「幼馴染は家族みたいなもの」と婚約者が言うので、正式に家族にしてさしあげました
「幼馴染は家族みたいなものだろう? いい加減、大人になってくれ。エレオノーラ」
婚約者のアルベルト様がその台詞を口にするのは、これで三十八回目だった。
だから私は、三十八回目にして初めて、にっこり笑ってこう答えた。
「承知いたしました。では――正式に、家族にしてさしあげますね」
◇
私、エレオノーラ・ハーヴェルは伯爵家の長女で、王宮戸籍局に勤める家族登録官だ。
出生、婚姻、養子縁組、離縁。
この国で家族が生まれたり形を変えたりするとき、その書類は必ず戸籍局を通る。
一枚ずつ確かめて、不備がなければ受理印を押す。それが私の仕事。
地味だと言われる。令嬢が働く場所ではない、とも。
けれど私は、この仕事が好きだった。
紙一枚で、人は家族になれる。
紙一枚で、守られる人がいる。
たとえば、今日の午後。
窓口に、若い夫婦がやって来た。
旦那さんの腕には、生まれて七日目の赤ちゃん。
「あの、名前……これで合っていますか。字、間違えていませんか」
奥さんが、緊張した顔で出生届を差し出す。
私は一文字ずつ確かめてから、受理印を押した。
「はい、確かに受理いたしました。本日から、この子はお二人の家族として、王国の台帳に載ります」
「……よかった」
旦那さんが、赤ちゃんの小さな手をそっと握った。
「お前、ちゃんとうちの子になったぞ」
その声を聞くたびに、私は思うのだ。
この仕事を選んでよかった、と。
――婚約者に三十八回約束を破られても、それだけは信じていられるくらいには。
ふと視線を感じて振り返ると、窓口の奥の通路を、銀の髪の人が通り過ぎていくところだった。
戸籍局長だ。
目が合った気がしたけれど、局長はいつもどおりの無表情で、すぐに局長室へ消えていった。
◇
今夜は、私の十九歳の誕生日だった。
半年前から予約していた王都の料理店。
前菜の皿が下げられたところで、侯爵家の従者が駆け込んできた。
「アルベルト様、ミリィ様がお熱を……!」
アルベルト様はがたりと椅子を鳴らして立ち上がる。
グランツ侯爵家の嫡男で、私の婚約者。金の髪に、人好きのする笑顔。
そして、何かにつけて幼馴染を優先する人。
「すまない、エレオノーラ。ミリィが熱を出したらしい」
「微熱だと、今、従者の方が」
「熱は熱だ。あいつには俺しかいないんだ。知っているだろう?」
知っている。
ミリィ様は、亡くなった子爵家のご令嬢だ。ご両親を流行り病で亡くされて、十歳の頃からグランツ侯爵家に身を寄せている。
気の毒な方だと思う。
だから一回目は、笑って送り出した。
観劇の約束だった。
二回目は、私の母のお見舞いの日。
十回目は、婚約披露の打ち合わせ。
二十回目で、私は手帳に記録をつけ始めた。登録官の悲しい習性である。
三十回目で、気づいた。
ミリィ様の熱も、頭痛も、「怖い夢を見た」も、なぜか必ず私と会う日に起きるのだと。
「アルベルト様。ミリィ様のことが大切なのは分かります。でも、今日だけは――」
「またそれか」
彼は、心底うんざりしたように溜め息をついた。
「幼馴染に嫉妬するなんて、君らしくない。ミリィは家族みたいなものなんだ。妹を心配して何が悪い?」
そして、冒頭の台詞に戻る。
「幼馴染は家族みたいなものだろう? いい加減、大人になってくれ。エレオノーラ」
私は、ナプキンを静かに畳んだ。
不思議と、心は凪いでいた。
三十八回。
もう十分だ。期待するのは、ここまでにしよう。
「承知いたしました。では――正式に、家族にしてさしあげますね」
「……は?」
私は鞄から一枚の書類を取り出した。
仕事帰りに寄ったから、たまたま持っていた。
本当に、たまたま。
「養子縁組届です。ミリィ様をグランツ侯爵家の養女としてお迎えする手続きですわ」
「養子……?」
「侯爵夫人から、以前ご相談を受けていたのです。ミリィ様を正式に娘として迎えたいと。ですが、嫡男のあなたが反対なさっていると」
アルベルト様の目が泳いだ。
「あ、あれは……ミリィは今のままでいいと思って」
「今のままでは、ミリィ様は『侯爵家に居候している子爵家の遺児』のままです。持参金も、後ろ盾もありません」
私は、書類の一番下を指さした。
「でも、家族みたいなもの、なのでしょう? でしたら本物の家族として、守ってさしあげるべきではありませんか?」
「それは……そうだが」
「こちらに、嫡男としての同意の署名を。王国家族法第九条により、爵位家への入籍には、当主夫妻と嫡男の同意が必要ですので」
従者が「アルベルト様、お早く」と急かす。
アルベルト様は、ろくに読みもせずにペンを取った。
「分かった、分かった。ミリィのためなら何でもする」
さらさらと、署名。
この人はいつもそうだ。書類を読まない。私の話も、最後まで聞かない。
「これでいいな? じゃあ、行ってくる」
彼は振り返りもせず、店を出ていった。
テーブルには、手つかずのメイン料理と、乾いたばかりのインク。
私は書類を丁寧に鞄へしまって、一人でデザートまでいただいた。
誕生日ケーキは、少しだけしょっぱかった。
帰りの馬車の中で、私は手帳を開いた。
三十八行目に、今日の日付を書く。
『誕生日の食事。ミリィ様の微熱にて、前菜のあと退席』
それから、ページの一番下に、小さく一行だけ書き足した。
『記録、本日をもって終了』
ぱたん、と手帳を閉じる。
もう、この手帳に新しい行が増えることはない。
◇
翌日。
私は侯爵家の離れに、ミリィ様を訪ねた。
熱があるはずの彼女は、窓辺で刺繍をしていた。
「……エレオノーラ様」
栗色の髪の、小柄で可愛らしい方。
私を見るなり、彼女は青ざめて立ち上がった。
「昨日は、本当にごめんなさい……! 私、熱なんて出していないんです。少し顔が赤いと侍女が言っただけで」
「存じております」
「アルベルトが、侍女たちに言いつけているの。私に何かあったら、どんなに小さなことでもすぐ自分を呼べって。それが、エレオノーラ様と会う日でも……ううん、そういう日は特に」
ミリィ様は、膝の上で手をぎゅっと握った。
「縁談も、全部断られました。『ミリィには俺がいるから』って。私宛ての手紙まで、先に読まれていて」
「……ミリィ様」
「私、アルベルトのことは、兄のように思っています。でも、兄はそんなことしないでしょう?」
震える声だった。
やはり、と思った。
一か月前、ミリィ様はお忍びで戸籍局の窓口に来ていた。
『後見を外れて、一人で籍を立てるにはどうすればいいですか』
小さな声でそう尋ねて、答えを聞く前に逃げるように帰っていった。
あのときの顔が、ずっと気になっていたのだ。
「昔は、優しかったんです。両親が亡くなったとき、ずっと手を握っていてくれて。だから、ずっと言えなかった」
それは、たぶん本当なのだろう。
でも、優しさと支配は、ときどきとてもよく似た顔をしている。
「ミリィ様。侯爵夫人が、あなたを娘として迎えたいとおっしゃっています」
私は、昨夜の書類をテーブルに置いた。
「養女になれば、あなたは侯爵家の令嬢です。ご自分の縁談は、ご両親となる侯爵夫妻とあなたで決められます。アルベルト様の許しは要りません」
ミリィ様の目が、大きく見開かれた。
「それに……アルベルト様は、正式にあなたのお兄様になります」
「正式な、兄……」
「ええ。『家族みたいなもの』ではなく、本物の家族に」
「でも、それじゃ……」
ミリィ様は、はっとしたように私を見た。
「エレオノーラ様は、それでいいんですか? アルベルトの婚約者なのに、私のせいで、ずっと……」
「ミリィ様のせいではありませんわ」
私は、首を横に振った。
「約束を破ったのはアルベルト様で、あなたではありません。それに、私のことは、私で決めます」
ミリィ様は、しばらく私の顔を見つめていた。
それから、くしゃりと笑った。
泣きそうな顔で、でも、ちゃんと笑った。
「それがいちばんいいです。本当の兄になってくれるなら、きっと、もう少しまともな兄になってくれるでしょうから」
ミリィ様は、迷いのない字で署名をした。
その日の夕方、侯爵夫人も署名をした。
「まあ、エレオノーラさん。あの子がようやく首を縦に振ったのね」
夫人は涙ぐみながら、私の手を握った。
侯爵閣下は王宮のお仕事でお忙しかったけれど、届けを見せると、黙って養父の欄に名前を書いてくださった。
「……息子が、迷惑をかけているようだな」
閣下はそれだけ言って、私に頭を下げた。
これで、署名はすべて揃った。
◇
ただし、この届けを私が受理することはできない。
届出人と利害関係のある登録官は、受理を担当してはならない。戸籍局規則第三条だ。
私はアルベルト様の婚約者。思いきり利害関係者である。
なので私は、届けを局長室へ持っていった。
「失礼いたします、局長。受理のご確認をお願いします」
「ああ」
書類から顔も上げずに答えたのは、ルーカス・アーデン局長。
戸籍局長と宰相補佐を兼ねる、王宮きっての切れ者だ。
銀の髪に、薄氷みたいな灰色の瞳。誰に対しても表情を変えないので、陰では「氷の局長」と呼ばれている。
局長は届けを受け取ると、一行ずつ、指でなぞるように読んでいった。
この方は、どんな書類も絶対に流し読みしない。
そこだけは、私の婚約者とまるで違う。
「当主の署名、当主夫人の署名、嫡男の同意。養子本人は十八歳で成年。本人の署名あり」
局長の指が、アルベルト様の署名の上で止まった。
「この同意の署名は、本人が内容を理解したうえでのものか」
「はい。私の目の前で、『ミリィのためなら何でもする』とおっしゃって」
「……そうか」
局長は、ほんのわずかに眉を寄せた。
「念のため伝えておく。王国家族法第十七条。同一の家籍にある兄弟姉妹は、養子を含め、婚姻することができない」
「存じております」
「この届けが受理されれば、グランツ家の嫡男とこの令嬢は、生涯結婚できなくなる」
「はい。家族ですから」
局長が顔を上げた。
灰色の瞳が、まっすぐに私を見る。
「エレオノーラ。君は、これでいいのか」
それは、届けのことだけを聞いているのではないと分かった。
私は背筋を伸ばした。
「はい。家族は、書類で守れますから」
局長は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……そうだな。私も昔、そう教わった」
とん、と受理印が押される。
いつもより少しだけ丁寧な音だった。
「受理した。グランツ家への通知は、規定どおり四日後に届く」
「ありがとうございます」
「エレオノーラ」
退室しようとした私を、局長が呼び止めた。
「誕生日だったそうだな。昨日」
「……どうしてそれを」
「職員名簿くらいは読んでいる」
局長は、ふいと視線を書類に戻した。
「おめでとう。遅くなってすまない」
氷の局長の耳が、ほんの少しだけ赤かった気がした。
◇
三日後は、王宮の秋の夜会だった。
通知がグランツ家に届くのは、明日の朝だ。
つまりアルベルト様はまだ、ご自分に妹ができたことを知らない。
その夜も、私は一人で会場に入った。
昼のうちに、アルベルト様から短い手紙が届いていたのだ。
『今夜はミリィをエスコートする。あいつは夜会に慣れていないから。君は一人でも平気だろう?』
平気かどうかを、聞かれたことは一度もない。
壁際でグラスを受け取ったところで、隣に人が立った。
「一人か」
「局長。……ええ、いつものことです」
夜会服のルーカス局長は、いつもの三割増しで近寄りがたかった。
ご令嬢たちが遠巻きに見つめているのに、本人はまるで気にしていない。
「では、ここで書類の話でもするか」
「夜会で、ですか?」
「君が一番楽しそうな顔をするのは、書類の話のときだ」
思わず、笑ってしまった。
氷の局長は、時々こういうことを真顔で言う。
広間の中央では、アルベルト様がミリィ様の手を引いて、挨拶回りをしていた。
ミリィ様は、さっきから一度も笑っていない。
アルベルト様は、それに気づいていない。
「……今夜、何か起きるな」
局長が、ぽつりと呟いた。
「あの男の顔は、受理されないと分かっている届けを、窓口に叩きつけに来る客の顔だ」
――そして、夜会が最高潮を迎えた頃。
「エレオノーラ・ハーヴェル! 今この場で、君との婚約を破棄する!」
大広間の真ん中で、アルベルト様が高らかに宣言した。
楽団の演奏が止まる。
貴族たちの視線が、一斉に私へ集まった。
「君は嫉妬に狂い、ミリィを俺から遠ざけようとした! そんな心の狭い女と、家庭は築けない!」
なるほど。
三十八回の約束破りは、私の嫉妬のせいだったらしい。
「俺は、真実の愛を選ぶ。ミリィ、おいで」
アルベルト様は、少し離れたところにいたミリィ様に手を差し伸べた。
「俺は、ミリィと婚約する!」
広間がどよめいた。
ミリィ様は、真っ青な顔で立ち尽くしている。
……ああ、そういうこと。
「家族みたいなもの」は、隠れ蓑だったのだ。
縁談を潰していたのも、手紙を読んでいたのも、私との約束を壊し続けたのも。
最初から、ミリィ様を誰にも渡さないためだった。
ご本人の気持ちを、一度も聞かないまま。
私は、扇をそっと閉じた。
「アルベルト様。三点、申し上げます」
「なんだ。今さら泣きついても――」
「一点目。婚約破棄のお申し出、確かに承りました」
アルベルト様が、拍子抜けした顔をする。
「王国家族法第四十二条。正当な理由のない婚約破棄は、申し出た側の有責となります。慰謝料のご請求は、後日、ハーヴェル家から正式にお送りいたします」
「せ、正当な理由ならある! 君の嫉妬が――」
「三十八回分の記録がございます。日時、場所、お約束の内容、あなたが席を立たれた理由まで、すべて」
私は手帳を軽く掲げた。
周りの貴婦人たちが、「三十八回……」とささやき合う。
「二点目。ミリィ様とのご婚約は、成立いたしません」
「は? なぜだ。俺とミリィは他人だ。何の問題も――」
「他人ではございません」
私は、にっこりと微笑んだ。
「ミリィ様は、三日前にグランツ侯爵家の養女となられました。あなたの、正式な妹君です」
広間が、しんと静まり返った。
「王国家族法第十七条。同一の家籍にある兄弟姉妹は、養子を含め、婚姻することができません」
「よ、養女……? そんなもの、俺は認めていない!」
「三点目」
私は、鞄から養子縁組届の写しを取り出した。
「嫡男の同意欄に、あなたの署名がございます」
アルベルト様の顔から、さっと血の気が引いた。
「そんなもの、書いた覚えは……」
「私の誕生日の夜、料理店で。『ミリィのためなら何でもする』とおっしゃって」
「あ……」
思い当たったのだろう。アルベルト様の唇が震えた。
「い、いや、あれは……ただの形式的な……」
「形式的な書類など、この国にはございません」
私は、静かに告げた。
「一枚の紙で、人は家族になります。その重さを軽んじる方に、家族を守ることはできませんわ」
アルベルト様が、言葉に詰まる。
「家族みたいなものだと、三十八回おっしゃいましたもの。ですから、正式に家族にしてさしあげました」
アルベルト様は、救いを求めるようにミリィ様を振り返った。
「ミリィ、違うんだ。これは何かの間違いで……お前だって、俺と……」
「間違いじゃないわ」
ミリィ様が、一歩前に出た。
小さな体で、まっすぐに。
「私が望んで署名したの。縁談を断られるのも、手紙を読まれるのも、もうたくさん」
そして、はっきりと言った。
「これからは、ちゃんと兄として接してください。――お兄様」
お兄様。
その一言で、アルベルト様は膝から崩れ落ちた。
広間のあちこちから、ひそひそと声が上がる。
「養女の届けに、自分で署名して……?」
「読まずに署名したのでしょう。嫡男ともあろう方が」
「三十八回も約束を破って、嫉妬だなんて。よく言えたものね」
さっきまでアルベルト様の宣言に色めき立っていた人たちの目が、今はまるで違う色をしていた。
私は、それ以上何も言わなかった。
言う必要がなかった。書類は、もうすべてを語っている。
◇
「アルベルト」
低い声が、広間に響いた。
人垣が割れて、グランツ侯爵閣下が歩み出る。
「父上……! 聞いてください、これは全部エレオノーラの企みで――」
「私も署名した」
閣下は、冷ややかに息子を見下ろした。
「娘を迎える書類だと思って署名したのだ。まさか息子が、婚約者を蔑ろにして、その娘を囲い込もうとしていたとはな」
「囲い込むだなんて……!」
「縁談を握り潰し、手紙を盗み見る。それを何と呼ぶか、お前が言ってみろ」
アルベルト様は、何も言えなかった。
「お前の嫡男としての資格は、見直す。しばらく領地の修道院で、文書係でもしていろ。書類を読む練習になるだろう」
閣下は私に向き直り、深々と頭を下げた。
「エレオノーラ嬢。愚息が、長いあいだ申し訳なかった。慰謝料は、言い値で払おう」
「ありがとうございます、閣下。規定どおりの額で結構です」
そのとき、床に座り込んでいたアルベルト様が、はっと顔を上げた。
「エ、エレオノーラ! さっきのは間違いだ。婚約破棄は撤回する!」
この期に及んで、私の手を取ろうとする。
「君しかいないんだ。君は俺を愛していただろう? 三十八回も待ってくれたじゃないか!」
私は一歩下がって、その手を避けた。
「ええ。三十八回、お待ちしました」
だから、もう十分なのだ。
「婚約破棄の撤回には、双方の合意が必要です。私は、合意いたしません」
「そんな……」
「その申し立てについては」
静かな声が、背後から割って入った。
振り向くと、銀の髪の人が立っていた。
ルーカス・アーデン局長。
「戸籍局長として、婚約破棄の申し出を確かに聞いた。証人は、この広間にいる全員だ」
局長は、氷のような瞳でアルベルト様を見下ろした。
「明朝、受理する。不備はない」
◇
夜会の喧騒を離れて、私はバルコニーに出た。
秋の夜風が、火照った頬に気持ちいい。
「……やりすぎたでしょうか」
隣に立った局長に、私は尋ねた。
「いや」
局長は、少し考えてから続けた。
「君は、誰も傷つけていない。ミリィ嬢には家族を、侯爵夫人には娘を渡した。傷ついたのは、書類を読まなかった男の自尊心だけだ」
「局長らしいご意見ですね」
「事実を述べたまでだ」
しばらく、二人で黙って王都の灯りを眺めた。
「エレオノーラ。私は、孤児院の出だ」
唐突に、局長が言った。
「知っています。有名なお話ですから」
「では、これは知らないだろう。私は八つになるまで、どこの籍にも名前がなかった」
局長は、夜空を見上げた。
「ある日、一人の登録官が孤児院に来て、私たち全員の名前を、一人ずつ台帳に書いてくれた。それで初めて、私は『いる』ことになった」
「……」
「家族は、書類で守れる。そう教えてくれたのは、その人だ。だから私は戸籍局に入った」
「その方は、今も……?」
「十年前に引退された。最後まで、窓口に立っていた方だ」
局長は、私の顔をじっと見た。
「名を、マルグリット・ハーヴェルという」
息が止まった。
それは、私の祖母の名前だった。
幼い頃、膝の上で何度も聞いた話がある。
『書類の上に名前が載るとね、その子は世界に「いる」ことになるの。おばあさまは、それが嬉しくてこの仕事をしているのよ』
私が戸籍局を選んだのは、その言葉があったからだ。
「祖母が……局長の名前を」
「ああ。君が局に入ってきた日、すぐに分かった。同じ顔で受理印を押すから」
局長は、私に向き直った。
「そして、君の押す受理印を見ていた。三年間ずっと」
「私の、受理印……?」
「君は、届けを一枚受理するたびに、ほんの少しだけ笑う。出生届のときは特に。誰かの家族が増えるのが、嬉しくて仕方がないという顔で」
かあっと、顔が熱くなった。
そんな顔をしていたなんて、知らなかった。
「その顔を、ずっと見ていたいと思った。だが君には婚約者がいた。だから、黙っていた」
「……三十八回、約束を破られる婚約者でも、ですか」
「三十八回だろうと、婚約は婚約だ。他人の届けに、横から書き込むことはできない」
局長らしい答えだった。
この人はきっと、私が手帳に一行ずつ記録を増やしていくのを、ずっと窓口の奥から見ていたのだ。
見ていて、何も言わずに、待っていた。
「だが、今夜その婚約は破棄された。申し出たのは向こうで、証人は広間の全員だ」
局長が、懐から一枚の紙を取り出した。
見慣れた様式。
――婚約届。
夫となる者の欄には、もう署名がしてある。
ルーカス・アーデン。几帳面な、少し右上がりの字。
「家族みたいなもの、ではなく」
氷の局長は、とても不器用に微笑んだ。
「私の家族になってくれないか。エレオノーラ」
胸の奥が、ぎゅっと痛くなった。
嬉しくて痛いことがあるなんて、初めて知った。
私は震える指で書類を受け取って、いつもの癖で、上から下まで確かめた。
「……局長。不備がございます」
「どこだ」
「日付が、空欄です」
「ああ。それは」
局長は、少しだけ目を逸らした。
「君に決めてほしかった。君は、自分の予定をいつも誰かに潰されてきただろう。だから、せめてこの日付だけは」
もう、だめだった。
涙がこぼれる前に、私は笑った。
「では、今日の日付で」
局長が差し出したペンで、私は日付を書き入れた。
それから、妻となる者の欄に、自分の名前を。
エレオノーラ・ハーヴェル。
誰かのための書類ではなく、自分のための書類に名前を書いたのは、生まれて初めてだった。
「明朝、婚約破棄の受理を済ませてから、これを受理する。順番は守る」
「規則第三条をお忘れですか、局長。利害関係者は受理を担当できません」
「……そうだった」
氷の局長が、生まれて初めて書類の手順を間違えた夜。
王都の空には、少し気の早い冬の星が光っていた。
◇
後日談を、少しだけ。
ミリィ様は、侯爵家の令嬢として社交界に出た。
ご自分で選んだ穏やかな伯爵家の次男と、今は文通をしているそうだ。もちろん、手紙は誰にも読まれていない。
先日、侯爵夫人と一緒に戸籍局へ遊びに来てくださった。
「エレオノーラ様。私、生まれて初めて、自分で縁談のお返事を書きました」
そう言って笑った顔は、夜会の夜よりずっと明るかった。
アルベルト様は、領地の修道院で文書係になった。
毎日、たくさんの書類を、一行ずつ読む練習をしているらしい。
最初に最後まで読んだ書類は、戸籍局から届いた「婚約破棄受理通知書」だったと聞いている。
そして、私は。
「エレオノーラ。今日の予定は」
「局長とお昼をご一緒する予定です」
「急な案件が入っても?」
「入っても」
ルーカス様は、ほっとしたように笑った。
「では、絶対に席を立たない」
その約束は、今のところ、一度も破られていない。
この先もきっと、破られないだろう。
――だってこの人は、どんな書類も最後まで読む人だから。
私たちの婚約届は、副局長の手で、とても丁寧に受理された。
〈了〉
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
「スカッとした」「局長が好き」と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークで応援していただけると嬉しいです。評価やブクマが集まれば、ミリィのその後とお二人の婚約生活を描く【連載版】を書きたいと思っています。
※本作は本文の執筆に生成AIを使用しています。




