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【短編】糸を解くとき

作者: 蟾兎 燕

 夜の街は、まるで動脈のように脈打っていた。車のヘッドライトが濡れたアスファルトを照らし、ビルのネオンが空へ向かって滲む。交差点では行き交う人々の靴音が響き、コンビニの扉がひっきりなしに開閉する。都会は常に生きているのに、自分だけが死んでいる気がした。


 柊真(しゅうま)はぼんやりと足を引きずりながら、繁華街を歩いていた。かつては美咲(みさき)と何度も訪れた場所だったが、今はただの騒音と灯りの渦に過ぎなかった。酔いが回った頭で考えるのは、彼女の最後の言葉ばかりだった。


 ──「私たち、もう終わりにしよう」


 別れを告げられたとき、彼はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。何かが間違っていたのなら、正すことができたはずなのに。


 「……なんで、こんなことに……」


 呟きは雑踏に飲み込まれ、消えた。


 ふと、視界の端に小さな影が動いた。


 ──黒猫。


 細い路地の暗がりに、黒い毛並みの猫がいた。街灯に照らされた瞳は琥珀色に光り、まるでこちらを見つめているようだった。


 「おまえ、こんなところで何してるんだ……?」


 猫は答えず、ゆっくりと歩き出した。足取りはどこか誘うようで、柊真はふらふらとその後を追った。


 路地裏は湿った空気に包まれていた。遠くから微かにジャズのメロディが聞こえる。猫は一定の速さで歩き続け、柊真が立ち止まると、少し振り返るようにしてまた進んでいく。


 「……案内でもしてくれるのか?」


 そう独り言を呟いた瞬間、視界が開けた。


 そこは小さな広場だった。壁には古びた看板がかかり、街灯の下にイーゼルが立てられていた。男が一人、絵を描いている。年の頃は五十代半ばだろうか。無精ひげを生やし、くたびれた帽子をかぶっている。柊真が立ち尽くしていると、男が筆を止め、ちらりとこちらを見た。


 「……おや、珍しいな。迷い込んできたのか?」


 「いや……猫を追ってたら、ここに来て……」


 「猫?」


 男が視線を落とした瞬間、柊真も驚いた。さっきまで目の前にいた黒猫が、どこにもいなかった。


 「……消えた?」


 「はは、ここの猫は気まぐれだからな。気にするな」


 男は筆を動かしながら続ける。


 「お前さん、何かを探してるんじゃないのか?」


 柊真は返事をしなかった。探しているものなど、もうないはずだった。


 それでも、この夜のどこかに、答えがある気がしてならなかった。


 ──黒猫は、どこへ行ったのか?


 柊真はふと、空を見上げた。そこには冷たい月が浮かんでいた。


 「お前さん、何かを探してるんじゃないのか?」


 古びた帽子をかぶった男の声が、静かな広場に響いた。柊真は答えなかった。探しているものなど、もうないはずだった。失ったものを取り戻せるわけでもない。それなのに、なぜかこの夜のどこかに、答えがあるような気がしていた。


 視線を戻すと、男がイーゼルに立てかけたキャンバスに筆を滑らせていた。そこに描かれていたのは、この街の風景だった。光と影が繊細に交差し、どこか懐かしさを感じさせるような絵だった。


 「……これは、どこですか?」


 思わず尋ねると、男は少し笑った。


 「ここだよ。お前さんの足元に広がる、この街さ」


 「……同じ場所には見えませんね」


 「そりゃそうさ。俺が見てる街と、お前が見てる街は違うんだ」


 柊真は言葉に詰まった。確かに、自分にはこの街がただの騒音とネオンのごちゃまぜにしか見えていなかった。けれど、男の絵の中の街は温かさすら感じさせた。


 「ずっとこの街を描いてるんですか?」


 「そうだな。もう何十年も。ここに座って、街の時間を描き続けてる」


 「……時間?」


 男は筆を止め、柊真を見た。


 「お前さん、時間はどういうものだと思う?」


 「……過ぎ去るもの、ですかね」


 「そうか。俺にとっては、積み重なっていくものなんだ」


 男の指が、キャンバスの上をなぞった。


 「この街はな、常に変わっているように見えて、本当は変わっちゃいない。何十年も前からここにいるが、人が歩き、笑い、怒り、泣く。そういうものが少しずつ積み重なって、今の街を作ってるんだ」


 柊真はその言葉を反芻した。時間が積み重なる──自分の時間は、積み重なっているのだろうか?


 「……俺には、何も積み重なってない気がします」


 そう呟くと、男はふっと笑った。


 「それはまだ、お前さんが見ようとしてないだけさ」


 その言葉に、柊真は何も返せなかった。ただ、絵の中の街をじっと見つめる。そこに描かれた街は、彼が知っているはずの街なのに、まるで違う場所のように思えた。


 「お前さん、名前は?」


 「……柊真です」


 「俺は桂木(かつらぎ)だ。まあ、気が向いたらまた来な」


 そう言って、桂木は再び筆を動かし始めた。


 柊真は広場をあとにし、もう一度空を見上げた。ビルの間から覗く月は相変わらず冷たく光っていた。


 ──黒猫は、どこへ行ったのか?


 その時、背後から微かな足音が聞こえた。振り返ると、暗闇の中から黒猫が現れた。まるで「次へ行こう」とでも言うように、ゆっくりと歩き出す。


 黒猫の足音は、夜の静寂に吸い込まれるようだった。柊真はただ無心にその後を追っていた。繁華街の喧騒を抜け、路地裏の静けさを通り過ぎ、しばらくしてたどり着いたのは、小さな公園だった。


 辺りは街灯の光がまばらで、闇に包まれている。遊具の錆びた金属が冷たい月明かりを反射していた。その中で、ブランコに一人座る少女の姿が目に入った。


 髪を肩の後ろでまとめたその少女は、柊真に気づいていないようだった。月を見上げながら、小さな声で何かを呟いている。


 黒猫はそのまま少女の足元に近づき、彼女の横に座り込んだ。柊真は一瞬ためらったが、足が自然にブランコの方へ向かっていた。


 「……こんな時間に、一人で何してるんだ?」


 声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。年の頃は十代後半だろうか。幼さを残しつつも、その目はどこか達観したように冷めた光を湛えていた。


 「星を、見てるの。」


 「星?」


 少女は再び空を見上げた。夜空には、都会の光にかき消されそうになりながらも、いくつかの星が輝いていた。


 「たったこれしか見えないけど、全部消えちゃうわけじゃないんだよね。」


 そう呟く声はどこか穏やかで、しかし底知れない悲しみが滲んでいるようにも感じられた。


 「君、名前は?」


 「名前なんて、どうでもいいよ。」


 少女は静かに笑った。その笑顔は、柊真に自分を突きつけられているような錯覚を起こさせた。


 「どうでもいいって、そんな……」


 「ねえ、あなたはどうして生きてるの?」


 突然の問いに、柊真は息を呑んだ。


 「……なんだよ、それ。」


 「私はね、生きる意味なんてもうないと思ってるの。でも、星を見てると、なんとなくわかる気がするんだ。」


 少女の視線は再び夜空に向かう。


 「星も、いつかは全部消える。でも、そのときまで光るだけでいいんだって。」


 その言葉が、胸に重く響いた。


 「君は……それでいいのか?」


 柊真の問いに、少女は少しだけ黙り込んだ。そして、黒猫を撫でながら小さく言った。


 「わからない。でも、星が消える前に、どうしても光れない星もあるんだと思う。」


 柊真は答えられなかった。自分も、光れない星の一つなのだろうか。


 少女がブランコを降りると、黒猫も立ち上がった。そして、少女はポケットから赤い糸を取り出した。それは小さな糸巻きのようだった。


 「これ、あげる。」


 柊真は戸惑いながらも受け取った。その糸は細く、けれど手の中に残る感触は妙に重たかった。


 「どうして俺に?」


 「この糸は、私のじゃないから。あなたのかもしれないよ。」


 意味のわからない言葉に困惑している間に、少女は黒猫に一瞥を送り、公園を去っていった。その背中は、どこか儚く消え入りそうに見えた。柊真はしばらくベンチに座り、糸をじっと見つめていた。月明かりに照らされる赤い糸は、まるで生きているかのように彼の指に絡みついてくる。


 ──星は消える前に光るだけでいい。


 その言葉が、頭の中を巡った。少女の残した赤い糸は、自分を縛るものなのか、それとも解き放つものなのか。


 黒猫が再び足元で鳴いた。その声に導かれるように、柊真はまた立ち上がり、歩き始めた。


 黒猫はまた先へ進んでいく。柊真は、手に握りしめた赤い糸を見つめながら、無言でその後を追った。夜の空気は冷たく、街は静まり返っている。時折、遠くから聞こえる車の音が、現実の感覚を微かに引き戻してくる。


 赤い糸は指に絡むたび、まるで何かを語りかけてくるように感じられた。その感覚が不気味でもあり、不思議と心地よくもあった。


 歩き続けた先に待っていたのは、古びた一軒家だった。外壁はひび割れ、色あせた看板には「喫茶 月光」と書かれている。営業している様子はないが、窓の隙間から漏れる暖かい光が、かすかに建物の中に人の気配を感じさせた。


 黒猫はそのまま扉の前で立ち止まり、振り返った。まるで「入れ」と命じるかのように。柊真は戸惑いながらも、そっとドアノブに手をかけた。


「喫茶 月光」の住人


 扉を開けると、予想以上に広々とした店内が広がっていた。奥のカウンターでは、年配の女性がカップを磨いている。その背中は少し猫背だが、所作はきびきびとしている。


 「……珍しいね。こんな時間にお客さんが来るなんて。」


 女性は振り返ると、温かみのある微笑みを浮かべた。その目はどこか全てを見通しているようで、柊真は無意識に赤い糸を握りしめた。


 「すみません、猫を追いかけてたら……ここに。」


 「猫ね……ああ、あの子が連れてきたのね。」


 女性は柊真の背後を見て小さく頷いた。振り返ると、黒猫はいつの間にかカウンターの隅に座っていた。その姿は、まるでここが自分の居場所だとでも言うようだった。


 「座ったら? 温かいものでも飲むといい。」


 促されるままに席につき、彼は静かに周囲を見渡した。店内には誰もいない。壁には古い写真やポスターが飾られ、どれもこの街の昔の姿を映し出している。


 女性が紅茶を差し出しながら、ふと赤い糸に目を留めた。


 「それ……誰からもらったの?」


 「さっき、公園で会った女の子が……」


 柊真がそう答えると、女性は少しだけ表情を曇らせた。


 「公園ね……あの場所は、特別だから。」


 「特別?」


 女性は意味深に頷くと、紅茶の湯気越しに柊真をじっと見つめた。


 「その糸、ちゃんと持っているといいわよ。きっと、何かを教えてくれるから。」


 「教える……?」


 「あなたは、まだ迷子のように見えるから。」


 女性の言葉はどこか断定的で、柊真は返す言葉を失った。確かに彼は、迷っていた。自分がどこへ向かうべきなのか、何をすべきなのか。


 「私もね、昔は迷ってた。でも、ここにたどり着いたの。黒猫に導かれて。」


 その言葉に、柊真は驚いた。


 「黒猫に?」


 「そうよ。この猫はね、不思議な存在なの。ただの猫じゃないのよ。」


 女性は黒猫に目をやると、穏やかに微笑んだ。猫は相変わらず無表情で、カウンターの上で丸くなっている。


 「きっと、あなたに何かを伝えようとしてるんだと思う。」


 「……伝えるって、一体何を?」


 「それは、自分で見つけるしかないわね。」


 その曖昧な答えに、柊真はやや困惑した。それでも、赤い糸を見つめるたびに、何かに近づいている感覚があった。それが救いなのか、それとも破滅なのかはわからない。ただ、何かが待っている──それだけは確かだった。


 店を出ると、黒猫が再び柊真の前に立ちはだかった。その琥珀色の瞳は、夜の光を吸い込むように輝いている。


 「次はどこへ連れて行くんだ?」


 柊真の問いに答えるように、猫はゆっくりと歩き始めた。その背中を見つめながら、彼は再び足を踏み出した。


 赤い糸が彼の指に絡みつき、冷たい夜風がその背中を押した。


 そして、その糸が絡む指先は、妙に熱を帯びていた。柊真は夜の街を歩き続けながら、その糸が導く先に何が待っているのか、考えることをやめられなかった。


 黒猫は前を行く。その背中はますます頼りなく見えるのに、不思議と目を離せない。猫が辿り着いたのは、川沿いの古びた倉庫街だった。昼間はトラックの音や工場の稼働音が響く場所も、この時間は静寂に包まれている。


 猫が止まったのは、ひときわ大きな倉庫の前だった。扉は閉じられているが、隙間から漏れる光がある。誰かがいる──そう感じさせる気配が、微かに漂っていた。


 「また、誰かがいるのか?」


 柊真が独り言のように呟くと、猫はゆっくりと尾を揺らし、扉の前で小さく鳴いた。それは「行け」と命じる声のようだった。


 錆びついた扉を押し開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。中は予想以上に広く、古びた木箱や使い古された道具が無造作に置かれている。倉庫の奥から、小さな音楽が聞こえてきた。どこか懐かしい、オルゴールの音色だった。


 音のする方に進むと、一人の男が立っていた。長いコートを羽織り、背を向けたまま、オルゴールを手に取っている。その音楽に聞き入るように、彼は微動だにしなかった。


 「誰だ?」


 声をかけると、男はゆっくりと振り返った。その顔には疲労の色が濃く、頬はやつれている。それなのに、どこか柊真に似た空気を纏っていた。


 「君こそ、誰だ?」


 男の問いかけに、柊真は言葉を詰まらせた。答えるべき言葉が見つからない。ただ、男の視線が赤い糸に向けられると、その目が一瞬だけ鋭く光った。


 「……その糸、どこで手に入れた?」


 「公園で……ある少女から。」


 柊真が答えると、男は険しい表情を浮かべた。そして、オルゴールの音を止めると、静かに呟いた。


 「そうか……あの子が渡したのか。」


 「知ってるのか? あの少女を。」


 「知っているとも。いや、正確には知っていた、だな。」


 男はポケットから何かを取り出した。それは小さな写真だった。そこに写っていたのは、確かにあの少女だった。


 「彼女は、ここで星を見上げるのが好きだったんだ。この倉庫の屋上から、街の光を越えて見える、わずかな星空を。」


 男は遠い記憶を辿るように語り始めた。少女はこの街の中で居場所を失い、最後にこの倉庫を自分の隠れ家にしていたという。そしてある日、何も告げずに姿を消したのだと。


 「彼女は何を残したかったんだろうな……俺には結局、わからなかった。」


 男は赤い糸をじっと見つめた。その視線には、悲しみと諦めの色が濃く滲んでいる。


 「だが、その糸を持っているということは……君も、何かに導かれているのかもしれない。」


 男に案内され、柊真は倉庫の屋上に上がった。冷たい風が吹き抜ける中、街の光の隙間から見える星が、かすかに輝いている。


 「ここから見ると、街の喧騒が嘘みたいだろう?」


 男の言葉に、柊真は頷いた。確かに、ここから見える景色は静かで、時間が止まったような感覚を与えてくれる。


 「彼女も、この場所で何かを探していたのかもしれないな。」


 男の声は、どこか独り言のようだった。その視線の先には、柊真の手の赤い糸があった。


 「それが何なのか……見つけられるといいな。」


 その言葉を残し、男は屋上をあとにした。


 残された柊真は、一人星空を見上げながら、赤い糸を強く握りしめた。その糸が何を意味するのか、まだわからない。それでも、どこかで自分が何かに近づいている気がした。


 黒猫がまた足元に現れ、小さく鳴いた。それは「まだ終わらない」という合図のようだった。


 柊真は再び立ち上がり、猫の後を追った。


 夜は深まり、風が強さを増していた。黒猫の足取りは変わらず軽やかだが、その背中にはどこか焦燥感が漂っているようにも見えた。柊真は猫を追いながら、先ほどの倉庫での出来事を反芻していた。


 赤い糸が指に絡みつく感覚が、妙に重たく感じる。手を振りほどこうとしても、糸は決して離れることはなかった。


 「どこに行くつもりなんだ……」


 呟く声は風にかき消され、猫の歩みは止まらない。そして、たどり着いたのは川沿いの朽ちた埠頭だった。


 そこには、古びた船が一隻停泊していた。錆びついた船体に薄汚れた旗が揺れている。船の名前を記したプレートには、「希望」と書かれているが、皮肉にもその船からは希望とは程遠い印象しか受けなかった。


 黒猫は船に向かって跳び乗ると、甲板を進み始めた。柊真もそれに続くように、木製のタラップを慎重に渡り、船内へと足を踏み入れた。


 船内は薄暗く、廃墟のようだった。腐敗した木材の匂いと、湿った空気が鼻をつく。遠くで何かが滴り落ちる音が響いている。


 「ここで……何を見つけろって言うんだ。」


 柊真が辺りを見回していると、奥から微かな声が聞こえてきた。


 ──誰かがいる。


 声のする方へ進むと、暗がりの中に一人の老人が座り込んでいるのが見えた。髪は白く乱れ、やせ細った体は薄汚れた布で覆われている。その手には古びた日記のようなものが握られていた。


 老人は柊真に気づくと、血走った目を向けてきた。


 「お前も……赤い糸に引かれてきたのか。」


 その言葉に、柊真は息を飲んだ。


 「あなたも……これを?」


 柊真が指に巻きついた赤い糸を見せると、老人はカラカラと笑い声を上げた。その笑いは、狂気と諦念が混じったような、不気味なものだった。


 「そうだ。その糸は、生きる理由と死ぬ理由を同時に教えてくれるものだ……。」


 「生きる理由と……死ぬ理由?」


 老人はゆっくりと立ち上がると、日記を柊真に差し出した。


 「これを読め。この船で何が起きたのか知るがいい。」


 日記はページが黄ばみ、所々が破れていたが、かろうじて読むことができた。内容は、かつてこの船で働いていた船員たちの記録だった。


 彼らは海を渡ることで新天地を目指していたが、旅が進むにつれて次第に運命が狂い始めた。嵐に遭い、食料を失い、乗組員たちは次第に正気を失っていった。そして、船長は一人、赤い糸を手に取りこう言ったという。


 「この糸は、運命を紡ぐものだ。だが、それが救いなのか絶望なのかは、誰にもわからない。」


 最終的に、この船は陸に戻ることなく漂流し続け、全ての船員が命を落としたと記されていた。しかし、その赤い糸だけは残され、何かを探し求めるように、人々の間を渡り歩いているという。


 日記を読み終えた柊真に、老人は静かに語り始めた。


 「私はあの船の生き残りだ……赤い糸に導かれ、ここで命を繋いだ。でも、それが本当に良かったのかどうか、今でもわからない。」


 老人の目には、深い後悔と虚無が浮かんでいた。


 「お前もこの糸を持っているということは、同じだ。何かを見つけるか、何かを捨てるか……それを選ばなければならない。」


 「……選ぶって、何を?」


 老人は答えなかった。ただ、黒猫をじっと見つめ、そのまま息を引き取るように目を閉じた。その姿は、静かで穏やかだったが、柊真の心に不安を植え付けた。


 柊真は赤い糸を見つめながら、老人の言葉を反芻した。この糸は何を導こうとしているのか。自分はこれから何を選ぶべきなのか。


 黒猫が再び足元で鳴いた。その声は「先に進め」と告げるようだった。


 柊真は静かに立ち上がり、船を後にした。赤い糸はさらに彼の指に絡みつき、次の行き先を示しているようだった。


 夜明けが近づいていた。薄明かりが空を染める中、黒猫はまた静かに歩き出す。柊真の胸中には、混乱と不安、そして名状しがたい焦燥感が渦巻いていた。


 赤い糸は、今や彼の指にしっかりと絡みつき、その引力はさらに強まっているように感じられる。それは、抗えない何かに導かれているという確信と同時に、自分がどうしようもない運命に飲み込まれていく恐怖でもあった。


 猫が導いた先は、街の外れにある廃墟のような古びた洋館だった。朽ちかけた門扉は錆びつき、屋根には苔が生えている。その場所は、長い年月の間、誰にも触れられていないかのようだった。


 「ここが、最後の場所なのか……?」


 柊真が独り言のように呟くと、黒猫は一度だけ振り返り、彼の顔を見上げた。まるで「そうだ」と言わんばかりの鋭い眼差しだった。


 重たい扉を押し開けると、中は薄暗く、埃とカビの匂いが漂っていた。だが、それと同時に妙に温かみのある空気も感じられた。不自然なほど静かな館内に、彼の足音だけが響く。


 赤い糸は、まるで生き物のように蠢きながら、ある部屋の扉へと彼を導いていく。


 扉の先には、広い部屋があった。中央には古びた大きな鏡が一枚置かれており、その前に一人の女性が立っていた。


 女性は背を向けたままだったが、どこかで見覚えのある雰囲気を纏っている。その手にも、赤い糸が絡みついていた。


 「……君は誰なんだ?」


 柊真が声をかけると、女性はゆっくりと振り返った。


 それは、柊真がかつて公園で出会った少女の顔だった。しかし、彼女の表情には冷たさと悲しみが漂い、その目には何かを諦めたような虚無が宿っていた。


 「久しぶりね。」


 彼女は穏やかに微笑みながら言った。


 「君は……僕をここに導いたのか?」


 柊真の問いに、彼女は鏡に視線を向けながら静かに頷いた。


 「そう。だけど、私だけじゃない。あなた自身が、ずっとこの場所を求めていたのよ。」


 彼女の言葉に、柊真は困惑を隠せなかった。


 「僕が……求めていた?」


 彼女は鏡の前に立つと、赤い糸をそっと鏡に触れさせた。すると、鏡の表面が波打つように揺れ、その中に無数の映像が浮かび上がった。


 それは柊真自身の記憶だった。幼少期の幸せな瞬間、失敗や挫折、そして最も深い孤独に沈んでいた時間。映像はどれも痛々しく、彼が避けてきた過去そのものだった。


 「この糸は、あなたの記憶と感情を織り上げたものなの。すべての痛みも、喜びも、この糸に込められているわ。そして、それを受け入れることができたとき……あなたは自由になれる。」


 柊真は鏡の中の映像をじっと見つめながら、心の奥底に刺さるような感覚を覚えた。それは、彼がずっと抱え続けてきた自責や後悔、そしてそれらを直視することへの恐れだった。


 「自由になれる……? それは、どういう意味なんだ?」


 彼女は静かに答えた。


 「それは、あなた自身が選ぶこと。自分の過去を許し、この世界に留まるのか。それとも、すべてを断ち切り、糸を解いて先へ進むのか。」


 柊真の指に絡む赤い糸が、じわりと締め付けを強めるように感じられた。


 「もし糸を解いたら……僕はどうなる?」


 「この糸は運命そのもの。糸を解くということは、運命を手放すこと。つまり、生きる理由も、同時に失うことになるわ。」


 彼女の言葉は穏やかだったが、その内容は容赦なかった。


 柊真は鏡の前に立ち、震える手で赤い糸を握りしめた。その糸が自分にとって何を意味するのか、理解しつつあった。


 「この糸が、僕をここまで導いた。でも、その先に待っているのは、きっと……」


 彼は言葉を切り、静かに目を閉じた。そして、最後の決断を下す。


 ──糸を解くか、このまま握り続けるか。


 黒猫が静かに彼の足元に座り、じっとその瞬間を見守っていた。


 翌朝、洋館の前には、黒猫だけが佇んでいた。冷たい風が吹き抜ける中、猫はしばらくその場を離れなかった。そして、やがてどこかへ消えていった。


 洋館の中には、赤い糸が静かに床に落ちていた。その糸が何を意味していたのか、誰も知ることはなかった。




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