第十七話 書庫の窃盗事件
茶会で梨耀妃と対面を果たしたあの日以来、翠玄のもとには久々に平和な日々が訪れた。雀玲もまた、梨耀妃の侍女から妨害行為を受けることはなくなった。
最近はきな臭い事件の噂もなくなったし、摂政様も事件の依頼を持ちかけてくることはない。というわけで、翠玄は思う存分、礼部の書庫に籠もって読書に勤しむことができる。
翠玄の野望──礼部の書庫の蔵書を全て完読する。この進捗は現在、まだまだ全体の半分程度。書庫の蔵書は膨大だ。庁舎の一棟ほどもある書庫には、数万を越す蔵書が収蔵されている。見上げるほどに高い天井までうず高く積まれた膨大な書籍群は、まさにこの国の叡智と言えるだろう。
(ああ、この膨大な知識の海を、その手中に収める日が待ち遠しい_。)
翠玄は、ひとり恍惚として前方に広がる知識の大海を眺めた。
この日、翠玄は朝から張り切って書庫を訪れていた。しかし書庫に近づくにつれて、現場がいつもより物々しい雰囲気に変わっていることに気がつく。
「翠玄、来ていたのか」
翠玄の来訪に気づいた胡相が声をかけてきた。
「久しぶりに顔を出しにきたところ悪いが、お前に残念な知らせがある」
「……一体どうされたのですか?」
翠玄は怪訝そうな顔で尋ねた。
「実は先日、この書庫の蔵書が一冊盗まれる事件があったのだ」
「そんな……嘘でしょう」
それは、書庫の本たちをこよなく愛する翠玄にとって衝撃的なことだった。
「残念ながら事実のようだ。昨日、見回りを行っていた官吏が、この書棚にあるはずの一冊が抜けていることに気づいた。前日は異常はなかったそうなのだが」
「本当に盗まれたのでしょうか。紛失しただけでは?」
この書庫では、定められた書庫守りたちが書籍の蔵書などを管理している。だが、今となっては有象無象の書類の溜まり場と化しているこの書庫。翠玄のような物好きで無い限り、訪れるものも僅かだった。
わざわざ故意に書籍を持ち出そうとする物好きがいるのか、翠玄は些か疑問であった。
「我々も、当初はそう思って方方を探し回ったのだが見つからない。
それに、今回紛失した書物は、他の書物とは少し毛色の違う特殊なものでな。」
「一体、何という本なのですか」
翠玄は首をかしげる。
「盗まれたのは『故宮示意図』という書物だ」
「ああ、それなら過去に一度読んだことがあります」
故宮示意図とは、文字通りこの宮廷の見取り図を図解した資料だ。秦国の宮廷の広大な敷地と、その建物群を総称して故宮と呼ぶ。敷地内には、皇帝の住まいである宮苑や、皇帝の妃たちの住まいである後宮、そして各省庁が置かれ、政治の中枢地となっている。
故宮示意図には、これら各部屋の配置はもちろん、通路や脱出口なども記載されている。また、宮廷の各所に設置された宝物庫や、備蓄庫と行った配置まで全て網羅されたものだった。
「宮廷の見取り図が何者かに盗まれた。
_それは、たしかにきな臭いですね」
「ああ。故宮示意図は文字通り、後宮内部の地図だ。中には禁域である皇帝陛下の私室や居住地の配置が描かれている。さらには宮廷内部の宝物庫や、有事の際の秘密の抜け道なんかも一部記載がある。」
「はい。必要以上の情報が惜しげもなく載っているのを私も目にしました」
翠玄は眉をひそめた。
「そのとおり。悪意のある者が故意に盗み出したのだとしたら、相手に手の内を晒すようなものだ。危険極まりない」
皇帝陛下やその側近の暗殺、はたまた宝物庫への窃盗など──犯人が悪用しようと思えば、使い道は五万とある。
「それは一大事ですね。一体誰が_。
直近で借用履歴や、不審な者の立ち入りなどは確認されていないのですか?」
「調べたが、それもない。それに故宮示意図はそもそも貸し出し禁止だ。直近の書庫の入退記録も残っているが、普段から書庫を利用する者たちばかりだった。不審な履歴は見つからない」
胡相は肩をすくめた。
「それに、官吏が盗難に気づいたのが昨日というだけで、実際にはいつ持ち出されたのかは定かではない」
「…そうですか。」
礼部の書庫は、今回のような機密情報も一部所蔵されているとはいえ、一般の官吏達であれば誰でも利用できる。一応入退室履歴や、書籍の借用履歴は残っているが、宝物庫のような厳重な入室制限や管理はされていない。ましてや、通常時は翠玄ぐらいしか熱心に利用する者のいない閑散とした書庫。もし、仮に何者かが持ち出そうとしても、誰も気が付かないだろう。
翠玄は少し考えてから言った。
「そもそも、そんな大事なものを一般の官吏たちが誰でも閲覧できるようにしていたことも問題なのでは?」
「まあ、それもあるな」
胡相は苦笑した。
「しかしこの国の公共の叡智をすべからく多くの人に公開し、共有することは書庫の大目的だ。それによって諸産業や学問が発展し、さらなる知識の増強に寄与することもあるだろう」
「……確かにそうですね」
翠玄は頷いて少し考える。
「せっかくの礼部の方々の心遣いを無下にするとは許せません。
ここは私が一肌脱ぎましょう」
翠玄の目に、にわかに光が宿った。
「一緒に書籍を見つけ出すのを手伝ってくれるというのか」
胡相は目を輝かせた。
「お任せください。私に考えがあります。幸いにも、かの書物は一度読んだことがありますので。うまくすれば、犯人を見つけ出せるかもしれません」
翠玄はそう言うと、自分はこれから準備するものがあると言って、足早に書庫を去っていってしまった。




