わかりません(1)
男は、海を泳いでいた。
どこから来たのかは覚えていない。
いつから泳いでいるのかもわからない。
ただ、気づいたときには、身ひとつで、この海のなかにいた。
この海には、無数の“答え”が沈んでいると、誰かが言っていた。
生きる意味、進むべき道、正しさや愛、幸福という名の形。
多くの人が潜り、拾い、掲げようとする。
けれど、手にしたはずのそれらは、指の隙間から零れ落ちていく。
男もまた、かつては答えを求めていた。
沈んでいく泡のひとつひとつを「真実だ」と信じて追いかけ、潜り、息を失い、苦しみながら浮かび上がることを繰り返した。
そして、嵐が来た。
黒雲が空を覆い、雷が叫び、波が言葉のようにうねった。
「お前は誰だ!」
「なぜそれを選んだ!」
「どこへ向かっている!」
海は牙を剥き、問いを叫び、彼を引きずり込もうとする。
冷たい水が全身を打ち、過去の後悔が渦のように足を絡める。
彼は息を吐き、目を閉じた。
そして、ただ呟く。
「わかりません。」
その瞬間、波が止んだ。雷が遠ざかり、空がひとつ、息をついた。
それでも、彼は答えを探さない。
泳ぎ続ける。ただ、浮かぶために。沈まないために。
何も掴まず、何も知らず、それでも生きていることだけを頼りに。
“わからない”という言葉が、彼を軽くした。
それは逃避ではなく、解放だった。
それは敗北ではなく、航海だった。
やがて空が割れ、陽が射した。
海は深く、美しく、そして──静かだった。
彼は思う。
この海は、自分自身なのだ。
見えない底に何があろうと、いま、泳いでいる。それだけで、きっといい。




