第1話 「独り身の、女医」
七月。
暑い夏の日。
しょっぱい海風に吹かれるイケメン、だったらいいなと常々考えている俺は煌々と輝く太陽の下で、爽やかな朝にそぐわない必死な形相でスクワットをしていた。
「っ! なんでっ! こんなに早く筋肉が悲鳴をあげるんだよ! っはぁぁ 。まだ、あと二◯◯回残ってんだぞっ! はぁっ!」
説教され涙を流した日から、かれこれ一週間が経つ。
その一週間、早起きをしてはこうして太陽の下で、汗をしたたらせながら筋トレに励んでいた。
あの銀白色の髪をたなびかせる少女、エリスティア・レイヴァレリウスに感化された結果であり、少しでも変わってやろうと思ったからだ。
「あぐっ! 両足が攣ったぁぁああ!」
ただ、
「っ⁈ 今度は、背中が攣ったぁぁああ⁉︎」
ちっとも、
「腕ぇっ! 両腕攣ったぁっ! ぁあああっ!」
変われてなどいなかった。
ピクピクと、死に損ないのカエルのように地べたに仰向けになっている情けない姿が、それを物語っていることだろう。
「くぁっ! やばい、これやばいってぇ! ぁああっ!」
無慈悲にも全身に激痛が走る。
顎を引いてなんとか見えるとこを見渡してみたが、早朝だからか人は見当たらず、助けを呼べそうにはない。
(そういえば、小学生の頃、水槽から逃げ出したカエルが、一ヶ月経ってから干からびた状態で、ベランダで見つかったことがあったなぁ。俺もあいつみたいに………。なんて大袈裟だな)
万事休すか、と思われたその時。
タッタッタッと、こちらに駆け寄ってくる軽快な足音が聞こえてきた。
「 おわぁ! だだだ、大丈夫ですか……⁈」
そんな驚きの声と共に、ぬっと視界に女の子の顔が入り込んでくる。
女の子がジャージ姿であるのを見る限り、早朝ランニングをしている途中だったのだろう。
「んっ!」
突然、女の子の鼻頭から滴ってきた汗が目に入って、滲みる。
「あ、ごめんなさい!」
……いえいえ、我々の業界ではご褒美です。
とまぁ、そんなことはどうでもよくて。
「あの……。全身攣ってしまいまして、助けてくれません?」
「えっとー。保健室に連れて行けばいいのかな?」
「助けてくれるのなら……」
「大丈夫ですよ。ちゃんと助けますって!」
そう言うと女の子は、ぐいっと俺を抱き寄せ、
「ちょっと、待っててください。よいしょっと……。ちゃんとつかまっててくださいね。うぅ、重い」
俺の体を器用に背中側に回して、おぶった。
重いと口で言っているものの、足腰はしっかりとしているらしく俺をおぶっていても、二本の足でしっかりと立っている。
言われた通りに、攣った腕を女の子の首にまわして女の子から剥がれ落ちないようにする。攣っているせいで特に意味をなさないと思うが、そこは気持ちの問題だ。
あとは、できるだけ強く両足で女の子の胴を挟むようにして、体を固定した。
今思ったが、これはやばいな。
かつてない女子との密着。
抑えきれないリビドー。
……若さ故の、過ち。
いや駄目だ。落ち着くんだ、俺のエクスカリバー。
夜になったら相手してやるから、今は我慢してくれ。
と、女の子の上でリビドーとの死闘を繰り広げているのを他所に、女の子は姿勢を低くしてクラウチングスタートの構えをとる。
「いきますよぉー。つかまっててくださいね」
「……のあっ⁉︎」
突然の加速で、体が仰け反る。
女の子が地面を一蹴りするごとに、地面を蹴る力強い音が響きわたり、その度に加速していくのが分かった。そして、そのまま勢いを殺さずに林の中に突っ込んでいった。
「ちょお⁉︎」
女の子は俺おぶった状態で、スルスルと木々の間を抜けていく。
目の前に迫る太い木の枝。
「痛えっ!」
眉間に走る強い衝撃。
そこで意識を失った。
◆◇◆◇◆
本当に突然だが、タブレットを起動して真上から世界を眺めてみる。
眺めてみると、太平洋上には一際目を引く綺麗な丸い形をした島が、いくつか見受けられる。
その島の正体は、移動式洋上人工島。
その中の一つの移動式洋上人工島は、日本が有している機関であり、その他にも幾つかの移動式洋上人工島が太平洋を漂っているが、それらは世界の国々が有している機関だ。
今から六十年前。人類は変化の始まりに気がつかなかった。
そして、四十年前に変化は終了し、そこでようやく人類は自らが変化していることに気がついた。
六十年前から変化が始まった事がわかったのも、その時だ。
この変化を、今では『覚醒』と呼び、人類は人知を超える力を手に入れた。
あるものは炎を操り、あるものは霊粒子から霊装を生み出した。
曰く、奇跡。
曰く、神の悪戯。
太平洋に浮かぶこの機関は、そんな能力者達を集めて育成する機関だ。
その機関である移動式洋上人工島の名を日本では、島の中心に位置する学園の名前からとって、通称『大和』と呼んでいる。
そして、暑い夏の日の昼下がり、『大和』の中心に位置する巨大な『大和学園』の医療施設(保健室)のベッドの上で、寝っ転がってタブレットを見つめてるのが、俺だ。
ちょっと太平洋を眺めるのに飽きて、タブレットのチャンネルを変える。
「……ああ。やっぱり、エリスティアさんは強いな」
モニターには、絶賛LIVE中継でトーナメント戦の決勝戦が映し出された。
決勝戦は、ヨーロッパから最近この大和学園に交換留学としてやってきたエリスティア・レイヴァレリウスと、現在学園の頂上に君臨する最強の能力者、高峰 凍夜によって繰り広げられている真っ最中だった。
「随分と興味深そうに見るんだな。君はそんな奴だったけか?」
甘い声音がして後ろを振り向くと、白衣を美しく着こなす医療施設の独り身の女医、蓮城 鏡花先生が立っている。蓮城先生は「失礼するよ」と言ってから、俺が横になっているベッドの端に腰を下ろした。
「そういえば戦闘中……とは言い難い状況だったが、戦闘中に彼女と何か話しているようだったな。君も叫び散らしていたようだし。なんだ、また酷いことでも言われたのか?」
蓮城先生は心配そうに詰め寄ってくると、「ほら、お姉さんに言ってごらん」と甘く囁きかけてくる。
「そりゃあもう、ボロクソに説教されましたよ。……久しぶりに泣きました。あと、顔近いです」
蓮城先生の顔をぐいっと右手で押し退けると、つれないなーといった風な表情を浮かべた。
まったく、生徒に色香を使うなっての。
痴女なんですか、先生は。
「君に説教する人間がいるとは珍しいな。っで、……さては、惚れたんだなぁ?」
「そ、そんなんじゃないですよ! ただ、少しだけ興味があるだけで……。それに、こんな俺に頂上で待っていると言ってくれましたから」
「それで、そんな美少女の言葉に乗せられて早速筋トレから始めてみたら、全身が攣ってしまいここに運ばれてきたと……。まったく君という奴は……」
蓮城先生は髪の毛を手で弄りながら、呆れたように言う。
その姿が、これまた色っぽい。
なんで蓮城先生に男がいないのか、不思議だ。
「……本当に、情けないかぎりですよ」
「まあ、そう気にするな。慣れないことを急に始めから、仕方ないさ」
言って、蓮城先生は俺の頭に、ポンっと手を置いた。
学園に入学した時から、何もなくても医療施設に顔を出しては、ベッドを借りて放課後までぐっすり眠っていたせいもあってか、蓮城先生とは割と親しい仲になっていたりする。
「いいかい? 努力しようとする、その姿勢が大事なんだよ。それに、ほら見てみろ…………」
言われて、モニターに目をやる。
【決勝戦は死闘の末に、エリスティア選手の勝利だぁああああっ! 遂に帝王、高峰 凍夜敗れる! なんとエリスティア選手、留学してきてからまだ一週間で、大和学園の頂上に君臨してしまったぁああああ!】
「どうやら彼女は約束通り、この学園の頂上に君臨してくれたようだぞ」
溢れんばかりのファンファーレと大勢の生徒の歓声が、全方位からエリスティアさんを包み込んでいた。彼女も嬉しいらしく、アップで映る彼女の顔は、とても良い笑顔をしていた。
【それでは、優勝者にして学園最強の名を手にしたエリスティア選手から、一言をお願いします!】
エリスティアさんはマイクを受け取ると、凛とした眼差しで遠くを見据えて言い放つ。
【頂上で待っているぞ】
その言葉に、胸がざわつく。
それは医療施設のベッドで横になっている俺に向けて放たれた言葉だったのかもしれないし、もしくは全生徒に向けて放たれた言葉なのかもしれない。
おそらく、後者だろうが。
それでも、その言葉で胸がざわついてしょうがない。
「…………」
モニターの電源を切り、体を起こしてベッドから出る。そしてそのまま、出口に向かって歩き出す。
胸がざわついて、寝てなどいられなかった。
しかし、そんな俺を制止するように、蓮城先生は前に立って行く手を阻む。
「まてまて、君は何処に行くんだ? 言っておくが君のトレーニング方法だと、恐らく数時間後にはまたここに来ることなるぞ」
「……でも、寝てはいられないです」
「そんなことは私も分かってるさ。だからほら、ここに医療関係のスペシャリストである綺麗なお姉さんがいるんだぞ。トレーニング関係にも当然詳しいんだぞぉ〜」
優しく微笑みかけてくれる、蓮城先生。
いや分かってる。今まで一人で努力できなかった人間が、急に一人で努力できるようになることはない。
努力の仕方を忘れた人間が、努力できるようになるわけがない。
当然、誰かの助けが、必要だ。
「力を貸してください…………! お願いします、蓮城先生」
頭を下げた。本気で努力したいから、頭を下げた。
そんな俺の肩に、優しく手が置かれる。
「顔を上げなよ。私と君の仲で、そういうのはなしだ。次頭を下げたりしたら、お姉さん怒るからな。よし。それじゃあ、君の身体能力に合わせてトレーニングメニューを組んでいくとするかな! お姉さんに任せなさい!」
蓮城先生はドンっと胸を張って満面の笑みを作り、「頼り甲斐のあるお姉さんだろ?」と付け加える。
本当に頼れるお姉さんだよ、蓮城先生は。
なんで男がいないのか、やはり不思議だ。
「ありがとうございます!」
思わず頭が下がる。
「こらこら、頭を下げるなと言ったばかりじゃないか。まぁでも、感謝の気持ちを私に伝えたいなら…………。さぁ! お姉さんの胸に飛び込んで来なさい!」
バッと両手を広げる蓮城先生。出るべき所がしっかりと出ていて、一度飛び込んでしまったら桃源郷へと強制的に連れていかれそうな、そんな至福の空間が目の前に広がっている。
健全な男子諸君ならば飛び込まずにばいられない光景なのだが、一度飛び込めばこれをカードに、今後あらゆるパシリを要求してくる可能性を考慮して、今は遠慮する。
「では、蓮城先生。久しぶりに午後の能力強化授業に出ようと思っているので、俺はここら辺で。あと、俺以外の男子にそんなことしたら、絶対に襲われるので気をつけた方がいいですよ。蓮城先生はスタイルが良くてお綺麗で、生徒から人気がありますからね」
スッと、両手を広げる蓮城先生を避け、医療施設の出口へと向かう。
「まったく、君って奴は……。言われなくとも、君以外の男にあんなことはしないっての。さてと、トレーニングメニューを考えますか!」
「まあ、先生は僕以外に男の知り合いいなさそうですもんね」
「そんなわけないだろ。君の他にもいるよ…………学園長とか。べ、別に男になんて困ってないし! 全然、焦ってないし!」
そう言って、蓮城先生は白衣の襟を正してからデスクに戻っていく。
俺はその背中に一礼してから、退室した。
「蓮城先生、ちょっと可哀想だったな。やっぱり飛び込んでおけばよかったか」
またチャンスは来るだろうか。
来るだろうな。