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[もう、まずいって。どうしたら良いのこれorz]
[珍しくハマってるねぇ(^-^)]
[あり得ないのに。私には絶対あり得ないのに。]
[あり得ないよねぇ。どうしちゃったの?]
[わかんない(T_T)でも、あの人のこと考えるだけで苦しすぎて泣けてくる。どうしよう、手が届かない人なのに(;>_<;)]
[泣けてきちゃうのか。テレビの向こうの人なのにね。]
[今までこんなことなかったのにさ、知れば知るほど親近感湧いてきちゃってどうにも止められないの。]
[例えばどんなとこ?]
[血液型と星座が一緒で読書好きで日本語に対して造詣があるとことか歌詞とか歌ってるときの顔とか笑顔とか、もうとにかく片っ端から心臓捕まれるの‼]
[ああ、うん。でもそれはホントの姿を知らないから好きになれたとこなんだよ。]
[わかってるよぅo(T□T)o実際会ったらきっと全然合わないかもしれないし、むしろ向こうが私を嫌がると思うけどさ、わかってるんだけどさ。]
[そういうのは遠くから見ているのが良いんだって( ̄~ ̄;)ライブ行くんでしょ?いつだっけ?]
[来週の土曜日。]
[そこで生の姿拝めるんだから良いじゃん。]
[そうだよね。すんごい小さい会場だから多分一番後ろでも顔が見えるくらい近いよ。ハワワワ((((;゜Д゜)))ドウシヨウ]
[落ち着け(笑)]
[とりあえず、またライブDVD観て復習しとく。]
[そうだね。それが良いよ。]
━━━━━━━━━━━━☆★☆━━━━━━━━━━━
ライブハウスは、ギュウギュウのお客さんで押しくらまんじゅう状態だ。
全員がステージに向かって腕を振り上げ叫んでいる。
ステージでは四人の男たちが自分の能力でそれに答えていた。
一番奥からドラムの正確で激しい情熱。
下手側ではベーシストが重いリズムをきざむ。
上手側に陣取ったギタリストは自由自在に音の波を作り出す。
そして正面。ボーカルが思いの丈をメロディーに乗せ、外にまで届けよと叫んでいた。
そのパフォーマンスをオーディエンスの熱い想いが支える。
彼女はその中、後ろの方に立っていた。
スタンディングのライブでは、要領が良い方が前に行ける。
どうしても人を押し退ける気持ちが弱い彼女は、押し負けて流されて後ろの方に流れ着くしかなかった。
それでも、真ん中、目当てのボーカルの正面にいる。それだけで満足だ。
こんなに近くにいる。
同じ時間を過ごし、同じ空間の空気を吸っている。
これだけ大きく、表情がわかるくらい近くに見えるのだから、彼の目にも自分の姿は映っているはずだ。
何度か目があった気がした。その度に喉よ裂けろとばかりに叫んだ。
想いのすべてを、見つめる目と振り上げた拳に込めた。
それだけで満足だ。
ステージに押し寄せる大きな波の中に自分の気持ちも混ざっている。
きっと届く。
それで、満足だ。
思いを込めて見つめる。歌う。叫ぶ。
胸に渦巻くこの熱い思いは、口に出せないから。
口に出したら、手が届かない痛みに押し潰されてしまう。
バックステージは、大声こそ出さないが静かな戦場だった。
ステージから下がってきたメンバーがそれぞれにタオルを受け取り水分補給をし、酸素吸入をする。
狭いライブ会場はいっぱいの人達の熱気で酸欠状態だ。
叫び続けて疲れたのかボーカルKANATAが、タオルを頭から被ってぐったりしていた。
「おい、大丈夫か?すぐ着替えないと、アンコール出るぞ。」
ギタリストのIZUMIが着替えながら声をかける。
客席からはすでに地鳴りのようなアンコールが響いてくる。
スタッフの一人がカナタの頭をゴシゴシ拭いてやる。
そして別のスタッフが次に着るTシャツを手渡す。
それを受け取ったカナタが突然頭を上げた。
「やっぱダメだ、諦めらんねぇ。」
「何が?」
ベーシストのNORTHが聴き返した。
ドラマー、YU-Iはまだ息が上がっていて声が出ない。
カナタは勢いよく汗で貼り付くシャツを脱ぐと、そのまま体を拭く。
「客席にすごい気になる子がいるんだけど、どうすれば良い?」
「は?」
その言葉が聴こえた全員が振り向いた。
「どうするって言ったって、どうにもできんだろう。」
呆れた声でイズミが答えた。
「どうにかしたいんだけど、どうしたら良いか聞いてんだよ。」
カナタは上半身裸のまま、ズボンを脱ぎ捨て別のパンツを着ける。
本気で知り合うつもりのようだ。
一緒に音楽をやって14年になるが、客に興味を示したのは初めてだ。
ファンと恋人は別物だと、ちゃんとわかっていたはずなのだが。
しかし、和泉を見るその目に覚悟の光が宿っている。
「まずはお知り合いにならないとな。」
ノースがニヤニヤ笑いながら、年下のボーカリストの肩を叩いた。
「それなら、スタッフにどの子か教えて、終わってお客さんが帰る時確保してもらえば良い。」
スタッフが明らかにギョッとした。
「そんなんで捕まえられるの?」
そのカナタの言葉には、別の声が答えた。
「そう言えばノース、若い頃その手で何度か落としてたよね。」
復活したらしいユイが水を飲みながら言った。すでに着替えが終わってるのは早業だ。
マジかよ、と無言の視線が刺さる。
それでもカナタはその案を受け入れることにしたらしい。
手の空いている(不運な)スタッフ二人に彼女の場所と風貌を伝えていた。
アンコールを何度叫んだだろう。
着替えたメンバーが再びステージに戻ってきた。
オーディエンスの歓声にそれぞれ答えるメンバー達。
その目がやけに一点に集中する。
するとカナタが右手でオッケーサインを出した。
それを見たオーディエンスが一斉にオッケーサインで答える。
そのオッケーサインの意味がわからず首を傾げた彼女は、自分の背後に立つスタッフに気付いていなかった。
アンコールも全て終わり、メンバーが挨拶をしながら名残惜しそうに舞台袖に消えて行った。
後ろの扉が開かれ、夢の時間が流れ出していく。
彼女は興奮の余韻でふらつく体を扉の脇の壁に持たせかけ、出て行く人々を眺めていた。
中には心配そうに見てくる人もいるが、軽く会釈をして人波をやり過ごす。
アンコール一曲目が始まった頃、不意に肩を叩かれ手渡されたメモがある。
ステージを照らす照明のおかげで、メモを読むには十分だった。
そこには“退場が始まっても残っていてください”と書かれていた。
なんの事だろう、と不思議に思いながらも、そういうのは無視できない質だ。例え騙されて笑い者になるとしても、信じた方がましだと感じるから。
だから、全員が退場して一人残された彼女は、ステージを片付け始めたスタッフに意味深に見られるのに居心地の悪さを感じながらも、目につくゴミを拾ったりしながら待っていた。
時間にして3分ほど。そろそろ誰かスタッフに訪ねた方がいいのかと思い始めたとき、突然声が響いた。
「そうだよ!あの子だ!」
弾かれたように顔をあげる。
その声の張本人は、ステージの上手側から顔を出してこちらを見ていた。
彼女はしゃがんだまま凍り付いた。
たった今までステージの中央でライトを浴びていた人がそこにいた。
カナタは嬉しそうに上気したままの顔で近付いてきた。
肩にはタオルをかけて、汗がまだ引いてない状態だ。
ゴミを拾っている格好で固まっているのに気づいたカナタは、掃除を始めたスタッフを呼び、そのビニール袋に彼女の手にあるゴミを入れた。
「今日はありがとうね、来てくれて。どうだった?今日のライブは。」
主にペットボトルのキャップとガムの包み紙が、ビニール袋に溜まっている。
最高だったんと返事をしようとしたのだが、声はうまく出なかった。
はにかんだように笑ったカナタが、一段高くなっているステージに腰を下ろすように勧める。
現状が把握できてない彼女は半ばパニックに陥りかけていた。
が。
彼女の中の自己防衛本能のスイッチが働いた。
頭が真っ白になるときにいつも自分を動かしてきたスイッチ。
とたんに冷静な自分が戻ってくる。
一度大きく息を吸うと、スカートの裾を整えて隣に腰かける。
その距離は50㎝くらい。
片手を伸ばせば触れられる距離だ。
ビデオの中の大好きな笑顔が、今となりから自分に向けられている。
心臓はドキドキと忙しなく働き、身体中の血液を一瞬で入れ換えようとしている。
まだ引ききっていない汗が、新たに吹き出すのを感じる。
それでも脳内はやけに覚めていた。
のぼせてはいけない。
落ち着いて、冷静に何事も対処しないと、みっともない自分を晒すことになる。
それだけは許せない。
今のこの状況で可能性があるのは・・・
声が震えないように細心の注意を払って口を開いた。
「最高でした。初めて参戦させていただいたライブがこんなに小さい会場で、チケットが取れたのも奇跡的だったのに、今またこんな風に話をさせていただけるなんて、夢のようです。」
噛まないように、失礼のないように、慎重に言葉を選ぶ。
「ですけど、これは、バックステージご招待の懸賞とかに当たったんですか?」
応募した記憶はないのだけれど、と付け加える。
一瞬だけ不思議そうに首をかしげたカナタが、ああ、と笑った。
「ごめんごめん。そんな募集はしなかったんだけどね。」
そして彼女の頬から伝う汗に気付いて、スタッフに新しいタオルを要求する。
「まず、名前を尋いていい?あ、俺は廣崎叶多って言います。」
知ってるか、と照れ臭そうに笑う顔が眩しい。
彼女はわずかに視線を泳がせた。
「・・・モリイ、シズカ、です。」
その時ちょうどタオルが届いた。
「シズカちゃんか。これ使って。」
「え、でもこれ新品・・・」
「いいのいいの。余ってんだから。」
そう言ってそれをシズカの肩に掛ける。
彼女はすみません、と小さな声で言ってからそっと汗をぬぐい始めた。
「小さいハコでしょ?確か300人くらいしか入らないんだって。だから後ろの方までよく見えたよ。シズカちゃんが一生懸命ノッてくれてるのとか。そんで、ちょっと話してみたいなと思って残ってもらったんだ。この後予定は?」
同じ様に汗をグシグシと拭きながら目だけで様子を窺う。
ライブ中の彼女とはイメージが違いすぎて、少しだけ驚いた。本当はもっと、キャーッ‼となると思っていたのに。
しかしこれはこれで オンとオフの違いに興味がそそられる。
シズカが答えるのを躊躇っている。
当たり前だ。いきなり声かけられて予定訊かれたら警戒するだろう。
けれどやってしまったことはなかったことに出来ない。
僅かな後悔を開き直りで封じ込める。
「終電までには解散するよ、俺達も帰らないといけないからさ。」
チラッとシズカの目が叶多を見た。
ただそれだけのことなのに心臓が跳ねた。
「ビジネスホテルとってあります。新幹線に間に合うか不安だったので。明日は日曜で休みだし。」
「泊まり?そのわりには荷物が少ないけど?そのショルダーバッグのみだよね?」
「一度チェックインして大きな荷物は置いてきました。さすがにスタンディングのライブであの荷物は迷惑だから。」
「あ、なるほどね。」
静かな声。知性的なしゃべり方。
職業柄、いろんな声の中で生きている彼にとっても、初めて聞くくらい特別な音色が脳内に響く。
もっとこの声を聴きたい。もっと話を聴きたい。
やはり間違えてなかった。そんな悦びが感情を支配する。
「じゃぁ、打ち上げ参加してよ。」
目まぐるしく頭の中であらゆる言葉を検索しながら言葉を紡ぐ。
誤解されないで、信じてもらえて、断る気にならないような言葉を探す。
しかしそれは徒労に終った。
「はい。」
あっさりと返された承諾の返事。
「ホントに!?」
「はい。」
思わず聞き返す彼とは対照的に端的な返事が再びされる。
少しだけ目を大きく開いて、少しだけ首をかしげているその仕草が、妙に幼く見せる。
いったいいくつくらいなのだろうと、普段は気にしないことが頭をよぎる。
でもまさか未成年てことはないだろう。
叶多は勢いをつけて立ち上がった。
「そんじゃ、もう少し待ってて。着替えて来るから。」
「はい。」
三回目のハイ、は少し微笑みながら。
もっと緊張をほぐさないと本当の彼女は見えないのだろう。
叶多は不気味なほどにニヤけている自分を自覚することなく楽屋へ引き返した。
打ち上げ会場は近くの焼肉屋だった。
他の客がざわざわといる間を抜けた奥の個室に、およそ30名が6つのテーブルに分けられて食事をしていた。
それぞれのテーブルの鉄板の上では肉や野菜が焼けていて、そろそろ炭化しているのも出始めている。
その中でシズカは、せっせと周りの空いている皿に肉を配っていた。
「そういえばノースさんて、名前が喜田だから東西南北の北にかけてNORTHなんですか?」
「お!よくわかったね!」
「さっむい親父ギャグなんだから理解しちゃダメだよ。」
ビールを水のように喉に流し込みながら機嫌良く答えるNORTHに、こちらは何杯目だかわからないチューハイをおかわりしながら叶多が文句を言う。
シズカはさっきから一杯目の巨峰サワーを飲みかけのままで肉を焼いたり配ったりしている。
その間にかなり打ち解けてきたようで、さっきまでのような困ったようなおとなしさはなくなっていた。
しかし。
「ちょっとシズカちゃん?ちゃんと食べてる?」
一応彼女の皿は使った形跡はあるが、椎茸をかじっている姿しか覚えてない。
「食べてますよ。この玉ねぎいただきます。」
そう言って自分の皿に焦げかけた玉ねぎを乗せた。
「いやだって、野菜しか食ってないじゃん。遠慮しないで肉食って、肉。」
すると困った顔で首を振る。
「あれ?もしかして肉ダメとか?」
今度は縦に振る。
「え、マジで!?ちょっとそれ早く言いなさいよ!なんか頼んで頼んで。」
メニュー貸して、と叶多が慌てて周囲を見回しているのを、シズカは不思議な気持ちで見ていた。
さっきから現実に追い付けなくて、現実逃避するように働いている。しかし目の前には叶多がいて『F.a.U GARDEN』のメンバーがいて、一緒に笑っている。
何が起こっているのかいまいち現実味がなくて、まだふわふわとしている。
もしかしてこれは夢で、本当の自分はライブ会場でひっくり返ってしまったんじゃないかとかとめどない考えを巡らせてしまう。
目の前にサイドメニューのページが差し出された。
「何でも好きなの食べて。ごめんね、気付かなくて。」
困ったような笑顔もやはりかわいいとか。
うっかり現実逃避したまま思考が横道にそれる。
「それじゃ、冷麺お願いします。」
叶多の笑顔を見るとシズカも笑顔になる。
それは家でDVDを観ていても起こる現象で、だから叶多やF.a.U GARDENのことを考えてる時間が幸せなんだと感じる。
わざわざ叶多が自分を気にしてくれて、あまつさえ自分の注文を店員に伝えているとかおかしすぎる。
やっぱりひっくり返ったまま気が付いたら病院だったとか、あるいはまだ家でライブに来てもいなかったとか、もしやチケットが取れたことすら夢だったんじゃないかとか、悪い癖だ。
「シズカちゃんはおとなしすぎるよね。やっぱり名前が静かだからかな。」
ニッと叶多が笑う。
つられて笑顔のままシズカが答える。
「音は、シズカ、ですが、字は違いますよ。」
「え?そうなの?どんな字?書いて書いて。」
叶多は背もたれにかけていたリュックを開いて、いつも持ち歩いているペンと手帳を出した。
その開かれたノートのページに、なるべくきれいな文字で《森井 紫づ花》と書いた。
「おお、珍しい字だね。じゃ、その下にサクッと電話番号もよろしく。」
「は、え?」
指でトントンとノートを指され、思わず書きそうになって我に返った。
「こらこら。さりげなく連絡先ゲットしようとするんじゃねぇよ。」
通りかかった和泉がパシッと叶多の肩を叩いた。
「だってこのままサヨナラじゃ寂しいじゃん。」
口を尖らせて『ブゥ』という擬音が聞こえそうな顔になる。
紫づ花も、あまりアルコールに強くない上にこの空気にも飲まれて、酔っている自覚はあった。
「あぶないあぶない。これ、何かの契約書とかじゃないですよね。」
言った直後、あまりにも馬鹿な軽口に顔が赤くなった。
叶多が一瞬目を丸くしたあと、豪快に笑い出した。
「あははは!そうか!契約書にしておけばよかったか!」
思わぬ反応で、今度は紫づ花の目が丸くなる。
「何の契約書ですか?」
すると、目に笑いを残したまま前屈みになり、紫づ花を指で招いた。
内緒話をするように顔を寄せる。
「俺のカノジョになる契約書。」
低く囁かれた言葉は、紫づ花の脳を素通りしてダイレクトに心臓にダイブした。
うっかり近付いたが、気がつけば息がかかるほどに近い。これでは自分のメイクが汗で落ちているのもばれてしまう。多分汗くさいだろうし。
慌てて体を起こすと、その勢いで後ろにひっくり返りそうになった。
「うわぉっ!」
女性の声が響き、背後に立つ人物に支えられた。
思わずそのまま見上げると逆さに顔が見える。
覗き込んだくっきりとしたアイライナーはマネージャーの紺野美果。
「廣崎さんの動きが怪しいから見張ってて正解だった。何口説いてんのこんな若い子。」
後ろから頭をポンポンと撫でられ、紫づ花が微妙な顔をしていた。
「なんだよ、どおりでさっきからチラチラ誰かが通りかかってると思った。」
「当たり前だろ。そうそう叶多と女の子をくっつけておけないからね。」
この言葉は隣のテーブルからこちらに振り向いている油井だ。
紫づ花の顔が強ばった。
それには気付いていない叶多が『皆して俺をなんだと思ってんだ。』と文句を言っている。
突然紫づ花が立ち上がった。
「すみません、ちょっと・・・」
そして部屋を出ていく彼女の後ろ姿を見送った一同は、扉が閉まると同時に叶多を囲んだ。
「ちょっとなに考えてんの。カノジョいるくせに。」
「そうだよ。」
「頼むからこれ以上ウチのボーカルとして軽薄なイメージは作らないでくれ。」
最後の声は急に戻ってきた和泉だ。
詰め寄られた叶多は腰が引けている。
「べ、別に、仲良くなるくらい良いじゃん。」
「なぁ。」
叶多に同意した喜田を『お前は黙ってて。』と油井が睨む。
「何が仲良くなるくらい、よ。カノジョになる契約書ってのちゃんと聴こえたんだから。」
「うわ、最低だわお前。」
和泉が心底軽蔑した表情でドン引く。
一名を除く一同の冷たい視線に囲まれ、叶多が膨れる。
「大丈夫だよ、あの子は簡単には落ちないね。俺みたいな奴には騙されないよ。」
イメージは亀。顔はのぞかせてこちらを窺うけどどこかで警戒してすぐに甲羅に引っ込んでしまう。
打ち解けてきたように見えて、まだまだ本心は遠そうだ。
「あの敬語は防御だよな。」
喜田の言葉に同意を示す。
紫づ花は最初からずっと丁寧な口調と妙に上品な行動で通している。まるで演技をしているみたいに。それはつまり全く心を開いていないということ。
警戒されても仕方がないのはわかっているけど、二時間位一緒にいて結構話もしているのにその姿勢が崩れていないっていうのは、まだ信じられていないということだ。
意外ときつい。
先輩風吹かせたことなどないし、誰に対してもフレンドリーで取っつきやすいというのが自分のウリだと思っている。
けれど一方的に突き放されるのはちょっとショックだ。
ちょっとだけだけどな。
ほんの少し強がった彼は、紫づ花が書いた名前の文字を指でなぞった。
洗面所の鏡を覗きこむ。
メイクがほぼ落ちてスッピンとかわりない。
普段着けないコンタクトレンズに違和感を感じて、持ち込んだポーチから目薬を取り出した。
あまり目薬を指すのは得意ではないけれど、なんとか眼球にヒットさせた。
「疲れた顔。」
薬を行き渡らせるために瞬きを繰り返しながら、鏡の中の自分を自嘲気味に笑う。左耳のピアスの輝きが滲んでいる。
嫌な疲れではない。ライブの後の懐かしい疲れだ。明日には全身筋肉痛で動けなくなっていることだろう。
以前追いかけていたバンドが解散して以来、どんなバンドや歌手にも一定以上の興味が湧かなかった。
それが突然、紫づ花の中に入ってきた。
無気力なまま、ただだらだらと一日一日を消化していた彼女に差した光り。
きっかけはあるアニメの主題歌として聴いたことだけど、その時にはなんとも思わなかった。漠然と『歌ってるのは声優さんなんだ』と思っただけだった。
それなのになんとなくレンタルしたベスト版CDで日常が変わった。
リアルでも好きな人など出来なくて、ときどき良いなと思う人に出会ってもことごとく結婚していたり恋人がいたり。
他人のモノには興味がない。だからわかった瞬間気持ちが切り替わる。
それで、気が付くと彼氏がいないどころか好きな人もいなくて何年になるか。
現実に、自分に嫌気がさしてどうしたら良いのかもがくことすらやめてしまってた時《F.a.U GARDEN》に出会った。
まず好きになったのは、重低音が効いたミュージック。それから歌詞。
そこまでは前に好きだったバンドと同じ流れ。
けれど違ったのは・・・
ボーカルのKANATAに対して抱いた激しい独占欲。
今まで良いと思ったタレントや歌手やバンドメンバー達の、彼女の噂や結婚報道等には、むしろ好意的で末永く幸せになってほしいと素直に願えた。
自分とは全く違う世界で生きる人なのだから、 カノジョがいて結婚してというのが当たり前で、逆に破局報道の方が悲しかった。
なのに。
KANATAにだけはそう思えない。
気付いたのはネットサーフィンしながらKANATAあるいは廣崎叶多の情報を拾っていたとき。
たまたま出てきた恋人の噂とそのカノジョの画像に、心臓が抉られた。
それは時期がわからないうえに何人も名前が上がっていて、中には有名な声優さんもいて。
それでも、今までそれが当たり前だと流していたことが出来なかった。
何年も忘れていた生の感情。
作り物じゃない、自分自身の痛み。
痛くて痛くて痛くて・・・
このどうしようもない感情と、出会えるわけでもないのに何をショックに感じているのかという冷静な感情に挟まれて、結局ただ泣くしか出来なくて。
そして最近ようやく落ち着いてきた。
せっかく落ち着いてきたのに、何故かすごい倍率のチケットが取れてしまった。
これまでの自分の人生の運をまとめて使ってしまったかのような脳内のお祭り騒ぎ。夢のような幸運。
このライブに全てを置いてこよう。終わったら現実を生きて、今度こそちゃんと自分の未来を考えよう。
そう思っていたのに、何この状況。
思い切り大きく息を吸い込み、強く吐き出す。内臓も心も全て吐き出すように。
やはり自分は神様に愛されてないんだな。ひどい仕打ちだ。諦めようと努力しているのに、諦めさせてくれないなんて。
こんなに近くに感じたら欲が出る。夢を見てしまう。
自他共に認めるプレイボーイ。
わかってた。知ってた。だから近付きたくなかった。
近付きたくないのに、カノジョに嫉妬してのたうち回る。
最低だ。
こんな自分、知らなかったのに。
もう一度大きく息を吸って、吐く。
カノジョになる契約書。
そんなものは存在しない。
ただたまたま興味が湧いてからかっただけだ。信じてはいけない。
例えばもしも本当に現在フリーだったとしても、付き合ってしまったら絶対に飽きられる。
こんなつまらない女が彼を満足させられるわけがない。
自分では彼を幸せにはできない。
わかっているから。
もう1つ息を吐く。
冷静な仮面を着けよう。
この左耳に2つ開いたピアスが森井紫づ花の象徴。
それを左手で弾き、挑戦的に笑う。
洗面所を出たところで、ライブ会場でメモを渡してきたスタッフの人と会った。
「あ、ちょうどよかった。冷麺来ましたよ。」
「ありがとうございます。」
自分を探しに来た彼と連れだって戻る。
「廣崎さんはホント若い女の子に目がないというか、気を付けてくださいね。」
苦笑いしながらそう言う若い彼に、複雑な笑顔で答えた。
「みんなが言うほど、私は若くないんですよ。」
ガチャリと古いタイプのキーを回し、扉を開く。
部屋の中の白い無機質な配色は、今の紫づ花には落ち着くものだ。
ショルダーバッグを外すのも後回しにして、ベッドに腰かける。
「・・・あ"~~~~~」
思わず大きなため息と共に脱力してしまった。
もうなんだか脳が考えることを拒否している。
その項垂れた姿勢のままどれくらい経ったのか。
ようやくモゾモゾと靴を脱ぎ、足で放り出す。
「あ~もう、このまま寝ちゃいたい。でも汗かいた・・・」
幼い頃からの癖である独り言を一段と大きくつぶやいて、なんとか立ち上がる。
長い一日だった。
いや、むしろライブが終わるまではあっという間の一日だった。
今朝起きてからも東京に着いてからも、ライブハウスに着いてからもライブが始まってからも、ずっと浮遊しているような現実味がない中で、もうすぐ終わっちゃうまだまだここにいたいと願いながら一秒一秒過ぎていく時間を恨めしく思っていたのに。
長かったのはその後だ。
「・・・何があってこうなったの?」
答える人はいないとわかっているけど、問いかけずにはいられない。
いや、答えを知っている人に尋ねたけれど、理解できる答えが帰ってこなかったのだ。
『ちょっと話してみたいなと思って残ってもらった』
こんなのははっきり言って理由になってない。
ユニットバスの湯船に勢いよくお湯を出し、溜まる間に荷物の整理を始める。
ビジネスホテルには何度か泊まっているので慣れたものだ。
実家住まいだと、時々こうして一人になりたくなる。
ここ2・3年は友達と泊まりがけで遊ぼうなんて無理に理由を作ったりして。
翌日の着替えを出して、今日来ていた服を脱ぐ。
「うわ・・・焼き肉臭い。」
そりゃそうだ。自分では食べない肉をひたすら焼いては配っていた。
普段から取り分ける料理なんかでも大体率先して配ったりしているけれど、今日はそれに拍車がかかりあまり食べていない。
椎茸と玉ねぎ、そして叶多が注文してくれた冷麺くらいだ。
現実逃避。明らかに。
黙って座っていたらいたたまれないし、そもそも飲めない自分が素面で場を盛り上げられるわけではない。だから働くことでごまかしていた。
「意外と、叶多さん普通だったな。」
焼き肉臭のする服をジッパー付きのビニール袋に入れる。こんなことなら消臭スプレーも持ってくればよかった。
スマホと充電器を繋いで枕元のプラグに差し込む。
突然現れた画面に心臓が跳ねた。
「うわっ!」
叶多が紫づ花の肩を抱いて笑って写っている。
紫づ花は緊張のあまりひきつった薄笑いだ。
「うわ、うわ、サイテーだこの写真。しかもいつの間に待ち受けに。」
自分の写真は大嫌いなのでめったに撮らない。けれど今回は叶多にどうしてもと言われて、その顔の近さに負けた。
とは言っても30㎝くらいは離れていたが、テレビの向こうの憧れの存在だと思えば近すぎる。
「やっぱやめとけば良かった。」
恥ずかしさのあまり叫び出しそうになるのを堪える。
いつも、後悔する。わかっているのに、後悔する方向に進んでしまう。
いや、どちらに進んでも必ず後悔してるのだけど。
さっきまで。
さっきまで、タクシーの中でほとんど密着状態だった。
叶多の肩幅が広い方だとしても、紫づ花の肩幅は狭い方だ。二人並べばプラマイゼロになりそうなものだが、やけに叶多が近かった。
冷麺を食べ終えて帰ろうとしたら送るよなんて言われて、男と二人きりになることへの警戒心よりも、成り行きに任せたい衝動の方が勝ってしまって。
そもそも普通なら打ち上げだって断るべきなのだ、傷付くのが怖いならば。
それでも首を縦に振ってしまった理由。
どこかで盛大に傷付いてしまえばいいと思っているから。
傷付いて、この不安定な自分を壊せたら楽なのかもしれないと、心のどこかで願っているから。
傷付くのが怖いと逃げ回っているくせに、壊れたがっている。
だからなおさら。
叶多に壊されるなら本望だと、勝手に加害者にしようとしていた。
プレイボーイな彼なら壊してくれるんじゃないかと。
でも、叶多は意外と紳士だった。
と、言うよりも、自分なんか相手にするほど困っているわけないだろう。カノジョだっていたはずだ。
その紳士さで、ホテルまでタクシーを拾って乗ってきてくれた。
その車内でもなんでもない話をした。
そして別れた。
気が付けば連絡先も教え合っていない。
結局あのメモには名前しか書かなかったのだから。
電話番号だけでも教えておけばよかったと後悔する自分と、教えてしまったら、その軽率さに後悔を禁じ得ないのだろうと気付いている自分との、板挟みになる。
だからどちらに転んでも後悔するのだとわかっている。わかっている自分にも腹が立つ。
先のことなど気付かないくらいおかしくなってしまいたい。
着替えるための下着とパジャマ替わりの部屋着を用意してお湯を窺う。
「あ~もう、忘れよう。忘れて寝よう。明後日からは仕事だ。」
再び独りごちて現実に帰る準備に入った。
玄関を開けて、電気のスイッチを入れる。
いつもは温かく迎えてくれるオレンジ色のライトが、今夜はさみしい。
理由はわかっている。
さっきまで一緒にいた女の子のせいだ。
出会ったのはホンの三時間程前だけど、もう別れがたくなっている。
普段は二次会三次会まで呑み通して日付が変わるまでばか騒ぎをしているのに、今日はどうしても彼女を優先したかった。
さっさとシャワーの準備をする。
今日はこのまま気分よく眠ることにした。
彼女の声や困ったような笑顔が残っているから。
そして明朝またホテルに迎えに行く。
重要なことを忘れてしまった。
連絡先を聞いていない。
廣崎叶多にあるまじき失態。
まず連絡先を聞いてからその後どうするか決めるくらい体に馴染んだ行為だったはずなのに、紫づ花相手に完全に乱された。
当然このまま終わらせるつもりはない。なんのためにわざわざスタッフまで使って捕まえたのか。
叶多はスマホの着信など確認もせずシャワーに向かった。
明朝9時50分。
ホテルのチェックアウトをして外に出た紫づ花は、大きなあくびをしながら手を振る叶多を見つけた。
「な、にしてんですか。」
目の前の小さな横断歩道を一応左右確認して渡る。
「うん、新幹線の時間まで遊ぼうと思って。」
「遊ぶって・・・」
叶多がさりげなく手を伸ばし、紫づ花の引きずるキャリーを受け取った。
「あ!」
「いいから。とりあえずは駅だな。行こう。」
そのままゴロゴロとキャリーを転がし歩き出す。
「今日の服もかっこいいね。この鞄と合ってるよ。」
慌てて叶多の横に並ぶ。
「同じお店で買ったので。」
「へぇ、こういうゴシック系好きなんだ。でも似合ってるから正解だな。」
「あ、ありがとうございます。」
照れ臭そうにうつむいてしまう紫づ花の仕草が、初々しくてツボにハマる。
全体的に黒いけれども靴や帽子に赤を入れる辺り、自分をよく分かっているコーディネートだ。惜しむらくは昨夜も思ったけど短めのスカートから出る足まで黒いタイツに覆われていることだ。まぁ今日は銀のラメが入っているが。
ふと、遅れていることに気付く。
なんだか歩き方がぎこちない。叶多は軽く首をかしげて思い至った。
「あ、もしかして筋肉痛?」
照れ臭いような困ったような微妙な笑顔が向けられる。
「あははは、俺もだよ。全身ガタガタ。歳には勝てないね~。」
そのわりには軽々と歩いていく叶多に、紫づ花は追い付くのが精一杯だ。
「朝ごはんどうした?」
「まだです。」
「じゃ、どこかでブランチにしよう。」
どこにしようかと脳内で検索を始める横顔を、未だに信じられない気持ちで見つめる。
これなら、家に帰って日常に戻ったときにおかしくなれる自信がある。
幸せすぎてありえない。
これを認めてしまったら心が現実を受け入れられなくなってしまう。
心臓がえぐられる痛み。カノジョの情報を見てしまった時よりもはるかに重い痛み。
でも、もう二度と会えないのならその方が幸せだ。
昨日と今日の幸せな記憶だけ抱いて、永遠の時の中に沈む。
静かに脳内でショートしていると、叶多が振り向いた。
「なに食べたい?」
一瞬現実逃避から戻ってこれなくてポカッとしてしまったが、即座に脳をフル回転させた。
「サンドイッチとか、軽めのものがいいです。」
こういうときに“何でもいい”は、あまりよくない。何か少しでも話が進むようなヒントを出しつつ判断は相手に任せる。
叶多が思い付いた。
「この間、ホットサンドのあるカフェを教えてもらったんだ。仕事仲間に。」
仕事仲間と言うワードにドキリとするが、平静を保つ。
「ホットサンド、好きです。」
紫づ花がそう言うと、叶多は思った以上に笑顔で、よかったと呟いた。
「ここからだと電車だけど、大丈夫?腹鳴らない?」
「大丈夫です。」
「よし、行こう。ってか、この点字ブロック歩きにくいね。」
キャリーの車輪が段差に取られてなかなか四苦八苦している。
はたから見たらカップルのように見えるのだろうか。
そんな考えに、視界が歪んだ。
・・・それでどうしてこうなった。
マイクを握って間奏を聴きながら疑問符が飛び交う。
横を見れば上機嫌で盛り上げる叶多がいる。
カラオケなう。
思わず脳内で友達にメールしてしまう。
[まずカフェに行ってホットサンドとコーヒー食べながら話して。何話してたっけ?なんか色々訊かれたのか。地元の事とか仕事の事とか趣味とか。で、友達とカラオケするのが好きだって言ったら、じゃ、カラオケ行こうってなって、今叶多さんの前で歌ってます。]
密かにパニックを起こしながら体はちゃんと得意な歌を歌い上げる。
自分の取り柄はハイトーンだ。高い音をブレずに伸ばせる所は、自分よりも歌が上手い友達も褒めてくれる。
逆に言えばビブラートが苦手なんだけど。
叶多が拍手をくれた。
「ヤバい紫づ花ちゃん上手いじゃん。」
「イエイエ、そんなことはないんですよ、ただ高いだけで。」
そして叶多にはここぞとばかりにリクエストを入れまくる。
勝手に叶多の分の歌を入れてるので、叶多にとっては闇鍋ならぬ闇カラ状態だ。
そこまではライブで聴けなかった、紫づ花の好きなファウの歌を入れていたが、次の曲は有名アーティストの有名な曲を入れてみた。
イントロを聴いて頷いた叶多が立ち上がる。
「オシ!俺の好きな曲じゃん‼何で知ってんの。」
それは歌い方を聴けば影響受けてるのわかるし。
そんな言葉は笑顔に隠す。
純粋に聴いてみたかっただけだ。
目の前で叶多が自分のために歌ってくれる。
演奏はファウガーデンのメンバーじゃなくてなんだかチャチいけど、叶多が悠々と歌う姿は圧巻だ。
「マイクスタンドがあれば、こう。」
そこでスタンドを振り回す仕草をする。
「それでNORTHさんを殴ったりしそうでいつもドキドキするんですよ。」
「確かに。何度かヒヤッとした時もあったけど、向こうもプロだからね、避けてくれるし、むしろ頭に当たった方が正常になっていいんじゃね?」
さらっと酷いことを言うが、それもメンバーに対する信頼だ。そんなことをラジオでも言い合っているのを知っている。
自然と紫づ花の笑顔がこぼれた。
叶多も満足そうに微笑む。
昨夜よりは楽に話が出来ている。
さっきカフェで何故丁寧語なのかと問いかけてみると、いつもこうだと言われた。職場でも歳上と男性には必ず丁寧語を使うと。
それならば仕方ない。男で歳上なら条件が合っている。
でも親しくなれれば、職場じゃないから丁寧語も取れるだろう。それまで我慢すればいい。
「よし、次は紫づ花ちゃんに歌ってもらいたい曲入れさせて。」
叶多が端末を操作し、ある曲が送信された。
「歌えるよね?」
「あ、大丈夫、得意です。こういうの。」
それは学校で習う、優しいメロディの名曲だった。