第二十八話 殺人事件
ある日、翠玄の宮を訪ねる者がいた。雀玲が出迎えてを開けると、そこには摂政がいた。
「翠玄、元気にしていたか。宮の方はずいぶんと片付いたようだな」
「おかげさまで、ようやく一段落してきたところです」
ここ最近、翠玄は上機嫌だった。
近頃は目立った事件もなく、平和な日々が続いている。
宮の整備も順調にすすんでいる。最近は芝刈りを終えた庭園の小川に水を引いてみた。そこに鯉や金魚を放つと風流で、それを眺めるのが日課になっていた。
「それは良かった。それはそうと、お前にまた頼みたいことがある。皇帝陛下から直々にお命じがあった。今から私とともに来てもらいたい」
「また事件ですか」
さっきまで上機嫌だった翠玄の顔がいきなり曇る。
「ああ、残念ながら。それに今回の事件は今までのものとは大分規模が異なる。慎重に事に当たらなければならない」
翠玄はすぐさま文句を垂れようと待ち構えていたが、摂政の真剣な声色を察知して言葉を飲み込んだ。言われるままに男装に着替えて現場へと出かけていった。
翠玄は摂政に連れられて、外朝六部の一つ、戸部へとやってきた。
中央行政を分担した六部のうち、戸部は財政、土地管理、戸籍、官僚の俸給、産業、救済などを担当する部門である。宮廷の南西部に位置し、翠玄がよく通っている礼部の隣にあった。
戸部へ向かう道すがら、摂政が今回の依頼内容を簡単に説明してくれた。
「これから向かう現場で、奇怪な殺人事件が発生した。今朝、戸部で戸籍の管理をしていた官吏が、戸籍を保管する倉庫の中で遺体を発見したそうだ」
殺人事件、と聞いて、翠玄の心臓が跳ね上がった。確かにこれまでの事件とは程度が違う。先ほどから摂政が物々しい雰囲気を漂わせていたのはこのためだったのか。
「通常であれば刑部の役人が捜査を行うことになっているが、今回はいつもと事情が異なる。よって、陛下からの直々のご命令により、内々に私が調査に加わることとなった」
刑部とは、同じく六部の一つで、司法・警察を管轄し、刑法の管理や訴訟の審理、刑政の運営を行う部署である。宮廷や国内の重大事件、重罪を犯した罪人を処罰したり、その刑量を裁判する役割がある。
「そんな重大事件が朝廷内で起こるなんて」
警備の厳重な政治の中枢地、朝廷でそのような奇怪な殺人事件が起こるなんて…
翠玄は表情を固くした。
「翠玄、これから少し覚悟をしてもらわなければならない。死人を見てもらうことになるからね」
「はい。承知しました」
翠玄が気を引き締めて返事をすると、摂政はなぜだか少し真剣そうに翠玄の顔を覗き込む。
「実を言うと、今回の事件に君を参加させるのを少し迷っているのだ」
「_それは一体どうしてですか?」
翠玄は首をかしげる。
「今回殺された役人の遺体は、通常の殺人とは異なり尋常ではないところがあるのだ」
「尋常ではないところ?」
摂政は腕を組んだ。
「翠玄、君は他の人より目が良いだろう。それに見たものを記憶する能力も高い。
もし、これから目にするものが君の内心に何か良くない影響をもたらすのではないかと心配なのだ」
確かに、翠玄のように記憶力の優れた一部の特異体質の者は、心身に悪影響を与えるような残酷な光景を目の当たりにした時、その記憶を忘れられずに心に傷を負ってしまうことがある。
摂政は、翠玄が凄惨な殺人現場を目撃して平常でいられるか、何か思わぬ害を受けてしまうのではないかと心配しているようだった。
(_摂政様が見せるのをためらうほどの事件)
翠玄は一瞬臆したが、なにはともあれ実際に見てみないことには始まらない。不安がないわけではないが、翠玄は了承して現場へ向かった。
** *
戸部が在籍する官庁舎の裏手、そこには秦国全国民の戸籍を保管するある倉庫があった。殺人現場はその倉庫内部起こった。
薄暗い戸籍庫内には隙間なく立ち並ぶ書棚がある。その最奥の壁には異様な光景が広がっていた。
(_これは!!)
翠玄は言葉を失った。
目の前にあったのは、逆さ吊りの状態で壁に磔にされて絶命している、一人の役人の遺体だった。吊られた男の周りには、赤い紐がまるで蜘蛛の巣のように中心から螺旋状に張り巡らされていた。
男は衣服を脱がされて白い肌着の状態であり、身体中に無数の赤い紐が巻き付いている。それはまるで男が、巨大な蜘蛛の巣に囚われて絶命しているようだった。
確かに、摂政が翠玄のことを心配するのも分かる。それはあまりに異様で、凄惨な光景であった。
「翠玄、大丈夫か」
翠玄が立ちすくんだまま言葉を失って動かないのを見て、摂政が心配そうに覗き込んだ。
「これは、確かに常軌を逸しておりますね」
立ち尽くしたままの翠玄は呟いた。摂政さまが躊躇うのも頷ける。
「それと同時に――」
翠玄は一呼吸置いた。
「これはなんて、“美しい”_。
まるで、芸術作品のようにも見えます。
計算され尽くした、幾何学的な配置です」
訝しんで翠玄の方を覗き込めば、彼女は目を見開いて、赤い紐の配置を凝視していた。
その表情は、半ば恍惚としたような、興奮を抑えられない様子がうかがえる。
「_翠玄、お前、大丈夫か」
思っても診なかった反応に、そばで聞いていた摂政がぎょっとしていると、翠玄は小さく息を吐いた。
「ああ、すみません。つい見惚れてしまって_
ご心配なく、私はいたって正気でございますよ」
翠玄は続けた。
「私はかねてから、書庫に籠もって様々な書物を読みふけってまいりました。その中には犯罪や殺人を行う者の心理や伝記なども含まれていました。これまで、私はそれを書物の中だけの記載でのみ理解しておりましたが、まさか実物と相まみえることがあろうとは」
摂政の心配をよそに、翠玄はどこか興奮しているようだった。確かに、翠玄は魔物や妖魔の類に対しても、恐れを抱くというより、実際に遭遇してみたいという好奇心を掻き立てられる性分だった。
目の前にある光景は、まさに翠玄の知的好奇心を刺激するものだった。




