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「幼馴染は家族みたいなもの」と婚約者が言うので、正式に家族にしてさしあげました

作者: yamaarashi
掲載日:2026/10/24

「幼馴染は家族みたいなものだろう? いい加減、大人になってくれ。エレオノーラ」


 婚約者のアルベルト様がその台詞を口にするのは、これで三十八回目だった。


 だから私は、三十八回目にして初めて、にっこり笑ってこう答えた。


「承知いたしました。では――正式に、家族にしてさしあげますね」




   ◇




 私、エレオノーラ・ハーヴェルは伯爵家の長女で、王宮戸籍局に勤める家族登録官だ。


 出生、婚姻、養子縁組、離縁。


 この国で家族が生まれたり形を変えたりするとき、その書類は必ず戸籍局を通る。


 一枚ずつ確かめて、不備がなければ受理印を押す。それが私の仕事。


 地味だと言われる。令嬢が働く場所ではない、とも。


 けれど私は、この仕事が好きだった。


 紙一枚で、人は家族になれる。


 紙一枚で、守られる人がいる。


 たとえば、今日の午後。


 窓口に、若い夫婦がやって来た。


 旦那さんの腕には、生まれて七日目の赤ちゃん。


「あの、名前……これで合っていますか。字、間違えていませんか」


 奥さんが、緊張した顔で出生届を差し出す。


 私は一文字ずつ確かめてから、受理印を押した。


「はい、確かに受理いたしました。本日から、この子はお二人の家族として、王国の台帳に載ります」


「……よかった」


 旦那さんが、赤ちゃんの小さな手をそっと握った。


「お前、ちゃんとうちの子になったぞ」


 その声を聞くたびに、私は思うのだ。


 この仕事を選んでよかった、と。


 ――婚約者に三十八回約束を破られても、それだけは信じていられるくらいには。


 ふと視線を感じて振り返ると、窓口の奥の通路を、銀の髪の人が通り過ぎていくところだった。


 戸籍局長だ。


 目が合った気がしたけれど、局長はいつもどおりの無表情で、すぐに局長室へ消えていった。




   ◇




 今夜は、私の十九歳の誕生日だった。


 半年前から予約していた王都の料理店。


 前菜の皿が下げられたところで、侯爵家の従者が駆け込んできた。


「アルベルト様、ミリィ様がお熱を……!」


 アルベルト様はがたりと椅子を鳴らして立ち上がる。


 グランツ侯爵家の嫡男で、私の婚約者。金の髪に、人好きのする笑顔。


 そして、何かにつけて幼馴染を優先する人。


「すまない、エレオノーラ。ミリィが熱を出したらしい」


「微熱だと、今、従者の方が」


「熱は熱だ。あいつには俺しかいないんだ。知っているだろう?」


 知っている。


 ミリィ様は、亡くなった子爵家のご令嬢だ。ご両親を流行り病で亡くされて、十歳の頃からグランツ侯爵家に身を寄せている。


 気の毒な方だと思う。


 だから一回目は、笑って送り出した。


 観劇の約束だった。


 二回目は、私の母のお見舞いの日。


 十回目は、婚約披露の打ち合わせ。


 二十回目で、私は手帳に記録をつけ始めた。登録官の悲しい習性である。


 三十回目で、気づいた。


 ミリィ様の熱も、頭痛も、「怖い夢を見た」も、なぜか必ず私と会う日に起きるのだと。


「アルベルト様。ミリィ様のことが大切なのは分かります。でも、今日だけは――」


「またそれか」


 彼は、心底うんざりしたように溜め息をついた。


「幼馴染に嫉妬するなんて、君らしくない。ミリィは家族みたいなものなんだ。妹を心配して何が悪い?」


 そして、冒頭の台詞に戻る。


「幼馴染は家族みたいなものだろう? いい加減、大人になってくれ。エレオノーラ」


 私は、ナプキンを静かに畳んだ。


 不思議と、心は凪いでいた。


 三十八回。


 もう十分だ。期待するのは、ここまでにしよう。


「承知いたしました。では――正式に、家族にしてさしあげますね」


「……は?」


 私は鞄から一枚の書類を取り出した。


 仕事帰りに寄ったから、たまたま持っていた。


 本当に、たまたま。


「養子縁組届です。ミリィ様をグランツ侯爵家の養女としてお迎えする手続きですわ」


「養子……?」


「侯爵夫人から、以前ご相談を受けていたのです。ミリィ様を正式に娘として迎えたいと。ですが、嫡男のあなたが反対なさっていると」


 アルベルト様の目が泳いだ。


「あ、あれは……ミリィは今のままでいいと思って」


「今のままでは、ミリィ様は『侯爵家に居候している子爵家の遺児』のままです。持参金も、後ろ盾もありません」


 私は、書類の一番下を指さした。


「でも、家族みたいなもの、なのでしょう? でしたら本物の家族として、守ってさしあげるべきではありませんか?」


「それは……そうだが」


「こちらに、嫡男としての同意の署名を。王国家族法第九条により、爵位家への入籍には、当主夫妻と嫡男の同意が必要ですので」


 従者が「アルベルト様、お早く」と急かす。


 アルベルト様は、ろくに読みもせずにペンを取った。


「分かった、分かった。ミリィのためなら何でもする」


 さらさらと、署名。


 この人はいつもそうだ。書類を読まない。私の話も、最後まで聞かない。


「これでいいな? じゃあ、行ってくる」


 彼は振り返りもせず、店を出ていった。


 テーブルには、手つかずのメイン料理と、乾いたばかりのインク。


 私は書類を丁寧に鞄へしまって、一人でデザートまでいただいた。


 誕生日ケーキは、少しだけしょっぱかった。


 帰りの馬車の中で、私は手帳を開いた。


 三十八行目に、今日の日付を書く。


『誕生日の食事。ミリィ様の微熱にて、前菜のあと退席』


 それから、ページの一番下に、小さく一行だけ書き足した。


『記録、本日をもって終了』


 ぱたん、と手帳を閉じる。


 もう、この手帳に新しい行が増えることはない。




   ◇




 翌日。


 私は侯爵家の離れに、ミリィ様を訪ねた。


 熱があるはずの彼女は、窓辺で刺繍をしていた。


「……エレオノーラ様」


 栗色の髪の、小柄で可愛らしい方。


 私を見るなり、彼女は青ざめて立ち上がった。


「昨日は、本当にごめんなさい……! 私、熱なんて出していないんです。少し顔が赤いと侍女が言っただけで」


「存じております」


「アルベルトが、侍女たちに言いつけているの。私に何かあったら、どんなに小さなことでもすぐ自分を呼べって。それが、エレオノーラ様と会う日でも……ううん、そういう日は特に」


 ミリィ様は、膝の上で手をぎゅっと握った。


「縁談も、全部断られました。『ミリィには俺がいるから』って。私宛ての手紙まで、先に読まれていて」


「……ミリィ様」


「私、アルベルトのことは、兄のように思っています。でも、兄はそんなことしないでしょう?」


 震える声だった。


 やはり、と思った。


 一か月前、ミリィ様はお忍びで戸籍局の窓口に来ていた。


『後見を外れて、一人で籍を立てるにはどうすればいいですか』


 小さな声でそう尋ねて、答えを聞く前に逃げるように帰っていった。


 あのときの顔が、ずっと気になっていたのだ。


「昔は、優しかったんです。両親が亡くなったとき、ずっと手を握っていてくれて。だから、ずっと言えなかった」


 それは、たぶん本当なのだろう。


 でも、優しさと支配は、ときどきとてもよく似た顔をしている。


「ミリィ様。侯爵夫人が、あなたを娘として迎えたいとおっしゃっています」


 私は、昨夜の書類をテーブルに置いた。


「養女になれば、あなたは侯爵家の令嬢です。ご自分の縁談は、ご両親となる侯爵夫妻とあなたで決められます。アルベルト様の許しは要りません」


 ミリィ様の目が、大きく見開かれた。


「それに……アルベルト様は、正式にあなたのお兄様になります」


「正式な、兄……」


「ええ。『家族みたいなもの』ではなく、本物の家族に」


「でも、それじゃ……」


 ミリィ様は、はっとしたように私を見た。


「エレオノーラ様は、それでいいんですか? アルベルトの婚約者なのに、私のせいで、ずっと……」


「ミリィ様のせいではありませんわ」


 私は、首を横に振った。


「約束を破ったのはアルベルト様で、あなたではありません。それに、私のことは、私で決めます」


 ミリィ様は、しばらく私の顔を見つめていた。


 それから、くしゃりと笑った。


 泣きそうな顔で、でも、ちゃんと笑った。


「それがいちばんいいです。本当の兄になってくれるなら、きっと、もう少しまともな兄になってくれるでしょうから」


 ミリィ様は、迷いのない字で署名をした。


 その日の夕方、侯爵夫人も署名をした。


「まあ、エレオノーラさん。あの子がようやく首を縦に振ったのね」


 夫人は涙ぐみながら、私の手を握った。


 侯爵閣下は王宮のお仕事でお忙しかったけれど、届けを見せると、黙って養父の欄に名前を書いてくださった。


「……息子が、迷惑をかけているようだな」


 閣下はそれだけ言って、私に頭を下げた。


 これで、署名はすべて揃った。




   ◇




 ただし、この届けを私が受理することはできない。


 届出人と利害関係のある登録官は、受理を担当してはならない。戸籍局規則第三条だ。


 私はアルベルト様の婚約者。思いきり利害関係者である。


 なので私は、届けを局長室へ持っていった。


「失礼いたします、局長。受理のご確認をお願いします」


「ああ」


 書類から顔も上げずに答えたのは、ルーカス・アーデン局長。


 戸籍局長と宰相補佐を兼ねる、王宮きっての切れ者だ。


 銀の髪に、薄氷みたいな灰色の瞳。誰に対しても表情を変えないので、陰では「氷の局長」と呼ばれている。


 局長は届けを受け取ると、一行ずつ、指でなぞるように読んでいった。


 この方は、どんな書類も絶対に流し読みしない。


 そこだけは、私の婚約者とまるで違う。


「当主の署名、当主夫人の署名、嫡男の同意。養子本人は十八歳で成年。本人の署名あり」


 局長の指が、アルベルト様の署名の上で止まった。


「この同意の署名は、本人が内容を理解したうえでのものか」


「はい。私の目の前で、『ミリィのためなら何でもする』とおっしゃって」


「……そうか」


 局長は、ほんのわずかに眉を寄せた。


「念のため伝えておく。王国家族法第十七条。同一の家籍にある兄弟姉妹は、養子を含め、婚姻することができない」


「存じております」


「この届けが受理されれば、グランツ家の嫡男とこの令嬢は、生涯結婚できなくなる」


「はい。家族ですから」


 局長が顔を上げた。


 灰色の瞳が、まっすぐに私を見る。


「エレオノーラ。君は、これでいいのか」


 それは、届けのことだけを聞いているのではないと分かった。


 私は背筋を伸ばした。


「はい。家族は、書類で守れますから」


 局長は、しばらく黙っていた。


 それから、小さく息を吐いた。


「……そうだな。私も昔、そう教わった」


 とん、と受理印が押される。


 いつもより少しだけ丁寧な音だった。


「受理した。グランツ家への通知は、規定どおり四日後に届く」


「ありがとうございます」


「エレオノーラ」


 退室しようとした私を、局長が呼び止めた。


「誕生日だったそうだな。昨日」


「……どうしてそれを」


「職員名簿くらいは読んでいる」


 局長は、ふいと視線を書類に戻した。


「おめでとう。遅くなってすまない」


 氷の局長の耳が、ほんの少しだけ赤かった気がした。




   ◇




 三日後は、王宮の秋の夜会だった。


 通知がグランツ家に届くのは、明日の朝だ。


 つまりアルベルト様はまだ、ご自分に妹ができたことを知らない。


 その夜も、私は一人で会場に入った。


 昼のうちに、アルベルト様から短い手紙が届いていたのだ。


『今夜はミリィをエスコートする。あいつは夜会に慣れていないから。君は一人でも平気だろう?』


 平気かどうかを、聞かれたことは一度もない。


 壁際でグラスを受け取ったところで、隣に人が立った。


「一人か」


「局長。……ええ、いつものことです」


 夜会服のルーカス局長は、いつもの三割増しで近寄りがたかった。


 ご令嬢たちが遠巻きに見つめているのに、本人はまるで気にしていない。


「では、ここで書類の話でもするか」


「夜会で、ですか?」


「君が一番楽しそうな顔をするのは、書類の話のときだ」


 思わず、笑ってしまった。


 氷の局長は、時々こういうことを真顔で言う。


 広間の中央では、アルベルト様がミリィ様の手を引いて、挨拶回りをしていた。


 ミリィ様は、さっきから一度も笑っていない。


 アルベルト様は、それに気づいていない。


「……今夜、何か起きるな」


 局長が、ぽつりと呟いた。


「あの男の顔は、受理されないと分かっている届けを、窓口に叩きつけに来る客の顔だ」


 ――そして、夜会が最高潮を迎えた頃。


「エレオノーラ・ハーヴェル! 今この場で、君との婚約を破棄する!」


 大広間の真ん中で、アルベルト様が高らかに宣言した。


 楽団の演奏が止まる。


 貴族たちの視線が、一斉に私へ集まった。


「君は嫉妬に狂い、ミリィを俺から遠ざけようとした! そんな心の狭い女と、家庭は築けない!」


 なるほど。


 三十八回の約束破りは、私の嫉妬のせいだったらしい。


「俺は、真実の愛を選ぶ。ミリィ、おいで」


 アルベルト様は、少し離れたところにいたミリィ様に手を差し伸べた。


「俺は、ミリィと婚約する!」


 広間がどよめいた。


 ミリィ様は、真っ青な顔で立ち尽くしている。


 ……ああ、そういうこと。


 「家族みたいなもの」は、隠れ蓑だったのだ。


 縁談を潰していたのも、手紙を読んでいたのも、私との約束を壊し続けたのも。


 最初から、ミリィ様を誰にも渡さないためだった。


 ご本人の気持ちを、一度も聞かないまま。


 私は、扇をそっと閉じた。


「アルベルト様。三点、申し上げます」


「なんだ。今さら泣きついても――」


「一点目。婚約破棄のお申し出、確かに承りました」


 アルベルト様が、拍子抜けした顔をする。


「王国家族法第四十二条。正当な理由のない婚約破棄は、申し出た側の有責となります。慰謝料のご請求は、後日、ハーヴェル家から正式にお送りいたします」


「せ、正当な理由ならある! 君の嫉妬が――」


「三十八回分の記録がございます。日時、場所、お約束の内容、あなたが席を立たれた理由まで、すべて」


 私は手帳を軽く掲げた。


 周りの貴婦人たちが、「三十八回……」とささやき合う。


「二点目。ミリィ様とのご婚約は、成立いたしません」


「は? なぜだ。俺とミリィは他人だ。何の問題も――」


「他人ではございません」


 私は、にっこりと微笑んだ。


「ミリィ様は、三日前にグランツ侯爵家の養女となられました。あなたの、正式な妹君です」


 広間が、しんと静まり返った。


「王国家族法第十七条。同一の家籍にある兄弟姉妹は、養子を含め、婚姻することができません」


「よ、養女……? そんなもの、俺は認めていない!」


「三点目」


 私は、鞄から養子縁組届の写しを取り出した。


「嫡男の同意欄に、あなたの署名がございます」


 アルベルト様の顔から、さっと血の気が引いた。


「そんなもの、書いた覚えは……」


「私の誕生日の夜、料理店で。『ミリィのためなら何でもする』とおっしゃって」


「あ……」


 思い当たったのだろう。アルベルト様の唇が震えた。


「い、いや、あれは……ただの形式的な……」


「形式的な書類など、この国にはございません」


 私は、静かに告げた。


「一枚の紙で、人は家族になります。その重さを軽んじる方に、家族を守ることはできませんわ」


 アルベルト様が、言葉に詰まる。


「家族みたいなものだと、三十八回おっしゃいましたもの。ですから、正式に家族にしてさしあげました」


 アルベルト様は、救いを求めるようにミリィ様を振り返った。


「ミリィ、違うんだ。これは何かの間違いで……お前だって、俺と……」


「間違いじゃないわ」


 ミリィ様が、一歩前に出た。


 小さな体で、まっすぐに。


「私が望んで署名したの。縁談を断られるのも、手紙を読まれるのも、もうたくさん」


 そして、はっきりと言った。


「これからは、ちゃんと兄として接してください。――お兄様」


 お兄様。


 その一言で、アルベルト様は膝から崩れ落ちた。


 広間のあちこちから、ひそひそと声が上がる。


「養女の届けに、自分で署名して……?」


「読まずに署名したのでしょう。嫡男ともあろう方が」


「三十八回も約束を破って、嫉妬だなんて。よく言えたものね」


 さっきまでアルベルト様の宣言に色めき立っていた人たちの目が、今はまるで違う色をしていた。


 私は、それ以上何も言わなかった。


 言う必要がなかった。書類は、もうすべてを語っている。




   ◇




「アルベルト」


 低い声が、広間に響いた。


 人垣が割れて、グランツ侯爵閣下が歩み出る。


「父上……! 聞いてください、これは全部エレオノーラの企みで――」


「私も署名した」


 閣下は、冷ややかに息子を見下ろした。


「娘を迎える書類だと思って署名したのだ。まさか息子が、婚約者を蔑ろにして、その娘を囲い込もうとしていたとはな」


「囲い込むだなんて……!」


「縁談を握り潰し、手紙を盗み見る。それを何と呼ぶか、お前が言ってみろ」


 アルベルト様は、何も言えなかった。


「お前の嫡男としての資格は、見直す。しばらく領地の修道院で、文書係でもしていろ。書類を読む練習になるだろう」


 閣下は私に向き直り、深々と頭を下げた。


「エレオノーラ嬢。愚息が、長いあいだ申し訳なかった。慰謝料は、言い値で払おう」


「ありがとうございます、閣下。規定どおりの額で結構です」


 そのとき、床に座り込んでいたアルベルト様が、はっと顔を上げた。


「エ、エレオノーラ! さっきのは間違いだ。婚約破棄は撤回する!」


 この期に及んで、私の手を取ろうとする。


「君しかいないんだ。君は俺を愛していただろう? 三十八回も待ってくれたじゃないか!」


 私は一歩下がって、その手を避けた。


「ええ。三十八回、お待ちしました」


 だから、もう十分なのだ。


「婚約破棄の撤回には、双方の合意が必要です。私は、合意いたしません」


「そんな……」


「その申し立てについては」


 静かな声が、背後から割って入った。


 振り向くと、銀の髪の人が立っていた。


 ルーカス・アーデン局長。


「戸籍局長として、婚約破棄の申し出を確かに聞いた。証人は、この広間にいる全員だ」


 局長は、氷のような瞳でアルベルト様を見下ろした。


「明朝、受理する。不備はない」




   ◇




 夜会の喧騒を離れて、私はバルコニーに出た。


 秋の夜風が、火照った頬に気持ちいい。


「……やりすぎたでしょうか」


 隣に立った局長に、私は尋ねた。


「いや」


 局長は、少し考えてから続けた。


「君は、誰も傷つけていない。ミリィ嬢には家族を、侯爵夫人には娘を渡した。傷ついたのは、書類を読まなかった男の自尊心だけだ」


「局長らしいご意見ですね」


「事実を述べたまでだ」


 しばらく、二人で黙って王都の灯りを眺めた。


「エレオノーラ。私は、孤児院の出だ」


 唐突に、局長が言った。


「知っています。有名なお話ですから」


「では、これは知らないだろう。私は八つになるまで、どこの籍にも名前がなかった」


 局長は、夜空を見上げた。


「ある日、一人の登録官が孤児院に来て、私たち全員の名前を、一人ずつ台帳に書いてくれた。それで初めて、私は『いる』ことになった」


「……」


「家族は、書類で守れる。そう教えてくれたのは、その人だ。だから私は戸籍局に入った」


「その方は、今も……?」


「十年前に引退された。最後まで、窓口に立っていた方だ」


 局長は、私の顔をじっと見た。


「名を、マルグリット・ハーヴェルという」


 息が止まった。


 それは、私の祖母の名前だった。


 幼い頃、膝の上で何度も聞いた話がある。


『書類の上に名前が載るとね、その子は世界に「いる」ことになるの。おばあさまは、それが嬉しくてこの仕事をしているのよ』


 私が戸籍局を選んだのは、その言葉があったからだ。


「祖母が……局長の名前を」


「ああ。君が局に入ってきた日、すぐに分かった。同じ顔で受理印を押すから」


 局長は、私に向き直った。


「そして、君の押す受理印を見ていた。三年間ずっと」


「私の、受理印……?」


「君は、届けを一枚受理するたびに、ほんの少しだけ笑う。出生届のときは特に。誰かの家族が増えるのが、嬉しくて仕方がないという顔で」


 かあっと、顔が熱くなった。


 そんな顔をしていたなんて、知らなかった。


「その顔を、ずっと見ていたいと思った。だが君には婚約者がいた。だから、黙っていた」


「……三十八回、約束を破られる婚約者でも、ですか」


「三十八回だろうと、婚約は婚約だ。他人の届けに、横から書き込むことはできない」


 局長らしい答えだった。


 この人はきっと、私が手帳に一行ずつ記録を増やしていくのを、ずっと窓口の奥から見ていたのだ。


 見ていて、何も言わずに、待っていた。


「だが、今夜その婚約は破棄された。申し出たのは向こうで、証人は広間の全員だ」


 局長が、懐から一枚の紙を取り出した。


 見慣れた様式。


 ――婚約届。


 夫となる者の欄には、もう署名がしてある。


 ルーカス・アーデン。几帳面な、少し右上がりの字。


「家族みたいなもの、ではなく」


 氷の局長は、とても不器用に微笑んだ。


「私の家族になってくれないか。エレオノーラ」


 胸の奥が、ぎゅっと痛くなった。


 嬉しくて痛いことがあるなんて、初めて知った。


 私は震える指で書類を受け取って、いつもの癖で、上から下まで確かめた。


「……局長。不備がございます」


「どこだ」


「日付が、空欄です」


「ああ。それは」


 局長は、少しだけ目を逸らした。


「君に決めてほしかった。君は、自分の予定をいつも誰かに潰されてきただろう。だから、せめてこの日付だけは」


 もう、だめだった。


 涙がこぼれる前に、私は笑った。


「では、今日の日付で」


 局長が差し出したペンで、私は日付を書き入れた。


 それから、妻となる者の欄に、自分の名前を。


 エレオノーラ・ハーヴェル。


 誰かのための書類ではなく、自分のための書類に名前を書いたのは、生まれて初めてだった。


「明朝、婚約破棄の受理を済ませてから、これを受理する。順番は守る」


「規則第三条をお忘れですか、局長。利害関係者は受理を担当できません」


「……そうだった」


 氷の局長が、生まれて初めて書類の手順を間違えた夜。


 王都の空には、少し気の早い冬の星が光っていた。




   ◇




 後日談を、少しだけ。


 ミリィ様は、侯爵家の令嬢として社交界に出た。


 ご自分で選んだ穏やかな伯爵家の次男と、今は文通をしているそうだ。もちろん、手紙は誰にも読まれていない。


 先日、侯爵夫人と一緒に戸籍局へ遊びに来てくださった。


「エレオノーラ様。私、生まれて初めて、自分で縁談のお返事を書きました」


 そう言って笑った顔は、夜会の夜よりずっと明るかった。


 アルベルト様は、領地の修道院で文書係になった。


 毎日、たくさんの書類を、一行ずつ読む練習をしているらしい。


 最初に最後まで読んだ書類は、戸籍局から届いた「婚約破棄受理通知書」だったと聞いている。


 そして、私は。


「エレオノーラ。今日の予定は」


「局長とお昼をご一緒する予定です」


「急な案件が入っても?」


「入っても」


 ルーカス様は、ほっとしたように笑った。


「では、絶対に席を立たない」


 その約束は、今のところ、一度も破られていない。


 この先もきっと、破られないだろう。


 ――だってこの人は、どんな書類も最後まで読む人だから。


 私たちの婚約届は、副局長の手で、とても丁寧に受理された。




〈了〉

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

「スカッとした」「局長が好き」と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークで応援していただけると嬉しいです。評価やブクマが集まれば、ミリィのその後とお二人の婚約生活を描く【連載版】を書きたいと思っています。

※本作は本文の執筆に生成AIを使用しています。

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