでみても、嘘を言っているとは思えない。


「知らない名ですね。どなたかと勘違いされているのでは」


僕は素直にそう告げる。


「‥そうか。それは失礼した。ところで、先ほどの話だが、そんな話、到底信じられない。技術提携の話だとして私のナノマシン技術はまだ実用段階には程遠い。もし君の言ったことが本当だとして、どうして君がそれを知っている。まるで二十年後の未来から私を殺しに来たような口ぶりじゃないか。タイムトラベルだと。そんなもの、妄想の産物だ」


「妄想ではないですよドクター。現実です。僕は未来から任務で来ました。未来から、あなたの研究成果を貰い受けに。そして、あなたの存在を無かったことにするために。最後にいいことを教えてあげます。二十年後には時間跳躍技術が開発されているんです。ご参考までにその技術は、『ハーバート』と呼ばれています。ワオ、ドクター、あなたは今未来を知りましたよ」


そう、大袈裟にはしゃぐ様に言って僕は銃の引き金に力を込める。銃がカチャと軋む。


「待て。待ってくれ。信じる。信じるから殺さないでくれ。家族がいるんだ。頼む」


と博士は身を起こし、僕から距離を取るため勢いに任せて背中から机に向けて突っ込んだ。机の上に置かれていたものが乱雑に床に散らばる。リモコンが落ちた拍子にオーディオ機器のスイッチを入れたらしく、陰鬱な音楽が部屋中に立ち込める。


「信じようが信じまいが、結果は変わりません。あなたが生きていれば世界は変わってしまうんです。さようなら。ドクター・オーウェル」


「ああ、神様、神様どうか助けてください。神さ‥」



ぱんっ



ドクターの言葉を遮り、研究室に乾いた破裂音が響く。無機質な黄緑色の壁に、勢いよく血と脳漿が叩きつけられる。それと同時に制御の失ったドクターの身体が自然に不自然な形で床に倒れこむ。


人間の最初と最期の行動はだいたい似たり寄ったりになるーー少なくとも僕が人生を終わらせてきた人達はーー最初の行動は産声をあげ、最期の行動は神に祈る。それは無意識から来る反射的行動なのか、それとも本当に神様の救済があると思っているのか。どちらにせよこの現象は、とても興味深くてスピリチュアルなことだと思う。何か見えない糸みたいな意識で人間が繋がっているのかと錯覚するくらいに。僕は無神論者だけど、最期の瞬間には神様に助けを求めるのだろうか。そんなことを考える。


手早く後処理を済まし、ドクターの研究データをコピーし、マスターデータを消去する。コピーが終わるまでの待ち時間で僕はタバコに火を点ける。煙を吐き、壁に目をやると、さっき飛び散った血飛沫と脳漿のシミが目に入る。それは壁との色合いも相まって、ダイナミックなペイントアートの様に見えた。


見る人が見ればこのシミは前衛的な芸術に見えたりもするのだろうが、残念ながら僕は芸術に造詣が深くない。だからそのシミを美しいとは思えず、只の汚いシミにしか見えなかった。スピーカーから流れ続ける陰鬱な音楽も僕の芸術性を刺激する役を買って出てはくれなかった。


今回の仕事もいつもと変わらない。何も特別なことは起きない。世界は正しく廻っていて、僕は元気だ。



ーーfrom A.D.2045_U.S.A-Los Angeles



任務先から戻るとまず、所属する情報局時間情報部のオフィスに向かう為にエレベーターに乗り込む。扉が閉まるとタバコに火を点ける。上昇していく狭い箱があっという間に煙で満たされてゆく。喫煙禁止を警告するアラートをBGMに僕は先日見た壁のシミを思い出す。


何故規則性のないインクの飛沫が芸術的に見えるのか、偶発的なものに美しさを感じているのか。以前、恋人と美術館にキュビズムを見に行った時、ピカソの絵を「ただの落書き」と評したことで、大いに恋人の反感を買ってしまってから芸術は苦手分野だ。そういえば、彼女の名前は何ていったっけ。


目的の階に到着し、扉が開くと同時に充満した煙が吐き出される。宇宙船から下船したエイリアンみたいだと思いながらエレベーターを降りる。そこには、だだっ広い白い空間が広がり、沈黙を以って僕を受け入れる。五十メートル程先には高級オーク材のデスクがあり、そこには美しいブルネットの髪を丁寧にまとめた局長の秘書、アビゲイル・シュアが鎮座している。いつもの光景だ。


アビゲイルのデスクまで歩く間、ID、網膜、指紋、声紋、歩行、静脈パターン、ナノマシン照合、様々なバイオメトリクス認証スクリーンが眼前に現れては許可のグリーンランプを灯し消えていく。僕は若干のうっとおしさを感じながら歩くスピードを緩めずにそれらのスクリーンをすり抜けていく。この認証が拒否された場合、セキュリティが作動して床に穴が空いて階下に落下するとか、天井が開いて槍が降ってくとか、壁からレーザー銃が飛び出し、ビームで焼き払われるとか、社内でそんな噂がある。何故それらセキュリティのセンスが前時代的なのは設計者の美意識なのか、はたまた根も葉もない噂なのか、真相は謎である。仮にその噂が真実であったとしても、それを拝む事になるのはまっぴらごめんだが。


幸運にもそれらのセキュリティは作動せず僕はアビゲイルのデスクにたどり着く。


「やあ。アビゲイル。調子はどうだい」


僕はくわえ煙草のままそうアビゲイルに声をかけ、コートの内ポケットから今回の出張の成果であるメモリー端末を机の上に置く。天才が故に先日僕に人生を終わらせられる羽目になった哀れな科学者、ドクター・オーウェルの医療ナノマシンの研究データだ。


アビゲイルは無言のままメモリー端末を無駄のない所作で受け取り、傍にあるデスクトップに接続する。音もなくキーを叩くと、データが半透明のスクリーンに映し出され、確認作業が行われる。彼女の無口はデフォルトなので僕はしばしの沈黙を楽しみつつタバコを燻らす。


「はい。問題ありません。お疲れ様でした。ミスタ・ウェストン」


確認作業が完了し、アビゲイルが事務的な本日最初の言葉を発する。僕は安堵の気持ちと共に煙を吐き出す。


「そうだアビゲイル、最近いいバーを見つけたんだ。今夜飲みに行かないか」


「次の任務は三日後、ノサッジカンパニーからの依頼です。出張先はA.D.2030、こちらに資料をまとめていますので目を通しておいてください。」


清々しい程にデートの誘いを無視され、僕は彼女が差し出す次の任務の資料が記録されたメモリを受け取る。アビゲイルの後ろにある長官室の扉に目をやり、局長は元気かと尋ねると彼女は、はいと素っ気ない返事をし、再び事務的な口調で仕事後の体調管理について説明を始める。


「先ずは規定通りに投薬とカウンセラーによる時間解離性障害防止のメンタルケアを受けて下さい。それと、今回の仕事でA.D.2021で過ごした日数は二日間なので、今、ミスタ・ウェストンは現時代と二日間のアルバート・ラグ(時流ボケ)があります。時流を現時代に同期し、フラットな状態に整えて下さい。喫煙には各種病気のリスクがありアルバート(時間遡行)にも悪影響を及ぼす可能性があるので禁煙を推奨します。それとこのフロアは禁煙です」


そう言ってアビゲイルはデスクから灰皿を出し、僕に向けて突き出した。このやり取りも今や恒例化して、自分は勿論アビゲイルも楽しんでいる雰囲気がある。


「でもなアビゲイル。タバコには高ぶった神経を落ち着ける作用があるんだ。それにこのフロアは喫煙禁止のアラートが鳴らない。ということはこのフロアは禁煙可能ということにならないか」


「なりません。常識的に考えて下さい。普通、局長室のあるフロアで喫煙をしようという輩などいません」


そう言ってアビゲイルは灰皿を持った手はそのまま、キッと僕を睨みつける。常識ねぇ。とため息をつきながら僕は咥えていたタバコを消す。因みに僕たちのこのやり取りは任務の度に行われる恒例行事と化している。毎回言うことを聞かない僕に対して毎回同じ対応をしてくるアビゲイルはもしかしたらこのやり取りを密かに楽しんでいるのではないかと最近思い始めている。


「時代ごとの各種感染症予防の投薬も忘れないで下さい。私からは以上です」


灰皿を無駄のない所作でデスクにしまうとアビゲイルはそう告げる。


「イエス・マム」


僕はそう答えてアビゲイルのデスクを後にし、エレベーターへと向かう。帰りはうっとおしい認証もないので気が楽だ。


「ミスタ・ウェストン」


急な呼びかけ振り返るとアビゲイルは僕の方を見ずにこう続ける。


「三日後の任務が終了すれば貴方は一週間の休暇に入ります。その際に先程のバー、お付き合い致します」


最早忘れかけていたデートの誘いに対する絶妙なタイミングでの回答に、僕は面食らった。動揺を悟られないようにタバコに火をつける。そして慣れないが、喜びを前面に出した笑顔を作り、こう答えた。


「イエス・マム」







2034年に時間跳躍技術、所謂タイムマシンが開発され、その技術は創始者の名に因み『ハーバート』と名付けられる。

長年空想の産物だった時間旅行が可能になるかもしれないというそのニュースに、世界はその技術に大いに注目した。実用化も間近と言われていたが、人体実験の段階で重大な問題が見つかった。開発されたタイムマシンというのはタイマーで目的の時代での滞在時間を設定。肉体をスキャンし、目的の時代の原子で出力し、ーーつまり出力された自分は紛う方なき自分だが、その構成原子は完全に同一ではないーーその肉体に意識を転送する技術をいう。


設定した滞在時間を過ぎると肉体を構成している原子が分解され、意識が強制的に現代に引き戻される。それは散歩をしていようが、食事をしていようが、女と寝ていようが、それこそ殺人の最中だろうが例外は無い。目一杯伸ばしきったゴムが元の形に戻るように唐突に意識が現代に引き戻されるため被験者には重度の時間解離性障害の症状が現れたのだ。


一瞬で変化する現実に脳の認識能力が追いつけない事が原因らしい。時代が、科学が、いくら進歩しても人間そのものが進化しない限り、人間はどうしても人間でしかありえない。人間ごときが神が創造した聖域を侵してはいけないという警告だ。時間こそ神がお創りになった世界を世界たらしめる概念なのだ。それを蚕食する人間には必ず大きな罰が下されると訴える宗教家もいた。


そういった経緯や世界中の宗教団体の激しい抗議がありハーバートは実用には至らなかった。

だが、僕の所属する諜報機関、RHカンパニーがハーバートの技術を買収し、表向きには世界で起こった犯罪、テロを、過去に遡及し、それらの原因となった対象を暗殺するという名目で合衆国に認可を受け、ここロサンゼルスのRHカンパニー、情報局時間情報部内で密かに稼働している。世界は遂にタイムマシンを手に入れたというわけだ。ハーバートは有効に活用され、ここ十五年の間、現代では大量殺人、テロは起きていない。


しかし「表向き」という呼称が示す通り、革新的技術は正義、平和の為だけには使われない。それは歴史がしっかりと証明してくれている。合衆国にとって不利益な技術や情報は歴史から消去するか技術のみを取り入れてきた。その結果出来上がったのが今の合衆国《つぎはぎの国》である。おかげで現在、世界中で使用されている革新的技術はそのほとんどが合衆国発だ。当然といえば当然だ。過去でどんな悪事を働き歴史を改変したところで世界では今こそが正しい歴史なのだから、どれほど過去が改変されたところでその事実を認識する事自体が不可能なのである。たとえ隣の家から高級品を盗んだとしても誰も知らなければ罰せられることはない。


「お前がそういった汚れ仕事をやっているからこそ我々合衆国民は安全な生活を送れ、ベッドで安心して眠れるわけだ。事後対処しかできない警察なんかよりよっぽど役に立っているじゃないか。もっと自分の仕事を誇りに思え」


「僕の仕事も基本的には事後対処の部類に入ると思いますが」


そう喉元まで出かかったが、女性精神科医のミア・マーシャル博士は自分の言葉の矛盾に気づかずバーボンのグラスを傾けながらけらけら笑う。


壁一面に整然と酒瓶が並ぶその様は太陽光がよく入る白が基調のカウンセリングルームの中で異彩を放っている。


「どうした。バーボンは苦手だったか。I・Wハーパーの四十年ものだぞ」


博士は目の前の丸テーブルにグラスを置き、その対面のソファに腰掛ける僕に向けて声をかけながらボトルの注ぎ口を突き出してくる。


「博士。いつも思うんですがカウンセリングに酒は必要ですか」


「無論必要だ。お前達『セパレーター』は平均寿命極端にが短いからな。少しでも人生を楽しいものにしてやろうという私からの計らいだ。酒は人生の潤滑油だぞ。なぁ? デール・ウェストン」


癖のある人懐っこい笑い方をする博士に反論する気力を失った僕は新たに注がれたバーボンをぐっと喉に流し込む。消化管が熱を帯びてゆき、内臓の輪郭を感じる。

『セパレーター』とは僕の仕事の呼称だ。主な任務は過去へ遡及しその時代での諜報活動。その活動はもっぱら歴史的犯罪者と合衆国に不利益な技術と開発者の命を根こそぎ奪うことだ。依頼人は合衆国の大手企業。その依頼内容には女、子供の暗殺など人道に反しているものも数多くある。実際、その精神的負荷は相当なもので、過去三人いた前任者達も全て死亡しているという事実がセパレーターの平均寿命が極端に短いと言われる理由だ。


「博士、前任者達ってどんな人たちだったんですか」


カランとグラスの氷が落ち、その音が部屋に溶けていく。暫くして博士が口を開く。


「お前が他人に興味を持つなんて珍しいな。どういった心境の変化かな?」


「僕もいつ死ぬかわかりませんからね。前任者たちがどのように死んでいったか後輩としては知っておきたいと思ったので。それに、セパレーター専任のカウンセラーである博士ならこの仕事のことはきっと僕よりも詳しいはずですし」


ふむ。とグラスを傾けながら博士はまだ半分以上残っていたバーボンを一気に飲み干すと、過去を懐かしむかのように語り出す。


「そうだな、守秘義務があるから多くは話せないが、良いやつらだったよ。性格はみんなバラバラだったから、毎回退屈しなかったしな」


「彼らともカウンセリング中に酒を飲んでたんですか」


僕の皮肉交じりの質問に博士は「もちろんだ」と返し、得意げな表情で続ける。


「精神科医は相手の本心を聞き出してこそ適切な治療ができる。本音を聞くにはどんな薬より酒が効果的だ。それに本音で語れば良い友人関係も築きやすい。私がお前たち患者をファーストネームで呼ぶのもその方が治療に効果的だからだ。酒が一番。アルコール万歳」


高らかにそう宣言する博士に僕は心の中で「不良精神科医」と毒づくが、不意に博士の顔が曇ったのを見逃さなかった。


「だから、死亡通知書が届けられた時のあの感覚はいつまで経っても慣れないよ」


そう話す博士の表情からは昔の患者や友人について語るというより、自分の子供について語るような、そんな感情が見て取れた気がした。


「それはそうと、デール」そう言いながら博士はソファから腰を上げ窓の方に歩を進め、僕に背を向けたまま話し始める。


「お前、まだ仕事中にターゲットと話す癖が抜けてないようだな」


「何か問題がありますか。確実に殺すターゲットと話をしてもT・P(タイムパラドクス)規定に違反はしていないと思いますが」


僕らセパレーターは、時間遡及するという仕事の特性上多くの規定がある。その中の一つにタイムパラドクスに関する規定がある。無闇な過去改変を避けるために遡及先の時代では極力その時代の人間との接触を避けなければいけないという規定がある。これに違反するとセパレーターとしての資格を剥奪され、故意に歴史を改変を加えようとしたと見做され逮捕、投獄されてしまう。


「確かにT・P規定には違反していない。だが、お前のその行為はあまり感心できないな」


「どういう意味ですか」


博士の言ってる意味がわからず、僕は聞き返す。


「会話で人体には数多くの影響が出る。特に脳は脳内物質が分泌され、カタルシス効果を始め様々な感情が脳内を駆け巡る。一例として、ストレスが減る。考えが整理される。自己理解が増す。それとーー」


博士はなおも背を向けながら窓の外を見ながら話し続ける。僕は博士から視線を外し、耳だけで博士の声を拾う。


「何かを思い出そうとしている、とか」


不意に耳元で博士の声が囁く。反射的に僕は声の方向へと顔を向ける。

だが、博士は先刻の位置から微動だにせず、窓の外の常緑樹を見ながら話を続けていた。まだ耳には生々しく今の声が残っている。不快さをかき消そうと僕は耳を手の腹で力任せに拭った。


僕の視線に気づいた博士はこちらへ向き直り、「どうした、大丈夫か」と声をかけてくる。


「い、いや、なんでも無いです。大丈夫です」


僕は何故か、慌てて取り繕うように平静を装おうと努めた。


「なんでもなく無いだろう」という博士は僕の下腹部付近に目を落とす。

博士の視線に追随して自分の下腹部付近に目をやると、バーボンが僕の色褪せたジーンズの大腿部に大きなシミをつくっていた。どうやら、振り向いた時の勢いで派手にこぼしてしまったようだ。グラスにはもう殆ど中身は残っていなかった。湿り気に不快感を催す。


博士は短くため息をつくと、僕にタオルを手渡し、中身が溢れでてしまったグラスをバーボンで満たしていく。


「それにだ、もし、会話の最中に隙を突かれて反撃されたら、どうするつもりだ」


「相手がなにをしようと殺します」


僕は即答する。博士の目を真っ直ぐに見つめたまま。博士の大きな虹彩に映る僕の顔はなんの感情も映していなかった。カウンセリングルームにしばしの沈黙が流れる。


「そうか」


自分のグラスに口を付けつつ博士は短く答える。


「だが、結論から言うと、お前のその行為はお前自身に危険を及ぼす可能性があるということだ。危険因子は少ないに越したことはない」


「その意見は医者としてですか」


僕は先ほど感じた違和感の正体を突き止めようと、そう博士に問いかける。


「半分はな」


「半分?」


「デール。お前、セパレーターの仕事を初めからどれくらい経つ」


「なんですかいきなり。そろそろ五年になりますけど‥」


「どんな仕事も慣れてくると、ついミスが出る。私の言葉は、できるだけお前が危険な目にあって欲しく無いという親心だ」


博士は少し悲しそうな笑顔で僕にそう告げる。


「親心‥」


その言葉に胃がむかつきだす。感情がざわつく。

嫌なことを思い出した。無理矢理バーボンを流し込み、脳に酔え、酔えと、指令を送る。


酔いで、ざわつく感情を紛らわそうとするように。何も思い出さないように。



母親は物心ついた時から家にいなかった。だから母親の顔は覚えていない。父親に至っては、顔より、拳の形の方が記憶に残っている。


オークランドに生まれた僕は、酒飲みでヤク中のクソッタレな父親に育てられた。無口で友達もできなかった僕は、毎日孤独だったことを覚えている。年中クスリでハイになっていた父親は、毎日のように僕を殴った。


ただ殴られる日はまだ良い方で、酷い時には、僕を壁に縛り付けてハイネケンのボトルを一ダースほど投げつけた。おかげで僕の右の眼球は破裂し、脳と内臓に重篤な障害を負った。致死量ギリギリのクスリを打たれて、オーバードーズで死にかけたことなど数え切れないほどあった。


そんな、いつ死んでもおかしくない生活が五年ほど続いたある日、あっけなく父親は死んだ。ギャングのクスリに手をつけて撃ち殺されるという、どこにでも転がっているゴミみたいな最期だった。


孤児院に入れられた僕は、そこでも孤独だった。一言も話さなかったせいか、みんな僕を君悪がり、誰にも話しかけられず、誰とも仲良くなれないまま日々を無為に過ごしていた。孤児院の職員たちも必要最低限の接触以外、僕に関わろうとしなかった。


あの時の僕は、死ぬのを待ってる、ただ呼吸をして、ただ血が循環しているだけの腐った死体だった。


そんな日々もある日唐突に終わりを迎えた。孤児院にRHカンパニーの職員がやってきて、僕ら孤児にコードのたくさんついたヘルメットをかぶせ『テスト』と称し、銃を撃たせたり、色々な映像を見せられたり、たくさん注射を打たれたりした。


その『テスト』が何を意味するのか解らなかったが、孤児院内で唯一、僕だけが『適正アリ』とされ僕の身はRHカンパニーに置かれることとなる。

のちに聞いた話によると僕が『適正アリ』と判断された理由は過去に負った脳の障害によるものだと聞かされた。



● 平均より高い知能指数


● 極度の共感性欠乏


● 如何なる状況下においても感情変動の兆候ナシ、等



カウンセリングを終えた僕は、全く酔いの回っていない頭を抱えながら、腹の底に深く沈殿している不快感をどうにか取り除こうと、目についたパブの奥を陣取り、ビールを呷っていた。もう三杯目だ。


初めて入ったパブだったが、落とされた照明と、少しさびれた内装が妙に落ち着いた。


壁に投影されたスポーツ中継をぼんやり眺めていると不意に右肩を小突かれた。反射的にそばにあったフォークを手に僕は立ち上がる。


「おいおい。そんなに驚くことないだろう。随分久しぶりじゃないか」


そこに立っていたのは筋骨隆々の黒人の大男だった。


「誰だあんた」


僕は酔っ払いに絡まれたと思い、威圧的な態度で彼の言葉に応える。フォークを握る手に力が入る。


「なんだ、酔ってるのかクリス。はっはっは、こんな所で会えるなんてな。今日は良い日だ」


力任せにハグしてくる大男の力は思った以上に強く、振りほどけない。そのおかげで僕はむさ苦しい男の胸板の中で反論するしかなかった。


「僕の名前はクリスじゃない。離してくれないか」


僕がそう告げると、大男はあっさりとその手を離し、僕に謝罪してきた。


「あれ、あんた、クリス・アビオットじゃなかったか。いやぁ申し訳ない。つい何年も会っていない友人にそっくりだったものだから」


「ここには、今日初めて来た」


「そうか。悪かったな、お詫びに一杯奢られてくれ。隣いいか?」


答えるまもなく、僕の隣を陣取った大男は注文したビールを一瞬で飲み干した。あまりに豪快な飲みっぷりに、僕は目を丸くした。


ピーター・ダモンドと名乗ったその大男は愉快な奴だった。ピーターが僕に良く似た友人、クリス・アビオットに出会ったのは、五年ほど前のことらしい。地質学者の彼が出張で訪れていたロシアのバーで出会ったらしい。


その時の話が実に興味深く、別れた際、連絡先を聞いておかなかったことを酷く後悔したそうだ。クリスは物理学者を名乗り、その分野に興味のあったピーターとタイムマシンと時間軸について熱い議論を繰り広げたという。ピーターはとても話が上手く、僕は久しぶりに笑った。作った笑顔以外で笑ったのは随分久しぶりだったようで顔の筋肉のいたる所が痛んだ。不思議と心地よい痛みだった。



あの頃に比べたら少しは人間らしくなれたのか。

アパートに戻った僕は、定期的に襲ってくる頭痛に頭を抱えながら、手に持ったオレンジ色のピルケースを片手に、そう呟く。精神安定、記憶保持、感染症予防、頭痛薬、その他、様々な効果を持つ薬が一緒くたにケースの中に入れられている。その量は、およそ一回分とは思えないほどだった。


僕は、それらの薬を一気に胃に流し込み、タバコに火をつけた。頭上にのぼっていく紫煙を眺めながら博士の言葉を思い出す。


「何かを思い出そうとしている」


一体何をだ。忘れたいことなら山ほどあるのに。

耳に残るその言葉に苛立ちが募る。ふと手元に目をやると、僕の手は血が滲むほど強く握られていた。慌てて手を開く。掌に食い込んだ爪の痕からじわりと血が滲む。


ゆっくりと赤く染まる掌を見て、気持ちが落ち着いていく。理由は解っている。毎日、父親に殴ら続けていた子供の頃、僕の顔が血で真っ赤に染まり、口の中が血の泡で溢れると父親は殴るのを止めた。視界を取り戻そうと自分の顔を拭い、手についた血を見ると、今日はもう殴られなくて済む、と安心した。


だから、今でも自分の血を見ると心が穏やかになる。孤児院時代は心が不安定になると、よく自分の腕を傷つけていた。痛みを求めていた訳ではなく、血を見るために。

すっかり傷の無くなった腕を見ながら僕は笑う。消すことのできない、魂に深くこびりついた呪いのような習性を、酷く自嘲的に。


薬が効いたのか、いつの間にか頭痛は少しやわらいでいた。



ーーfrom A.D.2030_Nigeria-Lagos



僕は、ナイジェリアの南西端の都市、ラゴスにいた。かつての大都市は見る影もなく、建物は無残な瓦礫と化し、銃声や、爆弾の爆発音がこの都市を都市足らしめる構成要素となっている。


この国では今、一年前から内戦状態にある。近年、その勢力と規模を急激に拡大していた反政府組織〝アーガ〟が国として独立を宣言し、クーデターを起こし、ラゴスを襲撃。大規模な虐殺と破壊行為を繰り返し、ナイジェリア政府軍と激突。その背景から〝二十一世紀のビアフラ戦争〟と呼ばれていた。


僕らの時代ではアーガの創設者であり、内戦の首謀者、ジェリコ・ベルキンが、首都アブジャへの襲撃作戦の計画中、政府軍の特殊部隊隊員、ドゥク・グリディックに暗殺され、創設者暗殺の混乱を機に、政府軍が一気にアーガを制圧。泥沼化が予想された内戦が僅か二年余りで終結した。


今回の仕事の依頼人は合衆国の大手軍需企業〝T・T〟《テイラー・テクノロジー》依頼内容はジェリコ・ベルキンの暗殺阻止。即ち、ドゥク・グリディック(暗殺者)の暗殺。ということになる。アーガにも、政府軍に武器を密売していたT・Tは、ジェリコ暗殺により、早期終戦してしまった内戦を長引かせ、両者に大量の武器を売りさばき、懐を大いに潤したいという事らしい。仮にジェリコの暗殺を阻止したところで内戦が長引くとは限らないのだが、彼らにとっては、ラスベガスのカジノよりもベットする価値のあるギャンブルということらしい。


暗殺決行日の三日前に現地入りした僕は、T・Tに敵対する某国の軍需企業エージェントに扮して「新型兵器のプレゼンテーションを行いたい」と、ラゴスで政府軍にコンタクトをとった。政府軍の担当官によると、一刻も早く内戦を終わらせたいという切迫さが伝わってきた。それもそのはずで、ナイジェリア政府は現在、隣国からの支援を受けられずにいるからだ。


医療技術の発達により世界の人口は毎年、爆発的に増え続けている。人口の増加に反比例するかのように、物資は年々不足し、世界は慢性的な飢餓状態に苦しんでいた。それはどこの国でも同じで、内戦などに加担して自国の貴重な物資を減らすわけにはいかない。「自国で起きたことは自国でなんとかしろ」ということらしい。世界は疲弊しきっている。科学技術がいくら発達し、自由が増えても、それを使いこなせなければ逆にそれが、重く、大きな枷になるということか。


そんな背景もあり、この状況での他国からの支援申し入れは願っても無い申し入れだった様子で、僕は詳細な身分の確認も取られず、早々にドゥクの所属する政府軍特殊部隊内部に潜り込めた。



「この度はこんな危険な地までご足労いただきありがとうございます。大した御持て成しもできず、申し訳ありません。ええと、ミスタ、トーマス・ローグ」


厳重なボディチェックの後、通された会議室で、特殊部隊のボス、シグ・ロイヤル大佐が某国の軍需企業の身分が記録された僕の電子名刺を片手にそう声をかける。


「いいえ、急な訪問にも関わらず、こうしてお話の場を設けていただけて感謝いたします。大佐」


首都アンジャの政府施設に赴いた僕は、我ながらセンスの良いスーツと伊達眼鏡に身を包み、満面のスマイルを顔面に貼り付けながら、スマートなビジネスマンを演じる。

会議室には五人。僕と先日接触した政府軍の情報官、大佐を含めた特殊部隊員三名、その内の一人が今回の暗殺対象、ドゥク・グリディックだ。なるほど、いかにも軍人らしい実直そうな面持ちをしている。


「早速で申し訳ないですが、本題に入りましょう。我々に新型兵器のプレゼンテーション行いたいそうですが」


大佐は、立体ホログラムタイプの電子名刺を丁寧に傍らに置き顔の前で手を組み、僕に尋ねかける。その眼光から発せられるのは、百戦錬磨の軍人に相応しい鋭く重い殺気だった。並みの精神の持ち主なら途端に気絶するような。


「お願いします。ミスタ・ローグ、是非強力な武器を。あの醜く下劣な悪魔どもを一匹残らずブチ殺せる武器を!」


拳を力任せにテーブルに叩きつけ、担当官は堰を切ったかの様に、鼻息荒くそう叫び散らす。同僚か、友人か、家族か、余程酷い殺され方をしたのだろう。彼の目は憤怒で真っ赤に血走っていた。ドゥクを含めた隊員二人も言葉こそ発しなかったが、瞳の奥には燃えるような憤怒の感情が見て取れた。


不意に彼らの状況を自分にトレースしてみる。僕は、ここまで本気で怒ることができるのか。つい昨年まで隣を歩いていたであろう、バーで語り合ったであろう、映画館で感動を共有しあったであろう同胞を。悪魔と呼び、恥も外聞も無く穢い言葉を吐き散らしながら、ブチ殺したいと叫び散らすのだろうか。大事な存在が無残に殺されたら、そう思えるのだろうか。想像だけでは何も感じることはできなかった。


ふと僕は随分と永い間、自分の中の怒りという感情に触れてないことに気付く。いや、怒りだけではない。悲しみ、興奮、幸福、様々な感情が自分の中に存在しない事に気付く。何かが頭の中でチカチカしている。

何かが頭の中を這い回っている様で気持ち悪い。


「いや、お見苦しいところを見せてしまい申し訳ない‥」


冷静さを取り戻した担当官の声で、僕は現実に引き戻される。危なかった。トレースし過ぎて自分の感情に変調をきたすところだった。余計な感情移入をしてしまった。


「どうかしましたか。ミスタ・ローグ」


僕の態度に疑問を感じたのか隊員が訝しむような表情で語りかけてくる。


「いいえ、なんでもありません。失礼いたしました。では仕事の話に戻りましょうか」


僕はそう宣言し、この時代で調達したジュラルミンケースをテーブルに置き、プレゼンテーションの準備を始める。すると不意に大佐が口を開いた。


「ミスタ・ローグ。あなた、以前私とお会いしてませんかね」


「いや、初対面だと思いますよ」


大佐からの問いかけに僕は、違和感を感じながらも笑顔を崩さずに応じる。担当官の痴態を誤魔化そうとし、ふざけているのかと思い、大佐の顔に視線を移すが、獅子のような立派な顎髭を蓄えた屈強な軍人である彼はとてもそんな場を取り繕うような行為をする人物には見えない。


僕は今回の仕事をするにあたって、政府軍関係者、果ては反政府組織の末端兵士の顔にまで目を通している。特に接触が想定されていたターゲットを含め、政府軍上層部の人間は、身長、体重、利き手、出身地、趣味嗜好、家族構成、贔屓の球団までも頭の中に入っている。つまり、僕は、シグ大佐のことを恐らく彼の妻以上に知っている。勿論、こうして面と向かって話をするのは初めてだが。

そんな僕とは対照的に大佐は、十五年も未来から来た僕の顔など知っている訳がない。もしかすると、僕の正体と目的に気付いているのか。ボロを出す行動は一切してないと思うが、しかし、気付いていたとして、何故、会議室に入った時点で撃ち殺さない。捕えて拷問にでもかけるつもりなのか。


だが、だとしたら、先刻発した殺気はこちらに警戒を促させる余計な行為だった筈だ。今でも大佐含め、隊員達のホルスターのフラップは外されていない。僕が攻撃を仕掛けることを想定しての行動なら随分舐められたものだ。

仮に目的がバレているとして、その手段も判明しない内に下手に動くのは危険だと判断し、僕はプラン通りに仕事を進行する事にした。


「お待たせしました。では、こちらを御覧いただけますか」


僕はテーブルの上を滑らすように彼らの方へとジュラルミンケースを差し出した。会議室にいる全員の視点がケースに注がれる。


「ミスタ・ローグ、これは?」


担当官は訝しげにケースの中のものを指差す。それもそのはず、ケースの中に丁寧に納められていたのは小さな石だった。


「これが、新型兵器ですか?私にはただの小石にしか見えませんが」


隊員の一人が小石を眺めながらそう言う。その声色には明らかに落胆の色が出ていた。


「これは、我々への侮辱だと認識すべきですかなミスタ・ローグ」


額に静脈を浮かせながらシグ大佐が訪ねる。その顔は紅潮し、今にも爆発しそうだった。恐らく大佐以外の全員も同じ気持ちだっただろう。


「いえいえ。そう早計に判断するものではありませんよ。皆様、モスキート音というものをご存知ですか」


「十七キロヘルツ前後の高周波音の事ですな」


担当官が得意気にそう答える。この男、確か学生時代は電気工学を専攻していたとデータに記録されていた。黙っていると周波数とはなんたるか長い蘊蓄を喋り出しそうな雰囲気だったので僕は、彼の口が閉じきる前に、次の言葉を並べる。


「そうです。こちらは、そのモスキート音の原理を応用した小型音波兵器です。高周波により敵の肉体に深刻な影響を与えます、小石に擬態させているので発見される危険性も少ないです」


兵器の説明に室内は、先刻までの落胆が嘘の様な活気に包まれ、銘々に小型音波兵器を眺めては驚嘆のため息をついた。現金な奴らだと僕は口の中で毒づく。


「肉体に深刻な影響を与えると言いますが、どの様な効果が現れるのですか」


声を弾ませシグ大佐が訪ねてくる。先ほどの鋭い殺気はすっかりと消えていた。


「三半規管に影響を与え、酷い目眩や吐き気などの症状が現れます。効果が出るまでの時間はおよそ十分。そろそろですね」


そう言いながら腕時計を見る僕に違和感を感じたのか一瞬彼らがアイコンタクトを取っているのが見えた。直ぐに言葉の意味に気づいたのか全員の目がかっと見開く。


「貴様ッ!」


全員が一斉に立ち上がり、腰のホルスターに手をかけ、フラップを外す。一糸乱れぬ統率が取れたその動きに僕は感心するが、彼らの手が銃のグリップに触れることは無かった。

次の瞬間、彼らの体が頽グニャりと傾く。ある者は重力に任せ、元いた椅子に沈み込み、ある者は机に突っ伏し、ある者は床に仰向けに倒れ、ある者はその場にしゃがみ込み嘔吐をしていた。全員、目の焦点はあっていない様子で、大の男の悶え苦しむ声が静かな部屋にこだまする。

僕は小型音波兵器をケースからつまみ上げ、ONにしてあったスイッチをOFFへと切り替えスーツの内ポケットにしまう。そして予め耳の中に押し込んであった音波遮断装置を外した。


「新型兵器の効果の程は如何でしょうか。気付かなかったのも無理ありません、今回出力していた周波数は、二十キロヘルツ。十三~十七位の子供にしか聴き取れない周波数なのですから。因みに効果の持続時間は三時間程度になります」


僕はそう言いながらテーブルに登り、机の上で突っ伏しながら苦しそうに喘いでいるシグ大佐の腰から銃を抜き取る。型の古いベレッタだったが、丁寧に整備されているのだろう、まだ十分現役で使用できる状態だった。僕は銃口を向け彼らに向けて順番に引き金を引いた。


一発二発三発四発五発六発七発八発九発十発十一発十二発十三発十四発十五発。


薬莢が床に跳ね、硝煙の匂いが部屋中に立ち込める。僕は弾倉が空になりホールドオープンしたベレッタを床に放る。

会議室にいた四人の内、三人は殺していない。身体の自由奪うために手足に銃弾を打ち込んだだけだ。無駄な殺しはしないと決めている。ターゲットはドゥク・グリディック一人だけ、そんな彼は、実直そうな軍人らしい表情は消え失せ、額に風穴を空け、口の周りを吐瀉物で汚した物言わぬ肉塊と成り果てていた。僕は仕事の成功証明として右目の義眼に搭載されたカメラでドゥクの死体を撮影した。


「そうだ、一つ言い忘れていました。実は私、軍需企業のエージェントではありません。反政府軍のスパイです。指導者ジェリコ・ベルキンの名で今回こちらを襲撃いたしました」


僕は嘘をつく。政府軍と反政府軍、お互いに憎しみ合わせ殺し合うように。確実に内戦が激化するように。その引き金は、少量の弾丸と、言葉だけだ。それだけで、何十万、何百万という数の人間が死ぬ。


『少々の労働で多大な利益を』


時代が移り行こうと、いつだって現代の理想形の仕事の在り方だ。


僕の話が通じたかどうかは一目でわかった。四肢の自由を奪われて、音波兵器に三半規管をぐちゃぐちゃにされても尚、彼らは同胞を殺された怒りと憎しみで燃え上がっていた。彼らの瞳は僕を見ていない。その瞳が見ているのは、その怒りの矛先は、僕の向こう側にある反政府軍だった。


「そうか、思い出した」


シグ大佐が、僕に向けてそう言い放つ。屈強な軍人と呼ぶにはあまりに情けない体勢ではあったが、その目にはまだ、最後の矜持が色濃く浮かんでいた。


「貴様、貴様は」


大佐のその言葉を聞いた瞬間、不意に全身の細胞が泡立つのを感じた。


「これ以上聞いてはいけない、知ってしまえば、もう戻れない」


僕の身体を構成する全ての細胞が、そう危険信号を最大出力で告げている。僕は大佐の口を塞ごうと、咄嗟に胸のホルスターへと手を伸ばし、拳銃を引き抜き、トリガーを引いた。だが、その手に拳銃は握られていなかった。ボディチェックを警戒し、武器を持ち込まなかったということをすっかり失念していた。僕は、ぴんと腕を伸ばし、指を突き出した体勢で固まっていた。それはつまり、大佐の口から出る言葉を阻止できなかったことを意味していた。


「アッシュ・フィリップス。貴様が何故こんなところに」


初めて聞く筈の名前に、頭が鐘を打ち鳴らした様に痛み出した。あまりの痛みに僕は、壁にもたれかかった。

頭の隅で燻っていた違和感が一気に燃え広がっていく。誰かが耳元で囁く。その声は酷く卑しく、不快だった。


「君は、ブルーノ、ブルーノ・オリオラスか?」


「あれ、あんた、クリス・アビオットじゃなかったか」


「アッシュ・フィリップス。貴様が何故こんなところに」


誰だお前たちは。


あまりの頭痛に視界が大きく歪む。シグ大佐は吐瀉物を吐きながら気絶していた。蕩けた頭の片隅で、体勢が横向きだから窒息することは無いだろう。と、そんな余計なことを考えて、痛みに抗おうとするが、全ては無駄な抵抗だった。


ブルーノ・オリオラス。


クリス・アビオット。


アッシュ・フィリップス。


彼らの名前を必死に思い出そうと、脳から情報のサルベージを試みるが、脳内をどう検索しても何も思い当たらない

ふと、ある仮説が思い浮かぶ。


一度頭を支配したその仮説に、僕の頭は抵抗することもなくまんまと征服された。

その仮説に導かれるように、僕は、逃げるようにこの時代を去った。







ーーfrom A.D.2045_U.S.A-Los Angeles



情報局に戻った僕は、任務報告をせず、真っ先に局内の情報保管室に向かう。そこには過去にRHカンパニーに所属していた全エージェントのデータが保管されている。


扉の前に設置されている指紋と網膜認証をクリアし、僕は室内に脚を足み入れる。頭痛は治まるどころか、更に痛みを増していた。


ウサギ小屋のような狭い室内にぽつんと置かれているスクリーンデスクトップ前の椅子に腰掛けた僕は、ブルーノ・オリオラス、クリス・アビオット、アッシュ・フィリップスの名を検索にかける。


しばし、読込中の表示の後、画面に現れたのは歴代セパレーターの名前だった。仮説通り、彼らはRHカンパニーに関係していた。しかし、なぜか全員、不自然なほど、顔写真の登録がなかった。



アッシュ・フィリップスーーA.D.2030・死亡



ブルーノ・オリオラスーーA.D.2035・死亡



クリス・アビオットーーA.D.2040・死亡



前任者たちのデータを詳細に調べていくと彼ら前任者たちはある実験に名を連ねていた。『記憶移植手術実験』メモリー・ポーティング・プロジェクト、その名の通り、記憶を他者に移植する実験だ。実験レポート見てみると、この実験はまだ不完全で、移植した被験者に元の記憶の持ち主の人格まで反映されてしまい、解離性同一障害のような症状が突発的に現れてしまうと記載されている。このプロジェクトは倫理的な部分が問題視され、五年前の実験を最後に、凍結されている。


これを見た瞬間、全身の血が逆流する感覚を覚えた。もし、このプロジェクトがまだ秘密裏に続いているとしたら、産まれも生きている時代すら違う人間たちが僕の顔を見て前任者たちの名前を呼ぶ理由は、もしかして。


プロジェクトを指揮している研究者の名前を見て、疑惑は確信に変わる。そこにはセパレーター専任精神科医、ミア・マーシャルの名前があった。煮崩れるように痛む頭が、更にずきりと痛んだ。



どのように辿り着いたか覚えていない。気が付くと僕は博士のオフィスの前に立っていた。その手には拳銃が握られている。

カウンセリングルームに入った僕に対して、博士はソファに腰かけ、いつもの調子で言葉をかけてきた。


「どうしたデール。今日は診療の日ではなかったはずだが」


そう言う博士に僕は無言で拳銃を向けた


「穏やかじゃないな。何かあったのか」


「僕の頭に何をした」


「なんの話だ」


「とぼけるな。僕の頭に前任者たちの記憶を移植したな。ここ最近、僕のことを、前任者たちの名前で呼ぶ人間たちに会った。僕で『記憶移植手術実験』《メモリー・ポーティング・プロジェクト》の続きをしているのか」


僕はそう叫び、拳銃のグリップを強く握り、ハンマーを起こす。


「そんな人間たちに会ったのか」


博士は少し悲しそうな顔をして、ぼくにそう告げ、次いで言葉を紡ぐ。


「あのプロジェクトの記録を読んだのであれば、実験内容は理解しているな。結論から言おうデール。お前に前任者たちの記憶は移植していない。いや、正確に言えば、移植できなかった。あのプロジェクトは失敗だ」


「失敗?なら、産まれも生きている時代すら違う人間たちが僕の顔を見て前任者たちの名前を呼ぶ理由は、どう説明する。答えろ!」


「それは・・・」


博士は口を噤む。その拳は強く握られていた。その表情は、なぜか自分の不甲斐なさを恥じているような、そのような色が見て取れた。オフィスに重い沈黙が落ちる。


「全て話してあげたらどうですか。博士」


聞き覚えのある声が沈黙を破った。咄嗟に振り向くと、そこには見慣れた顔が二つ。一つは局長専属秘書、アビゲイル・シュア。もう一つは情報局局長だった。


「局長、アビゲイル、どうしてここに」


突然の状況についていけず、僕はやっとのことで、そう言葉を口にした。


「どうして?おかしなことを聞きますねウェストン君。君が任務報告をせずにこんなところに来ているからわざわざこうやって赴いたんじゃないか」


局長は、蛇のような目で僕をとらえる。舐めまわすようなその視線に寒気が走る。ずっとこの目が苦手だったことを思い出す。


「時にウェストン君、頭痛の具合は如何かな」


「どうして僕が博士のオフィスにいることがわかったんですか。尾行でもつけていたんですか」


理解できない状況に不快感を隠そうともせず、僕は威圧的に二人を睨み付けた。


「そんな瑣末なことはどうでもいい。それより質問に答えたまえ。頭痛の具合は?」


「僕の状態を見て分かりませんか?おかげさまで最悪ですよ」


「そうか、そうか。それは何より」


局長の目が金縁眼鏡の奥で妖しく湾曲する。心底喜んでいるような、安心したような、そんな表情だった。


「そういえばお話の途中でしたね。どうぞ続きをお話下さい。それとも私がお話して差し上げましょうか」


「やめろ」


わざとらしい紳士的な素振りでそう促す局長をミア博士は殺気を込めた目で睨みつける。局長はその視線を心地よく感じたのか、嬉々として口を開いた。


「ウィンストン君、『記憶移植手術実験』メモリー・ポーティング・プロジェクトの本当の目的はですね・・・」


「やめろ!」


ソファーから立ち上がろうとする博士を、アビゲイルのデリンジャーが無音で静止する。数秒睨み合った後、観念したのか、博士はソファーにその身を戻す。しかし、目の殺気はそのままだった。


「結構」局長は小さく咳払いをし、オーケストラの指揮者の様に襟を正す。


『記憶移植手術実験』メモリー・ポーティング・プロジェクトの本当の目的は、君を、いや、君たち(、、、)を助けるために発足されたプロジェクトなんだよ」


突然の告白に一瞬呼吸の仕方を忘れる。不意に拳銃を落としそうになった手に再び力を込め、蕩けた頭で冷静を保つ。喉がからからに渇いて息苦しい。


「君・・たち?」


「まるで理解できないという顔をしているな。まあ、当然か。君自身はそれを知覚出来ないのだからな」


局長は冷たい視線を僕に向ける。それはまるで、これから食肉工場に出荷される家畜を見るような、酷く冷たく、残酷な目だった。


「デール君。君の脳は記憶を保持する脳細胞が、過去に負った障害のせいで若干変異していてね、記憶と自我が五年間しか保てない新種の健忘のような症状が現れているんだよ『記憶移植手術実験』メモリー・ポーティング・プロジェクトはそんな君を見かねて、マーシャル博士が主体となって、進められてきたプロジェクトでね、五年間で自我もそれまでの全ての記憶が消滅してしまう君の記憶を、正常な脳に移植し、自我と記憶を正常に維持させようという試みだったんだ。しかし、先ほど博士から聞いたとおり、結果は失敗。プロジェクトは凍結されてしまった」


博士は俯きながら唇を噛んでいた。血が滲むほど、強く、唇を噛んでいた。頬には涙が伝い、その身体は小刻みに震えていた。


「望みは叶わなかった訳だ。悔しいでしょうね、マーシャル博士。また(、、)一人救えないのだから。だが、それでもプロジェクトのおかげで記憶消滅のメカニズムが判明したのだからあなたは十分な働きをした」


プロジェクトの失敗を心から祝福するように局長は、高笑いをしながら博士の顔を覗き込んだ。博士は局長の顔を見ようとはせず、俯いたままだった。


「君の脳が面白いのはここからなんだ、デール君。五年経つと君の記憶は自我と共に、完全に消失してしまう。記憶と自我を呼び起こす様々なテストを行ったが、綺麗に全て消えてしまっていた。からっぽだ。普通の脳は、ここでおしまいだが、君の場合、消失するのは記憶と自我のみで、経験(、、)は脳内に残留されているのだよ。その経験のみ(、、、、)を持って君の脳はまた新たな人格(、、、、、)を作り出すんだ。つまり、以前の君《、》がしたことだったら、新しい()はその記憶がなくても同じことが出来る(、、、、、、、、)という訳だ。考えられるかいデール君、君の肉体と脳は記憶と自我を失うたびに強く進化するのだよ。素晴らしい。君の脳内の『経験の蓄積』メカニズムが解明され、他の人間に応用できる技術が発明された暁には、人類は更なる進歩を遂げることになるだろう」


「五年で、それまでの記憶の一切が消滅し、経験だけを引き継いで新たな人格が生まれる。じゃあ、前任者たちは・・」


大きく腕を広げ、天を仰ぐ局長の言葉を、僕は反芻する。自分の声が頭の中で反響する。まるで無人のコンサートホールにいると錯覚を起こすほど、何度も何度も、僕の声は僕の頭を揺らす。


「そう。アッシュ・フィリップス、ブルーノ・オリオラス、クリス・アビオット全て君だ、デール・ウェストン。しかし、君も間もなく消えてしまう。その激しい頭痛は記憶消滅の兆候だ」


局長のその言葉を聞いた途端、僕は彼に無意識に拳銃を突きつけていた。そのスピードに、さすがの局長も仰天した様子で、蛇の目を見開き、僕の顔を覗き込んだ。


「ほう。素晴らしい反応速度だ。ナノマシンは上手く稼動しているようだな」


「ナノマシン?」


「そうだ。君の体内に注入している様々なナノマシン。その中の一つの『人工テロメア』これは老化を防止し、身体を一番ベストな状態に保つ。君はおそらく自分の年齢を二十代前半辺りと思っているようだが実際、君の年齢は四十代を超えている。合衆国は君をセパレーターとして保つために多大なる技術を資金を投資している。君の存在自体が合衆国の未来と言ってもいい」


「そうですか。でも、もうそんなこと、どうでもいい」


僕はトリガーに指をかける。拳銃がカチャリと軋む音がする。


「こらこら。自暴自棄になってはいけない。受け止めきれない現実に絶望する気持ちは分からなくもないが、「もう、自分は消えるのだから周りを道連れにしよう」なんて考えるべきじゃない。先ほどの言葉を言い換えれば、君の身体は、脳は、もはや合衆国の所有物だ。たかが意識の分際で勝手なことをするのはやめてくれないか」


「僕の生きているうちは、この身体は僕のものだ。あんたや合衆国にモルモットにされるくらいなら、ここで全部終わりにしてやる。合衆国の未来だって?僕はそんなもの、知らない!」


僕は叫びながら局長の眉間目掛けて拳銃のトリガーを引く。しかし、銃弾は発射されなかった。いや、正確に言えば、トリガーが引かれなかった。人差し指がトリガーに掛けられたまま、まるで凍りついたかのように動かない。いくら脳から動作要請の信号を送っても、僕の人差し指はぴくりとも動かなかった。


「ここまでのことを話しておいて、反逆を予想しないわけないだろう。君は私を殺せないよ。そのようにプログラムしたナノマシンをあらかじめ注入してある。何万回試そうと君は私に向けてトリガーを引くことは出来ない」


局長はため息をつく。そして拳銃のスライド部分に手を置き、ぬるりとした動作で僕の手から拳銃を抜き取った。


「勘違いしないでほしい。そんなものは知らない。だと?君の承認など始めから求めてなどいない。デール君、君は自分が今立っている場所が、どれほどの血と犠牲の元に成り立っているかまったく理解していないようだね。私たちは人類の進化の為に、新しい技術というバトンを未来に繋げなくてはならない。人間の進化の探究心は、その脳にあらかじめインストールされているハードウェアであり、日々拡張されていっている。それを君一人に停止させる権利はない。君は今、進化の最先端にいる。君は選ばれたのだ。脈々と受け継がれてきた進化の螺旋に個人の意思など、介在してはならない」



拳銃をもてあそびながら局長は強い口調でそう言った。


「それに、絶対に殺されないと分かっていても、銃を向けられるのはあまりいい気分ではないな。これは、二度と私に銃を向けないように経験(、、)に刻み込んでおく必要がありそうだ」


そう言うや否や、カウンセリングルーム内に破裂音が響く、白を基調とした壁に赤いペンキの様な血液が飛び散った。


撃たれたのは僕ではなかった。ついさっきまでミア・マーシャル博士だったそれ(、、)は、もはや吹き飛ばされた顔の半分から血と脳味噌をただ、だらしなく床に撒き散らす物言わぬ肉塊になり果てていた。その虚ろな瞳にはもう何も映ってはいなかった。


「せっかく優秀な医者だったのにな。また代わりを探さなくては。わかったかなデール君。私に銃を向けるとこういうことになる。しっかりその脳に経験(、、)させておくといい」


僕はマーシャル博士だったものを見ながら何も言わずその場に立ち竦んでいたびたびたと血と脳漿が床に叩きつけられる音だけがずっと頭の中で反響していた。


「うーん。この血飛沫は雄鶏に見えるな。実に美しい雄鶏だ。そういえば前の君であるアッシュ君は芸術のセンスがなくてね。私の描いたペイントアートを見せても、ただの汚れにしか見えないと言っていた。そういう芸術のセンスのなさも君の脳内には経験(、、)として残っているのかな?」


壁に飛び散った血飛沫を見ながらけらけらと笑いながら局長は手にしていた拳銃を床に放る。ごとんと鈍い音が響いた。


僕は叫んだ。だけど僕の喉から声があふれ出ることはなかった。それどころか、僕の身体は僕の意思に反して床に沈むように仰向けに倒れこんでいる。二の腕に、針状のものが刺さっているのが見えた。


「暴れられても、万が一逃亡されても厄介なので、身体の神経伝達機能を一部カットさせていただきました。安心してください、命に別状はありません」


聞きなれた事務的な口調でアビゲイルがそう告げた。

さて、と言いながら局長は倒れているぼくの顔をしゃがみながら覗き込んできた。僕の顔が局長の蛇の目に映り込む。僕の頭は痛みの臨界点を超えたのか、もう何も感じなくなっていた。


「その様子だとそろそろお別れ(、、、)のようだ。最後に次の君の(、、)処遇を話しておくとしよう。君にはセパレーターを続けてもらう。君ほどセパレーターに向いてる人間もそうはいないからな。人間の思想とは厄介なものでね、どんなにリベラルな思想を持っていても、数年同じ仕事を続けていると、その思想は右や左に傾いてしまう。大きな事故もなかったことにできる、割れてしまったティーカップも元に戻る、そんな時間遡及技術に関わっていれば、その傾きも顕著だと言うことは容易に想像できる。そういう風に人間はできているのだから、あれこれ言っても仕方ないのだがね。その点、君は違う。五年で記憶と自我が消滅してしまう君では、特定の思想に傾く心配がない。傾く前にその自我は消滅してしまうのだからね。歴史に手を加える者の、神の領域へ足を踏み入れる者の思想はいつだってフラットでなければならない」


局長の瞳に映る僕の瞳は虚ろだった。どんどん()が消滅していくのがわかる。暗く底がない水に浸かっていくような感覚が徐々に全身を覆っていく。僕は目の前の死に心底恐怖していた。泣き叫びたい、逃げ出したい、死に全力で抵抗したい。そんな思いとは裏腹に僕の身体は全く動かない。まるで首から下がすべてなくなってしまったかの様だった。


僕は思い出す。今まで僕が命を奪ってきた人間たちの最期の行動を。そこで唐突に理解した。彼らは神に助けを求めていたわけではなった。死が現実になる瞬間、人間は神に祈ることしか(、、)できないのだ。人智を越えた大きな流れの前で人間は、祈り以外の感情がなんの役にも立たないことを思い知らされるのだ。


「そうだ、忘れるところだった」


と、立ち上がっていた局長は再び僕の瞳を覗き込む。


「何も持たず産まれてくる次の君の為に名前を送ろう。アッシュ、ブルーノ、クリス、そして、デール、すべて私の送った名だ。」


「名前・・・」


そう口にするが、僕の耳は僕の声を掬い取ることはできず、その音は、音と認識される前に消えてなくなった。


「新しい君の名はエドワード・フェンダー。また五年間よろしく頼む」


いやらしいにやけ顔でそう告げ、局長は部屋を後にする。追ってアビゲイルも部屋から退出しようとするが、立ち止まってこちらを一瞥した。


「バー、ご一緒できなくて残念でした。さようならミスタ・ウェストン」



僕は薄れゆく意識の中で一つだけ神に祈った。



「願わくば、()以降の僕たちがこの、我の螺旋を知らずにその生を終えれるように」と。



意識が消失した後も僕は(、、)心からそう願い続けた。





ーーfrom A.D.2045_U.S.A-Los Angeles



目が覚めたら知らない天井があった。辺りを見回すとどうやら、メディカルルームのようだった。

ベッドから起き上がると、メディックが声をかけてきた。曰く、今日新しく就任する仕事の訓練をしている最中に頭を打ってここに運ばれたらしい。メディックに言われるまで自分の名前も忘れていた始末だ。よほど強く頭を打ったらしい。


局長が呼んでいるとのことだったので、オレは、メディカルルームを出て、局長室のある階に向かう。この情報局の建物に来たのは今日が初めてだったが、そんな気がしない。迷わずにエレベーターに乗れたのは運が良かったからだろうか。


目的の階に到着し、ID、網膜、指紋、声紋、歩行、静脈パターン、ナノマシン照合、様々なバイオメトリクス認証に若干のうっとおしさを感じつつ、ブルネットの髪が美しい美人の秘書に局長室に通される。名前を聞いたらアビゲイルと言うらしい。今度デートにでも誘ってみようか、そんなことを考えていると、局長が姿を現した。ひょろっと細長い手足に金縁眼鏡の奥の目が妖しく光っていた。

なんだか蛇みたいで生理的に受け付けないな、とオレは多少の不快感を覚えた。


「君が新任のセパレーターか。先ずは名前を聞かせてもらえるかな」


蛇男がいやらしい笑顔でオレにそう告げる。

オレは腹の底からせり上がってくる不快感を無理矢理押さえつけて背筋を伸ばし、息を吸い込んだ。



「本日付けで、情報局時間情報部のセパレーターに任命されましたエドワード・フェンダーです。どうぞ宜しくお願いします」



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