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心地よい声が脳を満たす。
最近の移動中は常にこれだ。
以前、初めて紫づ花とカラオケに行った時に内緒で録った彼女の歌。
スマホのボイスレコーダーなので音はあまり良くないが、それでも紫づ花の声の良さは充分残せる。
1曲目から度肝を抜かれた。
音の正確さ。声の使い分け。声量。
何より透き通った高音に圧倒された。
しかし彼女は嬉しそうにしながらも、自分の友達の方がうまいと謙遜した。
そして、聴いているうちにいつでも聴ければいいのにと思い、こっそりボイスレコーダーを起動させた。
あまり学校で教わるような歌には興味はなかったが、紫づ花の声なら聴きたいとリクエストした歌は、やはり美しく響いた。
そのあとも、しっとりと失恋を、重い情念の演歌を、女性ボーカルの激しいロックを、かわいらしいアニソンを、次々と歌い上げていく。
その幅広いレパートリーにも驚いたが、圧巻は声の使い分け。
叶多だってキャラソンを歌い分けるのに苦労するのを、紫づ花は自然とこなしている。
叶多は読んでいた文庫本を閉じた。
頭はあの日に戻ってしまい、読書どころではない。
仕事は食品加工工場。趣味はカラオケ、読書、音楽鑑賞など。
この“など”の辺りは恥ずかしがってごまかされた。
でもまだいくつか出てきそうだ。
話していて感じたのは、頭がいい子だなということ。
まだ20代半ばくらいにしか見えないのに、落ち着いた態度で静かに知性的な言葉を紡ぐ。
会話が楽しいと感じるのは初めてだ。
叶多も読書が趣味なので色々な本に手を出している。
その中で培ってきた叶多の語彙は自分の中では普通の言葉なのだが、他人には難しいらしい。
言葉の意味を確認されるのも話しが滞ってめんどくさいが、意味がわからないまま話が進んで結局ちぐはぐな反応をされるのも嫌なものだ。
でも、紫づ花とはそれがない。
まだそれほど長く会話ができているわけではないが、自然体で話が出来てちゃんと理解してもらえるのは嬉しい。
音楽鑑賞も、基本的にはロックが好きなんだけど、ジャズもクラシックもボーカルグループも声優ソングも好きで、家のCDラックが支離滅裂だと笑っていた。
そんな風に紫づ花の声に浸っているうちに電車が、降りる駅に到着した。
リュックを背負ってホームに降りる。
最近買った紫色の和風生地を閉じ込めたキーホルダーが揺れる。
紫色の物がやたらと目に付く。
紫づ花がスマホや財布など小物を紫で揃えていたせいかもしれない。
その時、トントンと肩を叩かれた。
振り返ると、頭半分ほど低い目線に見慣れた顔。
「おはよう、叶多さん。」
「よう、佑くん。おはよう。」
今日の仕事で一緒の大庭佑樹だ。
「歌覚えた?」
「当たり前だろ、完璧だよ。」
「俺まだ歌の仕事慣れてないから覚えんの大変。」
叶多がスマホの音楽を止めイヤホンを外す。
佑樹が興味深そうに見ていた。
「何聴いてたの?F.a.U GARDENの新曲?」
「なんで自分の歌聴かなきゃならねぇんだよ。」
パカッっと頭を叩く。
佑樹が大げさに頭を抱えた。
「違うって。作詞するために曲を聞いてるのかと思ったの!」
「ああ、それはもう終わって、昨日レコーディング終わったから、あとはPVとジャケットの撮影だけだ。」
昨日も今日も歌の仕事。固まる時はそんなものだ。
「叶多さんとデュエットってすごいプレッシャーなんだけど。」
「なんで。」
「だってもうプロじゃん。ライブもじゃんじゃんこなしてパフォーマンス最高に格好いいし、そんな人と一緒に歌うなんて。」
叶多は並んで歩く後輩を見下ろした。
「何言ってんだ。ファウのKANATAとキャラソン歌う廣崎叶多は別だ。それに曲も和泉さんじゃねぇし。」
自分の歌い方を消すのは難しい。
キャラソンも嫌いではないが、キャラを演じながら歌うのは大変だ。
特に癖のない紫づ花だから歌によってキャラを変えるのがうまいのか。
ふと思考が紫づ花に向かう。
またカラオケ聴きたいな。
そんなことを考えながら佑樹と会話しているうちに、スタジオに到着した。
「あ~もう、ようやく人心地ついた。」
イッキ飲みしたジョッキをタン‼と勢いよく置く。
「今日の歌はちょっと歌うの大変だったな。」
叶多もジョッキを下ろして、お通しのほうれん草のごま和えを口に運ぶ。
今日はお互いこのレコーディングが最後の仕事なので、夕飯どう?となって、焼き鳥屋に来ていた。
ねぎまとももを注文して飲み物もハイボールに切り替える。
18時を回ったところだ。今なら紫づ花も家にいるかも。
そう思い、スマホをテーブルの上に出す。
佑樹が通りかかった店員にビールと砂肝を注文している。
その間にチャトルを送信していると、突然佑樹が言い出した。
「あれ?そういえば叶多さんいくつだっけ?」
「なにが?身長?」
「いや、歳。」
「39。」
そんなんなるんだっけ?と少し背後を見やりながら笑っている。そこには背広のサラリーマン達が卓を囲んでいた。
「なんか叶多さんって服装のせいか若いよね。顔だけ見れば確かにそのくらいなんだけど。」
「そっか?」
べつに若く見られたいわけではないけれど、それでもフケてみられたいわけでもない。
ただ、紫づ花と並んだ時にどう見えるかは気になるところだ。
「ま、こういう仕事してると自分の歳を忘れるよな。だって40のおっさんが高校生の声やってんだぜ?」
「そうだよね。俺はまだ20代だからそこそこいけてるけど、10年後にまだ高校生の役が取れるように頑張んなきゃね。」
その時チャトルが着信を告げた。
さりげなく画面を確認すると紫づ花の名前。
いそいそとチャトルを開くのを、佑樹が驚いた顔をして見ていた。
「あ、男と一緒だって証明した方がいいか。」
叶多が座敷のテーブルを回り込み佑樹の側に来る。
「ちょっと撮るぞ。笑え。」
「え?え??」
驚いてる間に肩を組まれ自撮りモードでシャッターが切られる。
思わずピースした写真を確認して、叶多が笑った。
「まぁ11歳の歳の差があればこんなもんだわな。」
それをチャトルで送信する。改めて驚きを示した佑樹が呟いた。
「叶多さんがチャトル返してる。」
「なんだよ、そんな驚くことか?」
「驚くよ!叶多さんの返信の無さは有名じゃん!」
「えー?そんなことねぇよ。」
佑樹がふるふると首を振った。
「水森姐さんと叶多さんのメール無精は有名だって。俺だって全然返信もらってないもん。」
水森姐さんとは、叶多より5年先輩の声優だ。女声も男声も自由自在で歌もうまい。さばさばとしていてキップがいいことから、みんなから“姐さん”と慕われている。
「確かに水森姐さんにライブの招待送っても、梨の礫だったけどな。俺はそこまでひどく・・・」
言いながらチャトルの履歴を見ていくと、見事に紫づ花にしか返していない。受信は紫づ花からだけではないので、1日に数十件入っている日があっても、返信は紫づ花にのみだ。
「あれぇ?」
「あれぇじゃないでしょ。ようやく気付いたの?」
そういえばそうだったかも。以前の自分はこんなにチャトルやメールを重要視していなかった。重要な連絡は電話ですれば良い。受信の確認だって何日に一回とかで、未読のメッセージが溜まっててイヤになり読まないで放置していることもある。
それでも紫づ花だけは特別だから。
ピロン♪と着信音が鳴る。
自然と確認する。
[大庭佑樹さんの名前は最近よく見かけます。そういえば相棒役で共演してましたね。仲良いんですか?]
「俺たちって仲良いか?」
「えー?どうだろ?」
佑樹が笑いながら答える。これくらいの軽口が出るくらいには仲は良い。
「あ、もしかして彼女?」
佑樹が身を乗り出して聞いてくる。
叶多が肩をすくめて苦笑いした。
「絶賛口説き中だ。」
心の壁は固い。
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平日のランチタイム。
ファミレスは母子連れのママ会で賑わい始めている。
紫づ花は職場で仲の良い日野飛鳥と食事に来ていた。
「このチゲって言う言葉さぁ、韓国語では鍋って意味だからチゲ鍋って表記されると鍋鍋ってことになるんだけど。」
「あれ?じゃ、キムチチゲ鍋は、キムチ鍋鍋なんですか?」
「そうらしいよ。だいたいチゲ鍋って書かれてるところにはキムチ鍋の写真があるからなんだかチゲがキムチを指してるように扱われるけどね。」
「会社で使ってるアジア製のマスクのカラーの所に、グリーソとかピソクって書いてあったのと同じですね。」
だいたい理解を示してくれる彼女は良い子だ。
確か10歳くらい歳下で、ファウのマネージャーである紺野美果と同じくらいだ。
その紺野にも若い子扱いされたが、どんなに若く見られても最近はあまり嬉しくない。
過去が空っぽなのがにじみ出ている気がするから。
自分にそれなりの充実感があって若く見られたのなら最高なのにな、と無い物ねだりをする。
「そういえば、ようやく録画観たんだよ。教えてもらった“青空のエデン”と“FANATIC GAME”。あれ、どっちも梶浦健と青木えいちが共演してんだね。」
ドリンクのおかわりを持ってきた飛鳥に話を振る。
「そうなんですよ。エデンの方は友達役で、ファナゲーの方は敵なんですよね。」
「ファナゲーって言うの?なんか、鼻毛~って聞こえない?」
思わず吹き出しそうになる飛鳥とクスクス笑う。
飛鳥とはロッカーが近くて、何となく話しているうちにアニメとかマンガが好きなところで気が合い仲良くなった。
そしてたまたま休みがかぶったので一緒にご飯食べようということになった。ちなみにあまりカラオケは好きじゃないそうなので誘わない。
「あと最近よく名前見るのが大庭佑樹とか篠原悠一郎とか。」
大庭佑樹の名前でドキっとする。
先日叶多から送られてきたチャトルで、一緒に呑んでいると写真に写っていた人だ。
「そうだよね。私が今観てるアニメは5つくらいだけどだいたいその4人がなんらか共演してる。そういえば篠原さんはエデンにも教師役でいたね。」
動揺は飲み込んで、会話に集中する。
「この間私、村井知美のはしごしちゃいましたよ。」
「あぁ、なるなる。村井知美は何年も前に犬役で初めて知ったからさ、いまや主演できるようになったんだって感無量。」
頼んだ食事が運ばれてくる。
紫づ花は相変わらずトマトソースとモッツァレラチーズのスパゲッティーマルゲリータ
飛鳥はオムライスだ。
その食事の写真を撮ってから、フォークを入れる。
「いつも食べ物の写真撮ってるんですか?」
飛鳥に聞かれて、紫づ花は苦笑いした。
「なんとなく撮っとこうかなって。」
叶多が、ナゼかこういう写真を喜ぶのだ。一番は自分の写真を送れとせっつかれるのだが、それは無理なので休日に食べたものとかを撮って送ってみたら、意外と喜ばれた。
それ以来、外食や自分で作った昼食等をたまに送信してる。
「ま、声優さんが売れ始めるのって10年が目安だって言われてるからね。30前から30半ばくらいが一番名前を多く聞くよね。それすぎると、また、仕事が少なくなるらしいけど。」
トマトソースを飛ばさないようにフォークに巻き付けながら話を戻す。
「そういわれれば、そのくらいの年齢の声優さんが一番多く見かけますよね。」
「だよね。私が声優のレッスン行ってた時、先生に言われたもん。声のお仕事だけで食べていけるのはごく一部の人達だけだって。そういう先生も声優ではあったけど、ほとんどは演劇のお仕事と養成所の先生のお仕事で繋いでて、声の仕事はあまり無さそうだったなぁ。」
厳しそう、と飛鳥が肩をすくませる。
「夢を見すぎても、現実とのギャップでダメになっちゃったりするんだよね。」
夢と現実の境目はどこなのだろう。紫づ花はよく考える。
夢が現実になる時、どんな感じなのだろう。
様々な夢を描いてことごとく破れて来た紫づ花にはまだ未知の世界だ。
現実の視界に叶多の笑顔のフィルターが重なる。
まだ現実感は乏しい。
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叶多が苛立たしげにアスファルトを蹴る。
「クソ!」
吐き捨てても地面はピクリとも反応しない。
近くにいたスタッフがビクビクと様子を窺っている。
昨日からイラついている。
原因ははっきりわかっている。
オーディションの結果が悪かったからだ。
いつも自分に仕事を振ってもらえるわけではない。
掴み取らなくてはならないのは、新人だろうがベテランだろうが同じ。
そして落とされて悔しいのも変わらない。
だからテレビは好きじゃない。
日本のテレビ番組には日本人の声が溢れていて、その何割かが自分の知っている声だったりする。
友達だとしても仕事が取れるかどうかが関わればライバルだ。
自分と全くかぶらないのなら広い心も持てるのかもしれないが。
今回のPV撮影は屋外だ。秋晴れの青い空が更にイラつかせる。
こうなったら。
叶多は自分をここまで連れてきたワンボックスに戻り、スマホを手に取った。
イヤホンをジャックに差し込み耳に装着する。
馴れた操作で流れ出す歌は紫づ花の声。
ドアの外に足を放り出したまま、座席に横になる。
目を閉じてその声に集中すれば、モヤモヤと落ち着かなかった気持ちが凪いでくる。今までは読書で気分転換していたけど、最近は専らこれだ。
(新しい歌、ほしいな。)
そんな事を考える余裕が出て来た時、ドカッと足に痛みが走った。
「ってぇな‼なんだ!」
怒鳴りざま腹筋のみで起き上がると、そこには目をつり上げた紺野がいた。
「なんだじゃないよ!何カリカリしてんの‼みんなが怯えてんだけど!」
仁王立ちのハイヒールが凶器に見える。
「まさかその靴で蹴ったのか?」
「そんなことするわけないじゃない。衣装が汚れるし。」
その彼女は持っていたハンドバッグをブンブン振り回した。
色々なものが入ってるらしくパンパンに膨らんでるそれは、ハンドバッグというよりはサンドバッグだ。
「オーディション落ちたんだって?それくらいで八つ当たりなんてカッコ悪いことやめなさい。」
そんなこと言われなくてもわかってる。
叶多はふて腐れて再び車内に倒れ込んだ。
「俺の番になるまでほっとけよ。」
「はぁ!?何様!?」
また、膝にハンドバッグが激突した。
「いてぇっつってんだろ!」
冗談じゃなく涙目になって膝をさする叶多を、アイライナーでキリッと縁取られた目が睨む。
「仕事の怨みは仕事ではらしなさい‼ほら、メイクして‼」
そのまま力ずくで車外に追い出される。
「怖ぇなぁ、うちのマネージャーは。」
主にF.a.U GARDENのマネジメントを統括している彼女が実は一番の実力者だ。
でも叶多にもわかっている。ここで癒してもらうために紫づ花に甘えるのは自分がダメになるということが。
だから紫づ花にはオーディションの話はしていない。
この戦場で戦うのはあくまで叶多自身。それはデビューして20年、折れそうになりながらもなんとか今日まで繋いできた、叶多なりのプロのプライドだ。
歌を聴いて勝手に癒されているだけならまだしも、紫づ花の言葉で慰めてもらうのは男としてカッコ悪い。
まだ口説いている最中なんだからかっこつけていないと。
きっと紫づ花だってカッコ悪いKANATAなんて見たくないだろう。
渋々メイクのテントに向かう叶多を、すでに楽器パートの撮影が始まってる3人が見ていた。
立ち位置をキープしながら和泉が鳴らないエレキギターをつま弾く。
喜田が足下のチェックシールを爪先でガシガシやりながらつぶやいた。
「何あんなにイライラしてるんだって?」
「オーディションに落ちたんだってさ。」
「オーディションに落ちた時っていつもあんななの?」
今度は油井がスティックをクルクル回しながら尋ねる。
和泉が顔を上げた。
「そうだな、何度かあんな感じなの見たことあるよ。だから歌の仕事があるときに合否は知らせないでほしいくらいだ。」
それが無理なのはわかっているけども。
「でもま、どんなにイライラしてても体調悪くても、仕事のスイッチが入れば完璧に仕上げてくるんだから、ムカつくよな。」
和泉がダウンストロークで弦をかき鳴らした。アンプに繋がっていないため間抜けな音が鳴る。
ナチュラルボーンエンターテイナー。
生まれもっての才能。ノリでその時その時のステージをこなせてしまう。ただ脊髄反射で歌もトークもライブのパフォーマンスも出来るのだ。
もちろん本人はそんな才能なんかじゃないと思っているが、そんなのは本人が気付くわけがない。自分の努力やダメなところを誰よりも自分が知っているから。外から見たときに少し簡単そうに見えてしまう、それが才能なんだとしたら可哀想なスキルではある。
自分の才能に溺れて向上心を無くしたらいつでもファウのボーカルをやめてもらう気ではいるが、今のところはそんな心配なんてないし、第一、声優の仕事のオーディションに落ちてあれだけ悔しがると言うことはそれだけ真剣だからだ。
その真剣な気持ちが常に前を向いている限り、一緒に走りたいと思っている。
多少、リハに来ないとか企画などの会議も和泉任せだとかあっても、少しは我慢してやろうと思う。
テントからヘアメイクの終わった叶多が出てきた。
顔つきが違う。さっきまでの甘えた廣崎叶多ではなく、F.a.U GARDENのボーカル、KANATAになっている。
NORTHもYU-Iも気合いが入った顔になる。
なんだかんだ言っても、一番若いKANATAがムードメーカーであるのは変わらない。
和泉も一つ息をついて、IZUMIの顔になった。
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11月初旬の暖かい日。
休憩室に静紅がいた。
賄いのチャーハンを食べながらスマホのチェックをする。
時間は15時。昼食としては遅いが、ファミレスで働く静紅にとっては普通の事だ。
ランチタイムの喧騒も落ち着き、ようやく順番に休憩に入れる。
「あ、ねえさんだ。」
彼女が無条件にねえさんと呼んでいる紫づ花からチャトルが入ってた。昼休憩の時に入れたのだろう。
[あと1週間とちょぅとだね(*^▽^*)そのレストランのサイトに頼んであるコースの写真出てるよ(^^)b]
「ちょぅと・・・。」
たまに見せる書き損じが、和ませてくれる。
添付されてたアドレスからサイトに飛ぶと、とてもかわいくて豪華なコースが写っていた。
今回行くのは‘’オズの魔法使い‘’をモチーフにしたコンセプトレストランだ。
ページを見ていくとオリジナルカクテルに行き着いた。
‘’エメラルドの都‘’というきれいなグリーンのカクテルに目が奪われる。中に浮かんでるのは小さなゼリーの玉だろうか。
[すごいおいしそーだし、かわいいね❀.(*´▽`*)❀.もちろん飲み放題はオリジナルカクテルもいけるんでしょ?]
チャトルで送って、返事は18時過ぎだろう。
規則正しく会社の時計で働いている紫づ花のリズムはわかっている。
ワクワクとした気持ちで今すぐに返事がほしいが仕方ない。今日の仕事が終わってからの楽しみだ。
ウーロン茶で口の中を洗いながら思いを馳せる。
紫づ花と遊ぶのは何ヵ月ぶりだろう。
指折り数え、4月以来だということに気付く。
その時は今ほどファウなんとかにハマってはいなかったはずだ。話にもさほど上らなかった気がする。
そしてこの半年の間にものすごい勢いでハマり初めて、先月の半ばに初ライブだった。
その感想チャトルが山ほど送られてくると思ったのに、当日も次の日も全く連絡がなかった。
まさか何かあったのかと少し不安になってこちらから連絡してみると、【楽しかったよ("⌒∇⌒")疲れすぎちゃってチャトルも出来なかったf(^^;】と、いつもの調子で帰ってきたが。
なんとなく、なんとなく、何かがおかしい。
こういう時に妙に勘が良い紫づ花と違い、少々鈍い自覚のある静紅でも、何か違和感を感じる。
それが何なのか最近ようやくわかりかけてるのは、やはりちょっと鈍いのかもしれないけど。
紫づ花のチャトルからファウなんとかの話題がなくなった。
以前はうるさいくらいにファウがファウがと言っていたのに、あのライブ以降ファウの名前は出てこない。
ファウだけじゃない。ボーカルの廣崎叶多の名前も出てこない。
熱が冷めた?
いや、想いの深い紫づ花があれだけハマってたバンドに、こんなに短期間で飽きるわけがない。
しかも彼女にしてはあり得ないくらい叶多を好きだと言っていた。
2次元にもテレビの向こうの人にも、1度も恋なんかしたことないのに、叶多にだけは気持ちが持っていかれる。
ライブ前のチャトルでそんな風に言っていた。
―小説を書くためにはあらゆる事を多方面から見えなきゃダメだし、いろんな事を知らなきゃ書けないよね。
そんな風に言っていたのは何年前だったか。そのため、理性も人一倍強くて、常に外から見て意見する自分がいるとも言っていた。
―だからこんなに自分の気持ちがコントロール出来ないことは、初恋以来でどうしたら良いのかわからない。
チャトルとは別の、本を送り合っている時に入っている手紙でそう告白された。
静紅は妄想は妄想で楽しんで、現実はまた別の楽しみ方が出来る。でも紫づ花は妄想から現実に帰った時に、何もないのがつらいと言う。
紫づ花の言う、何も、と言うのはなんのことなのかよくわからない。
静紅からすれば、文才があって歌がうまくて演技が出来てイラストがうまくて更には既存の歌にコーラスを造ることが出来る。
なんでも持っているように見えるのに、これ以上何を望むのか。
いつもの悪い癖で、自分は人類の底辺だから、とか思ってんのかな。
色々出来るくせにいつも上ばかり見て自分を蔑む。
出会った頃はそこまで酷くなかったのに、ここ数年そんなことを言い出した。
挨拶をしてくれるだけで好い人。挨拶を返してくれなくてもそれが普通の人。
そんな基準聞いたことがない。挨拶はするのが当たり前で返してくれないのなら嫌な人だ。
でも、たまに仕事の愚痴が入っても人の悪口は聞いたことがない。
紫づ花は好い人だ。今まで出会った誰よりも好い人だし、強い人だ。
でも、それは脆さも背中合わせで時々ヒヤッとするくらい危うい。
そんな人が楽しそうに好きなバンドの話をするのがよかったのに、それがなくなってしまった。
それでもあと1週間とちょっとで会える。しかも一泊だからたっぷり時間はある。
楽しみだ。
紫づ花の声で話を聞くのが楽しみだ。
静紅は食べ終わった食器を端に寄せ、動画投稿サイト巡りを始めた。