2章―2.5 ━閑話━
━━同僚の場合
冬の日暮れは早い。
仕事が終わればすでに真っ暗で、太陽の暖かさなどとっくに奪われている。
そんな駐車場に小さな輪が出来つつあった。
最初は5人だった人数が徐々に増え、20人ほどが固まっている。
人海戦術で仕事をこなしているこの工場は、だいたい60人程が出勤しているが、その中の3分の1が、呼ばれたわけではないのにそこに立ち止まっていた。
ザワザワと隣の人と囁きあっているがまだ共通の話題が出ない。しかし、すぐに帰る人を見送り、輪に留まるには理由があった。
誰も号令はかけていない。ただ、その話をしたい人達が集まった。
そのうち、最初の5人の中から一人、声をあげた。
「真弓ちゃんの靴が隠されたのは、みんな知ってるよね?」
後から合流してきた井出真弓を見つけた彼女、佐々木が目で合図をする。それを受けて井出は自分の思いを語る。
「言っとくけど、私はしづちゃんが犯人だなんて思ってないからね。昨日自分が休みで会えなかったから今朝聞いてもらおうと思ったら、そんな変な話になっててビックリしたんだから。」
この場に、噂を撒いた張本人である川上はいない。すでに帰ったのを確認した。
そして紫づ花も帰ったのを見送っている。
その姿が痛々しかった。
ほとんどが主婦である彼女らは、本当はすぐに帰って夕御飯の準備をしなくてはならない。
それでも今日は、この場で足を止めることを選んだ。
「ていうか、誰も信じてないですよね、そんなの。」
苛立たしげに菊池が発言する。
さわさわと、森の木々が風に吹かれるように肯定の声が広がった。
中村が挙手をする。
「私は去年ここに入った時みんな色々教えてくれたけど、それでも自分から声をかけられる人とかけられない人がいた。でも、森井さんは気軽に声をかけられたし、なんでも優しく教えてくれた。仕事が早くならなくて相談したときも、それぞれ向き不向きがあるから仕方ないって。自分のやり方で追い付けるようになるって力付けてもらったよ。」
今度は何重にもなっている輪の中辺りから、一際背の高い女性が手を挙げた。
「私が入って1ヶ月くらいした頃森井さんが私の後ろの台になったことがあって、その時に背が高いせいで腰を痛めるから気を付けてって、他の背の高い人がどういう風に工夫しているのか聞かなくても教えてくれて、すごく助かりました。そういうのって、やり方があることも知らないから自分から聞くことって出来ないんですよね。」
「体のいろんなとこが痛くなるとつい、相談しちゃう。」
「肩揉んでくれるの、すごくピンポイントで気持ちいいよ。」
さわさわと微風で揺れる森の音が、次第にざわざわと葉を揺らす山の音になる。
そしてすぐに静かになった。
飛鳥が目を潤ませているのを佐々木が見つけた。
飛鳥は少し人見知りで、大勢の前で話すことなんて出来ない。けれど今は自分が話すべきだと覚悟を決めた。
「私はロッカーも近いし、入ってすぐから話を色々してますけど、紫づ花さんは必ずみんないい人だって言います。腰が痛くてちゃんと働けなくなってから、少しキツいことも言われてるみたいですが、紫づ花さんは『みんな心配してくれてるんだけど、口調が強かったり怒ったような言い方になる人いるよね』って。」
微かに震えた声だが、全員の中にはっきり響いた。
佐々木がその後を受ける。
「紫づ花ちゃんが誰かを悪く言っているの、聞いたことある?」
ほぼ半数が息を飲み、半数が首を振る。
「だいたいさ、これだけ人間がいるんだから、人の好き嫌いとか絶対あるじゃん?大人だから表に出さないけどね。でもそういうのってバレるもんだよ。だけどさ、しづちゃんが嫌いな人って知ってる?」
「あんまり話さない人はいるけど。」
どこからかそんな声が聞こえた。
しかし言った本人だって紫づ花が誰にも同じ態度で接していることを知っている。
あまり話してはいないけど紫づ花が常に気を遣ってくれていることを知っている。
飛鳥がおそるおそる挙手をした。
「紫づ花さんの口癖は、『自分は人類の底辺だから、誰かを嫌うなんておこがましい。自分を好きになってくれる人が少ないんだから、自分から嫌うなんてもったいない。』って言うんです。挨拶してもらえなくても当たり前で、だからみんなイイ人だって。」
その場の空気が重くなる。ただでさえ冬の夜。どんどん体温が奪われるくらい寒いのに、更に寒くなった気がした。
そんな孤独な言葉、ドラマでも使われない。
その時、輪の一番外側から聞こえた声に、全員が耳を疑った。
「明日の朝、班長に言ってみよう。犯人が森井さんだって言ってるのは川上さんだけなんだから、私達の見解を伝えれば、班長だって解ってくれるよ。」
それは、みんなが気付いていた、紫づ花に特にキツい二人のうちの一人だった。
みんなに注目されて、彼女が口を尖らせる。
「そりゃ、私は確かに森井さんは好きじゃないけど、だからと言って人の靴を隠すような卑劣な人間だと思ってる訳じゃないよ。」
そう。仲が良いとか悪いとか、好きだから嫌いだからじゃなく、ただ、紫づ花はそんなことをしない。それだけがそこにいる全員の、もしくはここにいない人も含めての半数以上の共通認識だった。
━━上司の場合
男子更衣室は、疲れきった空気とやりきれない複雑な重さで凝っていた。
原因は女性準社員の間で起きた靴盗難事件。
一昨日の仕事上がりに発覚したこの事件は、昨日の朝突然急展開を見せた。
女性の一人が上司である高岡班長に『森井さんが靴を隠すのを見た』と大きな声で告げてきたのだ。
それは朝礼の前で人もまばらだったが、数人の耳には届いてしまった。
高岡が慌ててその女性準社員を作業室の隅へ連れていく。
その後の話は彼らにはわからなかったが、朝礼で『靴を隠された人がいる』とみんなの前で言った高岡に社員達のモヤモヤが高まった。
一番若い柳が最初に口を開いた。
「森井さんがそんなことするわけないじゃん。」
その言葉に、先輩社員の岩崎と遠藤が頷いた。
柳はそこに自分達しかいないことで気が楽なのか、かなり砕けたしゃべり方になっている。
「逆に川上さんなら納得するかもしれないのになぁ。」
『柳』と岩崎が顔をしかめて嗜めた。
しかしよほど腹に据えかねているのか彼は止まらない。
「だってそうじゃないっすか。森井さんはいつも先に挨拶してくれるし、フォローしたのに気付くといつもお礼言ってくれるし。みんなが嫌がる仕事でもいい返事でやってくれるし。」
「わかってるよ。それはそれで社員の仕事だから礼なんていらないって思ってても悪い気はしないよな。」
遠藤が困った顔で同意する。
まだ1年目の新米社員は勢いでそんなことを言えるかもしれないが、そこそこ重ねた岩崎などは副責任者の立場にある。
簡単に同意出来ない。
ただ、立場は関係なく個人の感情で言わせてもらえるなら、岩崎も同じ意見だった。
むしろ工場が立ち上がった時からの付き合いの彼の方が、その思いは深いかもしれない。
「俺さ、ここが立ち上がってから初めての忘年会の時バスが一緒になってさ、森井さんの隣が空いてたからそこ座ってたんだよ。たまたまだし、何てことない話をずっとしてたんだけど、その時に酒呑めないけど社員だから呑まなきゃならないんだって話をしたんだよね。」
二人はうんうんと頷きながら聴いている。
「で、宴会は男女が並ぶようにくじ引きじゃん?そしたら偶然森井さんの隣になったんだよ。でも俺は上司とか他の準社員とかに挨拶しながらお酌しにまわらなくちゃならなくて、ほとんどそこにいられなかったんだけど。」
3年前の事を思い出す。
暖かい記憶。
「それでようやく一回りして戻った頃には、かなり呑んでて辛かったんだよ。したら森井さんが烏龍茶用意してくれてて。あれはすごい嬉しかった。嫁さんいなかったらグラッといくとこだったね。」
それから何度も紫づ花の優しさや気遣いに救われてきた。
仕事でささくれだった精神も癒されてきた。
何てことない自分の話を相槌を打ちながらちゃんと聴いてくれた。それがとても大切で、でも難しいことだと後で気が付いた。
そういえば、あの時彼女はなんと言っていたっけ。
「声を。そうだ。声を常に高く保つんだって。人の声はテンションと一緒に高くなったり低くなったりするから、挨拶や何かの返事の時は特に高めの声を意識するって。そうすると、怒ってる?とか嫌なのかな、とかそう言う負の感情を与えにくいって。」
大切なことを教えてくれていたのにうっかり今まで忘れていた。
その時、高岡が更衣室に入ってきた。
疲れた様子で手に持ったファイルをロッカーの中に突っ込む。
柳と遠藤の視線を受けて、岩崎が声をかけた。
「班長。・・・あの、靴のこと、所長は何て?」
「あ?あ、あぁ。別に何もないよ。所長が一番森井さんを知ってるからな。そんな話になってるのかって驚いてたけど、特にどうするとかは、な。」
3人の部下が一斉にため息をつく。
「そっか、森井さんは一番早く採用になった人の生き残りですっけ。」
遠藤も、この工場の立ち上げの時は別の部署だった。その時の紫づ花を知っている。
キツい先輩に怒られながら必死についてきていたけど、腰を痛めて休養を余儀なくされていた。その理由として腰の痛みだけで、決して他の準社員がキツいせいだとは言わなかった。
「だいたいな、靴を隠すところを見たんなら、その靴を回収するとかその場で注意するとか、あるいはどこに隠してたとかあんだろ。それもなくただ、隠したのを見た、じゃ、信憑性に欠けるんだよ。」
着替えながら愚痴るように言う高岡の言葉に全員が『え?』と目を見張る。
「それだけなんすか?」
呆れたようなホッとしたような柳の声に高岡は頷いた。
「だから、そんな話があると一応所長と代理の耳には入れておいたけど、誰も信じてねぇよ。」
それに、と続ける。
「何だかんだと文句を言ってくる川上さんより、仕事の制限があったとしても、文句も言わず働いてくれる森井さんの方が俺は好きだね。」
けれど上に立つ者として、一方的に誰かの肩を持つことは出来ない。だから一応ポーズとして紫づ花と話をしてみたけれど。
「森井さんが仕事を嫌になってなければいいな。」
辞められるのは人手的に厳しい。
岩崎が微笑んだ。
「大丈夫ですよ。森井さんは頭が良くて優しい人だから、女性陣も味方になってくれるはずです。」
その言葉に、全員が笑って同意を示した。
それは紫づ花が知るはずもない物語。