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初夜に「君を愛することはない」と言った夫はサキュバスに呪われて、キスしないと生きられない体になりました

作者: 星森 永羽



「君を愛することはない」


 今日、夫になったオルステッドは、グラヴァイス公爵邸の主寝室に来るなり言った。

 見上げると首が痛くなる程の長身に、濃紺のガウンを羽織っている。


 ──ふうん。そう来たか。

 薄いネグリジェを着た私は、真っ直ぐ紅い眼を見つめる。


「そのセリフ、そのままお返しします」


「は?」


 銀の眉が、ぴくりと動いた。

 "戦場の銀百合"だの"氷冠の処刑人"だの呼ばれるこの軍人の、虚を突かれた顔は案外悪くない。

 どうやら、私が黙って従うと思っていたらしい。


「それって私が、あなたを愛することを前提に言ってますよね? なぜ、私があなたを愛するんですか?」


 新郎は答えず、堀の濃い彫刻なように整った顔に、更なる陰影を作る。

 部屋には、月明かりと蝋燭だけが揺れていた。


「まあ、いいや。契約書を作りましょ。白い結婚です」


 私は紙にサラサラと条件を書いて、渡した。


「は? 1年で離婚? そんなにすぐ離婚したら、体面に傷が付くだろう」


 紙を受け取った新郎は、驚きの声を上げた。

 初夜に人を待たせておいて第1声が「君を愛することはない」だった、お前のせいじゃね?


「では、3年で構いません。

 その代わり私が出産した場合、その子はグラヴァイス家とは無関係です」


「出産? 白い結婚と言いながら、やはり俺と閨を共にする機会を伺ってるな」


 薄い唇が不敵に弧を描く。


「いえ、あなたの子供は産まないので、ご心配なく」


 眉間に深い皺を刻んで、新郎が低く唸る。


「──不貞すると?」


「不貞とは? 妻が貞操を守るのは後継問題に直結するからであって、あなたと白い結婚の契約を交わす以上、夫に操を立てる理由がありません。

 体裁を気にするなら、表だって異性と出歩くのはやめておきましょう」


「なっ、バカな! 妻として養われる身で他の男と子作りだと?」


「では持参金で生活しますので、生活スペースを分けましょう。明日、離れに移動します」


 私は机に向かい、契約書に追加事項を書いていく。

 完成した紙を差し出し、彼にサインを促す。


「こんなことをして、虚しくないのか?」


「誰が何に対して、どう虚しいのですか? もしかして私のことですか?

 1番虚しいのは、暴言吐く夫と床を共にしなければならないことでしょう」


「そうやって突っぱねて、俺の気を引こうとする女性もいる。契約すれば、後戻りできないぞ?」


 流石は"帝都1の美男"と、呼び声が高いだけあって自信家だ。

 私はパーティーで6回、縁談を進めるために2回、顔を合わせただけなので人となりまでは知らない。

 10歳上の彼とは世代が違うので、新聞で見るレベルでしか噂も入ってこないにである。


「すでに生理的に受け付けなくなった相手に、好意を持つことはありません。が、万一そうなっても離婚後、別々に暮らせば忘れます。

 恋は不治の病ではありません。出会いの場へ赴いて、新しい恋をすればいいのです」


 私は契約書を、指で軽く叩く。


「早くサインしてください」


「この件は保留にする」


「っ?! 冗談じゃない! 早くサインを──!」


 彼は無言で立ち上がり、部屋を出ていった。

 私はその背中を睨みつけながら、唇を噛む。

 そして、思いきり地団駄を踏んだ。

 ──くそっ、なんであんな男に、振り回されなきゃいけないのよ!




 離れの空気は、まるで別世界だった。

 本邸の重苦しい石壁と違って、ここは木の香りがして、窓からは風が通る。

 私はソファに寝転がり、ふかふかのクッションに顔を埋めた。


「嫌なやつ居なくて最高~!」


 思わず声が漏れる。

 ああ、自由って素晴らしい。

 これが私の望んだ“白い結婚”のかたち。


 そこへ、控えめなノック音。

 扉の向こうから、使用人の声がした。


「旦那様が、お帰りになりました」


 ……え?


「って、帰って来ちゃった」


 思わずクッションに顔を押しつける。

 なんで? 魔物退治じゃなかったの? もっと長引いてくれてよかったのに。

 夫は結婚式の翌日から領地へ魔獣討伐に行き、半月ぶりに戻ってきた。


 私は渋々立ち上がり、羽織を引っかけて玄関へ向かう。


 本邸の玄関扉が開かれると、夫のオルステッドがいた。

 銀の甲冑を身にまとい、戦場からそのまま戻ってきたよう。

 そして……様子がおかしい。

 彼の手が、微かに震えている。顔も、紅い。熱でもあるのか、と思うほどに。


「医者を呼びましょうか?」


 私が顔を覗き込むと、彼は首を横に振った。


「ちが……ま、魔術師を」


「まさか……呪い?」


 私の声が、自然と低くなる。

 冗談じゃない。呪いなんて、王宮の陰謀劇でしか聞かないような話。

 でも、彼の様子は──確かに、普通じゃない。



 私は客室の壁際から、ベッドに横たわるオルステッドを見下ろす。

 甲冑は脱がされ、額には冷たい布。けれど、顔の赤みは引かない。むしろ、どんどん熱を帯びているように見えた。


 黒いローブの魔術師が、眉をひそめる。


「サキュバスに呪われましたね」


 ……は?


「やはり……」


 オルステッドが、かすれた声で呟いた。

 何その納得の仕方。まさか心当たりでもあるの?

 人の不貞は批難して、自分は魔物と何を……?


「大丈夫ですよ。愛し合う相手とキスすれば、呪いはすぐ解けます」


「き、きっすううううっ?!」


 彼は白目を剥いたかと思うと、そのままベッドに倒れ込んだ。

 コイツ、本当に"氷冠の処刑人"なの?


「ぼっちゃまは、潔癖症なのです。特にウイルスと女性に」


 老執事が静かに言った。


「うわっ、きもっ! いい年して童貞?」


 思わず仰け反る。

 この国で男性は25歳が結婚適齢期なのに、オルステッドは28歳。

 公爵なら普通は12歳くらいで許嫁を決めるのに、婚約したことすらなかった。


「子供の頃から、大人の女性に何度も襲われたせいで……」


「そりゃ災難だったわね。でも私、関係ないし」


 離婚するんだもの。


「……とりあえずですね、発作を抑えるだけなら、相手が誰であってもキスすれば良くなります。ただし一時的ですが」


 魔術師がそう言った瞬間、オルステッドがぴくりと動いた。

 次の瞬間、彼の体がびくびくと震え始める。顔は真っ赤、呼吸も荒い。


「発作ですね」


 執事が静かに言い、ベッドに近づいた。

 そして、ためらいなく──


「ブチュッ」


 見てはいけないものを、見た気がした。

 数秒後、オルステッドの震えは止まり、代わりに──


「おえっ……!」


 彼はベッドの端に身を乗り出し、盛大に嘔吐した。




 1週間ぶりに見るその顔は、見事にやつれていた。

 頬はこけ、紅目の下にはくっきりとした隈。シルバーブロンドも乱れ、いつもの完璧な身なりは、どこへやら。


「……頼みたいことがある」


 離れの自分の部屋で、私は紅茶を口に運びながら、ちらりと彼を見た。


「私にはないです」


「話を聞いて欲しい」


「契約書にサインしてくれるなら」


「それについてもだ」


 私は、ため息をついた。

 そして、顎でしゃくる。──話せ、の合図。


「うっほん。離婚してもいい。慰謝料も払う」


「やった! ありがとう!」


 思わず立ち上がりそうになる。

 けれど、彼の次の言葉が、私の歓喜を一瞬で凍らせた。


「ただし、俺の呪いが解けたらだ」


「は?」


「呪いが解けたらだ」


「いや、耳ついてるから聴こえてるんだわ。

 つまり、あなたが愛せそうな女性を見つけて御膳立てし、妻公認で囲えばいいんですね?」


「なぜ、そうなる? 君と愛し合えばいいだろう。夫婦なのだから」


「ナイナイナイナイナイナイナイナイナイナイナイナイ」


 私は全力で拒否する。


「どの口で言ってるの? 恥知らずが。

 ──話を戻すと、公爵は恐らく幼児性愛だと思うんですよねー」


「はあ? 俺に、そんな性癖あるわけないだろう」


「大人の女性が怖い人って、子供に良からぬ想い抱くのよ」


「断じてない」


「じゃあ、自慰のおかずはなんなの?」


「……普通に……闇艶本……」


 教会の影響で性的な内容の本は禁じられているのだが、こっそり流通してるものがある。

 それが闇艶本。


「特に、どれが気に入ってるか見せて。好みの見た目と性癖を分析して、それに合う女性を探しましょう。

 本は、あなたの部屋?」


 私は、すっと立ち上がる。

 彼の顔がみるみる赤くなり、口をぱくぱくさせている。


「ま、待て、それは──っ、ちょっ……!」



 本邸にある公爵の私室は、思ったよりも整っていた。

 無駄のない家具配置、几帳面に並べられた書類、そして……妙に大きなベッド。

 私はその下にしゃがみ込み、スカートの裾を押さえながら覗き込んだ。


「そそそそこじゃない!」


「早く出して」


「くっ……」


 彼は渋々、本棚の奥に手を突っ込み、数冊の本を引き抜いた。

 やっぱりね。


「もっとあるでしょ」


「それだけだ」


 私は、無言で机の裏に手を伸ばす。

 指先に触れたのは、薄い紙の感触──引きずり出して、床に叩きつけた。


「あるじゃないの!」


「俺の大事な本が!」


 知らんがな。

 私はそのうちの1冊を拾い上げ、ぱらぱらとページをめくる。


「ふむふむ。学生服ばっかりじゃない。やっぱり幼児性愛──」


「ちが、違う! 学生の頃、好きな女の子がいたからだ!」


 その瞬間、彼はハッとして口を押さえた。

 ……あら、これは面白い。


「誰? 何て、名前? どんな見た目?」


「き、君と正反対の清楚で、おしとやかな女性だ」


 私は珍しい若葉色の目と髪を持っていて、それだけで目立つ。

 更に、服も明るい色が好き。

 つまり、とても派手好きに見られる。


 私は薄い本を閉じ、彼をじっと見つめた。


「私が、いつ『彼女と私と比べろ』って言ったのよ。手伝って貰っておいて、その態度は何なの?」


「う……」


「あ、そうだ。先に契約書。呪いが解けたら離婚ね」


 私は机に紙を広げ、さらさらと羽ペンを走らせる。

 条件を明記し、最後に空白を残して差し出した。


「サインを」


「……不貞の項目は、消してくれ」


「あなたはこれから愛人を探すのに、どうして私がパートナー持っちゃいけないんです?」


「世間では男の浮気は容認されてるが、女性はそうじゃない」


「それは後継ぎを産んでないのに、相手が夫より身分の低い場合ね」


 後継ぎさえ産めば女性も自由だが、何事も例外はある。


「公爵の俺より身分が上の男? そんなの王族だけだぞ」


 夫は、はんっと鼻で笑う。


「はあ……別に恋愛しなくても、隠れ蓑になってくださる場合もあるでしょうよ」


「そこまでして不貞したいのか」


「逆逆逆逆。

 恋人がいたのに、引き裂かれたの。どこかの公爵から、婚姻を申し込まれたから。新興貴族の男爵の家に」


「っ……」


 彼の拳が、ぎゅっと握られるのが見えた。

 その音が、やけに耳に残る。


「彼からすれば、あなたが略奪者」


 私は淡々と告げた。

 過去のことを蒸し返すつもりはなかったけれど、彼が“私の不貞”を責めるなら、話は別だ。


「とりあえず、あなたの相手を探しましょう。

 まず、髪の色は? 好きだった女性の」


 喧嘩しても仕方ないので、気持ちを切り替えた。


「……茶色。焦げ茶」


「ふむふむ。身長は?」


 私は紙に書き留めながら、ちらりと彼の顔を見た。

 その時だった。


 彼の大きな体が、また震え始めた。

 見る見るうちに、整いすぎた顔が紅潮していく。


「ちょっ……発作?!」


 私は慌てて立ち上がり、廊下へ飛び出した。


「待ってて! すぐに執事を呼んでくるから!」


 そして──


「ヨハン! 公爵にキスして!」


 白髪の執事は、ためらいなく頷いた。

 そして、またひとつ、静かに尊厳が床に転がった。




 玄関の扉が開く音に、私はぱっと顔を上げた。

 夫の部屋で、薄い本を漁ってから1週間。

 今日は、ちょっと特別な日。

 だから、私は珍しく笑顔で彼を出迎えた。


「おかえりなさい、公爵」


 オルステッドは、まるで毒でも盛られたかのような顔で私を見た。

 氷冠の処刑人だけあって、迫力がある。


「……何か、あったのか?」


「ふふ、まあまあ。とりあえず食堂へどうぞ」


 私は軽やかに先導する。

 彼が警戒してるのが、背中越しでもわかる。

 そして、食堂の扉を開けた瞬間──


「う、な、何が……」


 彼の声が裏返った。

 無理もない。食堂の長テーブルの両脇に、7人の女性がずらりと並んでいるのだから。


「集めました!」


「まさか……」


「あなたの愛人候補です!」


 女性たちは一斉に立ち上がり、優雅にお辞儀をした。

 焦げ茶の髪、清楚な雰囲気、身長は少し高めのスレンダー。

 私、けっこう頑張ったんだから。


「今日から一緒に住みます」


「はあああああ?!」


 氷冠の処刑人の叫びが、食堂に響き渡る。

 私はにっこり笑って、言ってやった。


「手っ取り早く恋しなさい」




 私はベッドの中で、今日の疲れを癒していた。

 いい仕事したわ~。

 ふかふかの枕に顔を埋めて、もう少しで夢の世界──というところで、ゴソゴソと物音がした。


 ……強盗? まさか、夜這い?

 私は身構えた。が、現れたのは──


「何してるの?」


「あんな汚いところで寝られるか!」


 オルステッドだった。

 シルバーブロンドは乱れ、顔は怒りと困惑で真っ赤。

 私は、ため息をついた。


「汚いって、女性たちのこと?」


 集めた女性たちには、オルステッドの寝室で寝るよう言ってあった。


「当たり前だ! どんな病気、持ってるかわからないぞ!」


「あなたの頭の方が、病気だと思うんだけど」


「……と、とにかく駄目だ」


 彼は勝手に布団をめくり、私の隣に潜り込もうとする。


「ちょっと! 何で、ここで寝るわけ?」


「1番、安全だからだ!」


 ……はあ。

 この人、ほんとに何なんだろう。


「どうしても寝ると言うなら、契約書にサインしてよね」


 私は枕元の引き出しから、例の紙を取り出して差し出す。

 けれど、彼はそれを見ても、まるで存在しないかのように無視した。


「……」


「……」


 私は怒りで枕をぎゅっと握りしめ、背を向けた。


「……もう勝手にすれば」


 後ろでモゾモゾと寝ようとしている、大きな体の気配がした。

 私は、そのまま眠りの世界へ入った。



 3時間ほど、眠っただろうか。

 隣から聞こえたのは、荒い呼吸と微かなうめき声。


「……また?」


 私は身を起こし、隣を見る。

 オルステッドが額に汗を浮かべ、体を震わせていた。

 発作。

 ──もう何度目だろう。


「待ってて。警備兵、呼んでくるから」


 布団をめくって立ち上がろうとした瞬間、腕を掴まれた。

 大きな手は熱く、そして震えていた。


「君が……してくれ」


「いや!」


 即答。

 何で、私が。


「た、た、頼む……宝石でも何でも買っていいから」


「うちの実家は、豪商なのに……何でも買っていいの?」


「ああ、だ、だから早く……!」


 彼の顔は真っ赤で、目は潤んでいた。

 そこまで言うなら──


「契約書にサインして」


「早くしろ! 俺が死んでもいいのか!」


 私は枕元の引き出しから再び契約書を取り出し、彼の前に突きつけた。

 彼は震える手で羽ペンを握り、ぎこちなく名前を書き込む。


 ──次の瞬間。


「……っ」


 彼が私の唇に、唇を重ねてきた。

 不意打ち!

 けれど、私は動かなかった。

 それが“対価”なら、受け取ってやる。


 ……ただ、長い。

 執事の時は、一瞬だったのに。

 なんでこんなに、長いの?


 ようやく唇が離れたとき、彼は息を切らしていた。


「はあ……はあ……ありがとう」


「いえ、対価があるんで」


「対価があれば、キスしていいのか?」


「ん? せっかくハーレム作ったのに、なぜ私に?」


「だから……病原体」


 ああ、またそれ。

 私は紅い目を見据えて、ハッキリ言った。


「それを言うなら、私も処女じゃないです。性病は無いと思うけど」


「はっ?」


 形式上の夫は、間の抜けた声を出した。


「生娘じゃないです。初夜しなかった次の日、元恋人に会いに行って抱いて貰いました。

『愛さない』って言ってくれて、ありがとう。最愛の人に、初めてを捧げられて幸せだった」


 私は、横になって静かに目を閉じた。

 彼が固まっているのが、気配でわかる。


「早く、あなたにも恋人ができるといいですね」


 それだけ言って、再び眠りに落ちた。

 沈黙を背中に感じながら。





「また魔獣退治に? そんなに魔物が、多いのですか?」


 血濡れの甲冑姿で現れたオルステッドを、私は玄関で出迎えた。

 このやりとりも、もう何度目だろう。


「そうじゃない。サキュバスを見つけて、呪いを解かせるんだ」


「ん? あなたに呪いをかけたサキュバスは、退治したんでしょう?」


 呪いは、死の瞬間にしかかけられない。


「同じサキュバスなら、解けるかもしれない」


「……そんな話、聞いたことないけど」


 私はそれ以上、何も言わなかった。

 言っても無駄だと、もう知っていたから。




 1ヶ月後。寝室。

 夫は、また唐突に帰ってきた。


「君に、これを渡しておく」


「?」


 差し出されたのは、短くて重みのある聖剣。

 刃は鈍く光り、柄には見慣れた家紋が刻まれていた。


「私に魔物と戦うスキルは……」


「守り刀だから」


「……わかりました」


 私は、それを懐にしまった。

 オルステッドの紅目が、どこか焦っているように見えたのは気のせいだろうか。


「すぐ戻るから、待っててくれ」


 彼が出ていった直後、扉が開いた。

 入ってきたのは──見知らぬ男。


「な、なに……あなた?」


 ウェーブの効いた紫髪に、金の瞳。

 艶やかな笑みを浮かべ、まるで舞踏会にでも来たかのような身なり。

 シャツの胸元は、だらしなく開いている。


「可愛いね。ボクの好みだ。とっても嬉しいな、会えて」


「な、来ないで!」


「ボクは、君の旦那さんに"ヨロシク"頼まれたんだよ。

 一緒に気持ち良くなろうね」


「ひっ、や、やだ! いや!」


 私は懐から聖剣を抜き、震える手で突き出した。

 刃が男の胸に触れた瞬間、彼の姿は灰となって消えた。


 オルステッドが戻ってきたのは、その直後だった。


「怪我はないか?」


「どういうこと?! さっきのは何?!」


「インキュバスだ」


「イン……はああ?! サキュバス探してるって嘘だったのね!」


「言葉の妙だ。俺の気持ちをわかって欲しくて。もちろん危険がないように、ちゃんと見張ってた」


 その瞬間、体が熱を帯び、息が荒くなる。

 また、発作。──ふざけないで。


「ほら、キスして欲しいだろ?」


 私は美しい顔をひっぱたこうとしたが、力が入らず膝をついた。


「キスして欲しいか?」


「……っ」


 私は最後の気力を振り絞って、部屋を飛び出した。


「使用人にキスを、せがむ気か」


 余裕綽々の夫の声が、背中に貼り付いて不快感を増す。


 廊下にいたルーザが、すぐに駆け寄ってくる。


「ノエリー! どうした?!」


 私の名を呼び慌てる彼の胸に、飛び込んで唇を重ねた。

 ──発作が、すっと引いていく。


「残念でした。彼が、私が純潔を捧げた相手よ」


 振り向き、形式上の夫に言ってやった。

 あっかんべー!


「っま、間男を家に?!」


 氷冠の処刑人の声が裏返り、驚愕に紅目を見開く。


「『何でも買っていい』って言ったでしょ。だから、護衛として雇ったの」


 彼は何も言い返せず、ふらふらと背を向けて邸から出ていった。

 その背中が、やけに小さく見えた。


「何なの、あの人?」


「ショック受けてたな」


 ルーザが答えた。

 オレンジの短髪が、瞬きと共に揺れる。


「自分が『愛さない』って言ったのにね」


「『そんなこと言わないでください。私は愛します』って、言って欲しかったんじゃないか?」


「そーかなー? 男として自信なかったから、バリア張ったんじゃないかな?」


「あり得る」


 私はルーザの手を握った。

 私には、彼がいるから大丈夫。




 馬車の中は、妙に静かだった。

 窓の外を流れる景色も、今の私にはただの灰色にしか見えない。


「酷い! どうして、ルーザを置いてかなきゃいけないの?」


 私の声は、思ったよりも大きく響いた。

 けれど、黒と銀の礼装を纏ったオルステッドは、無表情のまま腕を組んだ。

 見た目だけは、本当に申し分ないほど美しい。


「どちらにせよ、城に着いたら会場まで入って来れない」


「もう! 口きいてあげない!」


「好きにしろ」


 その瞬間だった。

 胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられる。

 息が、うまく吸えない。


「……っ、あれ……?」


 視界が滲む。

 なんで? 昨日、発作を起こした時、ルーザとキスしたのに。

 愛し合ってる人とキスすれば、呪いは解けるはずなのに──


「どうやら君の愛人は、君を愛してなかったんだな」


「っ……う、く、苦しい……」


「そうだろうな。僕もそうだから」


 その言葉が、胸に突き刺さる。

 痛みが、倍になった気がした。


「……キスを……」


「契約書にサインしろ」


「なっ、こんな時に……!」


「君が先にしたことだ」


「……あなたが売った喧嘩を、買ったまでよ」


 初夜に「愛さない」などと言うから、離婚しようとしてるだけだ。


「元気そうだ。よかった。これなら城まで持ちそうだな。

 馬車が停まったら適当に、その辺の男にキスすれば間に合うんじゃないか」


「くっ……け、契約の内容を……」


「離婚の決定権は夫。不貞しない。跡継ぎを産む。この3つだ」


「っ! ひ、酷い……」


「どっちが」


 私は唇を噛んだ。

 悔しい。悔しいけど、今はそれどころじゃない。


「……わ、わかった。キスを、早く……」


 彼は、紅目を閉じた。

 私は震える手で彼の横に手を着き、唇を重ねた。


 ──熱い。

 けれど、確かに、発作はすっと引いていった。


「落ち着いたか?」


「……っ」


 私は彼の胸を、ボカボカと叩いた。

 悔しさと、情けなさと、どうしようもない感情が、拳に乗って溢れ出す。


 彼は黙って、私を抱き締めた。

 その腕の中で、私は抵抗するのをやめた。


 ──もう、何も言いたくなかった。



 しばらくして馬車の扉が開く。

 石畳の上に降り立とうとした私の前に、大きな手が差し出される。


 ……無視。

 私はオルステッドの手を取らず、自力で降りようとした。

 が、黄色いドレスの裾を踏んでバランスを崩す。


「──っ」


 倒れかけた私の腰を、彼の腕がしっかりと支えた。

 そのまま、何事もなかったかのように、彼は私をエスコートして城門をくぐる。



 王城の広間は、まばゆい光に満ちていた。

 天井から吊るされた水晶のシャンデリアが、無数の光を床に落とし、磨き上げられた大理石がそれを映し返す。

 貴族たちの衣擦れの音と、控えめな楽団の演奏が、空気を優雅に満たしていた。


 貴族たちが順に玉座へ進み、王と王妃に挨拶をしていく。

 私たちの番が来た。


 王妃ヴァルキリナ・セレストリアのワイン色した瞳が、私に向けられる。


「ノエリー夫人、新婚生活はいかが? 旦那様は優しい?」


 威圧感のある、わざとらしい声に、私はひきつった笑みを浮かべた。

 王妃がオルステッドを好いているという噂は、事実のようだ。


「そうですね……。

 男爵家の出ゆえ、戸惑いばかりですが……魔獣狩りに行くことの多い夫を、支えたいと存じます」


「まあ! 新妻を置いて魔獣狩りに? うふふ、いけない人ね」


 王妃が扇で口元を隠して笑う。

 その隣で、王が低く言った。


「……あまり引き留めるな。世間話は後にしろ」


 私たちは、その言葉を受け「では、失礼します」と、一礼。

 広間の中央へと進んだ。


「踊るぞ」


「イヤ!」


 即答。

 夫はため息をつき、急に芝居がかった声で言った。


「麗しの我が愛しき妻よ。どうか美しい君を独占する栄誉を、私にいただけませんか」


 ──ドキッ。


 何それ。

 何その声。

 何その言い回し。

 しかも、今、注目されてる。貴族たちの視線が、私たちに集まってる。


 私はひきつった笑みを浮かべたまま、ぎこちなく頷いた。


「よ、喜んで」


 そして、彼の手に導かれ、私は舞踏の輪の中へと踏み出した。

 足元が、ふわりと浮くような感覚。

 彼の大きい手が私の腰を支え、もう片方の手が私の指を包む。

 音楽が流れ、私たちは広間の中央で踊り始めた。

 シャンデリアの光が床に反射し、まるで水面の上を滑っているような錯覚に陥る。


「怒るなよ。君が好き勝手するからだぞ。いくらなんでも、やりすぎだ」


 彼の声が、不貞腐れたままの私の耳元で低く響く。

 私は視線を合わせず、冷たく言い返す。


「まず謝罪」


「君も、僕が苦しんでる時に──」


 無視。

 私は視線を逸らし、ステップだけを正確に刻む。


「おい」


 無視。


「手荒な真似をしたとは思うが、こちらも命がかかってる」


 無視。


「……悪かった」


 ようやく出た。

 私は彼の目を見て、静かに問い返す。


「何について謝ってるの? 初夜のこと? インキュバスのこと? さっきの契約のこと?」


 銀の眉が、わずかに動いた。


「あのな、契約については……跡継ぎを産むのは義務だ」


 私は深くため息をつき、また視線を逸らした。

 音楽はまだ続いているのに、心の中ではもう終わっていた。


「不仲だとバレるだろ」


「いっそ、そう思われた方が、互いに愛し合う人と出会える」


 その瞬間、彼のステップが急に早くなった。

 私はついていけず、足をもつれさせ──


「きゃっ──」


 彼の腕が私の腰をすくい上げ、私は宙に浮いた。

 くるりと1回転。

 スカートがふわりと舞い、視界がきらめく光に包まれる。


 着地した瞬間、足元がふらついた。

 けれど、彼はすぐに私を抱き上げ、そのまま広間を抜けていく。


 ざわめきが背後から聞こえた。


「仲良さそうだわ」


「やっぱり新婚さんね」


 ──違う!

 違うのに。

 私は彼の胸の中で、拳を握りしめた。

 この舞踏会で、誰も真実なんて見ていない。

 見せたいものだけが、真実になる。



 個室に入ると、彼は無言で水の入ったグラスを差し出してきた。

 私はそれを受け取り──ざばっ。


 中身をそのまま、彼の美しい顔にぶちまけた。


「……いい加減にしろよ!」


 水滴を滴らせながら、彼が低く唸る。

 流石は美男、濡れても絵になる。


「こっちが下手に出れば……! もういい、帰るぞ!」


 怒りに任せて、私の腕を乱暴に掴み、引っ張ろうとする。

 その瞬間──


 コン、コン。


 扉を叩く音が響いた。


「私よ」


 王妃の声。

 彼は舌打ちして、私を放し、扉を開けて廊下へ出ていった。


 ……静かだ。

 あの人が王妃と話しているのに、声が聞こえないなんて。


 不安になって、私も扉を開けて外に出た。


 廊下の奥、彼が壁にもたれかかっていた。

 顔は真っ赤で、呼吸が荒い。

 あれは──発作。


「早く医者を呼びなさい!」


 王妃が侍女に命じている。


「妃陛下、それは……サキュバスの呪いです。キスしないと治りません」


「くそ、バカっ……!」


 声かけた私を、紅い目が睨みつける。

 けれど、私はもう慣れていた。


「まあ、大変!」


 王妃は迷いなく、彼の顔を両手で包み──

 そのまま、唇を重ねた。


 彼の体がびくりと震え、次の瞬間、力が抜けてその場に崩れ落ちた。


「……本当に病気じゃないの?」


 王妃が私に振り返る。

 仮にも妻である私の目の前で、ためらいなく夫にキスし一言もない、その豪胆さに敬意を示しつつ答えた。


「心は病気ですが、肢体は健康です」


「なら、王宮で最高の治療を受けさせてあげましょう。グラヴァイス公爵は、国の英雄だもの。

 しばらく身柄を預かるわ」


 私は目を見開き、そして──満面の笑みを浮かべた。


「いいのですか! ああ、ありがとうございます! そのまま永遠に、留め置いていただいて構いませんので!」


「え、ええ……」


 王妃が少し引き気味に頷いた。

 


 私はスカートの裾をひらひらさせながら、王宮の廊下をスキップしていた。

 あの男が王妃に“預けられた”今、私の心は羽のように軽い。

 誰にも止められない。誰にも縛られない。

 ──これが自由。最高。


 会場に戻ると、ちょうど料理が並び始めたところだった。

 私は遠慮なく席に着き、ローストビーフにフォークを突き立て、モシャモシャと頬張る。

 ワインも進む。ああ、幸せ。


 そこへ、香水の匂いをまとった令嬢たちが、ぞろぞろと寄ってきた。


「たかが新興貴族のくせに、どんな卑怯な手を使ってグラヴァイス公爵に取り入ったの?」


 真ん中の金髪ロールが言った。

 つり目で、如何にも悪役令嬢といった風。


「弱みを握ったんでしょう?」


 2人の取り巻きが加勢する。


「男爵令嬢の分際で公爵夫人など、身の程知らずよね。

 銀百合様は、私達のものよ!」


 私はワインをくるくる回しながら、彼女たちを見上げた。


「あなた方は、どこの誰? 公爵夫人より身分が下なら、殴るけど?」


「まあ、野蛮だわ!」


「行きましょう!」


 ヒールの音を立てて去っていく背中に、私は小さく呟いた。


「きっしょ」



 満腹になった私は、ワインのグラスを片手に庭へ出た。

 夜の庭園は、月光に照らされて銀色に染まっていた。

 花々の香りが風に乗って漂い、噴水の音が静かに響く。


 夢中で景色を眺めていた私は、不意に誰かとぶつかった。


「ごめんなさい」


「こちらこそ。怪我は?」


 振り返ると、ハニーブラウンの髪にエメラルドの瞳を持つ美青年が立っていた。

 黒のローブに金の刺繍。どこか浮世離れした雰囲気。


「私、そんなに弱くないの」


 彼は、ふっと笑った。


「面白いお嬢さん。良ければ、庭を案内しましょうか?」


「庭師には見えないわね」


「失礼。僕はセディス・アルカナン。法衣貴族だ」


「私はノエリー・グラヴァイス」


「グラヴァイス?! あの"戦場の銀百合"公爵の? 娘?」


 私は吹き出した。


「確かに夫は10歳上だけど、娘は言いすぎよ」


「そうか、夫人か。残念だ。口説く機会がなくて」


「どうして? 既婚者の方が、自由に恋愛できるわ」


「僕は独占したい主義だから。好きになったら、夫のいる家には帰せない」


「情熱的なのね」


 彼のエメラルドが、月光を受けてきらめいた。


「……初対面で、こんなこと言うのなんだけど」


「え?」


 ──ドキッ

 私の鼓動が速くなる。


「呪われてるね、グラヴァイス夫人」


 そっちかい!

 口説くのかと思った。


「見てわかるの?」


「僕は、魔術師の端くれなんだ」


「すごい!

 そう、インキュバスの呪いにかかってるの」


「インキュバスなんて滅多にいないのに、不運だったね」


 私はグラスを傾け、苦笑した。


「夫が捕まえてきたの。自分がサキュバスに呪われたから、私もって」


「そんなバカな……。妻を呪わせるなんて、紳士の風上にも置けない。

 安心して。呪い解除は、人の手でできないわけじゃないんだ」


「愛し合った人とキスする以外に、方法が?」


「魔女の丘に咲く月下美人を採って、一晩聖水に漬けてから、魔力と一緒に飲めば解除できる」


「魔女の……」


 魔女の丘。Sランク冒険者じゃないと戻ってこられない、危険地帯。

 でも、公爵家ならハイランク冒険者を雇う資金はある。


「わかった。早速、手配してみる。ありがとう」


「どういたしまして。ただ……」


「?」


「一緒に飲み込む魔力は、宮廷魔術師レベルじゃないと効かない」


「え?! そんな人、滅多にいないわ」


 宮廷魔術師は、エリート中のエリート。

 なかなか出会えるものではない。

 彼はフフッと笑い、照れ臭そうに言った。


「グラヴァイス公爵から正式に依頼があれば、部署で引き受けるよ。

 彼は高位の軍人で、宮廷内でも地位がある。優先されるはずさ。

 プライベートで助けてあげたいのは山々だけど、魔力が枯渇して仕事に支障をきたすから」


 つまり彼が宮廷魔術師ということだ。

 セディスは、とんでもないエリートだった。


「実は……夫を、さっき王妃に預けてしまって」


 私は顛末を話した。

 王妃のキス、気絶、そして“預かり”まで。


「恐らく、王妃宮に監禁されたと思う。

 王妃がグラヴァイス公爵に付きまとってたのは、有名だから」


「あの人、童貞だったのよ。食べられちゃったと思う?」


「舞踏会が終わるまでは、大丈夫だろう」


「助け出して申請させることって、できるかな?」


「うーん……王妃宮に忍び込んでみよう」



 変身魔法って、もっとこう……優雅で美しくなるものだと思ってた。

 けれど──


 ゴリッゴリの筋肉男だった。

 しかも、隣にいるセディスも同じく、肩幅がドア枠に引っかかりそうなレベルのゴリマッチョ。

 私達は衛兵に変身し、王妃宮に潜入している。


「こういうのって、手に手を取り合ってハラハラドキドキする展開かと思ってたわ。ロマンス小説の読みすぎね」


 セディスが吹き出した。

 その顔は筋肉の下に隠れてるけど、笑い声は確かに彼のものだった。


「グラヴァイス公爵夫人は、本当に面白いね」


「ノエリーって呼んで。好きであいつの妻になった訳じゃないから」


「わかった、ノエリー。僕はセディスと呼んで」


 ──うん、悪くない。

 この変な状況でも、彼の声だけはちゃんと心地いい。



 王妃の寝室前にたどり着くと、予想通り、衛兵がずらりと並んでいた。

 全員、槍を構えてピリピリしている。


「やたらと兵がいる。あそこに監禁されてるようだ」


 セディスが小声で言う。


「どうやって潜入しよう?」


「僕が囮になるから、その間に救出して逃げてくれ」


「そ、そんなことして大丈夫なの?」


「まあまあ、見てなって」


 そう言うと、セディスはふわりと手を振り──

 次の瞬間、目の前に現れたのは、腰布ひとつの艶やかな踊り子。

 長い睫毛、くびれた腰、そして絶妙な露出。


 ……さっきまでの筋肉、どこ行ったのよ。


 セディスはくるりと回って、兵士たちの前に現れた。


「舞踏会の見せ物として呼ばれたのですが、場所がわからなくて……」


「案内しますよ!」


「いや、俺が!」


「まさか、俺が適任だろう!」


 兵士たちが揉め始めた。

 セディスはくすくす笑いながら、腰をくねらせて彼らを翻弄している。


 ──今だ。


 私はするりと壁沿いに進み、寝室の扉へと近づいた。

 鍵は……開いてる。

 静かに、音を立てずに扉を押し開ける。


 中は薄暗く、香の匂いが漂っていた。


 そこには──ベッドの上で手足を縛られ、全裸で転がるオルステッドの姿があった。

 王妃、ヤル気満々じゃないの。

 ざまぁ。いやもう、ざまぁすぎて笑いが止まらない。


「うひゃひゃひゃっ!」


「だ、誰だ? 来るな!」


 オルステッドが怯えた声で叫ぶ。

 その姿、情けなさすぎて面白い。

 氷冠の処刑人は、何処に?


「私よ。ノエリーよ」


「俺の妻は、そんないかつくないぞ! もっと可愛い」


 ……え?


 今、何て言った?


「可憐で、天真爛漫で、お転婆で……目が離せない」


「お前! オルステッドの偽物だな? 本物を、どこへやった!」


 美しい造形は彼にそっくりだが、魔法で犬か何かと入れ替わったようだ。


「俺が本物に決まってるだろう!」


「嘘だ! オルステッドは、クズで潔癖で幼児性愛で自己中だ! 悔しかったら、ヤツの持ってる闇艶本の内容を言ってみろ!」


 彼は顔を真っ赤にしながら、口ごもった。


「そんな……く……放課後の音楽準備室で……その……」


 私は腕を組み、ふむと頷いた。


「どうやらオルステッドのようだな。仕方ない、助けてやる」


 懐から例の短刀を取り出し、手際よく縄を切る。


「さっさと行くわよ」


「いやいやいやいや! 全裸は無理だろ! 隠すもの探すから待て!」


 私は、ため息をついた。


「誰も、あなたの“大したことないそこ”に興味なんかないから、早く行きましょう」



 しばしの沈黙を乗り越えたオルステッドが、ドアの隙間から外を窺う。

 その筋肉質な背中に向かって、ため息まじりに声をかける。


「何してるの。窓から逃げるわよ」


 私は窓辺に駆け寄り、腰のポーチからロープを取り出して手すりにくくりつける。


「なんで、そんなものを持ち歩いてるんだ」


「あなたが暴れた時、縛るために決まってるでしょ。

 ほら、私を担いで下まで降りなさい」


「冗談だろ? 俺より横幅あるぞ」


「あ──」


 そうだった。

 今の私は、変身魔法でゴリマッチョ衛兵の姿になっている。

 担がれるどころか、壁くらい登れそうな腕してる。


「自力で行くわ」


 私はロープを握り、するすると降りていく。

 月明かりの中、石壁を滑る風が気持ちいい──と思ったのも束の間。


 ぶちっ。


 ロープが途中で切れた。


 私は反射的に身をひねり、地面に着地。

 膝を軽く曲げて衝撃を受け流し、すぐに立ち上がる。


「大丈夫か?」


「全然平気。──はい」


 私は腕を広げて、上を見上げた。


「何してる?」


「飛び降りなさい。受け止めてあげる」


「……」


 彼が躊躇していると、廊下の方から声が聞こえてきた。


「早く!」


 オルステッドは観念したように窓枠に立ち、えいやっと飛び降りた。

 彼のあんまり立派でない陰部が、プルンプルン揺れた。

 私は、しっかりと彼を受け止め──


 ずしっ。


「……重っ」


 でも、落とさなかった。

 そのまま彼を下ろすと、また声が近づいてくる。


「王妃様の愛人が逃げたぞー!」


「こっちだー!」


 私は即座に彼の手を掴み、走り出した。


「まずい、行くわよ!」


 しかし、裸足の彼は、石畳に足を取られて転んだ。


「うわっ!」


 私は振り返り、彼をお姫様抱っこして、そのまま全力疾走。


「馬車どっち!」


「あっち!」


 夫が指差す方へ、私は風を切って駆け出した。



 馬車の御者が、私たちを見て絶句した。


「えっ、だ、旦那様?!」


 そりゃそうよね。

 全裸でお姫様抱っこされてる公爵なんて、誰が想像する?


「すぐに馬車を出してくれ。家に帰る」


 オルステッドは、威厳ゼロで命じた。


「は、はいっ!」


 御者が慌ててドアを開ける。

 私はオルステッドを、座席に降ろしてあげた。

 

 馬車が動き出すと、彼は隅っこで体育座りした。


「ねえ、前は隠れてるけど、違うものは見えてるけど」


「見ないように配慮すべきだ。それより……口を拭きたい」


「口? 汚れてないけど?」


「汚れた! 王妃に汚された!」


 ──ぷっ。

 思わず吹き出してしまった。

 この状況で、まだそんなこと気にしてたなんて。


「笑うな! 早くしろ!」


 私はわざと無視して、窓の外を眺める。

 しばらくして、彼がぽつりと呟いた。


「……ハンカチを貸して欲しい」


 舌打ちして、ポケットから1枚取り出して放り投げた。


 彼はしばらく無言で口元を拭いていたが、やがてぽつりと呟いた。


「……なぜ助けた?」


「呪いを解くためよ」


 その瞬間、彼の背筋がぴんと伸びた。


「っ! わ、わかった。き、君がそのつもりなら……俺も君を本気で愛すると誓おう。

 とりあえず、君の愛人は斬っていいか?」


「そういうことじゃないの」


「まだ、あの男を好いてるのか? 君を愛してないのに」


「だから、そうじゃなくて──」


 私は深呼吸して、言い直した。


「魔女の丘にある月下美人を採ってくれば、呪いは解けるの。

 そのためには、あなたが魔法省に救助要請しなきゃならないの」


 彼の紅目が見開かれた。


「確かな情報なのか?」


「あなたを助けるのに、協力してくれた魔法使いが言ったのよ。名前は確か……セディス・アルカナン」


「セディス? あの?」


 彼の声が、驚きで鋭くなる。


「凄い人なの?」


「若手トップだ」


「うひょ~い☆」


 ──やっぱり、セディスって最高!

 あの人がいれば、呪いも、人生も、なんとかなる気がする。



 扉を開けた瞬間、ルーザが驚いた顔で立ち上がった。


「な、な、なんだいきなり!」


 彼の両腕は、すでに兵士たちにがっちりと押さえられていた。

 私は重い足取りで、彼に与えた部屋に入る。

 離れの、私の部屋の斜め迎いだ。

 先ほど馬車で帰ってきたばかり。


「貴様、奥様を愛していなかったな? 愛していればインキュバスの呪いは消えるのに、消えなかった」


 野太い声で告げたゴリマッッチョな私を見て、ルーザはオレンジの眉をひそめた。


「愛してないから何なんだ? 金払いがいいから、傍にいただけだ。それの何が悪い?」


 ──ああ、そう。

 そういうことだったのね。

 こんな奴と、5年も付き合ってしまった。


 その時、背後から足音がして、オルステッドが入ってきた。

 そして無言でルーザに近づき──


 ガツンッ。


 拳が頬を打ち抜いた。

 ルーザが吹っ飛び、体が壁に叩きつけられる。


「純潔を捧げられた相手に、よくそんなこと言うな」


 オルステッドの声は低く、怒りに震えていた。

 起き上がったルーザは、オレンジの頭を振って答えた。


「──っ、……あれはノエリーの、夫への当てつけだ。むしろ俺は、利用された」


 一瞬、目眩を感じた。

 私がどんな気持ちで嫁いだか、わからないというのか。


「……摘まみ出して。荷物は後で、実家に送ってあげる」


 兵士たちが、ルーザを引きずっていく。

 ──彼は最後まで、私の正体に気づかなかった。



 湯上がりの私はバスローブを着て、ベッドの端に座る。

 オルステッドが、少し離れた場所から私を見ている。


「大丈夫か? っていうか、いつまでその姿だ?」


 私の体は、ずっとゴリマッッチョ♂のまま、魔法が解ける気配がない。

 かと言って不自由もないので、あまり気にならない。


「えー、知らないよ。明日セディスに連絡してみる」


「セディス……? 名前で呼んでるのか?」


「それがどうしたの?」


 夫は少し黙ってから、視線を逸らした。


「……俺が明日、手配する。君は休んでろ」


 私はベッドに横になりながら、ふっと思った。


 ──明日には、元の姿に戻るのかな。

 それは……少し寂しいな。



 朝の光がカーテン越しに差し込む中、私はベッドの上で目を覚ました──と思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 また、発作。息が詰まる。視界が滲む。


「ノエリー! 大丈夫か?!」


 隣で寝ていたオルステッドが、慌てて起き上がる。


「待って……キス以上のこと、してみましょう」


 ──これはチャンスだ。


「は?」


「長く……しっかりキスすると、発作の頻度が下がるの。つまり、最後まですれば滅多に……起きなくなるかも」


「は? それは……は? え?!」


 彼の顔が、見る見るうちに真っ赤になっていく。

 私はその反応に、思わず笑いそうになった。

 でも、今は真剣よ。たぶん。



 2時間後、私はゴリマッチョの姿のまま、優雅にパンをちぎっていた。

 向かいの席では、オルステッドが涙目で私を睨んでいる。

 目玉焼きにフォークを乗せたままだ。


「何よ? 無理矢理は、してないじゃない。ちゃんと最終確認したでしょ」


「そこに至るまでが、強引だった」


 ──乙女かよ。


「よがってたくせに。それに、キスしなくても発作が治まるって、わかって良かったじゃない」


「さ、さささ……3回もする必要あったか?」


 私は、にっこり笑った。


「あなたの反応が可愛くて、止まらなかったの」


 彼の顔が、湯気の立つ紅茶よりも真っ赤になった。

 ふふ、愉しくて仕方がない。

 せっかく男の体になったんだもの。ちょっとくらい、冒険したい。


 しかも相手は、"帝都1の美男"と名高い“戦場の銀百合”。

 その完璧な顔が、羞恥と快楽と、ほんの少しの屈辱で歪む様子──

 絶景だったわ。


「それにしても、あなた。前は使ったことないのに、後ろはあるなんて──とんでもない変態だわ」


「うるさい! 戦地では、よくあることだ! 特に、上官の要求は断れない!」


「公爵なんだから、断れるに決まってるじゃない。ただの変態よ」


 彼はテーブルに突っ伏して、耳まで真っ赤にしていた。

 ──もしかして、幼児性愛じゃなくて同性愛だったのかしら。

 女性が苦手なの、そういう理由?

 まあ、どっちでもいいけど。



 寝室のドアをノックする音に振り向くと、執事の声が響いた。

 私はバスローブに袖を通して、応対する。


「奥様、お客様がいらしています。セディス・アルカナン卿です」


 ──セディス。

 ハニーブラウンの髪に、エメラルドの瞳。

 あのハンサムな魔術師の顔が、脳裏に浮かぶ。

 夫から連絡が行く前に、来てくれたようだ。


「すぐ着替えて行くわ」


 ドアを閉めて、ベッドに目をやった。

 そこには全裸のオルステッドが、魂の抜けた目で転がっていた。


「ねえ、起きられないなら、私だけ行くわ」


「ううん……俺も行く」


 彼はノロノロと起き上がり、辺りを見回す。


「あれ? 俺の服は?」


「メイドが、洗濯に持って行ったのでしょう。ここは離れだし、あなたの部屋は本邸よ」


 すでに着替えた私は彼の前に立ち、にっこり(ゴリッと)笑った。


「そのままでいいわ」


「え? ちょ、ま──」

 


 廊下を歩くたび、床がミシミシ鳴る。

 ゴリマッチョが全裸公爵を抱えて歩いてるんだから、そりゃ目立つ。

 2人を合わせた体重は、200キロくらいだろうか。

 使用人たちが目を逸らすのも、無理はない。

 オルステッドは、陰部を手で押さえている。

 隠してるつもりらしい。


「はい、到着」


 本邸にある彼の寝室に、ぽいっとその体を投げ込んだ。


 ──直後。


「きゃあああああっ!!」


「な、なにこの人!? 裸!? えっ、えっ!? 公爵様!?!?」


「ちょ、ちょっと待って! 私まだ心の準備が──!」


 部屋の中は、悲鳴と混乱の嵐。

 “愛人候補”として集めた7人の女性たちだ。

 全裸の公爵が突然、投げ込まれたら、そりゃパニックにもなるわね。


 私はそのまま踵を返し、セディスの待つ応接室へ向かった。



「お待たせしました」


 私は扉を開けて応接室に入った。

 ゴリマッチョの姿のまま、セディスの前に立つと──


「いや、こちらこそ先触れ無しに、すまない。

 変身魔法は半径5メートル以内に近づかないと、解除できないもので」


 彼が微笑みながら手を差し出す。

 その瞬間、空気がふわりと揺れた。


 筋肉がすうっと引いていき、私は元の姿に戻った。

 黄色いドレスがふわりと揺れ、若葉色の髪が肩に落ちる。


「いいえ。こちらは一方的に、お世話になったんですから文句など……。

 本当に、ありがとう。

 あれから、どうなったの? 大丈夫だった?」


「君がグラヴァイス公爵を脱出させた混乱に乗じて、鼠になって逃げたよ。問題ない」


「そうだったの、良かった。心配してたの」


 セディスは少し照れたように笑った。


「ふふ、ありがとう。ところで、グラヴァイス公爵は?」


「え、寝室かしら。ハーレムの女たちに捕まってるはず」


「何だって?! 君は本妻だろう? 家の中に女性が?!」


「私は離れに住んでるから」


 セディスは頭を抱えた。


「信じられない……そんなことなら、僕が──」


 その瞬間、扉がバンッと開き「助けてくれー!!」と、全裸の当主が、シーツも巻かずに駆け込んできた。


「ど、どういう……」


 セディスが、エメラルドの目を見開く。


「あなた、お客様の前では服を着てちょうだい」


「君が、あの女たちを用意したんだろう! 今すぐ家に返してくれ!」


「あの中に、あなたの運命の人がいるのよ」


「いるわけないだろう! 未婚なのに、非処女だぞ?!」


「全員やったの?」


「やるわけないだろ! ともかく! 積極的なんだ! 生娘に、あんなことできるか! どこから連れてきた?!」


 私は無言で紅茶を啜った。


「まさか……」


「娼館」


「うわあああああああっ!!」


 氷冠の処刑人は、その場で白目を剥いて気絶した。


「朝から騒がせてごめんなさい。

 ──これ、片付けて」


 使用人に指示を出すと、彼らは慣れた手つきで全裸の公爵を回収していった。


 セディスはドアを見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「……グラヴァイス公爵の呪いを解くため、君が女性を用意したということで合ってる?」


 流石、宮廷魔術師。察しがいい。

 サキュバスの呪いを解くには、真実の愛が必要だから、そのために私が女性を集めたとすぐ理解した。


「そう。でも、彼は同性愛者か幼児性愛なの」


 肩を竦めて答えると、セディスは気まずそうにエメラルドの瞳を伏せた。


「……そうか」


「夫に、何か用だった?」


「……魔法省に救助申請するのに、僕が話を通しておいた方がいいかと思ったんだが……また出直そう」


「ふふ、そうだったのね。何から何まで、ありがとう」


 私は紅茶を口に運びながら、ふと考えた。

 ──この騒がしさも、あと少し。

 呪いが解けたら、何が残るのかしら。

 愛する人は、もういないのに。



 セディスを見送って、離れに戻る。

 扉を開けると、部屋の隅でシーツにくるまったオルステッドが、ブルブルと震えていた。

 銀髪は乱れ、紅い瞳はどこか虚ろ。

 まるで、戦場帰りの兵士のような顔をしている。


「全裸で動き回るから、風邪引くのよ?」


「風邪ではない! 恐ろしいことを……娼館など、性病の巣窟だぞ? あの部屋は、もう使えない!」


 私はソファに腰を下ろし、脚を組んで氷冠の処刑人を見下ろした。


「そんなこと言ったら、娼館通いしてる男たちとウホウホしてた、あなたの方がヤバイって」


「俺は大丈夫だ。童貞狙いだから」


「上官命令って言わなかった?」


 彼は黙った。

 耳が、じわじわと赤くなっていく。


「暇なら、魔法省に申請しに行ってよ」


「アホか! 昨日の今日で王宮に行ったら『強制入院』と言って、また王妃の部屋に連れて行かれるだろう!」


「じゃあ、いつならいいの?」


「2ヶ月後の建国祭に出ないとならないから、その時」


「2ヶ月も先?! それまで発作と戦うの?!」


「仕方ないだろう」


 その時、ノックの音がして、執事が顔を覗かせた。


「あの、お取り込み中、失礼します。そろそろ、お仕事していただけますか」


「君が代わりにやってくれ」


「はあ?」


 私は眉をひそめた。


「君に朝から6回掘られたあと、裸のまま本邸へ運ばれ、病巣に突っ込まれたんだ。

 ライフポイント0に決まってるだろ。責任とれ」


 ぶっちゃけ、戦場の銀百合を組み敷いてアンアン言わせるの、面白すぎた。

 でも、今はそれを顔に出さず、ため息ひとつ。


「……わかったわ」


 私は立ち上がり、ドレスを着替えて執務室へ向かった。



 昼の光が差し込む執務室。

 私は深紅のカーペットを踏みしめてデスクに向かい、書類の山をさばいていた。

 窓の外では庭師が剪定をしていて、鳥のさえずりが心地よく響いている。


「奥様は、ご実家で領地経営をされてたのですか?」


 老執事が静かに尋ねてきた。


「一通りは習ったけど、公爵領地とは規模が違いすぎて別物よ」


「いえ、旦那様と遜色ないですよ」


 私は苦笑しながら、次の書類に目を通す。

 そこへ、使用人が駆け込んできた。


「奥様! 暇を持て余したハーレムの方達が、使用人を次々誘惑し、連日トラブルになっているのですが……」


「仕方ないわね」


 私はペンを置き、椅子にもたれた。

 ──これは、そろそろ決着をつける時かもしれない。




 朝の陽射しが、まぶしい訓練場。

 私は観覧席に腰を下ろし、日傘を傾けながら、中央に立つオルステッドを見下ろしていた。

 今日は何となく紅いドレスを選んだ。


 彼は白い訓練服に身を包み、模擬刀を手にしている。

 額にはうっすらと汗。

 その隣には、同じく模擬刀を構えた7人の美女たち──

 ハーレム要員たちが、ずらりと並んでいた。


「どういうことだ?」


「あなたが、その7人に勝ったら、彼女たちには元の場所に戻ってもらう。

 あなたが負ければ、本邸で暮らしてもらう」


「きききき君は、それでいいのかっ」


「いいから言ってるのよ。──始め!」


 私の合図とともに、7人が一斉に突撃した。


「ひいいっ!」


 オルステッドが情けない声を、上げて後退る。


「逃げたら相手の不戦勝だからね!」


「くそっ……!」


 彼は仕方なく模擬刀を振るい、次々と相手の武器を弾き落としていく。

 だが、拾われてはまた構えられ、終わりが見えない。


「君たち、いくらで雇われた? 俺が倍額、払うから寝返ってくれないか?」


 女たちは一瞬、動きを止めた。


「私たちは、"公爵の愛人"という地位が欲しいのです」


「ならば──愛人を探してる貴族と橋渡しをしよう。全員だ」


 沈黙。

 そして、女たちは顔を見合わせ、頷いた。


「……その方が確実ですね」


「1人しか選ばれない地位に夢見るより、現実的です」


 彼女たちは模擬刀を置き、整列して一礼した。


「ご提案、感謝いたします。公爵様」


 オルステッドは、その場にへたり込み空を見上げた。


 こりゃダメだ。彼に春は来そうにない。

 やっぱり彼が学生時代、好きだった女性を見つけた方が早いかも。



 月明かりがレースのカーテン越しに差し込み、部屋の中を淡く照らしていた。

 私はベッドの上で髪をほどきながら、隣に丸まっているオルステッドを見下ろす。


 シーツにくるまったまま、彼は壁に背を向けていた。

 銀髪が枕に散らばり、背中の筋がかすかに震えている。


「もう女性たちはいないのに、何故ここで寝るの?」


「まだ菌が残ってるだろう」


「そう。まあ、いいわ。今日のあなたの顔、見物だったもの。

 冷たい美貌が、困惑と恐怖に染まって……ぐふふ」


「君も相当、変態だぞ」


「気付いたのね。──おやすみなさい」


 私はベッドに潜り込み、背を向けて目を閉じた。

 シーツの感触が心地よく、まぶたが自然と重くなる。


「……きょ、今日は何もしないのか?」


 背後から、かすれた声が聞こえた。


「発作、起こしてないじゃない」


「後継ぎを産む約束だぞ」


 私は、ため息をついた。


「そんなこと言うなら、王妃に身柄引き渡すから。

 あーあ、助けなきゃ良かった。月下美人も取りに行けないし」


 しばらく沈黙があって──

 もぞもぞと、背後から腕が伸びてきた。


「何すんの。王妃に引き渡されたいの?」


「こ、これくらい、いいだろう。これ以上は、しないから許せ」


 彼の太い腕が、私の腰にそっと回る。

 ぎこちなく、でも確かに温かい。


「どうして? 私のことは、汚いとか怖いとか思わないの?」


 問いかけると、彼の声が小さく返ってきた。


「……清らかに見える」


 私は少しだけ目を開けて、天井を見つめた。

 ──前にも私のこと「可愛い」とか、言ってた気がする。

 自慢じゃないけど、私の顔面レベルは平均値だ。

 うん、よし。眼科に連れて行こう。


「ふうん。おやすみ」


「それだけ?」


 私は返事をせず、静かに目を閉じた。




 朝の光が差し込むダイニング。

 白いクロスの上に並ぶのは、焼きたてのクロワッサン、ハーブ入りのオムレツ、そしてフルーツの盛り合わせ。

 私は紅茶を啜りながら、オルステッドの様子をちらりと見る。


 夫は珍しく、機嫌が良さそうだった。

 銀髪をきちんと整え、シャツのボタンもちゃんと留まっている。


「出掛けないか?」


 オルステッドが、ふいに言った。


「発作が、一昨日から起きてない。君も昨日の朝が最後だろう?

 この分なら、外出にも影響ないだろう」


 私はフォークを止めて、彼を見た。


「そうね。どこに行くの?」


「南方から珍しい花が来てる。確か“ハイビスカス”と言って、茶にして飲めるらしい」


「へえ! 面白そう! 観たい!」


 思わず身を乗り出すと、彼の顔がふっと綻んだ。

 その笑みは、いつもの冷たい仮面を忘れたように、どこか柔らかかった。



 店に入った瞬間、空気が変わった。

 天井から吊るされたヤシの葉の飾り、壁には珊瑚の装飾。

 中庭には、真紅やオレンジのハイビスカスが咲き乱れ、ココナッツの木が風に揺れていた。


「うわー! 凄い!」


 私はスカートの裾をひらひらさせながら、庭に駆け出した。

 花の香り、潮風のような空気、そして鮮やかな色彩。

 まるで一瞬、南の島に来たみたい。


「こうして見ると君も、まだまだ子供だな」


 後ろから、からかうような声が聞こえた。


「あなたは、おじさんね!」


「くっ……」


 美しい顔がぴくりと引きつったのを見て、私はくすっと笑った。

 ──たまには、こういう日も悪くない。

 発作もない、争いもない、ただの昼。

 それが、少しだけ嬉しかった。



 物色を終えテーブルについた私は、透き通るガラスのグラスに口をつけ、冷たいジュースを1口。


「これ、美味しい」


 甘くて、少しだけ青い香り。

 ──ココナッツジュース。

 思わず笑みがこぼれる。


 オルステッドは店員に何やら耳打ちして、土産を用意させていた。

 その横顔は、いつになく穏やかで──

 まるで、普通の夫婦みたい。


 それから運ばれてきた巨大なステーキに、私はナイフを構えた。

 ……が、なかなか切れない。


「……っ、んん……くっ」


 すると、向かいから手が伸びてきて、彼がナイフを取り上げた。

 手際よく、肉を切り分けて皿に戻す。


「あ、ありがとう」


「構わない。君は、俺の妻だから」


「そうね。今だけの特権、ね」


 私がそう返すと、彼の手が一瞬止まった。

 そして、低く静かな声で言った。


「……初夜に、どうして俺が『愛することはない』と言ったか、知りたくないか?」


「興味ない」


 私はフォークを口に運びながら、淡々と答えた。


「それが例えば、あなたの女性恐怖症や潔癖が根幹にあることとして、事前に相談してくれた上で『愛されることは、期待しないで欲しい』と言われれば、私も納得した。

 でも初夜に、いきなり言われたら、攻撃されたと受け取る。

 そこに誤解があっても、解決するつもりはない。私の落ち度じゃないし」


 彼はしばらく黙っていた。

 そして、ぽつりと呟いた。


「……デビュタントで君を見て……」


 ──まさか、一目惚れしたとか?


「驚いたんだ。彼女に似てなくて」


「はい?」


 そっち? 誰に?


「ルイーズだ。君の従姉の」


「ああ、あなた達は同じ年ね」


 ルイーズは、母方で1番年長の従姉だ。

 貴族学園で2人は、同学年だったわけだ。


「学生時代、好きだったんだ。ルイーズが」


 ──ああ、なるほど。

 言われてみれば、従姉は焦げ茶色の髪に、中背でスレンダーだ。


「けれど、彼女には婚約者がいて……そもそも身分差で……俺は、まだ爵位を継いでなかったし」


 ルイーズは伯爵令嬢だから、絶対無理ってほどでもないけどね。

 この話、どこへ向かってるのかしら。


「それで?」


「調べたら、婚約してない従妹がいた。それが君だ。

 だから楽しみだったんだ、デビュタントが。どんな娘かと」


 当時の私は、経営していた商会の仕事が楽しい上、平民の恋人ルーザもいたので「将来は神に仕えたい」と、縁談を断っていた。


 でも、グラヴァイス公爵家からの縁談は、断れなかった。


「ルイーズに似てないのに何故、私に縁談の申し込みを?」


「産まれてくる子供は、似てるかもしれないだろう?」


 フォークが、手から滑り落ちそうになった。


「先に帰ります」


「ま、待って、話がまだ──」


「結構です」


 私は立ち上がり、背を向けた。

 ──早く、離婚しよう。


 その時、腕を掴まれた。


「誠実に向き合うために、本音を言ってるんだ。ちゃんと聞いてくれ」


 いやいやいやいや。

 インキュバスに妻を呪わせるような男が、何を言ってるの?


「ナイナイナイナイナイナイナイナイナイナイナイナイ」


「君だって、俺に酷いことたくさんしたじゃないか!」


「あなたは私に何されようが、黙って耐えるしかないのよ」


「……あんなに抱いておいて、少しも俺を愛してないというのか?」


 店内がざわついた。

 客たちが、こちらを見ている。


「お客様、落ち着いてください!」


 店員が駆け寄ってくる。


「あなたのせいで、恥ずかしいじゃないの! ──きゃっ!」


 気づけば、私は彼に抱き上げられていた。


「ちょ、ちょっと!」


「支払いはグラヴァイス公爵邸に、回しておいてくれ」


 店員にそう告げると夫は、私を抱えたまま店を飛び出し、馬車に乗り込んだ。



 走り出した馬車の中で、私はオルステッドの腕の中にいた。

 彼の腕は力強く── 私は身をよじって叫んだ。


「離してよ!」


「静かにしないと、キスするぞ」


 ……っ。


 私は口を閉じた。

 彼の顔が近くて、息がかかる距離。

 その紅い目は不安げだった。


「そんなに……嫌か……」


 その声に、私は返事をしなかった。

 ただ、視線を逸らした。



 馬車が止まり、私たちは森に降り立った。

 木々の間から差し込む光が、地面にまだらな影を落としている。


「追いかけっこしよう」


「はああ?」


 私は思わず声を上げた。


「10分間、君が逃げきれたら──離婚しよう」


 ……え?


「私が、あなたから逃げきれると思えない」


 相手は名高い"戦場の銀百合"なのだ。

 そもそも歩幅が違う。


「ハンデはやる。俺は2分、動かない。だからゲームは実質8分だ」


 彼は本気の顔をしていた。

 私は唇を噛み、時計を確認すると、ドレスの裾をたくし上げて走り出した。



 息が切れるまで走った。

 枝が頬をかすめ、足元の根に何度もつまずきそうになる。

 それでも、私は止まらなかった。


 やがて、1本の大きな木を見つけて、私は迷わず登った。


「貴族夫人が木登りできるなんて、思ってないでしょうね……ふふふ」


 葉の間から空を見上げる。

 10分。もうすぐ──


「見つけた」


「なっ……!」


 下から声がして、私は枝にしがみついた。


「罠にかけたわね! 2分、数え終わる前に動いたか、見張りをつけたんでしょう!」


「罠?」


 オルステッドは、呆れたようにため息をついた。


「俺は軍人だぞ? 足音で方向はわかるし、その格好の君が、どのくらい走れるかも予想できる。

 君のことだから、木登りくらいはできるだろうと思った」


 ……くっ。


「来いよ」


 彼が腕を広げて、飛び降りろと促す。


「あなた、か弱くて、すぐ気絶するもの。嫌よ」


 彼はまたため息をついて、するすると木を登ってきた。

 そして、私を片手で抱き上げて、軽々と地面に降りた。


「……」


「帰ろう」



 並んで歩いていると、茂みの奥から低い唸り声が聞こえた。

 魔獣──黒い毛並みに鋭い牙、四つ足の獣が飛び出してくる。


「下がってろ」


 オルステッドは一言だけ言って、剣を抜いた。

 その動きは、まるで風のように滑らかで、鋭かった。


 ──一閃。


 魔獣は声もなく崩れ落ちた。


「……ハーレム要員には手加減してたの?」


「当たり前だろう! 素手でも3分あれば全員、殺せる」


「……物騒な公爵様ね」


 でも、少しだけ。

 ほんの少しだけ、頼もしく見えたのは──

 きっと、森のせい。きっと。



 森を抜けた帰り道、馬車の中は静かだった。

 けれど、突然──胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


「……っ、また……!」


 私が胸元を押さえた瞬間、隣でオルステッドも苦しげに顔を歪めた。


「く……っ、まさか……同時に……!」


 視界が揺れる。

 彼の手が私の頬に触れ、唇が重なる。

 熱くて、苦しくて、それでもどこか懐かしい。

 呼吸が楽になり、体を離そうとする──しかし!


 彼の手が、私のスカートの中へと滑り込んだ。


「なっ」


「家まで……待てない」


 完全に発情した戦場の銀百合が、紅い瞳を滾らせる。


「え、まだ……私が“従姉に似た子供を産むために娶られた”ところまでしか、聞いてないんだけど。

 さっき、ちょっと見直したの、取り消し!」


「それは明日の朝、話すから。今日は……ベッドから出たくない」


「はあ? まだ午後よ?! 何回するつもりなのよ!」


 そうこうしているうちに、馬車が急に止まった。


「……っ!」


 彼が私を抱き上げ、馬車の扉を開ける。

 外の光が差し込み、使用人が駆け寄ってきた。


「王妃陛下が、お待ちです!」



 ヴァルキリナは、白銀のドレスに身を包み、テラスの椅子に優雅に腰かけていた。

 その赤い瞳は、どこか寂しげで、けれど強く澄んでいた。


「お待たせしました」


 オルステッドが静かに頭を下げ、私も後に続く。


「いいのよ。約束なしに来たのは、私だから。

 それより──2人で話したいの」


 王妃が夫を見て、それから私を見た。

 私はドレスの裾を整え、微笑んだ。


「どうぞ、ごゆっくり」


 そして、踵を返して離れへ戻った。

 しばらくして、使用人が駆け込んできた。


「奥様! 旦那様が……王妃陛下に連れて行かれました」


「まあ、いいんじゃない」


 私はソファに腰を下ろし、紅茶を口に運ぶ。

 少し胸がツキンとしたが、それは気にしないことにする。


「し、しかし……旦那様は『童貞は、奥様に捧げる』と」


 使用人が差し出したのは、一冊の革張りの日記帳だった。



《オルステッドの日記》


4/11

デビュタントで見初めてから3年。

ようやくノエリーを娶ることができた。

義父は「家格が釣り合わない」と難色を示したが、押し切って良かった。

義父の行きつけの酒場の酌婦たちを皆、買収した甲斐があった。


4/12

初夜で「愛することはない」と言ったら怒らせてしまった。想像してたより気が強い。

俺はただ、彼女が結婚を機に別れた恋人を自然に忘れるまで、急かしたくも負担になりたくもなかったから、そう言っただけで。

彼女が吹っ切れたら「本当はずっと好きだった。この時を待ってた」と伝えるつもりだったのに。

今は俺と離婚することしか考えてない。どうしよう。




 私は静かに日記を閉じた。

 胸の奥が、ざわざわと波立つ。


 ──あの夜の言葉も、あの冷たい態度も。

 全部、勝手な“優しさ”のつもりだったってわけ?


 私は立ち上がった。


「ねえ、オルステッドの捕まえた魔物って、インキュバスだけ?」


 老執事が、少し驚いた顔で答える。


「いいえ、何種類かございます」


「見せて欲しいの。それから──セディスに言付けを」


 私はドレスの裾を翻し、歩き出した。

 このままじゃ終われない。

 彼の“本音”を聞いたからこそ、私は──

 もっと深く、知る必要がある。




 夜の王妃宮。

 私はハーピーの背に乗り、月明かりの中を滑るように飛んでいた。

 目的地は、ヴァルキリナの寝室。


 ハーピーが翼をたたみ、私達はガシャンと派手な音を立てて窓を越えた。


「夫を、返してもらいに来ました」


 部屋の中では、オルステッドが縛られた状態で、王妃に押し倒されていた。

 ふたりとも裸。


「不仲ではなかったのか? 前回とは違うようだ」


 ヴァルキリナが、ワイン色の目を細めて微笑む。

 その瞬間、扉が開いて兵士たちが雪崩れ込んできた。


「妃陛下、ご無事で?! 侵入者だ!」


「待って。今は取り込んでるの」


 王妃が手を上げ、兵士たちを制した。


「今も“好き”とは言えませんが、これから好きになるかもしれないので──経過観察中です」


 私がそう答えると、王妃はくすっと笑った。


「その程度の想いなら、私にくれればいい。褒美はとらす」


「こちらも、手ぶらで来たわけではありません」


 私はハーピーに合図を送り、耳栓する。

 ハーピーが翼を広げ、柔らかな歌声を響かせる。

 その音に、兵士たちはふにゃふにゃと崩れ落ち、王妃もふらりとよろめいた。


「失礼します」


 私は懐から特製の“魔法スライム”を取り出し、王妃の股へと投げた。

 スライムはぷるんと跳ね、王妃に絡みつく。


「っ……な、なにこれ……!」


「たいして立派でもないブツの童貞とするより、そのスライムの方がよっぽど妃陛下を満足させるはずです」


「た、たしかに……良い……!」


 王妃が身をくねらせ、ワイン色の髪を振り乱す。


「それは差し上げますので、夫を返してもらいます」


 その瞬間、部屋の奥から魔力の気配が走った。


「大丈夫か? 間に合って良かった」


 セディスが現れた。

 私は振り返り、にやりと笑う。


「グッドタイミングよ。私に、あの魔法をかけて」


「お安いご用だ」


 魔力の光が私を包み、筋肉が盛り上がる。

 ──再び、ゴリマッチョの姿に。


「よし」


 私は縛られたままのオルステッドをお姫様抱っこし、セディスの魔法で空へと舞い上がった。



 夜風が心地よい。

 私達はグラヴァイス公爵邸の庭に着地し、へにゃへにゃのままのオルステッドを地面に降ろした。


「ハーピーには、これ」


 彼女に金の鳥の像を差し出す。


「重いから気をつけてね」


 そして、セディスに向き直る。


「あなたには、これ」


「……商会の権利書?! 僕には経営の知識ないよ」


「もう過渡期が終わったところなの。ほとんど自動運転だから大丈夫。

 私は──この人と向き合わないといけないから」


 へにゃへにゃの夫に目をやると、セディスは苦そうに微笑んだ。


「……そうか。わかったよ。

 また何か、あれば言ってくれ。じゃあね」


 彼は振り返り、魔法陣の中へと消えていった。


「──2人とも、ありがとう!」


 その声が夜空に響く。


 私はオルステッドを再びお姫様抱っこし、離れの寝室へ戻った。

 彼はまだふにゃふにゃのまま、私の腕の中でぐったりしている。


「いつまで、へにゃへにゃしてるわけ?」


「ノエリー……どうして、その姿のままなんだ……? セディスは?」


 私はベッドに彼をぽすんと下ろし、筋肉質な腕を組んで見下ろした。


「建国祭まで、このままよ」


「はあ?!」


「そう言えば、あなた──『今日はベッドから出たくない』って言ってたわよね。

 是非、そうしましょう」


 私はにっこり(ゴリッと)笑った。

 彼の顔は、青くなったり赤くなったりを繰り返した。





 王宮の大広間は、金と白を基調にした華やかな装飾で彩られていた。

 シャンデリアが煌めき、貴族たちの笑い声が高く響く。


 私は元の姿に戻り、深緑のドレスに身を包んでいた。

 オルステッドは黒の礼装に身を包み、シルバーブロンドを後ろに撫でつけている。

 ふたり並んで会場に入ると、視線が一斉に集まった。


 玉座に向かって一礼する。

 ──王妃の姿は、ない。


 聞いた話によると、スライムで調子が良くなった王妃は、ふにゃふにゃになった兵士たちと乱交に及び、不義密通の罪で処刑されたらしい。


 ……まあ、あの人らしい最期ね。



 会場の片隅で、私は見覚えのある顔を見つけた。


「あら? ルイーズ!」


「えっ」


 オルステッドの肩が、ぴくりと跳ねた。


 ルイーズ──私の従姉。

 焦げ茶色の髪を編み上げ、淡いラベンダーのドレスを纏った彼女は、相変わらず清楚。


「オルステッドが、あなたのこと好きなんですって!

 良ければ、愛人にしてあげて!」


「な、何言ってるんだ君はっ?!」


 私の言葉に、夫が慌てふためく。

 ルイーズが、ぱあっと顔を輝かせた。


「ノエリーの言ってることは、本当なの? 嬉しい、私もよ!」


 そのまま、彼に抱きついた──


「ひいぃぃぃっ!!」


 オルステッドは悲鳴を上げて、その場に倒れ込んだ。


 ……あらら。

 やっぱり、まだまだ“経過観察”が必要みたいね。



 控え室にある、ふかふかのソファに腰かけ、私はオルステッドの頭を膝に乗せていた。

 彼の銀髪が私のドレスに、さらさらと流れている。

 ようやく、彼の瞼がぴくりと動いた。


「気付いた? ルイーズに抱きつかれて、気絶したのよ」


「……俺は、彼女のこと好きじゃなかった」


「は? だったら、どうして私と結婚したの?」


 彼はしばらく黙って、それからぽつりと語り始めた。


「だから、わかってなかったんだ。

 彼女への気持ちは、単なる……憧れだったんだ。君への気持ちとは、全然違う」


「ますます、わからないんだけど?」


「君は最初から、触れても平気だった」


「発作が起きてたからでしょ?」


「違う。……デビュタントのとき」


 彼の声が、少しだけ懐かしさを帯びる。


 ──私のデビュタントの日。

 私がルイーズに似ていなかったことにがっかりして、彼は舞踏会から帰ろうとした。

 でも、爵位を継いだばかりで、挨拶に来る貴族たちに囲まれて帰れず、苛立っていたらしい。


 そんな時、料理コーナーで信じられない勢いで食べていた私を見つけた。

 傍で食事しようと料理に手を伸ばすと、その腕を掴まれた。


「そのローストチキンは、私が30秒も前から狙っていたのです。

 あなたは、そちらのサラダを召し上がっては、どうですか」


 口の端にサーモンをはみ出させて、睨みつけた私。

 その瞬間、彼の心は“トゥンク”と鳴ったとのこと。


「腕を掴まれても、俺が悲鳴を上げなかったのは、乳母と君くらいだ」


 ……なんだそれ。


「でも、おかしいだろ? ルイーズが好きなはずの俺が、ルイーズに全く似ていない“サーモン女”を好きになるわけがない。

 でも、来る日も来る日も、君が頭から離れない。

 ──だから俺は、“2人の間に産まれる子供が、ルイーズに似るかもしれないから、ノエリーが気になるのだ”と結論付けて、君への縁談申し込みを正当化したんだ」


「その辺のくだりは、日記で読んだから巻いてよ。話、長いのよ。あなた」


「読んだのぉぉぉ!?」


「ともかく私が聞きたいのは、なぜ私を娶った理由を『子供がルイーズに似るかもしれないから』って、レストランで答えたのかってこと」


「だから、あの時も『話の途中だ』と言ったじゃないか!

『そう思って縁談を申し込んだが、うまくいかず。君を直接、説得しようとして恋人がいることに気付き、やっと恋心を自覚した』って続けたかったのに、君が怒ってレストランから、出て行こうとしたんだろう!」


 私は、ため息をついた。

 でも、彼の紅い目は真剣だった。


「結婚してくれないか、俺と」


「膝枕されたまま言う言葉じゃない」


 彼は慌てて起き上がり、私の前に跪いた。


「俺を……本当の夫にしてもらえないか」


「デビュタント、私15歳で、あなた25歳。やっぱり幼児性愛じゃないの」


「君だって歳は、とるんだぞ。

 でも10年後も、ずっと好きだ。君より面白い女性はいないから」


 私は少しだけ笑って、指を組んだ。


「じゃあ、こうしましょう。

 半年間、私がゴリマッチョ姿で過ごしても、気持ちが変わらなければ──子作りに協力してあげる」


「君、わかってないな」


「何が?」


「ここ半月、互いに発作が出てないんだってこと」


 私は目を見開いた。


 ──サキュバスとインキュバスの呪いを解く方法。

 愛し合う相手とキスすること。

 もしくは、月下美人を聖水に浸して魔力と共に飲むこと。


「……そう言えば月下美人、取りに行かなかったわね。

 ちょっとワクワクしてたのに」


「君は、お転婆すぎて……俺は、結構クタクタなんだが? まだ言葉が必要か?」


 彼の苦笑に、私はふっと笑った。


 ──まあ、いいわ。

 呪いが解けたってことは、少なくとも“気持ち”は通じてたってこと。

 それなら、これからはちゃんと向き合ってみてもいい。


 だって私、あの時のローストチキン──

 取り合いになったあの瞬間から、ちょっとだけ、あなたのことが気になってたんだから。






□完結□










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