第二十六話 皇后様の懐妊
翠玄は書庫で読んだ知識を思い出しながら続けた。
「また僭越ながら、悪阻の症状を緩和する漢方に心当たりがあります。“半夏厚朴湯”と言いまして、主には精神的な不調を和らげるもので、気の巡りを改善し、喉のつかえ感や吐き気を抑える効果があると言われています。効き目には個人差がありますが、こちらも試してみてはいかがでしょう」
「それは初耳だわ。医官もそのようなことは教えてくれなかった。
早速、頼んで処方してもらおうかしら」
皇后様はすぐさま侍女に言いつけて、医官にそれを処方するよう頼みに行かせた。
「それから」
と翠玄は付け加えた。
「妊娠初期のお子様の成長に効果があるとされる栄養素がございます。それらは“葉酸”と呼ばれまして、主にほうれん草や縞綱麻、緑豆などの野菜に多く含まれております。もし可能であれば、これらを意識して摂るとお子様の成長にとてもよいそうですよ」
葉酸は妊娠初期の胎児の正常な発育に重要な栄養素であり、特に妊娠中・授乳中に必要量が増えると言われている。
「それはよいことを聞いたわ。生まれてくる子のためにも、心がけようと思います」
皇后様はこれも侍女に伝えて、明日からの食事に取り入れてもらうよう伝える。
「無理せずに、まずはお体を大事になさってくださいね」
「ありがとう。正直に言うと、待望の懐妊だというのに、こう毎日不調が続いて気分が塞いでいたものだから」
皇后様は少し寂しそうに微笑んだ。
「悪阻は体の変化に伴う自然現象です。中には重篤化する方もおられますが、悪阻の有無で生まれる子供に何か悪影響があるなどの報告はありません。四ヶ月頃には自然に収まることがほとんどですので、あまりご心配されずにゆっくりお過ごしください」
「ありがとう。あなたと話せて少しだけ気分が晴れたわ。また相談に乗ってもらえるかしら」
皇后様はそう言って、顔をほころばせた。
* * *
鳳凰宮からの帰り、宮へ戻ると、なぜだか摂政様が中で待ち構えていた。
「先ほど所用があってお前のもとを訪ねたところ、侍女がお前は鳳凰宮へ呼ばれていったと聞いてな。せっかくなのでここで待たせてもらっていた」
「そうでしたか、わざわざお待ちいただき恐縮です」
摂政さまがわざわざ宮を尋ねてくるということは何かあったのだろうか。
たまに顔を出せば事件解決の依頼ばかりなので、翠玄は少しだけ警戒心を強めた。
「この度は、一体どんなご用でございますか」
翠玄が問うと、摂政様は笑った。
「話の早いやつだな、そう急くな。
先ほどまで皇后様の宮に招かれていたのだろう。皇后様のご様子はどうだった?」
(ご様子…?)
翠玄は内心で頷いた。皇后様の懐妊の噂は、既に摂政様のお耳に入っているのだろう。
そう思った翠玄は、先ほどまでの鳳凰宮でのやり取りを話して聞かせた。
「皇后様は悪阻の症状にお悩みでした。ご本人はお辛そうにされていましたが、悪阻とはもともと妊娠初期の妊婦によくある症状ですので、あまり心配は必要ないかと。私の方でいくつか症状緩和に役立つ漢方や食材を紹介して差し上げました」
「そうか、君の見立てなら間違いはないのだろう。それを聞いて安心したよ」
「あまり買い被らないでくださいね。
私も医学の知識はそこまで深い方ではありませんから」
いくら知識があるとはいえ、医学とは実際に患者を診察したり治療に携わった経験と実績が物を言うものだ。所詮専門家ではない翠玄があまり口出しすることでもない。
「よい。皇后様も近頃は塞ぎ込むことが多かったご様子。気晴らしになっただろう」
摂政様はさらに続けた。
「既に皇后様の懐妊の噂は、宮廷内では広まりつつある。しかしかの方は何かと気のおけるところがないお立場なのだ。
一部では、ああしてご加減が悪いのは、皇后様が何者かから呪詛を受けているという噂まである」
「そんな……」
確かに、以前に摂政様から聞かされていたように、現政権に異を唱える一部の者たちからは、今回の懐妊の事実は都合が悪いものとなる。今後、皇后様とお腹のお子様の命が狙われる可能性は十分にあった。
「私は『呪詛』といった呪いの類には懐疑的です。科学的に効果が証明されていないものを信じるのは、些か早計かと」
「そうだな。だがいずれにしても、皇后様の周囲には危険が伴うことに変わりはない。
最善の注意を払い、皇后様の周辺の安全を確保する必要がある」
翠玄は再び書庫で得た知識を振り返った。
陰謀により、子を下ろすための毒物や薬草は、古来よりいくつか存在が確認されている。
「堕胎を招くものとして典型的なものといえば、やはり毒物などでしょうか。有名なものだと、猛毒のトリカブト。それから酸漿根と呼ばれる漢方は、子宮を収縮させ、堕胎薬として用いられることがあります」
「お前は不穏なものに詳しいな。確かに、不審物が皇后様のもとに持ち込まれるおそれは十分にある」
摂政様は腕を組んで考え込んだ。
「引き続き用心しなければならない。皇帝陛下も皇后様の身を案じておられた。
皇后様はおまえをお気に召したようだし_何かあったら、またお前を頼ることにするよ」
「……あまり期待しないでくださいね」
翠玄は謙遜したものの、とはいえ人の命がかかっているので強くは言えなかった。




