情人
墨を彫る仕事をしていると、色々な事情の人間に出会う
そういった時に口が硬い事もあり、僕も今では若い割には重宝される様になった
腕前は、自分では並かそれ以下だと思っている
しかし口の硬さと師から受け継いだ人脈だけで、今では生活が出来ている
実力以外に商いの軸があるなど、幼い時には思いも寄らなかった事だ
それにしても、この客の要望は珍しい物だった
「これは何を意味してるんですか?」
疑問が口をついて出そうになったが、それを飲み込んだ
『事情が有ってやっている』という事が、容易に想像出来たからだ
青年の依頼した墨は捻じくれた何本かの線で構成されていて、全身を通過するような物だった
もしかすると僕が知らないだけで、流行りのタトゥーなのかも知れない
しかし、曲線の意味する所が解らなかった
一種のトライバルタトゥーなのかとも思ったが、それにしてはデザイン性が低い
色の指定も何故か目立たない色を選んでおり、奇妙だった
彼はノーネクタイの颯爽としたスーツ姿で、そのため名の有るアウトローなのかと最初は思った
しかし考えてみれば、この街の『そうした人々』とは、多かれ少なかれ総て面識が有る
僕はせかせかと仕事の支度をしながらも、厄介事に巻き込まれ始めているのではないかと、内心では不安な気持ちになり始めていた
「まずは」
「そちらに、うつ伏せになって下さい」
服を脱ぐように指示し、青年をベッドに横たわらせる
裸体となった彼の背中は大理石の様に白く、僕は呼吸も忘れ、暫くの間それを視詰めてしまっていた
「どうかしたの?」
青年が、うつ伏せのまま僕に尋ねる
僕は頭が真っ白になりながらも、かろうじて「失礼しました」とだけ答えた
『彫り』が始まる
不思議な感覚だった
裸体の同性など、本来なら視て何と感じるものでも無い
しかし青年のほっそりとした、それでいて筋肉質な躰に触れるたび、僕は戸惑いを感じていた
それまでにも筋肉質な男性に触れた事はあったが、それらの人物は得てして、視せびらかす為の筋肉をまとっている
彼にはそういった『わざとらしさ』が感じられなかった
僕は石像などの美術にフェティッシュを感じた事は無かったつもりだが、いま眼の前にある裸体は、ありきたりに言うなら美の顕現であるかのように僕には思われた
「痛ッ…」
青年が声を上げる
針が躰の筋にかかり、血が滲んでしまったいた
僕の実力がいかに未熟と言えど、尋常であればあり得ない失敗だ
その時になって僕は初めて、青年の指定した捻じくれた線の意味を理解し始め、そして青褪め始めていた
これらの線は総て、針が引っ掛かりやすい…『彫り師が失敗しやすい場所』を経過し、それらを結び付けて作られていた
───この人は、僕を強請る為にこんな事をしたのだろうか
薬箱を取り出し、出血の手当をしながら僕は動揺しきっていた
こういう時のために、頼れる裏社会の繋がりは幾つか持っている
しかし、それらを頼るという事は「恩や借りが出来てしまう」事を意味していた
仮に速やかに解決出来たとしても、そこから先の人生は楽しく無さそうだ
───落ち着け、落ち着け、落ち着け
僕が静かに深呼吸を繰り返していると、青年がベッドに横たわりながらに僕に言った
「どうしたの?もっとしてよ」
いつの間にか、青年は顔をこっちに向けて僕を視詰めていた
「もっと、君から痛くされたいな?」
どうしてこんな蠱惑的な眼で僕を視るんだろう、僕は男なのに…
そう思ったが、僕は血に濡れた仕事道具の針を視ながら、心の高揚を感じていた
───痛く…されたい……?
反射的に、眼前の白い裸体を視る
均整の取れた肉躰だ
これを『好きにして良いのだとしたら』………?
僕は自分が瞬きも忘れ、熱い息を吐いて青年を視詰めているという事に気が付いた
それらは明らかに異常な行いだと僕は感じたが、青年も上目遣いの挑むような視線でこちらを視詰め返している
心臓が動悸のように震えている
こんな事は生まれてから、一度だって無かった
僕はもう一度針を手にすると、彼に向けて吸い寄せられる様に近付いていった