2章―1
[あれからどうなったの?]
[どうって何が?]
[カレシと( 〃▽〃)]
[いや、何もないよ?チャトルしてるくらい。]
[え~?でもまぁそんなもんか。新幹線高いもんね。]
[そうだよ。時間も合わないし。]
[でもそれじゃ不安じゃない?]
[ん~、でもあんまりたくさん会ってたら早く飽きられちゃうかもしれないからね。このくらいがちょうど良いかも。]
[え、そんな感じなの?あんなに好きだったのに?]
[私が好きでも向こうがそうとは限らないじゃん。]
[でもこの間会ったとき、そうとうねえさんの事が好きなんだなぁって思ったけど?]
[そうかな?それなら嬉しいけど。]
[もうちょっと自信持ってもいいんじゃない?]
[自信なんてねぇ、むしろどうしたら持てるの。]
[大丈夫だよ(๑•̀ㅂ•́)و✧前向きに行こ‼]
[うん。ありがと(*´ω`*)]
━━━━━━━━━━━━☆★☆━━━━━━━━━━━
11月最後の月曜の雨が色付く山を濡らしている。
気温も日に日に下がって冬が近づいているのを感じる。
紫づ花が食堂の窓から外を見ていた。
ちょうど東の空が見える。
この空の先に叶多がいる。
今頃は東京も降ってるのだろうか。天気予報はくもりのち雨。しかし何時頃降り始めるのかはわからない。
そして、いつもの席についた。
おにぎりを取り出して頬張りながら、チャトルのチェック。
相変わらず朝イチで叶多からのチャトルが入っていた。
[おはようヽ(^○^)ノゆうべ一生懸命歌詞書いたよ。なかなかの出来映えで、早く紫づ花ちゃんに聴いてほしい(^^)v]
思わず微笑んですぐに返信する。
[おはようございます。こちらは雨が降っていてかなり寒いです。今朝は息が白くなりました。先日レコーディングしていた曲のカップリングですか?]
送信ボタンを押してふと顔を上げると、酒井がお弁当を食べながらこちらを見ていた。
「なんか最近きれいになったんじゃない?」
「え?そうですか?」
紫づ花が嬉しそうに顔に触れる。
隣から菊池が加わった。
「恋するときれいになるって言いますよね。」
するとその顔はブワッと赤くなった。
「そ、そ、そんなこと、ないですよ。」
前と隣と、その会話が聞こえた近所に座る人が『え、そうなの?』『どんな人?』と口々に訊いてくる。
いやいや、そんなそんな、とバタバタ何でもないアピールをするが、何でもないはずがないのは一目瞭然だ。
「そ、そういえばタイヤ!交換っていつぐらいにやりますか?」
無理矢理な話題転換ではなかなかみんなの興味は削げない。
それでも強引に話題を引っ張ってタイヤ交換の話に持っていく。
みんなの興味も、所詮他人事の恋話よりも自分に関わってくるタイヤと雪の話題の方に移っていった。
「去年は12月なったとたんにどかっと来て大変だったじゃないですか。」
「そうだよね。今週中に換えておいた方が良いかもね。」
「ええ?12月入ってからでもよくないですか?」
そんなことを話しながら、こっそり顔の熱をぬぐう。
恋をするときれいになる。
よく言われるそれは、確かに感じていた。
叶多を知ってから、ほんの少し笑顔が増えた。
小学生の頃から変えてなかったシャンプーを見直してみた。
香水を気にするようになった。
化粧水や乳液を変えてみた。
それは会えるはずもない好きな人のために、どうしても変えたくなってしまったものだ。少しでも自信を付けたくて外見から入ってみた。
そしてあの日に、それまでの自分の中で一番の自分でライブに行って、叶多に出会った。
憧れが恋に変わり、しかも手の届く人になったら、もっと自分を良くしたくなった。
ドライヤーをした後、入念にブラッシングをするようになった。
日焼け止めクリームを、夏でもないのに塗るようになった。
休日の外出時にメイクをサボらなくなった。
さりげない優しさを心がけるようにしている。
立ち居振舞いががさつにならないように気を付けている。
多分、そういうことなんだと思う。
好きな人に綺麗だと思われたい。そんな思いが女の中身も外見も変えるんだと思っている。
ロッカーに戻り、仕事に戻る身支度をして廊下に出る。
「みんな痛いとこあって我慢して働いてるってのにさぁ。出来ない仕事があるとか信じられない。」
「若いと気楽でいいよね。浮かれてても許されると思ってるんじゃない?」
すれ違い様そんな会話がされていた。
この二人は、人の好き嫌いが多くて口が悪くてキツくてお馴染みの人物だ。
そして紫づ花は好かれてはいない自覚をもっている。
以前からの腰痛がよくならないため、キツイ姿勢になる仕事を免除してもらったりしているが、それは上司に相談したときに提案されたことだ。自ら発信しなければ誰も気付いてはくれない。
食堂では近くに座っていたかもしれない。だから紫づ花を冷やかす一連の会話が筒抜けだったのだろう。
それが多分気に入らなかったのだ。
紫づ花は、マスクの中で一度大きく息を吸い、大きく吐き出した。
【明日が滲むならば足下を踏みしめよう。それがきっと明日へのyell。誰にもわかんない理解できないそれでも、oh、君の後ろに道が出来ているはずだから】
F.a.U GARDENの歌が頭の中で回る。
大丈夫。
脳裏には、楽しそうに笑って歌う叶多がいる。
「ありがと~。」
そう言って電話を切った。
時間は12時50分。
紫づ花の休憩は終わっている頃だ。
せっかくチャトルをしていたのに急な電話。それが、事務所からの電話じゃなければ無視していたかもしれない。
しかしスマホの画面にはしっかりと“日下声優プロデュース(岩下)”と表記されているから、出ないわけにはいかない。
ちなみに《日下声優プロデュース》と言うのは、声優としての叶多が所属する事務所で、F.a.U GARDENとしては、《Rayfactory》と言う事務所に所属していることになる。
今回、その日下声優プロデュースから入った電話は、仕事のオファーが入ったと言う連絡だった。
CMのナレーションは久々だ。これは紫づ花がいる地域でも放映されるものなのだろうか。せっかくなので見てもらいたい。
そんなことを考えながら立ち上がった。
いつもの赤いリュックに台本と筆記用具、そしてミネラルウォーターを入れる。
そしてジャケットのポケットにスマホとイヤホン。
声優の仕事は派遣と同じだ。指定された時間と場所に行って与えられた仕事をこなす。違うのは、個人の個性が多大に求められると言うことだろうか。
だから1日仕事がなくてオフになる日もあれば、次から次へと移動の連続で目まぐるしい日もある。
1本いくらの仕事だから、本数が増えればそれだけ収入になる。紫づ花達のように1日行っていくらではないから安定はしないけれど、頑張れば頑張っただけ収入に反映される。
まだ仕事がなくて暇だった頃は不安で堪らなかった。何度折れそうになったかわからない。それでも続けてこれたのは、諦めるタイミングを失っていたから、それだけだ。
誰かが『もうやめていいよ』と言ったら、やめていただろう。
しかし、比較的早い段階で仕事が増えてきて、F.a.U GARDENもやらせてもらえて、あっという間に将来への不安は軽くなった。
もちろん、キツいことも辛いことも未だにあるし、なかなか自分の仕事に対しても満足は出来ない。だが、そういう仕事を選んだ。数字で評価がわかるような仕事ではなく、一生登り続けなければならない階段を選んだ。
だからそれでいい。
どんなに自分のふがいなさにのたうち回っても、色のない平坦な毎日よりも断然いい。
「明日がにじむなら~あし、もとを踏みしめ、よぅぉ~。それがきぃっと、明日へのえぇ~るぅ~。」
口の中で小さく口ずさむ。
滅多に自分の歌は歌わないけれど、時々過去の自分が今の自分を励ましてくれることがある。
そういうのは、嫌いじゃない。
そして、それが好きな人の力にもなっていることだろう。
それが誇らしい。
━━━━━━━━━━━━☆★☆━━━━━━━━━━━━
上野駅で新幹線を降りた紫づ花は、思わず深呼吸をした。
東京に遊びには来ているが、いつもは途中で静紅と合流する為に在来線に乗り換えるので、上野駅で降りるのは久しぶりだった。
レッスンを受けていた頃ぶりだから10年か。
なつかしい。
上野駅独特の匂いがして、胸がキュッとする。
何故こんなところにいるかと言うと━
昨夜叶多からのチャトルで、
[突然で悪いんだけど、明日こっち来られない?]
と言われた。
もちろん休みではない。
そう伝えると、
[そうだよね。仕事終わってからで良いから、ちょっとだけ来てもらえないかな?]
と返ってきた。
更に、
[当然、足代は出させていただきます。]
と言われてしまった。
確かに、新幹線代は結構痛い。しかも一週間前に東京で遊んだばかりだ。
[泊まりにはならないようにするから、お願いします。m(。_。 )m]
そして頼まれると否を言えない紫づ花は東京行きを強行することになった。
地元はすでに寒いので重宝しているジャケットが、こちらではまだ暑い。
しかしこれを脱ぐと今度は薄着になりすぎてしまいそうなので、我慢して歩いた。
階段を登って、エスカレーターで地上に出る。
叶多が迎えに来ると言っていた改札周りは、通勤の人でごった返していた。
微かにかいた汗で、眼鏡がずり下がる。
おばあちゃんの老眼みたいにならないように指で支えながら、改札を出た。
右に左にと流れる人々に、足が止まりなかなか進めない。
(どうしよう、これ、行き違いにならないかな)
田舎から出てきたばかりの紫づ花が不安になる。
なんとか人の波を抜けて、コーヒーショップの壁際に流れ着いた。
到着時間は伝えてあるのでもう来ていると思うが、見渡してもそれらしき人は見えない。
紫づ花がスマホでチャトルを開こうとした時、影が射した。
誰かが目の前に立ったのを感じて顔を上げる。
「やっぱり紫づ花ちゃんだった。」
それはサングラスをかけても満面の笑みだとわかる叶多だった。
出会えたことに、ふたりはほっとする。
「ビックリしたよ、眼鏡かけてるんだね。」
外へ促しながら叶多が話しかける。
「遊ぶときはコンタクト入れてるんですけど、普段は眼鏡です。でもよくわかりましたね、私だって。」
はぐれないように小走りになりながら、紫づ花が答えた。
眼鏡だけじゃない。仕事が終わって駅へ直行したので、ジャケットにジーパンというかなりラフな服装だ。帽子もクタッとしたキャスケットである。ゴシック調にまとめていた今までのイメージとはかけ離れている。だから余計わからないかと思ったのに。
叶多は振り返って笑った。
「そりゃわかるよ。」
好きな子だから━
その言葉は飲み込んだ。
人混みに慣れていない紫づ花が離れ始めている。
叶多は手を伸ばして紫づ花の肩辺りを掴んで引き寄せた。
「離れないようにね。」
まるで肩を抱かれるようなかっこうになった紫づ花が硬直する。
多分こんな状況だからおとなしくしているけど、本来なら思いっきり逃げているだろう。
そっと顔を窺うと、真っ赤になっていた。
初々しいのがたまらない。
にやける口元を、咳払いするように手で押さえる。
ようやく外に出て人混みを抜けた彼らは、待たせてあったタクシーに乗り込んだ。
「帰宅ラッシュってすごいですね。」
紫づ花が思いっきり息を吐く。
「そうだね。たまに行き当たると、それだけで疲れるよ。」
タクシーの座席に深々ともたれる。
「ごめんね急に無理言って。大変だったよね。」
「大変でしたけどね、なんとかなりましたね。」
後部座席のシートベルトをカチリと絞め、叶多に向き直った。
叶多は端から見てもわかるくらい弛んだ表情をしていた。
初めて見るカジュアルファッションは、私生活が垣間見れて良い。紺の背広みたいなデザインのジャケットが意外と似合うし、白いキャスケットがそのジャケットの男らしさを中和してふわりと可愛らしい。
(スッピンか?)
更に幼く見える。これはもう二十歳と言っても信じるだろう。黒いストレートのワンレンに、赤い縁の眼鏡。充分大人びて見えるはずなのに。
すると紫づ花が苦笑いした。
「仕事の時はお化粧しないんですけど、そうするともっと若く見えちゃうんですよ。二十歳の子に、自分と同じくらいに見えると言われました。」
思考がバレていた。しかし叶多の感想は周囲も感じていたことらしい。
「いやいや、かわいいのは良いことだよ。」
思わず本音がこぼれる。
紫づ花が真っ赤になって正面に顔を戻した。
叶多のニヤけ顔は止まらない。
「と、ところで、今日はなんで急に呼ばれたんですか?」
紫づ花特有の、こちらに顔を向けているんだけど顔を見ないという照れた態度で聴いてきた。
「ああ、それね、和泉さんが仕事を頼みたいって急に言うからさ。ごめんね無理言って。」
昨日の夕方、叶多に和泉から電話が入った。
『きれいなハイトーン出せる女の人で、すぐに来れる人知らないか?』
「え?どうして?」
『今アニメの音楽作ってるんだけど、手配してもらった歌手の声がちょっとイメージと違うんだよ。』
それで良い声の知り合いが多い叶多に電話をかけてきたらしい。
きれいなハイトーンと言えば叶多の頭にはもう、一人の人しか浮かばない。
「いるよ。声聴く?」
『聴けるのか?』
「今からそっち行く。スタジオ?」
『いいよ、そんな。名前教えてくれればこっちで検索するから。』
「プロじゃないから出てこないよ。俺が録音したカラオケがスマホに入ってんの。」
そんなやり取りをしてスタジオに行き、聴かせたその声に和泉が魅了された。
しかし今日これから来てほしいと言う要求は飲めない。
新幹線の時間によっては遅くなってしまうからだ。紫づ花の仕事にはシフトと言うものがあって、休みの融通は急には利かない。
そして話し合いの結果、次の日の夕方、仕事終わってからということになった。
「え?歌うってことですか?」
紫づ花が目を丸くして焦っている。
叶多は苦笑いしながら、手を左右に振った。
「歌うって言ってもね、スキャットみたいな感じで入れたいんだって。俺も詳しくは聞いてないけど。」
それにしても、顔の弛みが止まらない。
今度はいつ会えるのかと途方にくれていた矢先に和泉からの電話。渡りに船とはこの事か。
それに、信頼する作曲家に紫づ花の歌を聴かせてみたかった。
この透明感のある歌声は、和泉の作る曲の中でも壮大な曲が映えるだろう。そんな予感があった。それは和泉も感じたようで、紫づ花に歌わせる曲のアレンジを少し変えていた。
紫づ花が物珍しそうに外の景色に気を取られている。
叶多にとって見飽きたビル群でも、紫づ花には珍しいらしい。
そんな無邪気な様子も堪らない。
ふと紫づ花が振り返り、はにかんだように笑った。
自然と笑みがこぼれる。幸せな時間。
本当なら、わざと仕事を引き伸ばして帰れなくしてしまいたい。そうすれば自分の家に泊めることが出来るからだ。恥ずかしがって逃げるだろうけれど。
だが、そうなったら明日の紫づ花が大変になる。仕事を休むわけにいかないのは、社会人として充分理解している。
もっと一緒にいたい。近くにいたい。
そう思っても、すぐそこにある手を握ることは出来なかった。
和泉はレコーディングをするブースの手前のコントロールルームにいた。
「あ。お久しぶり。悪いね、遠いのに急に来てもらっちゃって。」
「いえ、そんな。お役に立てるなら。」
椅子に腰かけたままクルリと体をこちらに向けた和泉に、緊張ぎみに紫づ花が答えた。
「軽く腹ごしらえはしてきたってさ。新幹線の中で。」
叶多が『ここに座って』と壁際のソファに案内する。
和泉が頷いた。
「じゃぁ、早速始めていいかな。時間もないし。」
プロの顔に戻った和泉が譜面を紫づ花に渡す。
紫づ花も、眼鏡を指で持ち上げると真剣な表情で、和泉の説明に耳を傾けた。
叶多が不思議な気分でそれを眺める。
和泉はファウの活動以外に個人で音楽製作を手掛けているが、その仕事風景を第三者として眺めるのは始めてだ。
そしてその仕事相手は、この1ヶ月間想い続けた人。
プロにひとりの素人を紹介した、それだけなのに。
この景色は大きな世界の始まりになる。
そんな不思議な予感に身震いした。
「・・・いいな。」
ボソッと呟いた和泉がブース内に繋がるマイクに終了を告げた。
ほっとした表情で紫づ花が出てくる。
部外者の叶多は献身的に立ち回り、ソファに座らせてコーヒーを手渡す。
和泉が真剣な面持ちで紫づ花の歌声を確認し、紫づ花はスピーカーから聴こえるそれに、恥ずかしそうに見悶えた。
「そうなんだよね。最初は変な感じなんだよ。自分の声を聴くのってさ。」
叶多はさりげなく隣に腰を下ろし、腕組みをしながら頷いた。
「昔、仕事でラジオのゲストしていた時に慣れようと思ったんですけど、ダメでした。」
「え?ラジオもやってたの?」
「映画館に勤めていた頃、その職場が地元ラジオ局で映画のコーナーの協力をしていて、それでしゃべってました。」
「なんだかいろんなことやってるね。あ、チョコ食べる?」
叶多が笑顔で他人の世話を焼いている。
そんな光景を珍しそうに眺めながら、和泉が口を開いた。
「1つ聴きたいんだけど、今オペラみたいな声で歌ったよね。それはなんで?」
両手でコーヒーの紙カップを包むように持った紫づ花が、考えるように目線を動かした。
「曲が壮大なイメージで、何か大きな事が起きている場面っぽかったので。」
確かに今の曲が使われるのは、主人公が女神の力を借りて進化するシーンだ。しかし時間がどれくらいかかるかわからなかったので、とりあえず歌ってもらおうと思ってその説明は後回しにしたのだが、それを感じ取っていたのか。そしてそのイメージに合わせた声が出せるのか。昨日叶多に聴かせてもらった声は全然違う声だった。
和泉が覚悟を決める。
「紫づ花ちゃんさ、歌手になってみる気ない?」
「ほえ?」
叶多にはもう馴染んでしまった紫づ花の変な声。しかし和泉は奇妙な表情をしていた。
それでも気を取り直して言葉を続ける。
「音の感覚も理解もいいし、何より声がいい。是非とも俺にプロデュースさせてくれないかな。」
紫づ花が目と口を真ん丸に開いた。
しかし声を出す前に叶多が同意の声を上げた。
「いいね!和泉さんの曲で紫づ花ちゃんの歌を聞いてみたいと思ってた!今のもすごいきれいだったし、良いんじゃん?」
近くにいるスタジオスタッフ達も頷いていた。
紫づ花の口が真ん丸になったまま、目が叶多と和泉を往復する。
「昨日紫づ花ちゃんの声を聴かせてもらってからいろんな曲がこん中で渦巻いてる感じでさ。ファウでは出来ない感じなんだよ。」
胴の前で円を描くようにグルグル腕を動かす。
「確かに今みたいなのは俺じゃダメだし、この声ならすぐに認められるよね。」
《F.a.U GARDENのIZUMIプロデュース》と言うのは、それだけでかなりドーピング的だが、インパクトが重要なこともある。
「え・・・あ・・・」
紫づ花が口をパクパクさせているが、盛り上がった男二人は気にしない。
「紫づ花ちゃんの声なら、もっと荘厳な音楽もイケると思うんだ。」
「オーケストラ連れてきてゴスペルっぽいのとかな。」
「そうそう。でもかわいい声のアニメソングも捨てがたいんだよね。」
「そんなのもイケるんだったら、更に幅広く仕事も請け負えるな。」
「ちょ、まっ・・・」
調子に乗ってきた和泉は傍らに立て掛けていたフォークギターを抱え、『例えばこんな歌はどうだ?』といかにも女の子向けアニメソングな曲を口ずさむ。
口を挟むタイミングを失った当人は置いてけぼりだ。
「いいじゃん、いいじゃん。作詞だって俺が出来るくらいだし紫づ花ちゃんならなんとかなりそうじゃん?」
その目が紫づ花を捉えた瞬間、彼女は割り込むタイミングを掴んだ。
「そりゃ、作詞は出来ますけど、私はコーラスの方が得意なんでメインボーカルは友達が良いです。」
慌てて口走ったその台詞は様々な爆弾を孕んでいた。
プロのミュージシャン二人だけでなく、周りのスタッフも紫づ花を凝視する。
「・・・あれ?」
勢いで自分が何を言ったか自信のない紫づ花が怯む。
「作詞出来んの?」
「コーラスが得意って?」
同時に問いかけられて、二人を交互に窺う。
叶多と和泉も長年連れ添ったアイコンタクトで、先に叶多が発言権を得た。
「作詞、出来るの?」
「あの、レベルはともかくとして、子供の頃から歌を作るのは好きだったから、その辺の音楽に合わせて詞を当てたりしていました。」
叶多が『マジか』と言う表情で和泉を見る。彼は仕事以外でそんなことやりたいとは思わない。
「じゃぁ、コーラスが得意って言うのはその友達とハモりながら歌えるってこと?」
「そうですね、デュエットなら二人目を覚えてみたり、好きな歌に勝手にコーラスを増やしてみたりして、カラオケでよく歌ってます。あ、動画投稿してますよ。」
『コーラスを増やす?』と頭に疑問符を浮かべながら見せてもらった動画は衝撃だった。
二人の女の子の、一人は胸から下、もう一人は首から下が映っていて、顔は見えない。
叶多はその二人の服装に見覚えがあった。前回勝手に会いに行ったときに彼女と、静紅という友達が着ていたものだ。
(あの日の昼間撮ったのか。)
一人で頷いてみる。しかし顔が映ってないのは残念だ。
歌はテレビでよく聴く有名シンガーの曲で、そのメロディに聞き覚えのないコーラスが付いている。その声が紫づ花なのはすぐにわかったが、そのメインボーカルは圧巻だった。
たぶんコーラスだから少しは声量を落としているのだろうけれど、その紫づ花とはまた違うパワフルで厚みのある歌声が、質量を伴って襲いかかってきた錯覚に陥った。
「このハモりは自分達で?」
「どうしてもこの友達とハモりたくて作っちゃいました。」
再び耳を疑う。
なんでもないことのように言ってのけたが、これだけきれいなハモリを作れる素人はなかなかいない。音の選び方もその音程の確かさも、更には相方の音程の揺らがなさも素人離れしている。
和泉は恐る恐る聴いた。
「二人とも、ボーカルレッスンとか受けていたの?」
しかし紫づ花の返事は軽い。
「いいえ?声優のレッスンは受けたことありますけど、歌はないですね。」
「じゃ、紫づ花ちゃんはどうやってコーラスのメロディを作ったの?」
「え~と?ひたすらこの曲を聴いて体の中に叩き込んで、綺麗に響く音を探して当てはめていく感じなので、時間はかかりますね。」
『時間がかかる』と言う言葉に、和泉は軽くほっとする。
これで簡単に出来たとか言われたら、作曲で30年近くやって来てもまだ悩みまくる彼はプライドがズタズタだ。
「この友達は歌手になる希望とかはあるの?」
一応会ったことのない相手なので確認をしておく。紫づ花に対しては失念しているが。
紫づ花は大きく頷いた。
「で、え?何?どゆこと?」
紫づ花から久々に電話がかかってきたと思ったら意味不明なことを言われて戸惑った。
『だから、歌手デビューしないかって。』
「や、ちょっと待って。何でそんな話が出てるの?」
飲みかけのマグカップを置いて何の気なしに当てていたスマホを左耳から右耳に当て直す。
耳にも左右の機能の違いがあってうんにゃらと言う話を紫づ花から聴いたことを思い出しかけたが、今はそれどころじゃないので意識の彼方に追いやる。
今日は仕事が早番で、家に帰ってまったり読書を楽しんでいた。
21時を少し回った頃。いつもこの時間の紫づ花は次の日に備えて寝る準備をしているはずだ。しかし電話での開口一番は、『今東京のスタジオにいるんだけど』だった。
まず、なんで東京にいるのか。更にスタジオってなんだ。
そこから説明してほしいんだけど、なんだか急いでる紫づ花はそこの説明は省きたいらしい。
『ごめんね。今は新幹線の最終に乗らなきゃならないのであんまり時間ないから、後でチャトるよ。』
そして電話の声は、紫づ花に借りて観たライブDVDで聴いたギターの人の声に代わる。
明日は休みだ。そう伝えると、簡単な面談をするから、履歴書を持って明日赴くことになった。