第一話 書庫の虫-翠玄-
秦王朝の宮廷内。国の政を司る六部のうち、礼部は儀礼・教育・科挙など掌る。
宮廷の外朝、その礼部の庁舎がおかれたその敷地内に礼部の秘蔵の書庫がある。ここには、国内外より蒐集蒐集された史実・博物誌・文辞の書、諸学の典籍が悉く集められ、厳重に蔵されていた。
建国より存在するこの書庫は「秦王朝最古の深層」と称され、近隣諸国でも類を見ない蔵書数を誇っている。しかし、それらは今や過去の遺物の溜まり場となり、訪れる者は稀であった。
ある日の昼下がり、誰も来ないはずの書庫に、静かな足音が響いてきた。
遠くでそれを耳にした翠玄は訝しんで、読みふけっていた書物から顔を上げる。
(また、書庫守りが小言を言いに来たのだろうか)
目を凝らせば、書棚の奥の暗がりから、提灯の明かりを携えて誰かがこちらへ向かってくるのが見えた。あるのは二つの人影。一人は頭巾を深く被り、もう一人は官吏の服装をしている。
「胡相様……?」
翠玄は、普段この書庫を任されている官吏の名を呟いた。しかし暗がりにかすかに見える風貌は、知っている人物ではないように思える。
警戒しながらも待ち構えていると、二人のうち従者らしき男が、翠玄の前に来るなり口を開いた。
「お前が、下働きの翠玄か?」
見覚えのない男の声に、翠玄は戸惑いながらも答えた。
「はい、そうですが。」
(どうして、私の名を知っているのだろう)
翠玄は後宮のしがない下働きの一人である。身分が低いため、日がな炊事係として台所の雑用を任されている。
しかし、こうして頻繁に抜け出しては、書庫に籠もり蔵書を読みふけるのが日課になっていた。風変わりなこの娘のことを、人は書庫の小虫といって嘲笑した。
「先ほど、台所番の男にお前の行方を尋ねたところ、ここにいると聞いて参った」
男は眉をひそめる。
「まったく、仕事をサボってこんなところで油を売っているとはどういうつもりだ」
台所番、と聞いて翠玄はぎくりと身をすくめた。またサボったことを叱られる。これで何度目だろう。次はきついお仕置きをすると脅されていたのだ。
「それは申し訳ありません……。
ところで、一体私に何の御用でございましょう?」
翠玄の目には、叱責する男の身なりが格式高い官吏のものと映った。それに、その隣にいる頭巾を取った青年の姿も、ただならぬ雰囲気を醸し出している。
下級下働きの自分を探すために、わざわざやってくるとは。翠玄にはまるで心当たりがない。
「うむ、ここにおられる方が、お前に頼み事があって参られたのだ」
「頼み事……?」
「うむ」
翠玄は隣に立つ青年の方を見上げた。言われて、覆面の男が被っていた頭巾を取る。
中から現れたのは、年若く、秀麗な顔立ちの青年だった。烏帽子を戴かず、短髪を切り揃えただけのこざっぱりとした風采は、彼が宮廷内で働く官吏ではないことを物語っている。
____だが彼の外見において、最も目を引いたのは、彼の髪と瞳の色だった。
彼の髪はこの国において非常に稀な金糸色を帯びていた。そして、提灯の明かりに照らされた瞳は、よく映える鮮やかな琥珀色に見える
すると、金糸髪の青年が口を開いた。
「お前に力を借りたいと思いまいった。」
低く落ち着いた声音だった。
「昨年の冬、宮中で新年を祝う宴が催された日のことを覚えているか?」
「はい…存じておりますが_。」
「あの時、場内である窃盗事件が起こっただろう。催し物の演舞で舞を踊るはずだった踊り子の衣装が一色盗まれたものだ。
その解決に一役買ったのがおまえだと、噂に聞いた。」
翠玄は驚いて目を見開いた。
「ああ、確かにそんなことがございましたね。」
確かに翠玄は過去に一度窃盗犯を捕まえたことがあった。
「あの宴には数千もの人がいたが、お前は見事衣装を盗み出した商人を見つけ出した。
下働きの身でありながら、お前は良い目をしているとおもってな。」
そういって、金糸色の髪の男は翠玄を真っ直ぐに見つめる。
「私のために、力を貸してほしいのだ」
「確かに、あの時官吏に申し伝えましたのは私です。しかし、あれはたまたま男の不審な挙動が目に止まっただけ。偶然でございますよ。」
翠玄は訝しんだ。だったそれだけのことでわざわざこんなところまでくるか?翠玄は彼らの真意を図りかねていた。
「そう言わず、まずは話だけでも聞いてくれないか。」
青年は真摯な表情で続けた。
「実は、ある今日来たのは事情があって、他に頼む当てがないのだ。協力してもらえたら、褒美は弾むよ」
ある事情とは一体なんだろう。
しかし、"褒美"という言葉に、おもわず翠玄の心が揺れ動いた。
正直に言えば、このところ仕事をサボってばかりいたせいで、給金も手当ても心もとない。それに、そろそろ仕事を抜け出しすぎて、台所番としての立場も危うくなってきていた。
「そのようにおっしゃらずとも、私は所詮下賤の者。必要なことがあれば有無を言わさずお命じになればよろしいのでは?」
訝しんだ翠玄が少し挑発的に言うと、従者の男が眉をひそめた。
「お前、旦那様がわざわざ申し入れておられるのに、何ということを言う」
しかし青年は笑った。
「では、引き受けてくれるのだな。」
「え……?」
「そうと決まれば、早速私と共に後宮の陽春宮を訪ねてもらいたい。向こうに着くまでに詳細を話して聞かせよう。」
「ちょっ、ちょっと待ってください。」
しかし、男は返答を待たず、半ば強引に翠玄を書庫の外へと連れ出した。翠玄は呆気にとられながら、仕方なく彼についていく。
(胡散臭い奴らだ_。)
翠玄は、自分が何か厄介なことに巻き込まれた予感を覚えていた。




