第十話 書庫守‐胡相‐
別の日、翠玄は久しぶりに礼部の書庫へ顔を出した。
ここ最近は宮を立て直すのにかかりきりになっていたため、しばらく書庫には来ていなかった。久しぶりに自分の古巣に戻ってきたような気がして、翠玄は嬉しくなった。
宮廷の教育や歴史の巣窟となるこの広大な書庫。建物の2階ほどもある天井まで、堆く積まれた書籍の山は、この書庫内に詰め込まれた膨大な数の知識の叡智を体現している。
ここを始めて訪れた時、翠玄は心が躍った。
元々、人間離れした記憶能力を持て余していた翠玄にとって、ここは彼女の空っぽな心を満たしてくれる存在であった。
知識とは、すなわち財産だ。たとえ体が不自由であっても、貧乏な暮らしをしようとも、知識だけは己の中だけにあって、自分を助けてくれる。翠玄の底なしの知識欲はこの書庫を渇望していた。
翠玄にはある野望がある。それは、ここ礼部の書庫にある全ての蔵書を一つも漏らさず習得すること。
完読した書籍は、未だここの蔵書の半分程度である。しかし翠玄はあれ以来、人目を盗んではこの書庫の虫として生息しているのだった。
「翠玄。珍しいな」
振り返れば、そこには礼部ので書庫の管理を任されている役人、"胡相"が立っていた。彼は、かつて翠玄が日がな一日書庫に籠もっていた時に、たまに相手をしてくれていた。
「胡相様。お久しぶりです」
「いつの間に後宮へ取り立てられたと噂で聞いたが、まるで見違えるようだな」
胡相は笑って言った。
彼は以前から翠玄がこの書庫に通っているのを目撃していた。最初は下賤の下働きに良い顔をしなかったが、彼女の熱心さに推されて、段々と見逃すようになっていた。
翠玄はこの日、地味な黒色の襦裙を身にまとっていた。後宮の才人とはいえ、翠玄は妃ではないので、わざわざ自分を飾り立てるまでもない。それでも、下働きでいた頃とは別人のように映った。
「宮の片付けに手を取られていて、なかなかここへ来られなかったのです。これからは自由に書物を閲覧させていただきますね」
摂政から言われた通り、翠玄はこの書庫に今後自由に出入りしてよいことになっている。
「ああ、聞いているとも。そなたには、前々から小娘には不相応な賢才を備えていると思っていたが、こうして昇進を果たすとは恐れ入ったな」
「単なる摂政様の気まぐれですよ」
「いや、確かに摂政殿下はそなたを買っているようだ」
芙蓉妃の暗殺未遂事件は、彼女自身には被害がなかったものの、毒物が持ち込まれたことが露見して、次の日には大騒ぎになっていた。そのことが、胡相の耳にも入ったのだろう。
「そうそう、言い忘れておったが……」
胡相は少し声を潜めた。
「儂も、そなたの知見を見込んで、今度調べてもらいたいことがある」
「……何でしょう?」
「近頃、宮中内で官吏たちの失踪が相次いでおるのだ」
「失踪?」
翠玄が目を見開く。
胡相は事のあらましを話し始めた。
「ある日突然、言伝もなしに職場に来なくなってしまう役人が後を立たないのだそうだ。
勤務態度も人間関係にも問題がないため、上官たちも不審に思っている。」
翠玄は訝しんだ
「_よくある話のように思いますが。
単に仕事が嫌になって辞めてしまったのではないですか?」
「わしもそう思ったのだが_
同僚たちによると、彼らに変わった様子は無かったという。心配した同僚たちが彼らの住処を訪ねると、特に荒らされた様子もない、空っぽの家だけが取り残されているそうだ。」
「なるほど、確かにそれはなんだか不審ですね」
普通、仕事をやめたいのなら、事前にそう言えばよいだけのはずだ。何も告げずにある日突然失踪してしまうなんて、なんだか事件の匂いがする。
「ここ礼部でも一人失踪者が出てな。
皆、近頃宮中に蔓延っている悪鬼に食われたのだと噂しておるよ」
「悪鬼……?」
翠玄は眉をひそめた。
「近頃、宮中で目撃されている妖魔の類だ。新月の夜に現れて、人や家畜をさらって食い殺すのだそうな」
「まさか。そのようなものが、本当にこの宮中にいるというのですか」
「さあな、儂にも信じがたいことだが……」
胡相は肩をすくめた。
翠玄は博学ではあるが、数々の書物に書いてあるような魔物や妖といった類のものは、今まで遭遇したことがない。
まことしやかにその噂が囁かれるだけで、誰も実物を見たことがない。翠玄はいつかそういう類にお目にかかってみたいものだと、かねてから興味があった。
「なんだか興味が湧いてきました。胡相様には色々とお世話になっていますし、私も力になりたいです」
そう言うと、胡相は頷いて、近々失踪した同僚の住処を訪ねるのに同行させてくれると約束した。




