扉
間違えて開けた扉の中は指輪や宝石を扱う店のようで、白くて清潔感のある床やショーケースが実に高級な趣だった。ちらりほらりと見える客たちも、そのまま晩餐会に出られるような正装をしている。手のひらに冷や汗を感じる間もなく、これまた清潔なブラックスーツを着た店員が滑るように寄ってきた。
私は急いで上着の襟を引っ張ると、その店員に間違えて入店したことをわびた。店員は顔に貼りついたような笑みを浮かべながら、そうでしょうとも、とだけ言った。笑みは崩さず咳払いをすると、ポケットから赤いハンカチーフを取り出した。そうして私の肩にあてがうと、ぱさ、ぱさ、と払った。
ふけがひどうございますよ。
肩から舞った粉雪に私は赤面して、ええ、ええ、とうなずくばかりだった。後ずさりながら、後ろ手に扉のノブを探ると、店員が深々とお辞儀をした。探り当てたノブをひねって、倒れこむようにその向こうへ足を踏み出す。早鐘を打っていた胸を右手でなでおろし、大きく息を吸いながら私は顔を上げた。
そこには妖しげな空気が満ちていた。確かに先ほどまでは石畳の大通りだったはずの足元は、黒いヴェルヴェットのカーペットに取って代わられている。毛足の長い上等なカーペットを踏みつけにしてはいけないと、私は慌てて靴を脱ぎ捨てた。靴下越しにヴェルヴェットは、さながら絹で編んだ水面のように優しく、ふかりと沈みこんだ。
どうぞ、さやかな思い出を打ち明けてくださいませ。
声をかけられた先を見ると、水晶玉を持った妙齢の女性が、裸足でこちらに歩んでくるところだった。白く濁った水晶玉は、大きさが頭ほどもある。奥の方には紅色の長テーブルがあり、本来ならそこに座って客と向き合うところを、私がぐずぐずしているので相手から出向いてくれたようだ。この部屋を歩き慣れているのか、彼女の足元でカーペットはまったく形を変えない。
私は再び赤面すると、違うのです、道に出ようと思ったら間違えてしまったのです、としどろもどろに弁明した。占い師は興味の無さそうな顔になって、そうですわね、靴下をはいてらっしゃるもの、と言った。私は自分のくたびれた靴下がたまらなく恥ずかしくなって、振り向くと扉を開け、一も二もなく前へ飛び出した。
途端に体がぶつかったのは、泣き腫らした赤い目をレースのハンカチーフで拭う喪服の麗人で、彼女がくたりとくずおれた床は、全く継ぎ目のない大理石だった。左右の壁にはやはり喪服の人々が立ち並び、飛び込んできた私をうつろな眼差しで見つめていた。部屋の奥では表情を殺した男が、大仰な扉を開けている最中だ。やがて開ききった扉から、台に乗った人骨が引き出されてきた。
むせび泣く声、胸を押さえる衣擦れの音、その中で、倒れていた麗人は誰に助けられることもなく立ち上がり、私の方を向いた。部屋の奥の男が納骨の仕方を皆に説明しているのに、女は耳を傾けず、私を見すえて立っていた。女がこちらに腕を伸ばすと、磁器のように滑らかな肌が袖からのぞいた。背筋の凍る思いがしたのは、その表情に、未亡人のほのかな悦びを見出したからだ。
貴方の骨を拾っても、よろしいでしょうか。
血の色をした涙が女の頬を伝い、大理石の床に大きな音を立てて落ちた。それに呼応して、親族たちのむせび泣きが大きくなる。それをさらにかき消すほど大きな音で、涙が床に叩きつけられる。響き合うように泣き声は号泣になり、涙の音は落雷とまごうばかりに部屋をつんざき、ついには台の上の頭蓋骨が粉々に砕けた。あまりの轟音に耐えきれなくなった私は、耳を両の手で塞ぎ、意味のない叫び声をあげて後ろの扉に体当たりをした。絹ほどの抵抗もなく扉は開き、もんどりうって転がりこんだ部屋には、真っ白な雪が降り積もっていた。
振りあおいで上を見ると、低い天井からしんしんと雪が降ってきていて、あっという間に体の芯まで冷えこんだ。こんなことなら靴を拾っておけばよかったと、垂れてきた鼻水をすすりつつ後悔した。転がっていてもしようがないので、はずみをつけて起き上がると、頭が天井をこすってひやりとした。粉雪が音を吸い込んでしまうのか、どこまでも静かな部屋で、生きとし生けるものは、私以外にはありえないように思えた。
もちろんそれは錯覚で、ぶす、ぶす、と地面の雪が膨らみはじめたので見ていると、そこから顔を出したのはハリネズミだった。体の針にまんべんなく雪がくっついていて、さながら大きなこんぺいとうのようだ。大きなこんぺいとうはころころと転がって、雪玉が大きくなる要領でどんどん育っていくので、私の前につくころには腰の高さほどにまでなっていた。こんぺいとうがぷるっと体を震わせると、針にひっついていた雪が音もなく散って、書斎机ほどの大きさになったハリネズミが深遠な目をこちらに向けた。
知ることと知らぬことの、境くらいは見えておろう。
そう言う間にもハリネズミの背に雪は降り積もり、針だらけの背中は砂糖がけのようになっていく。払ってやろうと手を伸ばすと、いらぬお世話とばかりにこんぺいとうはまた転がりはじめた。ついには天井をこするまで大きくなり、ガラスの割れるような音を立てて崩れた天井の欠片は、拾ってみれば氷砂糖で出来ていた。なるほど、雪が降るほど寒くなるわけだと、その時ようやく合点がいった。私がその欠片を投げつけると、こんぺいとうはぐわりと口を開いて噛み砕いた。刹那に見えた中の色は、ざくろの実のように真紅である。
いよいよ震えが止まらなくなり、寒さが骨身にこたえてきたが、体を動かせるような場所は、もう部屋には残されていなかった。こんぺいとうは大きくなりすぎて、私をぎゅうぎゅうと扉の方へ押しつける。このまま潰されてしまってはかなわないので、凍てつくノブをなんとかひねると、圧力で扉は勝手に開き、私は脱ぎ捨てられる靴下のように部屋から放り出された。
ついに聞こえた教会の鐘の音、足元から真っ直ぐ延びるヴァージンロード、花嫁はすでにヴェールを被り、神父の前で待っていた。じろりと睨みつけてくる義理の両親の視線を受け止めて、堂々と壇上へ向かう。花嫁と向かい合うと、心の底からとめどなく幸福感が溢れてくる。今日こそ世界で最も平和な一日なのだ! 私の気持ちを察して、親族たちの目もほろりとゆるんだ。
遅刻をした私に対し神父は一つ咳払いをして、それから式を執り行いはじめた。朗々と唱えられる祝福の言葉は、あるいは薔薇のように鮮やかに、あるいは百合のように甘やかに、私の胸中に沁みわたってゆく。幸せに陶然となった私は、ヴェールを上げる時になって、やっと花嫁の顔を覚えていないことに思い当たった。緊張しながら柔らかい布を持ち上げると、現れたのは恥じらいがちに赤い目を伏せた白うさぎであった。後ろにぺたりと垂れた耳がなんとも愛らしい。そのみつくちに口を寄せると、ほのかに人参の匂いがした。
「お目覚めになりませんの?」
花嫁が驚いた様子で言った。私はもう一度キスをすると、当たり前じゃないか、と言った。花嫁はあっけに取られた風だったが、やがて目を細めるとくつくつと笑った。
荘厳なオルガン曲に後押しされて、私たちは教会を出る。ライスシャワーが降りかかる。友人たちの歓声が渦巻く。色とりどりに着飾った野うさぎたちが、耳をそわそわ動かしながら待っている。花嫁が芹とセージとローズマリーのブーケを放り投げると、彼女たちが我先に跳びつく。もみくちゃの教会前で、私は愛する花嫁を抱き上げた。そうして華麗にステップを踏んで、くるりくるりと回り出した。すべての景色がぼやける中で、白いうさぎの赤い目を、見つめていればそれでよかった。