1
彼がこの街で産声をとどろかせてから17年と4ヶ月が経った。
生まれてこのかた人生のほとんどの時間を貧民街での生活に費やした彼は『都市』のことをなにもわかっておらず、『都市』もまた彼のことをなにも知らない。
彼は『都市』に知られていなくても問題なかった。『都市』は自らの体内を全然把握していないくせに、その体内すべてに最低限の栄養を行き渡らせることに成功している。『都市』は戦争が強い。
「探せ!まだこのあたりにいるはずだ!」
かなり近くから聞こえてきた芝居くさい定型文は、声の主あるいは彼が現実感をもっていないだけで、とても現実的な文言として機能する。
近くにぞわっと人の気配が増え、彼の身体がびくりと震える。
彼は物陰でごみと一体化していて、身体の破滅を予感した彼の意識はますますごみのほうへと流れていく。彼は、そのうち自分はごみそのものになれるのではないかという気がしてきた。
それを待たずして、ひとつの気配がさらにさらに接近し、やがて彼の眼前に来た。
彼は気配の主を彼の眼におさめることができる。
気配の主は金髪碧眼、細身で10代後半から20代前半ぐらいにみえる男で、髪型のボブが似合っていたから、つまり美形なのだなと思った。彼は男性の容姿の客観的な評価基準がわからないので、よく髪型が似合っているかということで美醜を判別する。
彼は友だちがボブにイメチェンしてきた日、あまりにも似合わないので大笑いしていたら全身を燃やされたことを思いだした。髪型が似合っていないということは髪型が似合っていないということであって醜いということではないと思う。だがやはり、髪型が似合っているということは美しいということなのだ。彼には反例のない傾向を絶対普遍の法則であると信じこんでしまいやすい傾向がある。
彼は再度美形と思われる金髪ボブを観察した。鼻筋や耳の形をみてもなにもわからない。金髪ボブの服は上下ともにシンプルだが高そうで、お金持ちで羨ましいということがわかる。あと、立派な槍をもっていた。
この時点で彼は、ほとんど生を諦めている。いわゆる絶望しているということで、人間完全に望みを絶たれると泣いたり喚いたりする気力もわかない。とはいえ無表情で殺されるのもそれはそれで腹立たしく、死に顔がイイ感じにみえるようにやにやしていた。
金髪ボブも彼のほうをみている。ゴミの下敷きになって隠れられたつもりの彼を易々みつけた。
金髪ボブは彼の表情をみてドン引きしたが、表情には出さない。
彼は金髪ボブの名前を知っていると思った。アルフォンソ・カラヤンは、都市最大規模の傭兵会社であるカラヤン傭兵会社の5代目社長で、眼が変色するらしい。さきほどまで金髪ボブは碧眼だった。現在彼を見据える眼は髪と同じ色をしている。
カラヤンは片目をつむる勢いで小首を傾げ、ノンバーバルに友好的な表情をいっしゅんとった、つまりウインクした。
「は?」と声がもれて、この瞬間に殺されたらさぞかしまぬけな死体ができあがるだろうと彼は自分を客観視した。にやけ顔で殺されても同様だということにまでは頭が回らなかったので、再びにやけ顔に戻った。
カラヤンは彼が声をあげたことに若干焦ったが、聞きつけた仲間はどうやらいないらしいことを確認すると、にやりと笑いかえし、人差し指を自分の唇に押し当てた。
彼はその一連の動作をみて、性欲に由来しないときめきをおぼえた。
それは親しみと安心からくる自分へのときめきと、命を握られていることからくる、神や自然などの絶対者に対して抱くような垂直方向へのときめきが混淆したもの、本当にときめきかと言われるとあやしいものがあるが、彼は心拍の上昇を否応なくときめきと認識する。
彼はときめきに心を奪われ、カラヤンを一時的に信頼した。彼はちょろい。無論この状況で下手に暴れればサクッと槍でひと突きもあり得るので、合理的な判断だとみなすこともできる。
彼はごみに戻った。
カラヤンはその様子をみて満足し、部下たちに別の区画を探すよう指示し、目の前のごみに身分証明書を投げつけた。
「ひと段落したら迎えにいくから」
彼はカラヤンが去ったあとも、10分ぐらいごみのまま動けなかったが、やがてまた人間に戻ると、カラヤンが投げつけたカードのようなものを拾いあげることもできる。
カードの表面には知らない名前と彼の写実的な似顔絵、裏面にはΜισθοφορική Εταιρεία Καραγιάν(カラヤン傭兵会社)の文字とそれらしいロゴがあり、彼はマジで意味がわからなかった。
彼はなぜ自分が隠れなければならなかったのかすらわかっていない。
日雇いの仕事から帰ると、家が燃えていた。
周りに傭兵が立っていて、追いかけまわされた。
「これからどうしよう…」
口に出せば思いつくというものでもない。しかし、彼は彼の知る数多くのフィクションの登場人物のように口に出し、彼らと同様に自分もなんだかんだうまくいくはずだという楽観に浸ることによって、この不条理からどうにか精神を守っている。
とりあえず、どこかで服を着替える必要があるな。
そう判断した彼はくさい。彼がさきほどまで渾然一体となっていたごみのなかには生ごみも多くあった。彼はまだ半分くらいごみであると言える。少なくとも彼に人権はない。金も今日の稼ぎしかない。父母もいなければ妻子もいない。家もなくなった。足だけがある。
少し強く叩いたら倒壊してしまいそうな襤褸家のドアを少し強く叩くと、即座に家の中から「はーい」という声が返ってきて、12秒後にドアの向こう側から「山!」と聞こえた。彼は直感で「川!」と答える。多分答えはなんでもよい。鍵の外れる音がして、ドアの隙間からキルエラが顔だけをのぞかせる。キルエラは貧民街と隣の区画のちょうど中間に居を構える女性で、彼とキルエラは相互に子供の頃からの友だちだった。
「いらっしゃい。くさいな。ゾンビ?殺されたって聞いたんだけど」
「死んだの?」
「そう聞いた」
「なんで?」
「知らん」
「ゾンビじゃない。匿って」
「いいよ」
彼はしばらく知己の厄介になることにした。キルエラは指名手配犯なので、彼を傭兵に突き出すことはない。とくにカラヤン傭兵会社などは都市全体の治安維持を請け負っているから、融通が利かない。キルエラは彼がそうした事情をふまえて自分を頼ってきたのだ、つまり脅されているのだと思っているが、彼は久々に友だちと会えてうれしい。
家に入るやいなや、彼はしかない安楽椅子にもたれかかった。彼にはあらゆる遠慮がない。キルエラは自分が髪を短くしたときに彼に大笑いされたことを未だにすこし根に持っている。
キルエラの家にはリビングと、それに接続する部屋が合計4つあって、リビングを除けばひとつはキルエラの寝室、ひとつは魔法に関するあれやこれやが置いてある実験室なので、もうひとつの部屋で寝ろ。布団はない。ということを彼に申し伝えようとしたキルエラは、よほど疲れていたのか、話の途中で彼が眠っているのに気がついた。
人の家にあがりこんでおいて話を最後まで聞かない旧友に腹を立てつつ、キルエラは彼の上着のポケットに手をつっこんだ。キルエラは彼の上着からはみ出している意匠と魔法の施されたカードが気になっていた。裏面にはΜισθοφορική Εταιρεία Καραγιάν(カラヤン傭兵会社)の文字と有名なカラヤン社のロゴがあり、表面には彼の顔写真とユク・カラヤンという名前があった。
「お前の本名じゃん」
自分の名前を知らない彼は貧民街の子供たちから無知蒙昧と呼ばれていて、そう呼ぶ誰もアマティアの意味を知らない。キルエラが広めた渾名だった。
「ちゃんと隠れてなよ」
そう言ってキルエラは彼の身分証明書と銀貨が6枚ぐらい入った小袋を徴収し、部屋を掃除しておいてやることにした。
彼が目を覚ますころにはカラヤン社は分裂し、新たにできたハルフォン社の傭兵がみなごろしにされている。
これから少しずつ書いていきます。よろしくお願いします。




