2章―2
「なんだかクリスマスソング聴くと急に寒くなった気がしない?」
ロビーに入ってきたとたん、坂本輝翔が言った。
叶多が振り返る。
「俺は12月って聞くだけで寒いけどね。あと一ヶ月もないんだぜ、今年。」
その会話が聴こえていた周囲の10名ほどから、どよめきが上がる。
歳を取ると一年が短いと、特に身につまされてきている年代が揃っているからだ。
叶多にとってもあっという間だった。
紫づ花に出逢ったのはついこの間のような気がするが、実は一ヶ月半もたっている。
しかし毎日チャトルで会話しているせいか、濃縮された時間が自分の中に積み重なっているのを感じる。
充実感。
それはただ仕事をしているだけではあまり得られない感覚だ。
仕事が上手く出来た。それ以外の満ち足りた気持ち。
心の中の誰かの存在感をこれほど柔らかく感じられたことはなかった。
自然と笑みがこぼれる。
「叶多さんは、なんだか丸くなったって噂だよ?」
輝翔が首をかしげて覗き込む。
もの柔らかで優しげな顔立ちに釣り合うように、優しい口調で穏やかに話す彼は、お気に入りの一人だ。去年度の声優グランプリも獲っている。現在とても忙しそうだ。
叶多がペットボトルから一口水を飲む。
その時扉が開き、5人程の集団が入ってきた。
カメラマンやら音声さんやらを見るとテレビの取材だろうか。そういうことはよくある。
するとその中から若い女性が飛び出してきた。
彼女がまっすぐ叶多の前に進み出たのは、近くにいたからかそれとも―
「はじめまして、新人の堀川愛羅です。」
ペコリと頭を下げて上げた顔は紅潮して目は輝いている。
思わず叶多は目を細めた。
「よろしく~。」
笑顔で返す。その様子を見ていた周囲のセンパイ声優達も口々に声をかけた。
その後すぐに集団から男が近づいてきて、新人声優の密着取材だということを告げた。
「いいねぇ、そういうのやられてみたいなぁ。」
後ろから聞こえた声に振り返ろうとした瞬間、のしかかられた。間近に横顔がある。
「っわっぶね‼キスしそうになった‼」
慌てて押し退けると、 篠原悠一郎は笑って再び抱きついてきた。
「つれないこと言うなよ。昔は散々やったじゃねぇか。」
「CDの事だろ。だからもうおっさんは、ヤなんだよ。輝翔ちゃんの方がいい。」
叶多はもがくように腕を輝翔に伸ばした。しかし美形の後輩は心底嫌そうな顔で逃げた。
「やめて。巻き込まないで。」
『なんだ?振られてんのか叶多』『二股かよ、下半身男』などヤジが飛ぶ。
叶多が慌てて悠一郎の腕から逃れて抗議する。
「いや、ちょっと待て、なんだよ下半身男って。俺をなんだと思ってるんだ!?」
和気あいあいと本番前の時間が過ぎていく。
その中で愛羅はまっすぐ叶多を見ていた。
電話を切った紫づ花が、座ったまま脱力して床に倒れ込んだ。
使わないけどちょっと持っていたくて買っていた手帳に、予定が書き込まれていく。
その、尋常じゃない忙しさ。
「ちょっと待って、私いつ休めるの?」
12月半ばから下旬の歌の仕事が、貴重な平日休みを圧迫している。
要するに、仕事終ってまた新幹線に飛び乗らなければならない。
しかも、今パソコンに曲が届いて、一週間以内に作詞をして和泉に送らなければいけない。
今までの、遊びで、自己満足ですんでいたものとは違う。しっかり考えて練って完成させなければならない。
これをデモテープとして、和泉の所属レーベルに持ち込むのだ。
いつのまにか和泉は、F.a.U GARDENが所属する事務所に紫づ花達を紹介していた。
動画を観たその社長は興味を示し、一曲作ってこいと言ったらしい。
その責任重大な歌の期限が一週間。
みっちり集中したいのに、仕事中は当然出来ない。
気ばかり焦る。
それでも。
「夢への第一歩なんだよね、これは。がんばろ。」
起き上がり、メールに添付された音楽ファイルを開く。
自分を信じて待っていてくれる静紅のためにも。
自分達のデビューのために奔走してくれている和泉のためにも。
そして何より、自分の歌声を認めてくれている叶多のためにも。
出来るだけのことはしたい。
第一印象は、女の子らしい白とピンクの部屋。そして四方の壁一杯のポスター。
ピンクのベッドの上や、白いラックや使い古した白木の勉強机まで、至るところに人形やクリアファイルなどのアニメグッズが置かれている。
絵柄は違えど全部イケメンキャラだ。
その部屋の中で、中央に置かれたガラステーブルの前に座った堀川愛羅は友達と電話で話していた。
「もうマジかっこよかったよ生叶多‼優しかったし!」
『いいなぁ~。私も会ってみたいよ。一番誰っぽかった?』
愛羅はグルリと見回し、ガラステーブルの中に飾ってあったノートに目を落とす。
「そうだなぁ、やっぱ“ミラクル☆スターズ”のいおりちゃんかなぁ。よろしくって笑ってくれたとことか。」
『いいなぁ、廣崎叶多に憧れて声優になるって言い出したんだもんね。もう目的のひとつは果たしちゃったじゃん。』
愛羅は、子供の頃観た女の子向けアニメで叶多の声を聞いてから、ずっとファンだった。
関東出身の彼女は、比較的裕福な家で放送局の壁もあまり感じることなくすべての叶多出演作をチェックしている。
この部屋を埋め尽くす大量のイケメン達も、共通点は叶多が演じたキャラだということだ。
そんな小学生の頃からの情熱を知っている幼なじみは、しかしひとつの不安を感じていた。
『でもさぁ、確か星崎るりと付き合ってるんじゃなかったっけ?ネットで話題になってたよね。』
「あぁ、あれ・・・」
愛羅の表情が曇る。幼なじみも電話越しにそのトーンダウンした声を感じていた。
「でもさ、けっこう今までもいろんな人と付き合ってきたみたいだし。て言うか、常にカノジョはいましたよみたいな発言していたじゃない。だから、次は私にもチャンスがあるんじゃないかな。」
『だよね~。若い子好きじゃん。星崎るりだって愛羅の一個上でしょ?イケるイケる。』
「イケるかなぁ~。」
愛羅は身悶えながら横にあったクッションを抱き締めた。
もちろんカバーは“いおり”だ。
「きっとさ、いおりちゃんみたいにおしゃれで優しくて、いつもエスコートしてくれるような人だよ。」
『デートはどんなだと思う?』
二人はキャアキャアと盛り上がって会話は尽きない。
愛羅の瞳は夢の姿を捉えていた。
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人が何を言っていても気にならない振りは出来る。
しかし自分で自分を追い詰めてしまうところが、紫づ花の悪いところだった。
紫づ花は家に帰るなり自室に飛び込みデイパックを投げ捨てた。スチールの水筒が床に当りこもった抗議の声をあげる。
構わずベッドに腰かける。
堪えていた涙腺が決壊する。
「っくぅっ・・・うっ・・・ひぅっ・・・」
顔をおおっても隠しきれない嗚咽が漏れる。
ただそんな状態でも妙に冷静な頭が、泣きすぎて目の回りが荒れてしまう悲惨さを思い出して、バスタオルを取りに立ち上がる。
干してあったタオルを掴み無造作に顔を埋めると、そのまま床に座り込んだ。
完全に伏兵だった。
この工場に勤め出して3年。工場立ち上げの初期メンバーとして採用になった紫づ花は、実は一番の古株だった。(知っている人は少ないけれど)
一緒に入った人は、体調不良も寿退社も理由は多々あれど全員辞めてしまった。
そしてこの紫づ花も、最初配属された部署からは異動していた。
最初の部署は今よりも更にハードだったため、元々弱かった腰を痛めてしまったのだ。
そこで異動を願い出て現在の部署なのだが、1日働くことに変わりはなく、痛み止を飲みながら整骨院にも行きながら、だましだまし働いていた。
すなわち今いるメンバーが入ってきた時には、すでに体を壊していたということだ。
それを、直接の上司や更に上の所長も知っているので、たくさん話を聞いてくれて、無理な体制を強いられる場所は免除してもらうという現在の働き方をさせてくれている。
もちろんそれが正義だなんて思っていない。仕方ないなんて開き直れるほど厚かましくはない。
ずっと心苦しいし、みんなに対して申し訳ない思いでいる。
それでも辞めないのは、新しい人が来ても続かなくて、長く勤めていた人も辞めてしまうこの会社で、そんな辞め方をすることは一生懸命考えてくれている上司たちに恩を仇で返すようなものだし、同じ部署で働いている仲間達に負担をかけてしまうのがわかっているから。
開き直れず、それでもこのやり方しかないから“仕方なく”、一部の人からの嫌みにも耐えて続けてきた。
それなのに。
出勤時、駐車場を歩いている時に目の前にいたその人は、チラッと紫づ花を見ると一際大きな声で一緒に歩いていた人に言った。
「どういうつもりか、ほんと理解に苦しむよね!」
それが図らずも聞こえてしまった、と言うよりは聞こえるように言ったようだったけれど、話題の内容がわからなかったので、被害妄想は抱かないように右から左へ流していた。
ところが、仕事が終わって帰り際、上司に呼び止められて誰もいない食堂に招き入れられた。
上司も困ったような言いにくそうな感じでいたが、そこは責任ある立場である。紫づ花を椅子に座らせて、口を開いた。
「森井さんが、靴を隠したのを見たと言う人がいるんだけど。」
“ほんと?”と続けなかったのは、上司の良心だったかもしれない。
驚きすぎた紫づ花は、『は?』の表情で固まってしまった。
同時に、朝の出来事を思い出した。
しかし思い出したのはあくまで朝のひとこまだけで、何の事かさっぱりわからない。
様々なショックや動揺をなんとか飲み込んで、何の事かと尋ねる。
上司も一瞬迷って『昨日ある人の通勤用の靴がなくなったらしいんだ』と言うにとどまった。
その犯人が森井さんですと、言った人がいる。そういうことだ。
紫づ花は、何度か深呼吸をして、必死に落ち着きを取り戻す努力をした。
「私はそんなことしてませんし、誰の靴なのかもわかりません。」
信じてもらえるかわからないけれど、それだけははっきり言わなければならない。
上司はため息をついて、
「そう。それならいいんだけど。」
そして『お疲れ様』と紫づ花を送り出した彼も疲れているように見えた。
それが昨日のこと。
帰ってからも、なんだかわからないものがグルグル回って吐きそうだったけど、それでも和泉を待たせてはいけないと、なんとか作詞を完成させて、深夜になってしまったけどメールを送ることが出来た。
明けて今日。
何かチラチラ見られているような、こそこそ話をされているような、嫌な感じがあった。
それでも数人の仲の良い人と、挨拶や会話を交わして仕事に入ったのだが、1日モヤモヤは晴れなかった。
それでも仕事が終われば解放される。帰ったら和泉からのメールを確認して、もしかしたら仮歌の日取りとか入っているかもしれない、そんなことを考えながら着替えていた。
数人近づいて来たのはそんな時。
彼女達は中村、酒井、菊池という、自分に好意を持ってくれている3人だ。
「井出さんの靴、紫づ花ちゃんが隠したって言ってる人がいるんだけど、知ってる?」
「は?」
あまりのことに、目も口も開いたまま塞がらなかった。
この人達が自分にその事を話してくると言うことは、少なくとも彼女達はその噂を信じてはいない。それはわかるが、こんな風に尋ねて来ると言うことは、この冤罪の噂はみんなに流れていると考えていいだろう。
その衝撃が治まると、ショックで涙が込み上げてきた。
それを精神力でとどめる。
酒井と菊池は今日も一緒にご飯を食べていた。その中では全くそんな話はなかったのに。
見開かれた瞳が潤んでいるのを見て、中村が肩を叩いた。
「川上さんが大きな声で言ってて、多分もうみんなの耳に入ってると思うけど、私達は信じてないからね。」
「そうですよ。紫づ花さんがそんなことする意味ないじゃないっすか。」
菊池も同調する。
酒井は反対側から背中を撫でた。
「班長にも呼ばれたみたいだけど、気にしないで。」
3人に慰められて、なんとかお礼を言い、ギリギリの精神で車を運転して帰ってきた。
いつもの聞こえよがしに嫌みを言ってくるふたりではなく、挨拶をしても返事をしてくれない中の一人だった。
3年働いていても話すタイミングのない人はいる。
そんな相手からのまさかの攻撃。
悔しいのか悲しいのか腹立たしいのか分からず、ただ涙が溢れる。
こんなことで泣いている自分が何より嫌なのに、どうしたらいいのかわからない。
無償に、逃げたくなる。
何から?
この辛い生から。
泣きはらした虚ろな目で斜め上を見上げる。
持っている。
楽になる手段は手元にある。
普段から飲んでいる痛み止はいわゆる麻酔薬だし、凝りをほぐす薬は筋弛緩剤だ。
これをまとめて飲んだら・・・
そんなことを考えるといつも、悲しむ人の顔が浮かんでくる。両親、弟、甥と姪、親戚、職場の数少ない友達、そして静紅。だから思い止まるのに、また誘惑される。
でも。
目を閉じてまた開ける。
今はそこで叶多の顔を思い描くことができる。
大好きな人が、自分を大好きだと言ってくれる顔を思い出せる。
紫づ花は枕元のBOXティシューから一組抜き出し、力一杯鼻をかんだ。それだけじゃ足りなくてスッキリするまでかみ続ける。
そして、スンスンと鼻が通ったことを確認して立ち上がった。
負けない。まだ自分は始まったばかりだ。夢が叶いそうなこんな時に何も知らない人の攻撃に負けてたまるか。
人を攻撃することでしかストレスを発散出来ない人の思い通りにはなりたくない。
小説書きをなめるな。こっちはあらゆる状況を頭の中でこね繰り回して整合性持たせて、読む人に納得させるのがウデなんだ。
後悔させてやる。
泣いてスッキリした頭で、あり得るシチュエーションを模索し始めた時、チャトルが着信を告げた。
条件反射でポップアップを確認する。
(叶多さんー)
その名前を見た瞬間、暗くのし掛かっていたものがフワッと消えた。
まさに憑き物が落ちた様な感覚で文字を目で追う。
[こんばんわ(*´﹀`*)仕事終わった?俺は今終わって帰るとこ(* ´ ▽ ` *)ノ]
相変わらずの顔文字連発に、思わず顔がほころぶ。
[こんばんわ(๑•᎑•๑)私も帰ってきて、ゆっくりしてました。]
返信する指も軽やかだ。
先程までのどす黒い感情は消え去っている。
紫づ花は自分を笑った。
どうかしていた。
後悔させてやるなんて、らしくない。
自分はいつでも誰にでも好い人でいると決めた。
たとえ自分を嫌っている人相手だとしても。
もしもその人が独りぼっちになってしまった時に、自分の元に来てもいいように。
後悔するならその時。その人が、過去の自分を恥じてくれればいい。
紫づ花の笑みが深くなる。
叶多のことを考えるとこんなにも優しくなれる。何があっても乗り越えられる。それを実感する。
(大好きです。)
その言葉は指から先には出さなかった。