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「い、行ってきまぁす。」
月曜の朝、いつもの時間に家を出る。
週末の疲れがまだ取れていなくてつい寝過ごした。
それでも出勤時間には余裕で間に合うが、いつもより遅いと言うことはどこか焦る。
体もまだ筋肉痛で動きにくいし。
軋む体を車に押し込みエンジンをかける。
10月半ば。少し肌寒くなってきた。
もうすぐ、車のフロントガラスが霜で真っ白になるだろう。
そうすると早めにエンジンをかけなくてはならなくて、ガソリンの減りが早くなる。
財布には大ダメージの冬がやって来る。
そこでオーディオが目を覚ました。
突然始まるハードなナンバーに、心臓が跳ねた。
入れっぱなしのF.a.U GARDENだ。
「あ、だめだ、出発しなきゃ。」
思わず昨日にトリップしそうになるのを抑え、アクセルを踏んだ。
チャイムが鳴って、全員がいっせいに片付け始める。
紫づ花も手元の台を簡単に片付け、足元の床をほうきではいた。
しかし、筋肉痛がつらい。
やっとこ片付けてロッカーへ向かう。
帽子を取り、後ろにひとつで括ってたヘアゴムも外し、バサバサと髪をほぐす。
食品加工の工場は異物混入を防ぐ為に何重にも注意をするが、それでも髪の毛などどこからともなく現れる。
いっそのこと坊主にしてやりたいくらいめんどくさい。
周囲の仲間達に『お疲れさまです。』と声をかけながら食堂にむかう。
紫づ花もおにぎりとお茶の水筒とスマホのセットが入った小さなバッグを持っていつもの席へ座った。
いつものメンバーと挨拶を交わす。
他愛ない会話をしながらおにぎりを頬張り、いつもの癖でスマホのメールチェックをする。
無料通信アプリ《CHATL-チャトル》に二件。
1つはいつもの友達だろう。もう1つはいとこかな?
そんな感じで何気なく開いた受信一覧画面で、紫づ花の指は凍った。
一件は予想通り友達の静紅。
もう一件は《叶多さん》と表記されていた。
「うひぁ~。」
思わず変な声が漏れて机に突っ伏す。
朝ほど酷くはない筋肉痛がぶり返したように、全身がズキズキと痛い。
「大丈夫?どうしたの?」
「あ、すみません、大丈夫です。」
驚かせてしまったご飯仲間に謝って、とりあえず静紅からのメッセージを開いた。
[これ、貸したっけ?]
並んで表示されているのはとあるコミックスの2巻。
[お疲れさま~。1巻は借りたよ。もう次が出たんだね。]
そう、返事を返す。
実は、この静紅は県外の友達で、10年くらい前に出会ってからずっと仲良くしてもらってきた。その中で特に珍しい付き合い方なのが、宅配便を使った本の貸し借りだ。それを長く続けていると何を貸して何を貸してなかったのかわからなくなってしまい、同じのを送ったり間が抜けてしまったり、はたまた読まないと言われたのに新刊を送ってしまったり。
なので、たまにこんな確認が来る。
すぐに既読がつかない。
ファミレスで働いている彼女は今が忙しい時なので、多分まだ見られないだろう。
そこは気長に待てるのだが。
もう一件の名前に心臓が痛いほど脈打つ。
震える指でその名をタップする。
[こんにちは(*^_^*)筋肉痛はどう?俺は相変わらず体中痛くてやっとこ歩いてるよ(^_^;)今日はゲームの声を入れる仕事だから一人で寂しい(ノ_<。)慰めて~]
・・・慰めろとな?
何が慰めになるのか思い付かなくて、とりあえずお昼ご飯を食べ終えることとする。
おにぎりを終えて、いつもの薬をお茶で流し込み、キシリトール配合のガムを口に放り込み、再びチャトルに向き合う。
[こんにちは、お疲れさまです。私も相変わらず体中痛くて仕事もやっとこです。何が慰めになるのかわからないのですが、例えばどうしたらいいでしょう?]
正直に送信する。
こんなことを都合よく適当に簡単に返せるほど器用ならば、今頃こんなところにいない。
するとすぐに返信が来た。
[今が休憩なんだね。俺もだよ。\(^-^)/ラッキー(^^)b]
顔文字が乱発されているのはテンションが高いのか、はたまたいつもこうなのかどっちだろう。
答えあぐねていると、また受信した。
[別に何でもいいんだけど、せっかくだから紫づ花ちゃんの今の写真撮って送って。]
[嫌です無理です。]
叶多の無理難題は瞬殺する。
すると
[www]
[早っwやっぱり紫づ花ちゃんはぶれないね。昨日も散々写真嫌がってたね。]
[嫌がったけど撮られました。早く消してください。]
[ダメw]
そんなやり取りに終始して30分。気付けば休憩を終わらせなくてはならない時間だ。
[すみません。休憩終わります。次にスマホチェック出来るのは18時以降です。仕事頑張ってください。]
[了解(^-^)/頑張ってね。]
しかし、最後の叶多の送信には既読が付かなくなった。
ギリギリになってまで送信してくれたのだろうか。バタバタとしている様子が目に浮かぶ。
自分もそろそろ戻らなくてはならない。
叶多はカフェの清算をして、収録していたスタジオに戻った。
「お疲れさまでした〜。」
挨拶をしてスタジオをあとにする。
今日の仕事はこれで終わり。
時間は18時。
さて、チャトルでも。
そう考えて叶多はふと笑った。
いつもなら、まず夕飯は何を食べようかと考えるところなのに。
何よりも先に紫づ花を思い出す。
彼女は、今まで自分の中の知らなかった自分を教えてくれる。
しかし、さすがにこれはまずかったかなと思う。
昨日、カラオケをやってからだらだらと新幹線の時間を引き伸ばしていた。
そのために入った駅ナカカフェで、ようやく連絡先を教えて欲しいと言った。
その瞬間のなんとも言いがたい表情。
辛そうな、泣きそうな、でもそれに堪えるけなげな姿。
「ダメですよ。・・・カノジョいるじゃないですか。」
そうか、だからこんなにガードが固かったのか。
気付くよりも早く口は動いていた。
「いないよ、カノジョなんて。」
紫づ花の顔が歪む。
泣くのかと思った。直後下を向き顔を隠してしまったが、次に顔を上げた時は、なんと言うか、感情が読めなかった。
子供のように表情豊かだと思っていた紫づ花に大人のオンナの様に感情を隠されて、ドキリとする。
紫づ花はじっと目を見つめたりはしない。しかし、目が合っていないのに見透かされるような気がする。
それは後ろめたさなのか。
数秒間複雑な思いを巡らせたのか、紫づ花がスマホを取り出した。
「チャトルやってますか?」
「あ、うん。やってるよ。」
「じゃ、赤外線でいいですか?」
叶多もスマホを取り出し、連絡先の交換をする。
お互いに送受信を完了した時、紫づ花が小さな声でナイフを投じた。
「私、カノジョがいる人とは最低限の連絡しか取らないようにしているので。」
「え?何で?」
浮かれていた叶多はうっかり素で尋ねた。
紫づ花がはっきりと敵意を見せる。
「カノジョさんを不安にはしたくないからです。」
こんな顔もするのかと、他にはどんな顔をするのかと、それどころじゃないのにどんどん興味が湧いてくる。
もっともっと知りたくて、でも知るためにはオンナの存在が邪魔で。
何度目かの嘘をついた。
「だから、いないから安心して。」
そして、これはさすがにまずかったかと思った。
傷付いた顔をした。
普通、少なからず気になる男がフリーだと言ったら喜ぶものではないのだろうか。
なのに明らかに辛そうな顔をした。
「そうですか。」
その苦笑いが消えない。
それでもどうしても確認しなければならないことがある。
「何でそんなにカノジョに気を使うの?異性の友達とか連絡位するでしょ?」
「どんなに友達だと言っても、異性である限り不安は拭えないものじゃないですか。本当に心から0%だと言い切れる異性っているんですか?」
思わず言葉につまる。
ここでつまっては肯定することになるのに、即座に否定できなかった。
しかし、紫づ花はわかっていたかの様に特に表情を変えない。
叶多の背後に見える人の波を見つめながら続ける。
「もう誰も傷付けたくないんです。」
その言葉はとても重かった。
過去に何があったか。それは語るつもりはないらしく、今受信した叶多の情報を登録している。
ここまで言われたら確認しなくてはならないことがある。
「紫づ花ちゃんだっているでしょ、男友達の一人や二人。」
しかし。
「いませんよ。電話帳の中には上司と、何年も連絡とってない後輩一人くらいです。」
心臓が跳ねる。
と言うことは、少なくともカレシはいないし、好きな男がいるような口振りでもない。
それ以上に、紫づ花の中で好意を持つ唯一の男に近いのかもしれない。数多いる男の知り合いの中で、とかではなく、知り合いすら少ない中に自分が入ることが出来た。
まずい。
これはまずい。
抜けられなくなりそうだ。
ちょっと面白い子だからと適当に付き合えない子だ。
本気にしかなれない。
そしてかなり本気になりつつある。
どうしても紫づ花を放っておけない。
笑ってほしい。
笑っていて、ほしい。
傷つけたくないと言いながら自分が一番傷付いた顔をする優しい人を、傷つけたくない。
だったら、本当にするしかないだろう。バレる前に。
そして。
紫づ花と別れた後、改めてスマホを確認すると昨日のうちに何件もチャトられてた。
しかもそのうちの2件が、タイミングの悪いことにカノジョだった。
けれど、そのタイミングの悪さも心が離れ始めていたきっかけでもあるよなと、責任転嫁をする。
2件とも、まさにライブ中に[今何してるの?][何で返事くれないの?]と入っている。
その日のカレシの予定も気にしていないのか。
こんなことがもう何度もあった。
いくら若いとは言っても同業者なのでわかるはずなのに、ナゼか返事を滞らせると催促が入るし、土日のような、本来声優業は休みになる確率の高い曜日にも別の仕事が入ることを気にしなすぎる。
それでも付き合っていたのは、それも赦せるくらいには好きだと思っていたから。
しかし、紫づ花に出会ってしまった。
必死に叶多を見つめる姿に、一生懸命誰かに尽くそうとする仕草に、叶多自身の癒しを見つけてしまった。
いきなり好きだと言う感情があやふやになって、わからなくなった。
もしもカノジョに対する気持ちが“好き”だとしたら、紫づ花に対するこの熱い気持ちはなんと言うのだろう。
しかし、もしも紫づ花に対する気持ちが“好き”ならば、カノジョに対する気持ちはなんとどうでも良いものなのだろうか。
比べるべくもない。比べる時には既に答えが出ている。
叶多はそのままカノジョを呼び出し、別れを告げた。
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紫づ花は机に向かっていた。
彼女のたくさんある趣味のうちの1つ、小説を書くために。
シャーペンの頭でコンコンと机を叩きながら言葉をまとめ、ルーズリーフに書いていく。
その書いた文章が納得いかないと消して、書いて、また消して。
なかなか先に進まない。
「ん~。・・・ふぅ。」
顔を上げた紫づ花が、冷めてしまったコーヒーに手を伸ばす。
「司は、これどうしたいんだ?」
思わず自分のキャラに対して問いかけてしまう。
日曜の午後3時。一番ゆるりとした時間。
その時チャトルが受信を告げた。
その音が最近は心臓に悪い。
「着音設定出来れば鳴った瞬間に誰かわかっていいのに。」
それでも気付いてしまったら気になるのが人情だ。
開いてみると、静紅からだった。
[昨日、いつものお店に寄ったらいいのがあったから買っちゃった(* ̄ー ̄)]
同時に送られてきた写真は、明るいグリーンのゴシック系ワンピース。スカートの裾に広がる刺繍が美しい。
[いいなぁ~Σ(,,ºΔº,,*)私も行きたい!でも来月遊ぶもんね、その時また連れてって(๑•̀ㅂ•́)و✧それ着てきてね]
[え!着て行くの?ねーさんは何着るの?]
[う~んと、この前そこで買ったスカートかな~。黒地に赤の模様のヤツ。]
現在お気に入りのゴシック系ショップの服は、田舎ではかなり浮いてしまう。なので都会に遊びに行くときにお決まりのように着ている。
約1ヶ月後の11月半ばならば、まだそれほど寒くはないだろう。むしろ気温が低いこちらから行ったら暑いくらいだ。その気温差も考慮して服装を決めるのは難しい。
東京に思いを馳せた一瞬に意識が持っていかれた。
あまり考えないようにしている、あの人。
良い笑顔で紫づ花を惑わす悪魔。
心臓が搾られるように痛む。
今《廣崎叶多》で検索すると同時に挙がる人物の名前。
若くてかわいい女性声優。
付き合っていると噂がネット上に流れたのは1ヶ月くらい前。それがいつの画像なのかわからないけど、ふたりで歩いている様子が目撃者のブログにアップされて広まっていた。
紫づ花はパソコンが苦手で、ネットはもっぱらスマホだ。
常にネットをチェックしているわけではないが、それでも目に留まると言うことはかなり大きな噂だと言うことで、信憑性もある。
けれど叶多はカノジョなどいないと言った。
その噂はいつからあるものかわからないし、目の前の本人の言葉の方が真実であろうとは思うが。
それでも信じきれない。
例え現在フリーだとしても、モテる人は信じられない。
ファンがたくさんいる芸能人だからというだけではなく、かなりなモテ男で女好きなのは有名な話だ。
最初に興味を持って調べた時からその情報は入ってきた。その時は歌のファンだから私生活などどうでも良いと思っていたのに、知れば知るほど引き込まれて気が付いたら引き返せなかった。
好きで好きで好きで。
でも遠すぎる。
諦める以前に手の届かない存在だと自分を戒めて、それでも手が届いているカノジョに嫉妬して。
そして今、自分のスマホには叶多の連絡先が入っている。
そればかりか毎日のようにチャトっている。
口説かれている自覚もある。
いくら紫づ花が男女間のことに関して苦手で特に自分のことになると鈍感でも。
それでも子供じゃない。
小説で恋愛を扱う程度には知識はある。ただ経験が少ないだけで。
あんなに簡単に付き合うなんて言えるんだ。
自分とは違う人種だと気付かされる
あんなに簡単に声をかけられて、あんなに簡単に連絡先を聞ける。
自分には到底出来ない芸当だ。
異性だからじゃない。紫づ花にとっては同性にだって難しい。
親しくなったと感じて、挨拶を交わして、気が付くと迷惑そうな顔をされている。
親しいと思っていたのは自分だけで、相手にとっては疎ましくなっている、そんなのは懲り懲りだ。
誰も自分を求めない。求められていると思ってはいけない。
最初は仲良くなれても、すぐにめんどくさくなってそのまま離れて行く。
友達はずっと友達だなんてウソだ。
努力しないと繋ぎ止められない。
声をかけて迷惑そうな顔をされるのは怖い。
だから例え職場で仲良くなった人でさえ、自分から言い出せない。
だから逆に、向こうからの好意は無条件で受け入れてしまう。
せっかく自分の存在を認めてくれたのに、自分からその相手を切り捨てることなど出来るはずがない。
そんな権利、自分にあるはずがない。
それは異性に対しても同じだ。
だから連絡先が欲しいと言われて、カノジョの存在が気になりつつも断りきれなかった。
そして毎日のように送られてくるメッセージもスルーすることなどもっての他で、どうしても返さないと気がすまない。
これ以上叶多の魅力など知りたくないのに、やり取りする度に惹かれていることを自覚して後悔する。
叶多にはどうと言うことでもないのだろう。しかし紫づ花には命を懸けるくらいの覚悟がいる。
これ以上叶多を好きになってそれで嫌われたら・・・
大袈裟ではなく、最後の手段に逃げそうな自分を自覚しているから。
[ねーさんは黒だからいいけど、私はこの色だよ?ハデじゃない?]
静紅からのメッセージが立ち上がる。
わかってる。
そんなことしたら傷付けて悲しむ人がいるくらいわかってる。
誰も傷付けたくないから今まで保ってこれたのに。
でも、もうこれ以上は無理だ。
[じゃ、なんで買ったの(笑)大丈夫だよ。そんで、せっかくお胸強調デザインなのでバーンと(笑)]
だから叶多には近付きたくなかったのに。
紫づ花はひとり、薄く笑みを浮かべた。
袖に控えていても黄色い歓声が体を揺さぶってくる。
某アニメのトークショー。
叶多は名前順で言えば5番目くらいの、中心人物だけれど主演じゃない立ち位置。
だから、今日一番目立つのは自分じゃない。
既にF.a.U GARDENで慣れた、ステージに出る前の緊張感に身を任せる。
すると視線の先に硬い背中が見えた。
音もなく背後から近寄り、突然両手で肩を掴んだ。
「っわぁっ‼‼??」
「なぁに緊張してんの主役!リラックスしなさいよ。」
そのままモミモミと肩を揉む。
「リラックスって言われても、俺こういうの初めてで・・・」
「え?ステージイベントとかやったことなかった?」
「ないすよ〜。こんなに大きな作品に参加したのも初めてなんで。」
確かに揉んでいる肩から震えが伝わってくる。
叶多は前に回り、改めて肩をバシバシと叩いた。
「大丈夫だよ。お前は主役なんだから真ん中にいりゃいいんだ。あとは俺が引っ掻き回してやるよ。」
それはあまりこういうステージに慣れていない他のキャストにも向けて言う。
芸歴も20年に届こうという叶多と、まだデビューして3年~5年の後輩たちが同じステージに立つのだ。しかもベテランの叶多が主演で真ん中にいるのではなく、今回は回りにベテラン勢が配置されている。
叶多はニカッと笑った。
「なんか失敗してもお客さんは喜んでくれるだろうよ。今だけの特権楽しんでおけ。そのうち可愛くごめんなさいじゃ通じなくなってくるんだから。」
ま、俺が主演のステージでヘマしたら許さねぇけどな?と続けると、みんなの顔に笑顔が戻る。
もう一度肩を叩き、他のぎこちない共演者達の肩も叩いてリラックスさせて回る。
場の空気を和ませるのは先輩の役目だ。
すると、もうひとりのベテラン声優と目があった。
「なんだ、かくっちは緊張してないの?」
「緊張してるに決まってるだろ。お前ほど慣れてねぇんだから。」
2年先輩の角田良一は腕組みしながら指でトントンと腕を叩いていた。
「そうそう。一万人の前で一人で歌うのと比べたら、千人の前でしゃべるのなんて楽でしょ。」
「うわ、聞いただけで気絶しそう。」
とか言いながらみんな本番に強いくせに。
叶多は苦笑いを浮かべる。
そろそろオープニングが終わり、ステージの幕が上がる。
1つ大きく深呼吸。
そして心の中の優しい人の面影に、ステージの成功を祈った。
ピロン♪と高い音でチャトルの着信が告げられる。
時間は18時を少し回ったところ。紫づ花は夕食の準備をする母の手伝いでキッチンにいた。
「なんか鳴ったぞ。」
父が横になったまま教えてくれる。
「うん。チャトルだから大丈夫。」
両親は未だに、電話とチャトルやメールというすぐに確認しなくても構わないものとの区別が出来ない。
とりあえず大盛りのサラダを食卓に運んで、そこにおいてあったスマホに手を伸ばす。
画面にポップアップしている叶多の名前に心臓が飛び出しそうになった。
毎日チャトっているけど、その日最初の叶多の名前は心臓に悪い。
それでも内心の動揺は表に出さず、チャトルを開く。
[こんばんは\(^-^)/今日は何してた?俺はアニメのトークショー出てたんだよ。今終わったとこ。楽しかったd=(^o^)=b]
[こんばんは、お疲れさまです。アニメってたしか“RED CITY”っていうバトルアニメでしたよね。]
[そうそれ(^^)b紫づ花ちゃんとこでは放送してないんだっけ?]
[そうなんですよ。気になってたのに残念です。DVDがレンタル開始されたら借りて観ますけど╰(*´︶`*)╯]
「紫づ花?ドレッシングは持って行ったの?」
思わずチャトっていると母から催促された。
「あ、あ、まだ、です。」
慌ててキッチンに戻り、ドレッシングやお箸などを居間に運ぶ。
着信音が気になるが、叶多には少しだけ待ってもらう。
そして20分ほどして食卓の準備が整った。
食べ始める前にチャトルを開く。
[俺が登場するのは3話目以降だからね。それ前は観なくてもいいよwww]
[何言ってんですか(笑)最初から観なきゃわからないじゃないですか。]
「誰からなの?」
「ふぇ!?」
突然母に声をかけられて変な声が出た。
危うく両親の前だということを忘れるところだった。
いや、忘れても大したことではないけれど。
「あ、うん、静紅ちゃん。もうすぐ遊びに行くからいろいろ打合せしてるの。」
思わず嘘が出る。
当然のことながら、叶多をどうやって紹介したらいいのか悩んでいて結局言えてない。
誰かに自分の口から説明してしまったら、この現実を受け入れたことになるから。
まだどうしたらいいのかわからなくて、更にいつ叶多に飽きられるかわからないのに、誰にも言えない。
勿論、静紅にもまだ言えてない。
[すみません、ちょっとご飯食べます。]
とりあえずスルーじゃないことは告げる。
[そうか。俺達もこれから打ち上げで、居酒屋だけどね、着いたとこ。またあとでね(*^ー^)ノ]
そしてスマホを閉じて食事に取りかかった。
「静紅ちゃんとは何して遊ぶの?」
「いつもと同じカラオケ。あと、素敵なレストランで食事と、出来ればおしゃれなバーとかあればいいなって話してる。」
そうだ、レストランの予約しなくちゃいけなかった、と思い出す。
楽しみなことが待つのは良い。
終わるのが怖いけれど。
でも、次の楽しみを見つければいい。
そうやって毎日を繋いでいく。
「え、一泊?」
思わず声が漏れた。
独り暮らしだと独り言が半端なくなる。
と言うか、黙りっぱなしの無音に耐えられなくなる。
しかし、テレビはあまり好きではないので映画かDVDか音楽かの選択になるのだけど。
いや、今は作詞をしているのだから強制的に音楽か。
そこで息抜きに紫づ花にチャトって、意外と遅い時間なのに返事が来たことに浮かれて脱線している。
明日は月曜だけど休みらしく、少しは夜更かしができるということだ。
とか言っても叶多にとっての23時はまだ宵の口だが。
[遊びに来るのは何日なの?]
そのチャトルで来月友達と東京で遊ぶと教えられた。
友達と一泊と言うのが引っ掛かる。
[彼女がサービス業なので平日なんですけど。]
叶多が内心焦っているのが届いたわけではないだろうが、あっさりと答えをくれた。
なんだ、女友達か。
彼氏はいないとか好きな人もいないとか男友達もほぼいないとか、そういう情報はあってもどうしてもハラハラする。
それでも近くにいる男達がどう感じているかなんてわからないから。
でもここで“彼女”と表現するならひと安心だ。
叶多はスケジュールを確認する。
その日はラジオの収録が夜まで入っている。
昼間もなんらか移動していて空き時間は少なそうだ。
それなら。
[夜ご飯はどうするの?いい店紹介しようか?]
それで偶然を装って乱入してみようかと思ったけれど。
[面白いレストラン見つけたので、予約しちゃいました(*^_^*)]
「予約かぁ~。」
ガックリ肘をつく。それは乱入出来る気はしない。
さすがに自分の分も入れてくれなんて言えるほど図々しくはない。
[そうか、楽しみだね(^w^)]
切りが良かったので、そのまま挨拶をしてチャトルを閉めた。
飲み終わったグラスを手に立ち上がり、おかわりのハイボールを作る。
紫づ花は必ず最後の挨拶をくれる。
既読マークが着いてそのままにはならない。
今まで気にしたことはないけど、それはそれで嬉しいものだ。自分の事を考えてくれているのがわかるから。
「さてと、続きやるかな。」
止めていたMP3を起動して和泉が作った楽曲を流す。
音楽が頭の中に渦巻き、モヤモヤとした文字の螺旋が絡まっていく。
さっきまでは一向に流れがつかめなかった。
今は何かが見え始めている。
紫づ花と少し話しただけで頭がクリアになる。
心地よく酔っているが、脳がはっきりと動いている。
この重いロックサウンドが気持ち良く響く言葉は・・・
叶多はそれから4時間集中して詞を上げた。