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禍々しい双眸

作者: 亜沙美多郎
掲載日:2026/03/23

 ———あ、ハズレだ。

 担任の先生が教室に入って来るなり反射的にそう思った。

 高校三年生になった初日、二組の生徒たちは五〇音順に席に着いている。僕は廊下側から二列目の、後ろから三番目にいた。

 今年から赴任してきた男性教諭は、グレーともブラウンとも言い難い色のスーツをだらしなく身に纏い、猫背で覇気のないオーラを放ちながら教壇に立った。

 それまで静かに待っていた生徒たちが、途端にザワザワと騒がしくなるのも無理はない。

「え、まさかアレが担任?」

「真面目そう通り越して……暗そう」

「っていうか、髪が邪魔で顔が見えん」

「俺ら受験生なのに任せられんの?」

「ねぇ、杵築きづき先生って一組に行ってたよね?」

「まじ? 羨ましい。私も一組になりたかった」

 クラスメイトのやり取りに耳を傾けつつ、高校最後の年、幸先は最悪だと思った。


「……山田詠太やまだえいたです」

 ボソリと何かを呟いた。あの声量では最前列の人さえ聞こえていないかもしれない。

「先生、何か言った?」

 男子生徒から野次に近い質問が投げられる。既に山田先生に対しての敬意は捨てたとも言える口調だった。

 先生は伸ばしっぱなしの天然パーマの前髪と、太い黒縁メガネで顔が隠れて表情は読み取れないが、感情を隠しもしない盛大なため息を吐いて後ろへ向く。

 白のチョークを手に取り、黒板の真ん中に『山田詠太』とだけ書いた。整った綺麗な字であった。

「あぁ、自己紹介ね」

 生徒もまた先生に倣ってため息を吐く。

 山田先生は生徒の態度を特に咎めもせず名簿を開き、出欠を取り始めた。

『あ』から順番に名前が呼ばれる。

「はい」「はい」……気怠い返事が続く。

 僕の番になって身構えた。

「十河遥そごうはるか」

「あ、はい……」

 思わず視線を上げる。先生はチラリとこちらを見たが、無反応のまま再び名簿に視線を落とし次の生徒の名前を呼んだ。

 

 大体の人は『とがわ』と読み間違える。

『———出席番号順で考えると『と』じゃないよな……』頭を傾げて『何て読むんだ?』と聞かれるのも珍しくない。

 その上“遥”なんて名前だから『男だったのか』と本音を溢すのもお決まりのパターンだ。

 しかし山田先生は、当然とばかりに正しい読み方で僕を呼んでくれた。

 第一印象は最悪だったものの、実際にはいい人かも知れないという淡い期待に繋がった。

 その後のHRで僕は二年生の時に引き続き、学級委員長を務めることが決定する。

 

「遥君、最後の最後であんな先生で気の毒」

 隣の席の女子から声をかけられたが、軽く頭を横に振り「大丈夫、きっと打ち解けられるさ」親指を立てて見せた。


 しかし半月以上経っても山田先生の印象が好転することはなかった。それどころか悪化の一途を辿っている。原因となる出来事がクラスを騒然とさせた。

 現国の授業で小テストを行っていた時のこと……早く終わった数人の生徒が、なんとなく、ぼんやりと山田先生を眺めていた。

 彼は生徒の視線には気付かず(気にしていないというのが正しいかもしれない)窓から運動場を見ていた。開いた窓の外からは三年一組が体育の授業をしている声が途切れ途切れに聞こえてくる。

 指導しているのは杵築先生のようだった。そこまでは何ら変哲のない平穏な日常である。けれども杵築先生の声が聞こえたその瞬間、山田先生の口角がグッと上がったのだ。

 ——え、笑った……

 思わず二列横の間宮啓太まみやけいたと顔を見合わせる。

 (今の見た?)

 口パクで聞かれ、最小限頭を縦に振り(見た。笑った?)と口パクで返す。

 間宮もうんうんと頷いて見せ、肩を竦めた。

 二人同時に山田先生を再び見たが、今度はA4サイズのプリントを口に当て、表情を確認するのは不可能だった。


 チャイムが鳴るなり「おい、他の奴も見た?」別の位置から見ていた矢上智久やがみともひさが勢いよく立ち上がる。

「見た!! アレ、絶対笑ってたよな?」

 すかさず間宮が反応し、何事だと他の生徒も群がる。

「さっき運動場見ながら山田が笑ってたんだ」

「は? あいつの表情筋って生きてたんだ?」

「つーか、あれは恋するオーラじゃね?」

「何それ、キモい~」

「いや、マジ!! 大マジ!! な、遥?」

 矢上に話を振られ、注目を浴びる。否定したいところだが、僕の目にも同じように映っていた。

「それが……僕もそんな印象を受けた」

 学級委員長の発言に教室がどよめいた。

 

 それは【山田詠太恋奇譚】と名付けられ、相手が誰なのかを探る動きが活発になる。

 これまで覇気のなかった三年二組が急に色めき立つ。相手が生徒でも大変だが、もしも……万が一……杵築先生でも大事だ。

 なにせ杵築先生は所謂イケメンと言われる種族で、明朗快活、文武両道、スタイル抜群と神から愛された男であった。年齢は確か今年で三〇を迎えるはずだ。

 

 自分のイケメンを否定することもないが、驕っているわけでもない。あくまで自然に、程よく熱血に、柔軟性も持ち合わせていて、男女問わず人気者の先生なのだ。

 あの根暗な山田先生から見れば眩しい存在かもしれない。

 

 それが恋心だと断定する判断材料には大人の世界ならならないだろうが、いかんせん高校生は多感な年頃である。

 恋バナ至上主義な女子たちが騒ぎまくった効果(?)もあり、噂は一組にまで瞬く間に広がった。その時はまだ恋の相手は杵築先生とは判明していなかったが、一度そういう目で見てしまうと本当にそう見えるから不思議なのだ。

 

 その後、事態は僕たちを大きく震撼させた。生徒の観察により、相手が杵築先生であるのがほぼ確定してしまったのだ。

 杵築先生が廊下を通る時、生徒と話をしている時、運動場で体育の授業をしている時、食堂でご飯を食べている時……どう考えても山田先生の視線は一直線に杵築先生へと飛んでいる。

 

「山田……ホモか」男子は呆然とし、「BL展開はイケメン同士にしてよぉ」女子は見た目が問題だと言った。

「まだ遥くんと杵築先生のカプの方が推せる」

 クラスの女子が無責任に言った後、「あ、先生が『攻め』だよ」と付け加えた。

「やめてよ。僕はそんな目で先生を見たことない」

「そうだ、そうだ。遥は俺のもんなんだからな! なぁ、遥」

「間宮、調子に乗るな」

 肩を組んできた間宮の手を払う。

 

「でもさ、あれだけ見られてたら流石に杵築先生は気付いてるよね?」

 佐伯美鈴さえきみすずが人差し指を顎に当て、上を向いた。

「堂々と見過ぎだもん。ウチらでもそんな徐には見ないよ」

 現役恋愛学生の意見には説得力がある。好きな人を見たい気持ちはあっても、極自然に振る舞うのが流儀とも言える。

「でも聞けないよな。例え、山田先生から見られてるの知ってますか? って聞いたところで答えようがなくない?」

「所詮、ウチらには見守るしかできないよね。まぁ、山田が杵築先生に告白するとも考え難いし」

「ストーカーになったりして」矢上が冗談めいて口にする。

「縁起でもないこと言うな」と女子陣から一蹴された。本当にそうなりそうで安易に受け流せない。


 そして矢上の冗談が現実になっていっていると思わせる現象が現れ始めたのは、五月の連休が明けてからの事だった。


 大型連休中に仲の良い間宮と塾の申し込みには行ったものの、まだ受験生気分になりきれていない僕たちは、バイトか遊ぶかして過ごしていた。

 朝遅くに起きて夜遅くまでカラオケにいたり、ファミレスでまったりしたり、意味もなく帰りたがらなかった。

 山田先生のこともすっかり忘れていた。


 だから連休明けに彼の姿を見た時、はっと我に返ったような気持ちになった。

 そういえば山田先生と杵築先生の恋奇譚はどうなったのだと。

 進展はあったのだろうか、いや、あってはいけないし山田先生がアクションを起こすとは思えない。しかし杵築先生からならあり得なくもない。

『あんまり見ないでください』と一言伝えれば事態は終息するようにも考えられる。

 生徒はまた二人の言動に意識を注がれる運びとなった。


 驚いたのは山田先生が髪を切ってきたことだ。

 新学期にするべき身だしなみだろうと突っ込みたいところではあるが、前髪を眉上まで切った先生は眼鏡は外してなくともその顔立ちはハッキリと見ることができる。

———思ってたより若い。

 年齢を気にしていなかったが、野暮ったい風貌から四〇前後と勝手に決めつけていた。

 しかし意外と肌も綺麗で童顔であることから、実年齢は杵築先生より若くても納得がいく。


「ねぇ、髪を切ったってことは失恋したのかな?」

 休み時間に佐伯が訊いてくる。

「それにしては前より明るくなった気がするけど」

 僕の意見に周りが頷く。

 笑いはしないものの、猫背も治ってないものの、それでも山田先生からは四月に比べて幾分か穏やかさも感じる。もっとも、最初の印象が悪すぎただけなのかもしれないが。

 あの童顔な顔立ちで警戒心が薄れたのかもしれないと僕は思った。


「でも本当に心機一転とかだったら、杵築先生も視線を感じず平和に暮らせるよな。俺らは暇になっちまうけど」

「人の不幸で遊んでどうする。杵築先生が気付いてないとは思えない。それこそ、両思いじゃない限りはホッとするんじゃない?」

 間宮に一喝入れ、直近の楽しみなら遠足があるじゃないかと嗜めておいた。


 しかしそうはならなかった。『山田先生が杵築先生に視線を送ることはなくならなかった』という事である。連休前と変わらず、むしろさらに堂々と、山田先生は杵築先生を見るようになっていた。

 髪を切ったせいでその表情も隠せていない。それを狙っているのか。これまで陰で騒いで面白がっていた僕たちだったが、段々と笑えなくなっていく。

 五月末には、杵築先生の様子にも違和感を覚え始めた。

「一組の子に、先生って体調でも悪いの? って聞いたんだけど、連休明けから様子がおかしかったんだって」

 佐伯が昼休みに僕たちの座っている机に椅子を寄せ、腰を下ろす。

 間宮、矢上、僕の三人は一斉に佐伯に顔を向け、「どんな風に?」と殆どユニゾンで訊ねた。

 佐伯は「コントか」と律儀に一言ツッコミを入れ、「何かに怯えてるように突然振り返る時があったり、やたら汗を拭いたり……今日は早退したって」一組の女子からの情報をそのまま横流しにする。

「怪しすぎじゃん。幽霊が見えるなら今更怯えないだろうし、視線を感じて振り返るなら犯人は山田しかいない。連休中、本当にストーカー行為が始まったのか?」

 間宮が箸を弁当箱の蓋の上に置き、ペットボトルの蓋を開ける。三口程お茶を飲んだあと、「遥も気をつけろよ」と促す。

「僕が何を気をつけるんだ?」

「だってこれから遠足のことで山田とやり取りしたり、あるだろ。ってか、ノートの回収も日直に頼むべきなのに、やたら遥のこと頼るじゃん。俺、実は山田って遥のことも狙ってんじゃね? って疑ってるんだよな」

「まさか……」

 間宮の言葉にたじろいた。

 僕もみんなと一緒になって山田先生の視線をよく追ってしまう。けれども一度だってハッキリとこちらを見たことはない。

 ノートを届けても特に話しかけられるでもなく、「あぁ」と受け取って終わりだ。僕を頼るのは、人見知りで誰彼構わず話しかけるのが苦手なんじゃないかと勝手に推測している。

 間宮が何を持って山田先生が僕を狙っていると思ったのか、理解ができなかった。本人も「なんとなく」と言うだけだったので、この話は流れていった。


 深刻になっていくのは杵築先生の体調だった。

 あんなに明るくてノリの良い先生だったのに、みるみる痩せていき、顔色も悪くなっていった。

「実は病気だったりしてな。だって異常だよ、あの痩せ方」

「顔色も悪いしね。胃の辺りをよく押さえてるよね」

 六月に入る頃には、生徒の間でなされる会話の殆どが杵築先生についてだった。

 この日も僕たちはお弁当を食べながら仮説を立てていた。

 

 佐伯は僕たちとよく絡むようになっていた。元々どこのグループにも属さず、誰とでも、男女もクラスも関係なく飛び回っては交流している社交的な性格だ。そんな佐伯はいつも新情報を届けにきてくれる。

「病院に行った方がいいんじゃないかって、一組の子が先生に直接言ったんだって」

「まだ受診してなかったことにびっくりだけど」

「市販薬で誤魔化してたみたい」

「何処が悪いの?」

「そこまでは分からない」

「まぁ、病院にも行ってないんじゃ病名も迂闊に断定もできないよね」

 そこまで佐伯とやり取りして、僕は黙り込み杵築先生の姿を脳内に映し出す。

 杵築先生の痩せっぷりはそれ程酷かった。きっと、ここにいる四人ともが癌を疑っているだろう。


 その後も杵築先生が病院に行った様子が見られないまま遠足の日を迎える。この間に間宮が心配するような僕に対する危険は何も起こらなかった。前から妙に勘の鋭い間宮であるが、百発百中というわけではない。少し山田先生を警戒していたことに罪悪感を感じ、心の中で謝っておいた。

 

 杵築先生は遠足の付き添いを辞退し、フリーの先生が一組の担当になった。

 女子たちは遠足で先生とのツーショット写真を撮ろうと意気込んでいたため、相当なショックを受けていた。それでも日頃から辛そうな姿を目の当たりにしているため、「ゆっくり休んでね、先生。お土産買ってくるから」と口々に伝えた。

 ちょうど有名な神社へ寄るプランだったので、誰も彼もが杵築先生にお守りを買っていた。中には絵馬を書く生徒も見かけた。

 

 この時、僕と間宮は奇妙な場面に遭遇してしまう。

 先に気付いたのは間宮だった。

「おい、遥。あれ……」

 指差した先にいたのは山田先生。どうやら絵馬の一つ一つを見ているようだった。

「先生も絵馬書きたいのかな」

「んなわけあるか。もしかして、さっき女子たちが杵築先生のこと書いたやつじゃね?」

 群がっていた女子たちが離れたのと入れ違いだったからそうだろう。一見すると、生徒の書いた内容を見る教師……なのだが、僕と間宮は山田先生を見てゾッとした。絵馬を見る山田先生の表情は、杵築先生を見るそれだった。


 杵築先生は今回来なくて正解だったように思えた。もし来ていれば、ずっとこの視線を感じて過ごす羽目になっていたのは間違いない。日帰りとはいえ、耐えられない苦痛だろう。

 学校という逃げられない場所でさえ、執拗に見られてるだけでも相当なストレスなはずだ。それが原因で胃痛に悩まされているとしか考えられなかった。

 果たして山田先生の、杵築先生への想いが本当に恋愛感情なのか、真相は本人しか知り得ないことだが、杵築先生の名前を見ただけであの顔だ。相当な執着があるのには変わりない。


 山田先生は僕たちの視線には気付かないようで、辺りをキョロキョロと見渡し絵馬のいくつかをスマホカメラで撮影した。

「あれはダメだ」注意しに行こうとしたが間宮に止められた。

「気味悪いやつだから、関わるな」

 何の為に撮影したのか、何に使うつもりなのか、詰問するつもりはない。けれど教育者として浅はかな行為だとは言いたかった。しかし間宮に心配をかけてはいけないと思い踏みとどまった。


 来月には夏休みが始まる。

 それまで、もしも山田先生が怪しい行動をするようであれば、立場関係なく責める覚悟をこっそりと決めた。


 山田先生は見違えるほど人柄が変わっていく。

 何故だろうか、杵築先生が病魔に蝕まれるほど山田先生が元気になっていくように感じてしまう。

「課題の提出期限は明日です。十河君、明日の放課後届けてくれますか?」

「はい」

 穏やかに、ハキハキと喋る先生はまるで別人に生まれ変わったようだ。そして間宮の言う通り、僕に頼み事をする回数が前よりも増えたように感じ始めていた。とはいえ『気にしすぎだ』と言われればそうかも知れないと思う程度なので、考えすぎないようにして過ごしている。


 翌日、職員室にいるはずの山田先生を訪ねたが不在だった。

 近くの先生に声をかけると進路指導室へ行ったと教えられ、とりあえずノートを置き、一言声を掛けておこうと進路指導室へと向かう。

 北校舎の二階にあるこの教室は運動場からも離れていて、文化部の活動もないため、とても静かだった。

 教室の中から声がしたのでまだ先生がここにいるのだと確信し、ドアをノックしようと肘を曲げる。

 しかし中から聞こえてきた声が生徒ではないと気付き手を止めた。

「杵築先生?」

 ドア越しに耳を澄ます。

 山田先生と杵築先生が関わっている場面は見たことがない。杵築先生はなんとなく山田先生を避けているようだったし、中から聞こえる杵築先生の声は怒鳴りは出来ないがしっかりと怒りを示しているように感じた。

「何て言ってるんだろ。ちゃんと聞こえない」

 もしかすると本当にストーカーを働いていて、それを咎めているのかと思った。

 杵築先生から山田先生に何かを言い聞かせているような気配がある。それに対する山田先生の態度までは伝わってこなかった。

「でも杵築先生は直接苦情を言ったなら、もう大丈夫かもしれないな。これ以上悪化するようならそれこそ山田先生が訴えられるし」

 僕はノックをするのを止め、進路指導室から引き返した。職員室に戻ると山田先生の机に置かれていたペンとメモ用紙を拝借し、『不在だったので置いておきます。十河』と置き手紙を残して帰った。


 今日のことを間宮に話すべきか悩んだが、確証のない内容を喋るわけにもいかず、何も聞かなかった事にした。進路指導室までの往復で誰かに会っても見られてもいない。自分が黙っていれば良いだけの話なのだ。


 これがいけなかったのかもしれない。

 間宮に言うべきだったのかもしれない。

 

 特に大きな変化もないまま夏休みに入り、僕は塾とバイトと遊びの日々に追われていた。

 高校最後の夏、誰もが思い出作りに必死だった。

 お祭りに、海に、カラオケにゲーセン。宿題をするにも家にいたくなくて、図書館や誰かの家に集まって取り組んだ。

 とにかく毎日誰かと何かをしていたい。そう思うのは僕だけではなかった。夏休みの間にスマホのカメラフォルダーには大量の写真が記録されていた。

「この矢上の顔、酷いよね」

「どれ見せて? まじでヤバい。白目過ぎ」

「ちょっと、どんなタイミングでシャッター切ってんだよ。遥のテクニックのが問題だろ」

 ファミレスに間宮と矢上の三人で集まり、お祭りの時の写真を見返していた。

 別のクラスの女子に片想いをしている矢上が、祭り会場に向かう途中で偶然その子と会い、勢いに任せて告白して玉砕した。ものの数秒の出来事だったと、後になって振り返っていた。泣き腫らした矢上を元気付けるべく、男三人で盛り上がりすぎて変なテンションになった矢上は、涙と笑いでそれはそれは酷い面だった。

 

「っていうか人の失恋を笑うな!!」

 すっかり立ち直った矢上の顔は笑っている。お祭りでも散々奢らされたが、ファミレスでもパフェを奢ってやった。

「でもさ、祭りの時だけじゃなくて高校の三年間、二人と一緒で良かったって思ってるよ。俺は頭悪いから二人と同じ大学は行けねぇし、二学期入ると一気に受験モード入るだろ? だから夏休みはいっぱい遊んでくれよな」

 生クリームがたっぷり乗った苺を頬張りながら矢上が急に神妙な面持ちになる。

「別に会えなくなるわけじゃないじゃん。そりゃ地元は離れるけどさ。帰ってきた時は絶対連絡する」

 間宮が慰めるように言う。僕も間宮の隣で大きく頷いた。

「それに、まだ三年生になって半分も終わってない。思い出はこれからもいっぱい作れる」

 僕の言葉に矢上は「そうだな」と言って最後の苺を口に入れた。

 

 僕たちは同じ過ちを繰り返す。あれだけ気になっていた先生たちのことを、無情なほど忘れ去っていた。所詮は他人事だと罵られても仕方の無いくらいに。

 夏休みの間に一生分くらい笑い、友情を深めるのに全勢力を注いでいた。


 だから二学期が始まり、全校集会で校長先生から放たれた一言に驚愕し、顔色を変えた。

「昨日さくじつ、杵築先生が亡くなりました」

 マイクを通った狼狽した声は、二重に体育館に響いていった。

 校長先生は間を置き、自身の呼吸を整えてから「自殺のようです」と続けた。

 それ以上の情報は警察からの情報が入り次第、伝えられる範囲で知らせますと、なんとか話したが、声が震えていてよくは聞き取れなかった。

 生徒たちも啜り泣き、遂には立っていられない生徒まで出てきてしまった。

「先生……なんで……」

 隣に並んでいる一組の生徒は、自分たちが支えになれなかったことを嘆いていた。

 結局、杵築先生は病気だったのか、何の病気だったのか、そもそも病院を受診したのか、真相は分かっていない。

 受診した時には末期の癌で助かりませんと言われたのか……。それで気が滅入って……。

 そこまで考えて僕は頭を横に振る。先生はそんな弱い人間じゃないと考え直す。でも自殺するほど追い詰められていたのは事実なのだ。


「あっ」とその瞬間思い出した。

 あの日の放課後のことを。杵築先生と山田先生が話しているであろう、進路指導室でのやりとり。

 杵築先生は実は病気ではなく、山田先生が原因で……?

 【山田裕貴恋奇譚】は事実だったのか。

 もっと聞き耳を立てて、せめて内容が把握できるくらい盗み聴きすれば良かったと後悔した。

 こっそりと山田先生を見ると、無表情であった。感情を持たない人形のようで、僕は肩を戦慄かせた。すると山田先生がふとこちらに視線を移し、バッチリと目が合ってしまう。

 (やばい)

 咄嗟に顔を伏せる。反応として間違っていたかもしれない。徐に避けてしまった。

 拳を作っている両手が痙攣する。

 (大丈夫だ。僕があの時、進路指導室に行ったのは先生も知らない。万が一知っていても、僕は何も聞いていない)

 自分に言い聞かせ、平常心を取り戻そうとしても中々震えは治らなかった。自分も周りと同じように杵築先生の死に悲しんでいるように見えたらしく、間宮から肩を抱かれる。

 悟られないよう、間宮に顔を埋めて泣くふりをした。

 この時、一つ決意した。山田先生にあの日の真相を聞き出すと。本当は何を話していたのか、教えてくれないかもしれないが、何も行動に出ない選択はなかった。


 後日、杵築先生の葬儀には多くの生徒が集まった。卒業生の姿も多く見られた。それほどに愛された教師だったと証明したようなものだった。

「いい先生だったよな」

 矢上が祭壇を見詰めて呟く。遺影の杵築先生は、僕たちの記憶通りの活き活きとした表情で微笑んでいた。

 亡き先生を弔う中、僕だけは違った。

 (先生、絶対に真相を暴くからね)

 遺影に向かって強く決意を固める。


 学校は毎日静まっていた。杵築先生を思い出しては涙を流す。そんな生徒も沢山いる。

 慕われていただけに、無念に打ちひしがれていた。

 目を真っ赤に腫らした佐伯には話し掛けられないでいる。きっと杵築先生の役に立ちたかったに違いない。遠足で一番に絵馬を書いたのも佐伯だった。

 身近な人が亡くなるという経験すら初めての人が多く、余計にショックは大きいのだろう。


 僕は虎視眈々と山田先生と二人きりになれる瞬間を狙っていた。

 杵築先生の無念を晴らせるのは自分しかいないとさえ思っていた。

 そして九月後半に差し掛かる頃、チャンスが訪れたる。進路希望について一対一で話す機会が設けられたのだ。進路について特に相談したいことはない。しかしこの好機に山田先生の本性を暴いてみせると意気込み、進路相談を申し出た。

 

 決行は、九月四週目に入った火曜日の放課後だった。

 クラスメイトには「相談が長くなりそうだから、みんなは他の日を希望して欲しい」と頼み、自分だけにしてもらう。

 これで他の誰かが進路指導室を訪ねてくる心配はない。間宮と矢上に「また明日」と挨拶を交わし、山田先生の元へと赴く。なんとしてでも喰らい付こうと決意を固め、ゆっくり深呼吸をした。

 

 ドアをノックすると「どうぞ」山田先生の声が中から聞こえてきた。落ち着いた、穏やかな口調であった。

「失礼します」

 山田先生は僕の姿を確認すると、柔らかく口角を上げ座るよう促す。

「君は特に悩みなんてないんじゃないですか?」

 成績表を見ながら切り出す。緊張しているのは僕だけだった。

「あ、あの」

 思わず声が上擦る。山田先生が落としていた視線を上げ、眼鏡越しに僕を見た。

 表情が強張っているのは自覚している。

 それを見て、山田先生も様子がおかしいと悟ったようだ。

「……どうかしましたか? 体調が悪いなら別の日にでも……」

「違います! 今日は、先生に、訊きたいことが、あって」

 肩で息をしながら切り出した。もう、後には引けない。冷や汗が全身から吹き出した。

 ズボンのポケットからハンカチを取り出し額の汗を拭う。

「そんなに私は緊張する相手ですか?」

 山田先生からすれば、僕が生徒の中で唯一親しいはずだ。世間話をしたことはないが、先生の手伝いをするのは僕しかいなかった。なので今さら緊張されていること自体が不自然と捉えているだろう。


 喉が異常に乾いていた。一言でも喋ろうとすると咽せそうになる。

 先生は「お茶でも飲む?」気を遣ってくれたが丁重に断った。

「それで、私に訊きたいというのは進路のことではないのですか?」

「あの……はい……杵築先生のことで」

 何とか口にした。その名前を発しただけで、山田先生の顔つきは一変した。

 穏やかな雰囲気は消え、全校集会で見たような無表情になり、ぞくりと背中が粟立つ。

 山田先生はじっとこちらを見据え、どう切り出すかを待っている様子だった。


「実は、夏休み前に山田先生と杵築先生がこの教室で口論しているのを見てしまいまして」

 実際には話しているのが聞こえてきただけだが、敢えて見たと言った。はぐらかされると、もう切り札はない。実行するにはあまりに無謀だと今になって気付く。しかし山田先生は「あぁ」と言ってあっさりと認めたのだ。

 勢いに乗り、身を乗り出す。

「生徒の間では、山田先生が杵築先生のストーカーをしていると噂になっていました。あの日、杵築先生は迷惑行為をやめて欲しいと訴えたのではないですか? なのに先生は自ら命を絶った。それって、山田先生のせいじゃないんですか?」

 一息に喋り、息が上がる。

 山田先生は僕の呼吸がある程度整うのを待ってから、至って穏やかさを崩さず話し始めた。

「……そうですね。そう捉えてもらって構いません。でも、ストーカーをしていたのは彼の方です」

「……どういう意味ですか」

「だから、ストーカーをしていたのは杵築純平だと言っているんです」

 頭が真っ白になった。

 杵築先生がストーカー?


 何を言っているんだと思った。この後に及んで嘘をつくなど、言語道断である。

 しかし眉根に皺を寄せる僕に構わず、山田先生は続けた。

「杵築は、私の姉のストーカーだったんです」

「お……姉さん……」

「えぇ」

 しっかりと視線がぶつかった。レンズ越しの眸に激しい憤りを感じる。

 山田先生は穏やかな口振りだけは保ったまま、過去の出来事を話した。

「私には五歳上の姉がいました。大学生の頃に家庭教師のアルバイトをしていて、その教え子の一人が、当時高校生だった杵築です。最初は頻繁に電話がかかってきていました。勉強で分からないことがあると言いながら、本当に少しくらいは聞いていたみたいでしたが。その内、直接会って教えて欲しいと言うようになり、流石に姉も断っていたんです。それでも杵築からの電話は目に見えて回数が増えていきました」

 予想だにしない言葉に、信じる気持ちは湧かなかった。

 混乱する脳内で、まだ杵築先生を擁護したい、守りたいという思いが勝っていた。けれどもその反面、山田先生が嘘を言っているとも思えなかった。話を聞けば聞くほどリアルだった。


 電話攻撃が加速していく中、今度は大学まで会いに来るようになったそうだ。それを咎めても冗談に捉えられ、やめてくれなかった。後を尾けられるようになり、一人暮らしだったマンションを特定され、嫌がらせ行為はさらに酷くなっていった。姉が帰宅したのを確認してからチャイムを鳴らし続けたり、ポストやゴミが荒らされていたり、待ち伏せや隠し撮りも珍しくなくあったと言う。


「警察にも相談しましたが『事件性がない』と言って取り合ってもらえませんでした。姉は電話番号も変え、マンションを引き払い実家に戻りました。でも大学を辞めるわけにはいかず、結局杵築から完全に逃げることは出来なかった。最終的には自主退学しましたけどね。それからは家に引きこもっていました。でも嫌がらせはその後も続いた……」

 杵築は接触を拒否された腹いせに、盗撮した姉の写真をいやらしく合成加工し、SNSに投稿し始めた。姉の大学の友人が気付いて通報してくれたお蔭でアカウントはロックされたそうだが、姉のメンタルは完全に崩壊し最悪の選択をしてしまった……。

 

「———二年です」

 山田先生は強調するように二本指を立て、僕に提示した。

「杵築からストーカーされていた期間は、二年に及びました。なのに、あいつは半年も経たずに……」

 親指の爪を噛み締め、杵築先生の死に不満を漏らす。姉が苦しんだ二年分、杵築先生にも同等の苦しみを与える予定だったと言った。


 もう外は薄暗くなっていた。下校時間が迫っているが、それでも山田先生の話は終わらない。

「私はあいつに復讐するために教師を目指しました。当時から教育大学を目指しているのを知っていましたから。本当に教師になっていたのには驚きましたよ。あんなクズが教育者なんて、世の中終わっていると思いませんか? まぁ、外面がいいのは十河君も知っている通りですけどね。誰も本性が見抜けないのも無理はない。あいつと私は面識はなかったし、山田なんて苗字はありふれているから、何も気付いてなかったですよ。だから五月の連休前に身内であることを私から打ち明けました」

 連休明けから様子がおかしくなっていたと言っていた佐伯の話を思い出す。やはり、嘘ではないのだ。

「私は毎日毎日、当時のストーカー被害の証拠を杵築に送り続けました。『償え』と書いたメモと一緒に。あいつの視線に怯え続けた姉の気持ちを分からせるために、僕も奴を見続けました。姉を見ていた杵築をなるべく再現してね。何度かやり取りはあったんですよ。償えとはどう言う意味だと聞かれたので、姉と同じ道を選べと言いました。それでも本気とは捉えなかったようです。まぁ、姉が嫌がっていても面白がっていただけでしたから。そういう性格とは知っていました。私からの欲求も冗談としか受け取っておらず、死ぬ気はないと豪語してました、最初は」


 山田先生は、最初は杵築先生にしか見えないよう配慮してあげていたが、全く反省の色が見えなかった。戒めのため、徐々に人目につくような場所に証拠の品を置くようになっていった。職員室の机に姉の写真を置いたり、SNSに投稿した記事をプリントして車のワイパーに挟んだり……。姉のスマホの着信履歴のスクショ、送り付けられた卑猥なプレゼント、無理やり撮らされたツーショットの写真、杵築を追い詰める証拠品は、後を尽きないほど残していた。職員室のデスクの引き出しを開け、そんな写真が証拠物が出てくれば誰でも焦るに決まっている。例え処分したところで、いくらでも証拠品は用意できるのだ。職員同士で連絡先も交換していたため、プリペイド式のスマホから毎日電話を鳴らし続けた。そしてあの・・視線攻撃である。恍惚とした表情は見惚れているからではなかった。姉を見る杵築先生を再現したものだった。

 そしてそれは『償え』と訴える眸でもある。

 見られ続けほどに、常に見られているという感覚を覚え、杵築先生は突然後ろを振り返るような行動を取っていたのだ。


「遠足の時、絵馬の写真を撮っていましたね。あれは何故ですか」

 掠れた声で訊ねる。

「あぁ、頑張ってまだ抵抗していたので励まそうと思いましてね。『杵築先生が死にませんように』そんな願い事を書いている絵馬を見つけたので、写真を送っておいたんです。『自分は死ぬつもりはない。お前の脅しには乗らない』自信満々に言っていたので、まだ死なないで下さいねと言う気持ちを込めて送りました」

   

 僕は言葉を失い、ただ呆然と聞いているだけだった。胃がキリキリと痛んでいる。杵築先生の裏の顔を知りたくなかった。病気を診断され落ち込んで……なんて考えは甘すぎた。杵築先生は病院を受診しなかったのではなく、できなかったのだ。体は病魔に侵されているわけではない。学校側に話せば自分の過去が暴かれる恐れがある。教師として順調だったからこそ、何としてでも今の立場を捨てたくなかったはずだ。

 三年生の担任で休職するわけにもいかず、誰かに相談もできず、自分の過去を誰か……生徒の一人にでも知られれば一巻の終わり……その危険が増すほどに精神は疲労困憊していった。

 

「杵築がだんだん自分の行動を認め始めた時、なんて言ったと思いますか? 『姉に振り向いて欲しかった。相手にされたくて、アピールがエスカレートしたかもしれない。でもストーカーなんて意識はなかった。ただ純粋に姉のことが好きだった』と。そう言いました。自ら命を絶ったと知った時も自分のせいではないと思ったそうです。信じられますか? あれだけ姉を追い詰めた犯人は、犯罪の意識すら持っていなかったんです。そして姉がどんなに苦しんできたかも知らずに、今までのうのうと生きてきたんです。許せるはずないだろう」

 顔を歪め、嗚咽を漏らしながら怒号したが、山田先生は泣かなかった。

 

 最終的に山田先生が杵築先生のいやらしい合成写真を作り、実名入りでSNSに投稿し、スクショを送りつけたことが決定だとなり自宅で首を吊った……。

 

「SNSに流したなんて嘘だったんですけどね。投稿画面を作ってそう見せかけただけです。冷静に見れば見抜けるお遊びのような写真でしたが、自分が過去にしたことなので、簡単に信用したようです」

「それで……山田先生は満足したのでしょうか?」

 復讐が終わったなら、学校を辞職してくださいと言おうとしていた。けれども山田先生は緩く頭を振る。

「まさか、これで私の復讐が終わっただなんて思わないで下さい」

 眼鏡の奥で、しっかりと僕を見据えた双眸が閃った。


 山田先生の過去には強く衝撃を受けた。姉がストーカー被害にあった上、自ら命を絶ったのが大学四年生の卒業間近だったそうだ。どんな暗闇を生きてきたのだろうと考えてしまう。

 姉を亡くしたのは先生が丁度、今の僕と同じくらいの年齢になる。山田先生はここからの人生をずっと復讐のためだけに費やしたのだ。自分に置き換えて想像してみると、どれほど壮絶かが窺える。

 しかし、もうその杵築先生はこの世にはいない。償いの意思があったかは本人にしか知り得ないことだが、それでも姉と同じ道を選んだ。もう充分ではないのか。

 それとも、例えば杵築先生に手助けしていた人がいたのだろうか。山田先生の頭の中を読み取るのは不可能だ。じっとこちらを睨んでいる眸は、一見、人としての体温を失っているように見える。しかし視線には貫くような鋭さがあり、獰猛な獣に囚われた獲物にでもなった気分だ。


 山田先生はそもそもま教師になんてなるつもりはなかった。だから別にこの職業を手放したところで何の痛手にもならない。そうでなければ、こんな大胆な行動を実行に移すはずはない。

 まだ復讐は終わっていないと言った。この人は、必ずそれをする。


「他にも、お姉さんを死に追いやった人がいるんですか?」

 かなり憔悴していた。立ち上がる気力さえ失うほどに。それでも頭のどこかで止めなければならないという責任感のようなものを感じていたのだ。

 身体の末端にいくほど体温を感じない。冷え切った両手を組んでも、神経が麻痺したように何も感じなかった。

 恐怖で膝が震えている。それでも先生の話を聞かなければならない。


 山田先生の集中が途切れる気配はない。更に怒りを込めた、腹の底から唸るような声を出す。

「……警察が……警察が動いてくれれば、姉は助かったかもしれない。二度、三度、相談に行きましたが、注意するくらいだと言われました。その程度でやめてくれるならとっくに解決していますよ。何のために警察を頼ったと思っているんですか」

 ギシギシと音が聞こえてきそうなほど、強く歯を食いしばっている。

「その警察に復讐するつもりですか?」

 まさかと思いながらも、確認せずにいられなかった。ほぼ無意識で訊いてしまった。山田先生は「えぇ」間を置かずに頷く。

「その警察の名前を教えましょうか」言われてハッとした。

 もしかして……いや、そんな偶然があるわけがない。でも……ここに僕がいると言うことは……先生が僕に話したということは……。

 

 先生の口がゆっくりと開く。

 いやだ……聞きたくない……。

 僕が耳を塞ぐのと、山田先生が名前を口にするのは同時だった。

「十河そごうだ」

 全機能が停止したように、全身が凍りつく。

 

 何故、先生が僕の名前を間違えなかったのか、男だと分かっても無反応だったのか。

 知っていたからだ。

 最初から、十河に息子がいると知っていたから……。

「君が“トガワ”なら諦めていました。出席をとった時、私は賭けていたんですよ。君が返事をした瞬間、勝利を確信しました。しかし君は今年で高校を卒業してしまう。正直、内心焦っていましたけどね。杵築との口論はわざと聞かせたんです。十河君の性格だと、進路指導室にいると聞けば挨拶くらいしに来るだろうと思っていました。そして杵築が死ねば、必ず私の所へ真相を確かめに来ると信じていました。期待通りに動いてくれて感謝すらしています」

 山田先生は口角を最大限に上げ、興奮を抑えきれずに声を出して笑った。


 過呼吸になったように苦しい。息が吸えない。

 父が警察であるのは間違いないし、先生のお姉さんの対応をしている可能性も否めない。

 仕事の話は家でする人ではなかったので、勤務態度は知らない。家では母とは正反対の物静かなタイプだった。


 山田先生は、最初から僕に近付くのが目的だったのだ。父へ復讐するために。

「父は……」

 声を絞り出す。

「父は、二年前に病気で他界しました」

 ヘビースモーカーの基準は知らないが、紙タバコを止められない父は、一日で一箱以上喫煙していた。

 肺がんが見つかった時、既にステージ4だった。手の施しようがなく、瞬く間に病状は悪化。僕が高校進学して直ぐの頃だ。だからもう、何も出来ない。父に当時の話を聞くことも、山田先生が父に復讐することも。偶々偶然、あの時の警察の身内と出会えたが、どちらにせよその対象となる人物はこの世にはいないので、諦めてもらう他ない。しかし、そう思っていたのは甘かった。


「じゃあ、君が代わりに償え」

「っ!?」

 あまりにも滑らかに言うものだから、理解するまでにタイムラグが生じた。

 僕が、父の代わりに償う? 何を? 姉を殺した罪を? 何もしていないのに?

 惑乱する中、「何故……」と思ったのはどうやら口に出していたようだ。


「君は人殺しの息子なんです。君のお父さんは、一人の命を見捨てた非道な人間です。親が人殺しだったなんて友達が知ったらどうなるでしょうね。……間宮君、でしたか。あとは……佐伯さんに、矢上君辺りと仲が良さそうですね。でも学級委員長まで務め、生徒からも信頼されている十河遥が人殺しの息子だったなんてバレても、友達でいてくれるでしょうか。その上、あろうことか君が目指している大学も教育学部だなんて。鼻で笑ってしまいます。日本の未来が心配ですね。人殺しが、どんな教育をするのでしょう」

 淡々とした口調で責められ続けると、頭が狂いそうになる。

「違う……ちが……」

「何も違わない。君のお父さんが対応してくれていれば、姉は助かったかもしれないんです。市民を守る気もない人が警察だなんて、呆れてしまいますよ」


 下校時間を知らせるチャイムが鳴った。

 山田先生はスピーカーを見てから視線を戻し、「帰りましょう」と進路指導室の鍵を手に取る。

 ふらつく足で何とか立ち上がり、酷い眩暈に耐えながら廊下へ出た。

「十河君も杵築みたいに抗いますか? どうぞ、抗ってください。納得がいかないまま死なれても困ります。しっかりと罪を償い、姉と同じ道を選んでくださいね」


 翌日から、山田先生の視線を浴びるのは僕となった。


 帰宅し、ベッドに倒れると立ち上がれなくなってしまった。

 どうやって帰ってきたかも思い出せない。濁流に飲み込まれるように、体が沈んでいく感覚を覚える。

 先生を諌める様な真似をしたのが間違っていたのか。いや、そうではない気がする。山田先生は僕の性格を分析し、自分の許へ、自ら赴くよう計算し尽くしていた。杵築先生との口論の時だって今日だって、先生は僕が取るべき行動へと意図的に導いていたのだ。

 きっとあの時……最初に名前を呼んだ瞬間から、復讐は始まっていた。

「う……、ぉえ……」

 胃の底から込み上げる嗚咽に体を捩る。口許を手で押さえ、トイレへと駆け込んだ。

 山田先生の顔を思い出すだけで震えが止まらない。あの双眸がこちらを睨みつけている。真正面から、背後から、真上から……四方をあの眸に囲まれている恐怖に襲われる。吐いても吐いてもスッキリできない。地獄へと引きずり込まれているようだ。

 僅かにも山田先生を良い人だと思った自分が情けない。初めて名前を正しく呼ばれただけで喜ぶなど、いささか幼稚だと、今なら思えるのに……。


 これからどんな目に遭うのか、杵築先生を思い出せば容易く想像できる。山田先生は脅しではなく、本当に僕に償わせるつもりだ。

 決して逃れられない。学校を休むわけにもいかず、受験勉強に専念しなければならないのに先生が頭から離れない。

 

 卒業すれば、大学に受かれば、地元から離れられる。そうすれば流石の山田先生も追って来ないのではないかと考えた。

「絶対、合格する……」

 口許を拭い、壁に凭れかかる。

 僕は何も悪いことはしていないと言い聞かせた。山田先生に恨まれても償う罪などない。

 明日もう一度説得してみようか。全て無意味な行動であること、復讐をしてもお姉さんは報われないということを。

 そこまで考えて長く溜め息を吐いた。そんな体力など残っていない。

 それに僕が下手に出ると、山田先生は本当に間宮や……あるいは、他の生徒に『十河の父親は人を殺した』と暴露しかねない。


 杵築先生もこうだったのだろう。きっと父に関する何か……僕を脅迫するに充分な証拠を準備していてもおかしくない。

 山田先生を説得したいが、それをする手段を先に奪われてしまった。誰にも話せない状況で、逃げることもできずに耐え続けるのは、どんなに苦しいだろうか。

 胃がキリキリと痛む。横になりたい。自室まで這って移動し、なんとか布団に潜り込む。

 脳も体も疲れ切っている。

 暗闇に吸い込まれるように眠りについた。


 目が覚めると朝になっていた。魘されるかと思ったが余程疲れていたのか、眠っている間はただの暗闇にいる感覚だった。

「学校、行かなくちゃ」

 考えるだけで胃が痛い。でも休むわけにはいかない。受験生でなければ休むところだが、内申に響く。

 眩暈を我慢しながらシャワーを浴び、自分の顔を鏡で見ると一晩で随分老けた様に感じた。

「シャキッとしろ、遥。弱味を見せると先生の思う壺だ」

 鏡の中の自分に一喝し、登校する支度を整えた。食欲はなかったのでゼリータイプの栄養ドリンクをコンビニで買って流し込んだ。


「遥、おはよう」

「間宮、おはよう」

 友達の表情がやけに穏やかに見えて安堵した。そうだ、世間は平和なのだ。そう思わせてくれる爽やかな笑顔に、思わず涙ぐんだのをさり気なく指で拭う。

「昨日の進路相談、どうだった? 教室でしばらく待ってたけど、遥、なかなか帰って来なかったから話し込んでるのかと思って先に帰ったんだ」

「そう……だったんだ」

 

 間宮の勘は当たっていたんだ。僕は山田先生から狙われていた。別の意味で……。喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 もしあの場に間宮がいたなら……考えて頭を振る。

 助けて欲しかった……刹那、思ってしまったがダメだと自身を戒めた。

 これは自分の問題なのだ。大切な友達を巻き込んではいけない。間宮まで山田先生のターゲットにはせてしまう恐れも考えられる。同じ苦しみを味わわせてはならない。

 

「相談に乗ってもらった後、手伝いしてて遅くなったんだ。ごめんね、待ってくれてるって知らなくて」

「気にすんな。俺が勝手に待ってただけだし。今日、放課後は図書館で勉強しようぜ」

 約束が嬉しい。日中を逃げ切れば放課後は間宮といられる。そんな些細な、これまでは当たり前でしかなかったことが無性に嬉しかった。


 教室に入り、予鈴が鳴ると、各々の席に着く。

 先生が来る……無意識に制服の上から胃を掴んだ。

 大丈夫、大丈夫、暗示をかけるように頭の中で繰り返す。

 ガラガラと音を立てドアが開くと、山田先生が姿を見せた。

 歩きながらチラリとこちらに視線を向ける。


『つ・ぐ・な・え』

 口パクだったが、確かにそう言った。丁寧に、一音ずつしっかり伝わるように……。全身が粟立ち、ねっとりと脇に汗が滲む。

 昨日断言されたのは冗談なんかじゃない。もしかすると……なんて、僅かな望みが絶たれた瞬間でもあった。

 先生は僕を死に追い詰めるまでやめない。

 クラスメイトの誰一人として気付かない、ほんの数秒で、寿命が一気に縮んだ気がした。


 朝のHRが終わると「間宮くん、後で職員室へ来てくれますか?」僕ではなく間宮に声を掛ける。

「あ、はい……」

 間宮は虚を突かれた顔で返事をし、先生の後からついて行く。

 ――待って、行かないで……。

 心で叫ぶ。

 悔しいがここで割って入る訳にもいかず、間宮の背中を見送るしかできない。

 もしも何か言われていたら……。

 そう思っただけで胃の痛みが増す。

 ――早く、早く帰ってきて。間宮。

 机に頭を伏せ、周りにバレないように胃を押さえる。間宮は授業開始ギリギリになって帰ってきた。

「先生がさ、俺の苦手なところまとめてくれたんだ」

 数枚のプリントをヒラヒラさせながら見せてきた。

「そうだったんだ。良かったね」

 精一杯の作り笑いを浮かべながら、本当は盛大に溜め息を吐きたかった。

 こんなので臆していてはメンタルから折れてしまう。動揺を悟られないようにしなければ……。

「遥? 顔色悪いぞ?」

 間宮から心配され慌てて否定した。

 大丈夫、大丈夫……暗示を掛けるのは、早くも癖のようになっていた。


 山田先生からの視線は常に感じられた。

 ただ杵築先生の時と違うのは、恍惚とした眼差しではないという点だ。

 まるで恋をしているような、第三者から見ると勘違いしてしまうような、うっとりとした眸ではなかった。

 僕に向けられる双眸は、血の通っていない、死んだ魚の様だった。それが何を意味しているのかは、考えれば容易く答えに辿り着く。かつて父が、相談に来た山田家の人に向けた眸を再現しているのだ。

 『厄介な仕事を持ち込むな』と物語っているようである。果たして本当に父はそんな態度だったのか。真実を知らないだけに反論したくなる。それができないもどかしさが、更に神経を逆撫でる。

 目が合う度、山田先生の顔からすっと表情が消える。ゾッとして目を伏せるが、モヤモヤと恐怖に苛まれ手が震えてしまう。

 そんな日々は二学期中続けられた。高校最後の文化祭も体育祭も全く楽しめなかった。

 意識的に山田先生を探してしまう。

 陰から睨まれているような気がして、事あるごとに振り返ってしまう。

 「遥、どうかした?」

 一緒にいる間宮と矢上が気を遣ってくれるが「なんでもない」としか言えないのが辛かった。

 二人とも杵築先生の自殺の真相なんて知らないし、今現在、僕が同じ目に遭っているのも知る由もない。

 

 僕が心労で弱っていく中、山田先生はここにきて生徒からの信頼を得るようになっていた。理由は受験対策に力を入れているところにある。進路相談での生徒とのやりとりをしっかりとメモし、対応に当たっているのだ。

 「山田って、本当はいい奴だったんだな。一学期はストーカーとか疑って、俺すごい反省してる」

 「矢上もそう思う? 俺も、最初はこんな根暗そうな先生が受験生の担任って不安だなって思ってたけど、今になって本領発揮し始めたって感じがしてる。遥もそう思うよな?」

 矢上と間宮に言われ、心臓が大きく伸縮する。

 「そう……だね……」

 本当は名前も聞きたくない。顔も見たくない。一番距離を置きたい人物である。しかし受験に対して自信のなかった矢上までもがやる気に漲っているのを、阻害する権利はない。

 当たり障りのない返事で誤魔化すが、本当は違うと何度も叫びたくなる。胃痛は日に日に増す一方だった。

 

 逆に山田先生はよく笑うようになっていった。生徒にも分け隔てなく話しかけるようになり、最初は戸惑っていたクラスメイトも徐々に心を開き始めた。

 結果、二学期の中間テストでは全員がこれまでにないほどの成績を収め、山田先生の好感度は上がる一方であった。生徒の成績は保護者への信頼にも繋がる。

 それはカモフラージュであると僕だけが知っている。僕しか知らないから、僕が死んでも誰も山田先生を疑わない。彼の狙いはそこなのだ。

 僕が父の代わりに償う代償として命を差し出したとしても、山田先生が疑われることはない。そういう空気を作り上げている。全て計算されたことなのだ。しかしそれを言ったところでどうなる?

 『遥、勉強で疲れてるんじゃないのか?』と心配されるか、『一生懸命、受験と向き合ってくれる先生のことを卑下するなんて、遥らしくない』と注意されるか……。生徒からの絶対的信頼を手に入れた現状、山田先生が悪人だとは誰一人として思わないだろう。


 どんどん先生の罠に嵌められていっている。外堀を埋められ、自分の立場が悪くなっていると肌で感じる。笑顔の山田先生を見るのは怖かったが、その笑顔が僕を見るときだけ死人のように色をなくすのはもっと怖かった。

 『つ、ぐ、な、え』口パクは一日のうちに何度も繰り返される。呪いのようだ。

 放課後、校門を出るまでずっと視線を感じて過ごす。時間をかけて、少しずつ精神的に苦痛を与え続ける。直ぐに死なないように、姉と同じだけの苦しみを味わってから同じ道を選ぶ……。それが目的であるため『見られる』という気味の悪い恐怖心は、地味に蓄積されていく。


 追い込みは冬休みに入ってからだった。

 突然、知らない番号からの電話が鳴る。「誰だろう」ふと考えて山田先生の顔が思い浮かぶ。

 発信元は彼しかありえない。杵築先生にプリペイド式のスマホから電話をかけていたと話していたのを思い出す。あの時も、これから僕にする復讐を聞かせるために全てを暴露したのだ。父が蔑ろにした仕事の裏で、姉はこんな目に遭っていたのだと思い知らせるために……。

 着信は鳴り続ける。一度切れても、その数分後には再び着信を知らせるバイブレーションが響く。

 「やめて……やめて……」

 耳を塞いでも光った画面に山田先生の双眸が浮かんでいるような錯覚を覚え、吐き気を催す。

 その証拠に、電話攻撃は毎日続いた。


 合間で間宮と矢上が誘ってくれたが、会えるはずもなかった。スマホの電源は落とせない。着信は鳴り続ける。何事かと思われるだろう。これが深夜近くまで続くのだから。

 『体調を崩しているから会えない』とメッセージを送り、回復したら僕から連絡すると念押しで伝えた。『見舞いに行ってもいいか』と訊いてきた間宮に『受験前に風邪が移るといけないから』と丁重に断った。本当は会いたい。夏休みには、笑い合っていた。あの頃に戻りたかった。

 「間宮……助けて……」

 伝えられない想いは儚く消えていく。

 スマホの充電が切れてからは、そのまま放置した。やっと解放された気がした。もしも家まで来たら……と怯えていたのも数日、年末年始は穏やかに過ごすことができ、友達とは会えずとも受験勉強は捗った。

 「そうだ、僕は大学入試に合格して山田先生から逃げ切るんだ」

 決意を思い出し、気合を入れ直したが、それも束の間。冬休みは呆気なく終わってしまう。

 

 新学期に登校すると、病的に痩せた僕をみんなが心配した。

 「遥、受験はそんなに心配いらないんだから、根を詰めすぎるな」

 「うん、でも何となく落ち着かなくて」

 「電話も急に繋がらなくなって、家にも来るなって言われてるし。本当に大丈夫なのか?」

 「大丈夫。本当に、大丈夫だから」

 自分に言い聞かせるために繰り返す。笑顔を取り繕っているつもりなのに、クラスメイトから向けられる表情はみな、困惑している。


 昨夜、学校も始まるからと、いよいよスマホの電源を入れるために充電をした。

 覚悟はしていたものの、画面に表示された通知が目に飛び込んできたと同時に、胃からせり上がってくる胃液を力一杯耐えた。そこには大量のメッセージが届いていて、開封すると画面一面が『償え』の文字で埋め尽くされていた。

「ひぃぃぃ!!!」悲鳴を上げてスマホを投げ飛ばす。頭を両手で抱え、布団に潜り込んだが、恐怖で眠れなかった。暗闇の中は山田先生の視線を浴びているような感覚が蘇る。

『償え』声が乱反射する。

 魘されては起き、魘されては起き、気が狂いそうだった。

 汗がべっとりと全身に張り付き、得体の知れない何かに取り憑かれているかのように身体が重い。深い呼吸をしようにも、吐くばかりで上手く吸えない。シャワーを浴びたくても、とてもじゃないが動けなかった。

 早く外が明るくなって欲しい。なのにこんな時に限って時間が経つのは遅く、なかなか朝は訪れてくれない。

 何度時計を確認しても、三分、五分……、その程度しか経ってはいない。無性に苛立ちが募る。

「早く、早く……」暗闇から脱出したくてたまらなかった。


 ようやく母が仕事に出たのを音で確認すると、這って浴室まで移動した。母にはなにも言っていない。言えるはずもない。死んだ父が人殺しだったなど。一人の女性を、自分の怠惰で死に至らしめ、今なお被害者家族から恨まれているなんて……。

 そんな事を知ってしまえば、母は死んで償うと言い出しかねない。ようやく父の死から立ち直り、以前のように明るい性格を取り戻したのだ。

 僕の大学進学も、誰より応援してくれている。


 シャワーで穢れを祓うように何度も身体を洗う。立っていられなくて、へたりこんだまま隅々まで強く擦る。纏わりつく山田先生の視線を取っ払おうと必死だった。


 しかし三学期も先生からの復讐が終息する気配はなく、むしろ視線は鋭くなっていく。

 休日には『償え』のメッセージが届く。着信が何度も繰り返される。母が不在の時間を狙って、インターホンが鳴り続け、終いにはゴミが荒らされ始めた。

 『姉の苦しみを味わえ』その言葉が脳を支配する。


 ――結果的に、僕は受験に失敗した。

 解答用紙は殆ど白紙だった気がする。名前くらいは書けたっけ……何も思い出せない。気付けば終了の鐘が鳴っていた。

 「終わった……」そう呟いたのだけは覚えている。


 一人、覚束ない足取りで向かった先は学校だった。

 遠くから運動部が練習している声がする。雪がはらりと舞い落ち、地面で溶けていく。

 誰にも会わなかったのは幸か不幸か、導かれるように辿り着いたのは屋上だった。

 今、僕が命を捨てても、受験に失敗したからだと思われるだろう。

 山田先生から脅されていたことも、過去に父が蔑ろにした仕事のせいで、一人の命を奪ってしまったことも、何も公にならずに風化していくのだ。

 しかしもう、どうでも良かった。

 この苦しみから逃れられるなら、僕が選ぶべき選択肢はこれしか与えられていないように感じる。


 フェンスを乗り越え、天を仰ぎ見る。落ちてくる雪は、まるでスクリーン越しに観ているような、非現実的な映像のように霞んでいた。もっと神秘的に映ってもいいものなのに、分厚くどす黒い空は全く綺麗ではなかった。

 灰色の雪は体温を奪い、感覚も感情も奪っていく。誰の顔も浮かばない。強く吹いている風の音も消えた。寒さは感じなかった。雪が頬に落ちても、後ろ手にフェンスを握っている感覚も、悲しさも恐怖も何も感じない。

 最後の最後になって、少し笑えた気がする。


「やっと楽になれる」


 僕は、飛んだ――。

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