5
叶多が見つけていたバーは、ホテルの向かいにあるビルの中にあった。
小さなエレベーターで5階に上がる。
洋楽のバラードがゆったりと流れるそのバーの名は“Bacchus”
「バッカス、なんだっけ、バッカス。お酒の神様だっけ?」
小さな声で紫づ花がそんなことを言っている。
そんな姿を微笑ましく見下ろしながら、声をかけてきたバーテンダーに『二人』と告げる。
すると奥のテーブル席に案内された。
「意外に本格的なバーだった。」
そのバーテンダーが立ち去ってから、コソっと叶多が言うのに紫づ花がそっと笑う。
軽く握った拳で口元を隠す。
叶多の周りで初めての人種。
むしろこんなおしとやかな人は避けてきたところがある。
それなのに。
「さて、何呑む?」
メニューを開いて紫づ花の前に広げる。
“お好みに合わせてお作りします”と言う文字とカラフルなカクテルの写真がありがたい。
紫づ花は『ん~』と唸りながらページを繰っている。
すると何かに気づいたように、顔を上げた。
「叶多さんは夕食はどうしました?」
やっぱり。
叶多の心の中が暖かくなる。
必ず相手の事を気遣う。いつでも優先する。
「食べたよ。」
そう言うと、そうですか、と微笑んだ。
つられて笑みを浮かべると更に嬉しそうに笑う。
多分端から見ると、ニコニコして仲良さげなカップルに見えるのだろう。
叶多はウイスキーの水割りとウインナーの盛り合わせと野菜スティックを選んだ。
そしてオーダーを取りに来たバーテンダーに紫づ花がカクテルを注文する。
「あの、アルコールは控えめで、甘いのをお願いします。」
バーテンダーは、少し考えてから頭を下げて戻っていった。
「なんか注文の仕方が慣れてるね?」
「そんなことはないですよ。以前静紅ちゃんと一緒にバーに入ったことがあって。」
またあの友達か。嫉妬のレベルが一段階上がる。
しかし一応オトナぶっている叶多は、そんな素振りを見せずに両肘をテーブルについた。
「そういえば、その静紅ちゃん、なんて呼んでた?紫づ花ちゃんのこと。」
「あ、ねえさん、ですね。」
「そうだよね。なんで?」
紫づ花が視線を上に泳がせ、首をかしげた。
「そういえば、なんでだろう?と言うか、いつから呼ばれてたんだっけ?」
あまりに馴染みすぎて忘れちゃいました、と肩をすくめる。
「あの、さっきは何を話してたんですか?」
「ん?たいしたことじゃないよ。良い友達だね。」
オトナの余裕で笑いかけると、紫づ花が嬉しそうに笑った。
「二人は、どういう友達なの?」
キャラ的に姉要素があるなら、同じ歳でも“ねえさん”と言うあだ名がついてもおかしくない。実際、高校の頃の叶多のクラスメートに“オヤジ”がいた。
「昔、声優のレッスンに通っていた時があって、そこで同じ組でした。」
さりげなく言われて、今度は叶多が考える顔になる。
「あれ?同業者?」
「違いますよ。私も彼女も卵から孵化しませんでした。」
要するに、声優にはなれなかったと言うことか。
自分が声優の専門学校に通っていた時のことを思い出して、くるくると左手の中指にはめたシルバーリングを回す。
「紫づ花ちゃんと静紅ちゃんと、名前が似てるとかきっかけだったり?」
「そうですね。だから二人で、どっちが呼ばれたかなって顔を見合わせたりしてました。」
懐かしそうに微笑を浮かべながら話す紫づ花を叶多は眩しそうに見ている。
「何年くらい前?」
問われた彼女が指折り数えて感嘆した。
「・・・え、10年?もう10年経つんだ。」
「え?」
しかし叶多には即座に理解できなかった。
10年前に声優のレッスンを受けていたと言うことは。
「子役から始めてたんだ?」
中学生は子役に入るのか限定解除なのか、その辺りは詳しくない。
そんな叶多に紫づ花は首をかしげた。
「成人ですよ?静紅ちゃんが成人式だったの覚えてるし、私も前の前の仕事の時だったし。」
「は?え?」
「え?」
ワンレンに伸ばした黒い髪を、手櫛で整えながら目を見開くその顔は少し幼い。
するとピンと来たのか、『え~・・・』と言いながら突っ伏した。
「あの、紫づ花ちゃん?」
同様に『え~』と突っ伏したい衝動を押さえる。
体を起こした紫づ花は苦笑していた。
同時に、すごく切なそうにも見えた。
「私は何歳くらいに見えてますか?-5歳とか気を遣わないで、正直なところ。」
足元の籠に置いていたショルダーバッグから、パスケースを出しながら訊ねる。
叶多も、余計な計算はせずに素直に答えた。
「25歳くらいって言えばいいとこいってると思ってるけど?」
「ん~、そのくらいなのか。」
そう言いながら、パスケースを開き運転免許証を示した。
写真は目の前の彼女そのもの。
その肝心の生年月日は・・・
「・・・あれ?俺の誕生日の2日後?」
「え?あ、はい。」
思わぬ感想で、慌てて返事をする。
「へぇ~、なんか縁があるね。」
そしてようやく気付く。
「・・・え?3つ下?36歳?」
「はい。」
紫づ花が、肩の荷が下りたようにホッと返事をした。
思わずじっくりとパスケースと見比べてしまう。
同時に脳裏には、自分の弟や仕事仲間の36歳くらいの顔を思い浮かべるが、誰もしっくり来ない。
しかし証拠を見せられているので信じるしかない。
「あの、ごめんね。勝手に年齢決めつけてて。子供っぽいとかじゃなくて、単純に肌とかが若いなって思っただけで、でも話してるとずいぶんと大人だし古い歌も知ってるし、不思議だなって思ってたけどでも納得した。」
パスケースを返しながら弁明すると、紫づ花ははにかんだように笑った。
「ありがとうございます。職場でも若く見られてるようなんですけど、なかなか年齢の訂正ってできないし、若く見られるなら良いじゃないって言われるけど、コドモ扱いされたらやっぱり嫌だし。」
『それに』と、少しトーンを落とした声が続ける。
「あんまり若く見えるのって人生が空っぽなような気がして。」
叶多が慌てて遮った。
「そんなことないって。ろくでもない年寄りだっているじゃん。関係ないよ。」
その時、ドリンクとサイドメニューが運ばれてきた。
ホワイトグリーンのカクテルを『かわいい』と笑顔で見つめる様子は、とても四捨五入して40歳には見えない。
叶多はロックグラスを持ち上げ、軽く揺らして氷の音を立てると紫づ花の方へ捧げた。
「乾杯しようか。」
叶多が笑いながら言うと、幸せそうな笑顔が返される。
軽くグラスを当てると、チンッと涼やかな音が響いた。
一口、カクテルグラスに口をつけて、『おいしい』と嬉しそうに言った後、紫づ花がグラスを置いた。
口を付けた部分を指でキュッとふく。
「本当は若くなくてがっかりしませんでした?」
叶多の眼が丸くなる。
「なんで?俺別に若い方が好きな訳じゃないよ?」
「そうなんですか?」
紫づ花の反応に、少し傷付く。
「あー、でもそれよく言われるんだけどさ、若い子好きだって。でも違うから。俺の気持ちが若いからたまたま気が合う相手が若いだけで。あ、もちろん男女ともにね。」
思い返してみれば、仲が良いとラジオなどで公言している男性声優も、若い人が多かった。
紫づ花がほっとしながらグラスを口に運ぶ。
気付いていないのか。
その表情は嫌われなくてよかったと言っているのも同じだということに。
もしも嫌われることが怖くて今までの遠ざけるような態度だったとしたら、そんな心配いらないんだと知らせたらどうするのだろう。
その時、ふと静紅の言葉が蘇った。
『紫づ花にははっきり言わないと伝わらない。』
叶多は水割りで唇を湿らせる。
さっきから口が乾いてしょうがない。
これは緊張か。
あまり緊張はしない方だと思っていたが、この状況で緊張している。
目の前に好きな女がいる。それが嬉しいのに、同時に不安になる。
この人の目には自分がどう見えているのか。
そんなこと気にしたことはなかった。
気付くと、紫づ花の視線が叶多の腹部辺りに注がれていた。
「ん?これ?」
フェザーが付いたペンダントを右手でチャラっと揺らしてみる。
紫づ花がハッと視線を上げた。
「あ、いえ、別にそれではないんですけど・・・」
アルコールのせいだけではない赤い顔が、叶多に覚悟を決めさせる。
大きく息を吸って、ゆっくり吐き出す。
「さて、紫づ花ちゃん。」
「はい?」
相変わらずきれいな返事だ。少し目を見開いて僅かに顔をかしげている。
これで3つ下。
改めて驚くけれどそれはさておき。
「さっき静紅ちゃんにアドバイスもらったんだよね。」
叶多の言葉を不思議そうにしながらも待っている。
こんな仕草も何もかも全部、いつでも独占していたい。
一番先に考えて欲しい。一番長く考えていて欲しい。
もう一度息を吸う。
「紫づ花ちゃん。俺と付き合ってください。」
その言葉を聞いた直後の紫づ花は、理解していないようで目をぱちくりしていた。
思わず軽く吹き出す。
「言ってる内容わかってる?俺のカノジョになって欲しいってことだよ。」
「ふわぁ!?」
急に変な声をあげてのけぞった。直後壁に後頭部を打ち付け『あうぅ~』と呻いて頭を抱える。
「だ、大丈夫!?」
ここが壁際の席じゃなかったら後ろにひっくり返ってることだろう。デジャヴを感じる。
彼女を驚かせる可能性があるときは背後に気を付けようと心に誓う。
しかし紫づ花はすぐに姿勢を戻し、彼女から見てテーブルの少し先、叶多の腹部辺りを見つめるような目で固まった。
ありえない。
紫づ花の脳裏に最初に思い浮かんだのはその言葉。
あの廣崎叶多が自分に交際を申し込むなんてありえない。
今までもそれらしいことを言われていたが、ありえないからスルーしてきた。そのままこんな冗談は遊びにもならないと気付いてやめてくれれば良いと願いながら。
紫づ花には笑えない冗談だ。笑えないし、ふざけてノリ良く流せない。
今だって普通にしているように見えても心臓バクバクで呼吸がちゃんと出来ているのか自信がない。
叶多が微笑む度に見とれてしまう。そして幸せになってしまう。
これ以上の幸せは望めない。永遠に続く幸せなんてないと思うから。
だから紫づ花は自らボーダーラインを引く。
傷付きたくないから。
自分から誰かが去っていくのなんてもうごめんだ。
だったらいっそのこと近づかなければいい。
紫づ花の中のスイッチが切り替わる。
冷静な仮面がその感情を隠す。
爪先にボーダーラインが現れる。
そんな紫づ花の内面の葛藤など知る由もなく、叶多は怪訝な表情で窺っていた。
交際を申し込んだのは理解したはずなのに、これはこの場面にふさわしい表情ではない。
叶多の胸に不安が滲む。
これは・・・まさか・・・
フラれるのか?
確かに、ファンとして好きなのと人として好きなのは違うとは解っているが、あんなに良い笑顔でいてくれていたのに。
(嘘つき)
脳裏の静紅に悪態をつく。
一点を見つめていた紫づ花の目がゆっくり瞬き、口許がゆっくり笑みを形作る。
そのまま瞳を上げて叶多をその目に写す。
その、別人のような艶やかな笑みに、思わず唾液を飲む。
まるで男女の全てを知っているかのような、妖艶な表情。
時間が凝ったような濃密な空気の中、はじめて聞くような低い声が届く。
「そんなこと言ってからかって、どうするつもりですか?」
その笑みに、その声に、吸い込まれていく。
叶多の鼓動が強く高鳴る。痛いくらいに危険を伝えてくる。
多分どこかでこの違和感の正体がわかっているのに、そんなことはどうでもいいと、この妖しい魅力に溺れたいと、願ってしまう。
この人は危険だ。戻れなくても良いくらい、鼓動が求めている。
乾いた唇を軽く舐めて湿らせても、うまく口が動かない。
(頑張れ廣崎叶多。お前は声優だろ。喋ってなんぼだろ)
思わず右手が左手の指輪を回す。すると彼女の視線がスッと下がった。
さっきからこの指輪を見ていたのか。確かに両手は腹の前で重ねるように置いていた。
気が付くと同時に自然と手が動く。
叶多は指輪を引き抜くと、テーブルの上に置き、紫づ花の方へ差し出した。
黒っぽい銀が、天井のライトを反射して鈍く光る。
「信じられないならこれを持っていて。」
その瞬間、彼女を取り巻く空気が変わった。
「これって、いつも着けてる指輪ですよね、私服の時。そんな大切なもの預かれません。」
変わったと言うよりは、すっかり素に戻った紫づ花が両手を振った。叶多を扇ぐようにブンブンと。
声もいつものトーンだ。
さっきまで気圧されていた叶多が思わず吹き出した。
「え、えぇ~。」
クックックとテーブルに顔を付けるように笑うのを見て、困っている。
楽しい。
可愛い。
独占したい。
沸々と込み上げる思いが鼓動を揺らす。
笑ったままの顔を上げて紫づ花を見る。
紫づ花は、笑顔が好きだと言ってくれた。
だから今の気持ちをそのまま笑顔に乗せる。
静紅が言っていた。ちゃんと言わないと通じないと。
だから仕事では散々言っているけど、自分では言ったことのない言葉を選んだ。
「紫づ花ちゃんが、好きです。本当に。ずっと紫づ花ちゃんの事を考えてて、それが幸せなんて、初めて知った。だから、付き合ってください。」
心臓が暴れている。その反動で息苦しくて言葉が途切れ途切れになってしまった。
それでも笑顔のまま返事を待つ。
大きく見開かれた紫づ花の目に涙が盛り上がった。
慌てておしぼりをつかんで両目に当てると、フルフルと頭を振る。
しかしこれは断ると言う意味の頭の振りではない。
ちゃんとわかっている。
叶多は畳み掛ける。
「ダメだよ、イエス以外は受け取らないから。さっきまでは振られたら諦める気も無くはなくない感じだった気もするけど、今はもう諦める気なんかないから。紫づ花ちゃんが俺に少しでも好意を持ってる以上、諦めるなんていう選択肢はないんだ。」
「え、え?無くはなくない、気もする?」
叶多の遠回しで不確定な表現に、紫づ花が思わずおしぼりから顔を上げる。
その手をつかんでテーブルに縫い付ける。
そして行き場を無くしていた指輪を握らせた。
「これは、俺が声優の仕事で給料を初めて貰ったときから少しずつ貯めて買った指輪なんだよ。まぁ、今ならたいした金額じゃないけど、当時の俺は3ヶ月かかった。これを身に付けることでいつでも初心を忘れないようにしようと考えていた。」
紫づ花の手を握りながら諭すように続ける。
「夢を叶えた人間に共通するのは、ただ諦めが悪いって所だ。叶えたって言っても、そこがゴールじゃなくてスタート地点なんだけど。だからね、俺は紫づ花ちゃんに対しても、スタートラインに着くまでは諦めないよ。」
掴まれてる手を取り戻したいんだけど、力任せに払い除けるのは気が引ける紫づ花がどうしていいか戸惑っている。
そんな、優しいと言うかお人好しと言うか、騙されやすそうな紫づ花を守りたい。
自分以外の事を考える時間がこんなに温かいなんて知らなかった。同時にたまらなく痛いことも。どんなに歌詞に出来ても、それは誰かの受け売りで自分の実感じゃないと気付かされた。
紫づ花が堪えられなくなったのか、完全に下を向いて表情を隠した。
「・・・やめた方がいいですよ。無駄にバツを増やさない方がいいです。」
(バツって、離婚じゃないんだから)
苦笑しながら声には出さず、先を促す。
紫づ花の弱々しい声がテーブルに落ちないように、一言一句拾う。
「私は、つまらない女だから。世間的には熟女に入るような年齢になっても男の人とまともな付き合いなんてしたことないし、友達だと思ってても相手にはただ迷惑な存在だったり、最初に忘れられちゃうような関係だし、うとまれるだけだし・・・」
叶多がハッとする。
初めて語られる紫づ花の胸のうち。
紫づ花を形作っている過去。
いったいどれだけマイナスの言葉が出てくるのだろう。そんなにも傷付いてきたのか。
彼女のマイナスに『そんなことない』と言うのは簡単だ。しかしまだ全てを知っているわけではないのに、間に合わせの当たり障りのいい言葉はかえって傷付けてしまうのではないか。そんな言葉の恐ろしさは、職業柄身に染みている。
いつかの言葉が甦る。
『もう誰も傷付けたくない。』
それは痛みを知るからこその覚悟。
紫づ花の優しさは血にまみれている。
そのおとなしさや優しさや慎重さは全て、傷付けられて来たからこそ鎧として我が身を守ってきた。
痛々しくて思わず手に力が入る。
小さな涙声。
「なんで・・・私なんですか・・・」
消え入りそうなその声は、それでも叶多に刺さった。
初めて会った時の適当な音の羅列ではもう意味をなさない。しかし本当の、今の本気の叶多の気持ちを言葉にするのは難しい。
どんな言葉を並べても安っぽくなってしまいそうだ。
乾いてしまった唇を舐めて湿らし、考えをまとめるために視線を上へ向ける。
「なんで・・・。本当になんでなんだろうね。俺もよく自問自答を繰り返してきたけど、それでも・・・分かりやすく言えば一目惚れかも。」
あの日の紫づ花を思い出す。
「一番後ろで一生懸命腕を振り上げて、一生懸命歌って、一生懸命、俺を見てくれていた。あの日は会場が狭くて、最前列なんて頭に触れるくらい近かったから全員の顔が見えたけど、その中でどうしても目に焼き付いて離れない存在だった。」
思い出すだけであの時の興奮が甦る。
その興奮はライブをしているからだけではなく、多大に紫づ花の存在が影響している。
「何度も目が合ってるって感じなかった?俺はアーティストなんだからみんなを平等に見て、男も女も平等に愛さなきゃダメだってわかってたのに、どうしても紫づ花ちゃんに目が行っちゃってね。多分、見つめてる時間を集計したらダントツだったと思うよ。」
言葉を切る叶多と、紫づ花が驚いた顔を上げたのと同時だった。
目が合ったと感じてた。それは勘違いだと思っていたけど、ただの自意識過剰ではなかった?
二人の視線が交錯する。
ライブの時以上に、濃密に意味を持って絡み合う。
叶多が照れたように微笑む。
「歌っていても、一番後ろの正面の子が気になって、MCしてる時なんて、そこを見ないようにするのを頑張らなきゃならないほどだった。それだけ、紫づ花ちゃんの印象は鮮烈だったんだよ。とにかく、このまま終わりには出来ないと思った。」
だから残ってもらった。
「その時は、お近づきになりたいってことしか考えてなくて
、その後のことは成り行き任せな感じだったんだけどね。打ち上げとか、その次の日に遊んだ時とかでかなり好きになってた。何より歌がね、すごく良くて、実はこっそり録音させてもらってたのを毎日聴いてんだ。」
「え!?録音!?」
驚く紫づ花の手をなだめるように撫でる。
すべすべしていて柔らかくて、実は気持ちいい。大福みたいだ。
「他にももちろん色々良い所はあるけど、優しい所とかさりげない気を遣える所とか本の話が出来る所とか、とにかく色々。」
見開いた紫づ花の目から一筋想いが流れる。
そんな風に言われたことなかった。
誰にもスルーされて必要とされていないと思っていた。
めんどくさい奴だと思われていると思って、だんだん人と接するのが辛くなってきていた。
心の奥に沈めていた痛みが溢れ出る。
叶多がそれを右手で拭って、その濡れた指に口付けた。
「つまらない女とか言うけど、誰にとってつまらないの?少なくとも俺は、紫づ花ちゃんと話をすると楽しいし幸せになれる。そんな今までの、紫づ花ちゃんの魅力に気付こうともしなかったその他の人間なんて忘れちゃってさ、俺の言葉を信じててよ。」
ね?と笑顔を見せると、恨めしそうな上目遣いで迎撃された。
「信じられません。恋多き男の癖に。」
声は小さかったが破壊力は抜群だ。約1日間とはいえ、カノジョはいないと嘘をついていた手前ダイレクトに刺さる。
それでも持ち前の回復力で気分を盛り上げる。
「過去の俺は信じなくて良いから、これからの俺を信じてよ。それで、近くで見てて。」
再び紫づ花の視線が落とされる。
同時にパタパタと音をたてて滴が落ちる。
「私は、不器用だし、人間関係築くのも下手なので、簡単に付き合ったり別れたりなんて出来ません。」
「俺だって出来ないよ。」
思わず言い返した後、ちょっぴり訂正する。
「いや、今までは、紫づ花ちゃんよりは別れたりしてきたけど、でも紫づ花ちゃんに関しては全然簡単じゃないよ。なんせ1ヶ月もチャトルだけで続けたんだもん。それでも足りないし、もっともっと知りたい。ずっと同じ時間を共有したい。」
必死に紫づ花を説得する頭の片隅で、少しずつ冷静になってきた叶多が気付き始めた。
紫づ花は自分のことを卑下して断ろうとしているけど、決して叶多に対する気持ちを否定しない。
ファンとしては好きだけど、付き合うなんて考えられないのならはっきりそう言えるはずだ。
好意は、ファンとしてF.a.U GARDENのKANATAに向けられたものではなく、声優廣崎叶多に向けられているものでもない。
それでも好意自体を否定しないと言うことは、答えはひとつ。
人間としての、廣崎叶多個人へ好意を向けていると言うこと。
叶多は身を乗り出して髪に隠れた耳元に口を寄せた。
「お願い。そばにいて。」
あえて、いわゆるイケメンボイスで囁く。
すると紫づ花が表現しづらい奇妙な声をあげた。
バッと手を取り返すと耳を押さえる。しっかりと指輪を握ったまま。
「イ、イケボになんて騙されませんよ私はそういうCDとか乙女ゲーとかには興味ありませんから。」
「そうなの?残念。」
叶多が声をもとに戻し朗らかに微笑んだ。
真っ赤な顔で紫づ花が訴える。
「それにっ、住んでるところが離れてるから、そばにはいられません。」
(まぁ確かにいきなり仕事辞めさせて、一緒に住むってのは抵抗ありそうだしね。)
それに同棲するならもう少し広い部屋に引っ越したいところだ。
それでもすでに一緒に住む計画を練り始める。まだ先のことだし現実に出来るかわからないのに、その気になってしまったらしい。
「まぁしばらくは遠距離恋愛でも楽しみましょうよ。」
肩をすくめて叶多が言うと、紫づ花が涙をぬぐった。
「楽しいんですか?」
恋愛は苦しい。それはよく知っている。楽しさは苦しさと背中合わせであるけれど、まず切なくて痛いという苦しさを感じなければいけない。
だからもうこの歳で恋愛なんてしたくなかった。
ただ、愛されたいし愛したいとは思うけれど。
求めるから辛い。だから恋は苦しい。
求めないで与えるだけなら苦しくなんてない。それが愛だと思っている。
そうやって、創作者である紫づ花は自分の中で折り合いをつけて物語を作ってきた。
現実には、そう上手く住み分け出来る感情ではないことはよくわかっているけれど、そうしないと物語が進まないからだ。
自分の、現実と感情と創作者としての世界観が混乱して何が自分の気持ちなのかわからない。
そんな紫づ花の手を、叶多は再び取った。
「楽しいよ。今こうして紫づ花ちゃんと話して、手を握って、真っ赤な顔の紫づ花ちゃんを見ているのがすごく楽しい。
」
「い、いじわる。」
泣いたせいか、少々舌足らずなしゃべり方になったことに声を上げて笑う。
紫づ花が好きだと言うならいくらでも笑顔を見せる。
そんなの簡単だ。紫づ花の事を考えれば自然と笑顔になるんだから。だから時々仕事仲間に気持ち悪いと言われたけど。
「だからさ、俺が一番紫づ花ちゃんの事を考えていて良いって権利をちょうだいよ。で、紫づ花ちゃんも一番最初に俺の事を考えてよ。」
身を乗り出して息がかかりそうなくらい顔を近づけると、その分紫づ花は身を引く。
テーブル越しにかなり辛い体制だがそれでも諦めない。
掴めるまで努力してきたから今があると、叶多は実感している。だから紫づ花にも諦めないでほしい。諦め癖は、なくしてほしいし、なくしてあげたい。
紫づ花はいろんな人から愛されるべき人だ。今までは縁がなかったけれど、まだまだ遅くはないはずだ。
男にオトコとして愛されるのは困るけど、同性にだって充分愛されるはずだ。
叶多がそれを支えたい。
その先の笑顔の一番近くにいたい。
目の行き場がなくて散々泳がせて、ようやく叶多の顔へ戻ってきた。
「・・・あの、一番最初って・・・重複してます・・・」
一瞬ポカンとした叶多が、意味を理解して豪快に笑い出した。
「あははなるほど、一番と、最、は同じ意味だあはは。」
そんな叶多につられて、紫づ花の表情も柔らかくなった。
こんな風に一生懸命になってくれる人を信じたい。
やっぱりどうしたって、叶多の事を考えてるのが幸せだから。痛くて苦しくても、想うことを止められない。
二人が自然と見つめ合う。
同じリズムで、相手の感じてる事を感じる。
「紫づ花ちゃん。俺のカノジョになってくれる?」
「はい。」
紫づ花は、一度目を伏せてから改めて目を上げた。
そこには、誰にも見せたことのない一番きれいな笑顔があった。