第1話
“ヒーロー”と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。
バイクで単騎突撃する、仮面の男だろうか。
戦士の魂を宿し、一定時間限定で巨大化する男だろうか。
力を結集して強大な敵に立ち向かう、若き男女だろうか。
煌びやかな服を纏い、不可思議な魔法を放つ少女だろうか。
自身を犠牲にして人々の空腹を満たす、心優しき者だろうか。
この物語は、ふとした切っ掛けで正義のヒーローとして戦いに身を投じる事になった1人の少年と、彼を取り巻く人々の物語である。
ちなみに、基本給は新人で月20万円からである。
* * *
東京都の西部に位置する、高度経済成長期に都心で働く人々のベッドタウンとして発展を遂げた七姫市。50万人を超える人々が住むその町では、多種多様なデザインの家が建ち並ぶ昔ながらの住宅地は勿論のこと、コストを抑えて格安で提供するためにデザインを統一した新興住宅地、マンションがズラリと並んだ巨大な団地、はたまた小高い丘の上に作られた高級住宅地など、場所によって様々な生活の光景を垣間見ることができる。
そんな多数ある住宅街の中でも平均的と呼べるランクの住宅地の、これまた平均的と呼べる大きさとデザインをしたその家に、その少年は住んでいた。
時刻は朝の6時半頃。地元の中高一貫校に通い、先月に高等部1年生となった彼は現在、春の穏やかな陽気に包まれながらベッドで静かに寝息を立てている。同年代と比べて若干小さめの体格に幼い顔立ちのせいか、その寝顔は実年齢よりも幾分か幼い印象を与えるものだった。
ジリリリリリリ――!
と、耳元に置かれたスマホから突然ベルの音が鳴り、その瞬間に少年の寝顔が辛そうにしかめられた。モゾモゾと体を蠢かし、掛布団からニュッと伸びた腕がスマホの画面を数回タップしたことで音が止まる。そうして再び訪れた静寂の中、少年は辛そうながらもゆっくりとした動きで上体を起こし、大きな欠伸をしてベッドからのそのそと下り立った。
開けてるのか閉じてるのか判断に困る目つきのまま部屋を出て、階段を下りて1階のリビングへとやって来る。
「おはよー」
「おはよう、勇気。早く朝ご飯食べちゃいなさい」
キッチンから返ってきた母親の声に、その少年・野々原勇気は「あーい」と力の抜けた声で返事をしながらダイニングテーブルに着いた。テーブルには既に料理が並べられており、こんがり焼けたトースト、2枚のベーコンの上に目玉焼き、キャベツとミニトマトのサラダ、そして牛乳と朝食の定番メニューが揃っている。
いただきます、と小声ながらもしっかりと挨拶してから、ベーコンと目玉焼きをトーストに乗せて一緒に囓りついた。そうして朝食を食べ進めながら、点けっ放しになっているテレビへと視線を向ける。
『昨日午後6時過ぎ、東京都七姫市にて路上に血塗れの女の子が倒れていると通報がありました。女の子は病院へ運ばれましたが、そのまま死亡が確認されたとのことです。被害者の名前は――』
アナウンサーが神妙な面持ちで伝えていたのは、まさに勇気が住むこの町で起こった事件についてだった。だからだろうか、画面を見つめる彼の目は真剣味を帯びたものだった。
テレビに夢中になっている勇気を注意しようと口を開きかけた母親だったが、そのニュースの内容を見て恐怖と悲しみに表情を歪ませる。
『七姫市では少し前にも帰宅中の女子児童を狙った殺人事件が2件発生していますが、今回の事件との関係はどうなんでしょうか?』
『はい。警察は現場の詳しい状況については明らかにしていませんが、過去2件と酷似した状況であることから同一犯との見方をしている模様です』
「またこの事件……。本当に物騒な世の中ね……」
女子小学生が(今回の事件も合わせて)3人が犠牲となったこの事件は、子供を狙った残忍な犯行として世間からの注目を大きく集めている。この番組でもこの事件に関して多くの時間を割いて詳しく報道し、元警察関係者とか犯罪に詳しい心理学者などにインタビューをして犯人像に迫ったりしている。
「あんたも、学校が終わったら寄り道しないでまっすぐ帰りなさいよ」
「小学生の女の子しか狙わないんなら、僕は大丈夫じゃない?」
「そうとは限らないでしょ? いつ犯人が心変わりするか分からないし、只でさえあんた頼りない見た目してるんだから」
母親の反論に勇気はムッと顔をしかめたが、反論の言葉が思い浮かばなかったのか、ほんの少しトーストを齧る力を強くしただけで何も言わなかった。
そのまま黙々と、しかし視線はテレビに固定させたまま朝食を食べ進めていく。
と、やがて事件に関するニュースが終わり、次の話題へと移っていった。
『昨日の夕方、〇〇県の△△市にて、帰宅途中の女性が怪人に襲われ、全治2週間の怪我を負う事件が発生しました。なお怪人は、地元のヒーローである“救命戦隊・レスキューファイブ”によって退治、捕獲された模様です』
“怪人”や“ヒーロー”といった単語が入り混じるそのニュースを、アナウンサーは大真面目な表情で読み上げた。その横には大型のモニターが並び、先程述べた“救命戦隊・レスキューファイブ”なる集団と思われる、それこそ特撮ヒーロー物で見るような色取り取りの全身タイツを身に纏う5人の若い男女がでかでかと映し出されている。
しかしスタジオの誰1人として、その5人を嗤うような真似はしなかった。それどころかアナウンサーと同じように大真面目な表情で頻りに頷いたり、果ては「いやぁ、若いのに体を張って頑張るなんて本当に素晴らしいですよねぇ」などとコメントまでしている。
そこにいる全員が、“ヒーロー”や“怪人”の存在を当たり前のように受け入れている。
「初めて聞く名前ねぇ。新人さんかしら?」
「かもね」
キッチン越しに尋ねる母親に勇気は短く返事をして、最後に残ったトーストの欠片を口に放り込んだ。
“ヒーロー”や“怪人”という言葉自体は、人々にとって実に馴染み深い単語だった。昔からテレビや漫画などで多くの作品が描かれ、子供達だけでなく大人までその魅力に嵌る者が後を絶たない。毎年のように新しいヒーローが生まれ、今や日本文化を語るうえでヒーロー物は外すことのできない一大分野と言えるだろう。
しかしそれらは、あくまで架空の世界での話である。実際の世界にはヒーローのように分かりやすい正義も無ければ、怪人のように分かりやすい悪も無い。それが、世界の常識だった。
ほんの、30年ほど前までは。
ある時を境に不可思議な能力を持つ異形の生命体の存在が明るみとなり、そいつらが一斉に犯罪行為を行うようになった。普段は普通の人々と変わらない姿に擬態し、時には欲望のままに、時には本人なりの理念の下に犯罪を重ねていくその姿は、まさにテレビや漫画で見るような物語に登場する“怪人”を彷彿とさせるものだった。
しかしここで更に輪を掛けて、同じく不可思議な能力を秘めた人々が突如現れ、悪事を働くそいつらへと立ち向かっていく事態となった。時には単独で、時には数人でチームを組んで戦うその姿は、まさしく人々が胸の奥に秘めていた“ヒーロー”そのものだった。
怪人による被害の大きさを重く見た世界各国の政府は、それらに対抗すべくヒーローをバックアップする体制を整えることを正式に発表した。つまりそれは“ヒーロー”と呼ばれる存在が公に認められ、或る意味1つの“職業”として成立したことを意味している。
それからというもの、社会は大きな変化を遂げた。怪物の出現やヒーローの活躍がマスコミの報道によって広く世間に拡散されるようになり、多くの人々の知るところとなった。人々の生活を守ってくれるヒーローは年齢の区別無く多くの人気を集め、特に有名なヒーローにもなると並の芸能人よりも大きな注目を集め、社会現象を引き起こすほどにまで拡大することも珍しくない。
「そういえば前にテレビのニュースで『怪人が現れて避難勧告が出ているときに、ヒーロー見たさに現場を見に行く人達が社会問題化してる』って聞いたことがあるんだけど……。勇気の学校でもそういう事ってあるの?」
「僕は別に聞いたことないけど」
「だったら良いんだけど……。ヒーローと怪人が戦ってるのに巻き込まれて大怪我する事もあるらしいから、勇気は絶対にそんな事しないでよね」
「分かってるって。――あっ、そろそろ時間だ」
リビングの壁に掛けられた時計を見て勇気はそう言うと、既に空となった食器をキッチンの流し台に運んでいった。
そんな彼の行動に、母親が壁の時計に目を遣って首を傾げる。
「まだ学校には早いんじゃないの?」
「うん。ちょっと“用事”があるから」
勇気はそう言い残して、リビングを出て行った。
* * *
通学に自転車やバスを利用する学生も多い中、勇気はいつも高校まで徒歩で向かう。自宅を出てすぐに橋で川を渡り、そこから川の傍にある土手を経由して最寄り駅の方向へと歩いていき、駅前の交差点を左に曲がってさらに少し歩いた先にその高校がある。天気や体調にもよるが、だいたい20分くらいの道のりだ。
しかしそれは、彼がまっすぐ学校へと向かった場合である。
「いってきまーす」
学校の制服に着替えて学校指定の鞄を持って家を出た勇気は、橋に差し掛かったところでカクンと道路から逸れていき、そのまま土手を慎重に下りて川原へと向かっていった。
ちょうど橋が死角となって道路から見えなくなっている辺りに、ビニール袋やら弁当のプラスチック容器やら空き缶やら雑誌といった多種多様のゴミが散乱していた。たとえ捨てる瞬間を見られていなくとも自分の悪事がバレるのを防ぎたい、という心理が表れているかのような光景だ。
「――よしっ」
そんなゴミを勇気は呆れるような目つきで見下ろし、そして小さく声に出して気持ちを切り替えると、鞄から大きなビニール袋と軍手を取り出した。
そうして勇気は、軍手を嵌めた手で川原のゴミをヒョイヒョイと拾い始めた。慣れた手つきで拾っていく間にも橋や土手には次々と通行人が行き交っているが、誰も彼の姿を見つけることは無く、そして勇気もそんな通行人に目を向けることは無い。
「こんなもんかな」
一通りゴミを拾い集めた勇気はすっかり綺麗になった川原を見渡して満足そうに頷くと、様々な種類のゴミがごちゃ混ぜになったビニール袋を持ってその場を後にした。そして近くにあるゴミ集積所までそれを持って行き、今度は中身を1つ1つ取り出して指定のゴミ箱にそれを捨てていく。ちなみにその集積所は通学のルートから少し離れた場所にあるが、彼の足に迷いは一切無かった。
一連の作業を終えて、勇気は軍手を元の鞄にしまってスマホを取り出した。今から学校に向かえば早すぎず遅すぎずの丁度良いタイミングで学校に到着する時刻であることを確認し、勇気は再び学校へと歩き出した。
別の学校の制服やスーツを着た人々の姿が多くなっていくのを感じながら、勇気はもう少しで駅前の交差点に差し掛かるところまで辿り着く。
「ん?」
と、歩道橋の階段の下で、手押しのカートに荷物を詰めたお婆さんが困っているのが見えた。彼女の周りを多くの通行人が行き交うも、通勤や通学の途中で早足となっている彼らが止まる気配は無い。
「お婆さん、荷物持ちましょうか?」
そんなお婆さんに歩み寄って声を掛ける勇気の動作に、迷いは一切無かった。
「本当かい? ご親切に、どうもありがとうね」
ニッコリ笑って礼を言うお婆さんに勇気も笑顔で返すと、彼女が押していたカートを片腕で抱き寄せるように持ち上げ、空いた手で彼女の手を繋ぎながら歩道橋を上がっていった。彼女の歩くスピードに合わせているので足取りは周りの人々よりもだいぶ遅かったが、勇気は嫌な顔1つしなかった。
「ありがとう、お陰で助かったよ」
「いえいえ、それでは僕はこれで」
勇気はそう言うとクルリと踵を返し、先程渡ってきた歩道橋をUターンして元の場所へと戻り、そして通学路の続きを歩いていった。
そうしてやって来た駅前の交差点にて、今度は紙の切れ端を片手に如何にも困った様子で頻りに辺りを見渡すお爺さんの姿が見えた。彼の周りを多くの通行人が行き交うも、通勤や通学の途中で早足となっている彼らが止まる気配は無い。
「お爺さん、どうかしましたか?」
そんなお爺さんに歩み寄って声を掛ける勇気の動作に、迷いは一切無かった。
「あぁ……。ここに行きたいんだが、道が分からなくてのう……」
「ああ、そこなら分かります。案内しますよ」
「だが、学校に行くところだったんだろう? さすがにそれは迷惑じゃ――」
「気にしない、気にしない! はい、しゅっぱーつ!」
遠慮するお爺さんを半ばむりやりに連れて、勇気はいつも左に曲がる交差点を右に曲がっていった。彼の歩くスピードに合わせているので足取りは周りの人々よりもだいぶ遅かったが、勇気は嫌な顔1つしなかった。
交差点から大分進んで踏切を超えた先にあった目的地に辿り着くと、何度も頭を下げるお爺さんに笑顔で手を振って別れ、来た道を戻っていく。
そうしてお爺さんの姿が見えなくなった頃、勇気はスマホを取り出した。
「やっば」
「さっさと入れー。門閉めるぞー」
「すみません!」
必死の形相で息を切らす勇気が、ジャージ姿の教師が睨みを利かせる校門前をダッシュで通り過ぎ、そこからアスファルト舗装された道に沿って校庭の脇を通って昇降口へと駆けていく。
目的地である昇降口を見据えつつ、チラリとその上にある時計へと視線を遣る。長針は既にホームルームの始まる時間を若干過ぎているが、あの時計は本来の時刻より少し進んでいるため望みはまだあるはずだ、と勇気は考えた。
と、そのとき、
「おーい! 勇気ぃ!」
斜め上から呼び掛けられ、勇気は時計から少し視線を下ろして校舎の窓へと向ける。
毛先を遊ばせた茶髪の少年が、窓から身を乗り出して「おーい!」と大きく手を振っていた。彼の背後には、興味本位の表情でこちらを覗き込むクラスメイト達の姿も見える。
「先生が『ホームルームが終わるまでに教室に着いたら遅刻を見逃してやる』って言ってるぞー!」
「分かった! 先生にお礼言っといて!」
勇気がそう返事をすると、茶髪の少年はグッと力強く親指を立ててニカッと笑った。
「よーし!」
先程よりも一層力強く地面を踏み締めて、勇気は昇降口に向かって走っていく。
「何の騒ぎ?」
「ほら、いつものあの子」
「お前ら、さっさと自分の席に着けー」
「はーい」
高等部3年生の教室でも先程の遣り取りは聞こえており、主に窓際の生徒が席から立ち上がって確認しようとするのを教師が止める光景が見られていた。
「……フフッ」
そんな彼らの様子も含めて窓に視線を向けていた、艶のある長い黒髪に切れ長の目が年齢以上に大人びた印象を与える、如何にも優等生といった出で立ちの少女が、口元に手を添えて小さく笑みを漏らした。
「この学校は中高一貫だから、他の学校と違って受験勉強をする必要は無い。しかしそれは、勉強をする必要は無いという意味ではない。君達はこれから将来どのような人間になるかを決める大事な時期にあるという自覚を持ちながら――」
中等部3年生の教室でも先程の遣り取りは聞こえていたが、こちらは担任が真剣な表情で大事な話をしている最中だったからか、特にそれに対して反応を見せることなく背筋を伸ばして静かに耳を傾けていた。
「…………」
そんな中、緩いウェーブの掛かった明るい金髪を背中に垂らし、濃いめのアイラインで元々大きな目をより強調させている少女が、ほんの少しだけ視線を窓の方へと向け、そしてすぐに前へと戻した。
「…………」
学校の向かいに建つビルの屋上にて、“それ”はフワフワと宙に漂っていた。
握り拳ほどの大きさの発光体、としか表現できないものだった。深い森の中ならば蛍と見間違え、墓地や古い寺院ならば火の玉と見間違えただろう。とはいえ今は太陽が空で燦々と輝いている時間帯なので、最初からそこにいると知ったうえで目を凝らさなければ見つけることは叶わない。
そのビルの屋上からは、すぐ近くにある学校を見下ろすことができた。校舎の窓から呼び掛ける生徒の姿も、その声援を受けて校舎へと走る生徒の姿も、容易に観察することができる。
「…………」
太陽の光に紛れながら“それ”は一瞬だけチカチカと自身の光を強くした、気がした。
* * *
時間は流れて、放課後。
「あははっ! せっかくゴミ拾いするために早起きしたのに、結局人助けしてて遅刻しそうになるなんて勇気らしいな!」
部活に勤しむため校庭へと向かう生徒達に紛れて、勇気は友人である真田清春と共に校門を出て帰路に着いていた。ちなみに彼が、今朝教室の窓から勇気に呼び掛けた少年である。
「でもまぁ、結果的には遅刻しないで済んで良かったよ」
「いや勇気、本当はあのとき間に合ってなかったぞ。担任が気を利かせて待っててくれたんだからな」
「えっ、そうなの? 明日お礼言っておかないと」
思わぬ事実に勇気が目を丸くしてそんなことを口にしていると、清春がニヤリと笑みを深くした。
「それにしても、遅刻するのも厭わずに人助けとか、まさしく“ヒーロー”そのものじゃん。やっぱ勇気、将来はヒーローになった方が良いって!」
「またその話? 僕はスポーツとかできないし、怪人を倒すなんて無理だよ」
「いやいや、別に怪人を倒すだけがヒーローじゃないんだぜ? たとえば今朝ニュースになってた“救命戦隊・レスキューファイブ”は怪人も捕まえるけど、本来は災害や事故の現場での救命活動に特化したチームだし、他にも戦闘以外で活動してるヒーローはいっぱいいるんだから」
つらつらと自身の知識を語る清春の姿は、まさしく“オタク”と呼ばれる人種の特徴そのものだ。同じくニュースを観ていたはずなのに既に忘れかけていた勇気と違い、彼からはヒーローに対する熱量というものをひしひしと感じ取れる。
彼のような存在は、この現代においては珍しいものではない。ネットにはヒーローの情報や活動について記録したサイトが数多く存在し、ヒーローや怪人関係の話題だけを扱う動画配信者もいるくらいだ。だからこそ著名なヒーローの多くは企業とスポンサー契約を結んだり、その知名度を活かした副業に手を付ける者もいる、らしい。
らしい、というのは、勇気はそういった話題に疎い方だからだ。ゴミ拾いも人助けも彼にとっては“そうしたいからそうしているだけ”という話であって、ヒーローに対する尊敬の念はあっても自分がそれになろうなんて想像もできない。
「そもそもヒーローって、どうやってなるものなの?」
「それなぁ。ヒーローとか怪人が現れてから結構経つけど、実はどうやってヒーローになるのかって部分は意外と知られてないんだよなぁ」
「えっ、そうなの?」
「チームで活動しているヒーローとかだと普通の会社みたいにメンバーを募集してたりするんだけど、そのチームのリーダー自身がどうやってヒーローになったのかって実はあやふやなんだよなぁ。特に政府で公募してるわけでもなさそうだし、きっと何か特別な秘密があるに違いない」
「秘密ねぇ――」
そんな風にとりとめの無いお喋りを楽しみながら、2人は横に並んで歩道を歩いていた。勿論歩道の幅は2人が横に並んでも余りあるほどに充分で、2人の周りを歩く通行人の迷惑にならないことを確認したうえで、である。
ところが、
「どけ! 邪魔だ!」
「うわっ!」
「おぉっと!」
後ろから走ってきた1人の男が無理矢理2人の間に割り込み、追い抜きがてらに2人のことを突き飛ばしていった。その衝撃で2人は勢いよく地面に倒れ込むが、男は2人に謝るどころか見向きもせずそのまま全速力で走り去っていく。
膝をついて立ち上がろうとしていた清春が、それに対して文句を言おうと口を開き――
「引ったくりよ! 誰か捕まえて!」
かけたそのとき、後ろから突然女性の叫び声が響いた。
咄嗟に声のした方へ顔を向けると、40代前半くらいのふくよかな体つきをした女性が地面に倒れており、清春達の後ろ、つまり先程まで歩いていた方向を指差しているのが見えた。
その指差す先を目で追うと、既に30メートルくらい離れた所に先程自分達を突き飛ばした男の背中があり、その右手には明らかに女性物のバッグを抱えているのが見えた。
男の周りにも何人か通行人はいるのだが、突然のことで咄嗟に体が動かないのか、男は通行人の脇をスルスルと擦り抜けながらみるみる遠ざかっていく。
「マジかよ、あいつ速いな――って、あれ?」
清春は独り言のように呟きながら隣へと視線を遣るが、自分と一緒に地面に転がっているはずの勇気の姿はそこに無かった。
もしやと思って視線を前に戻すと、勇気は引ったくり犯であるその男の背中を懸命に追い掛けている最中だった。
「ちょっと勇気、無理だって! さすがに追いつけないよ!」
清春はそう呼び掛けながらも、即座に立ち上がって彼の後を追い掛け始めた。
それなりに長い付き合いのある彼は、知っているからだ。
勇気という人間が、こんな呼び掛け1つで諦めるような性格でないことを。
一方、男を追い掛ける勇気は、苦しそうに奥歯を噛み締めていた。体力が切れかかっているのもあるが、それ以上に男の背中に追いつくどころか徐々に離されていくことに悔しさを覚えていた。
確かに勇気は、特別足が速い方では無い。運動会のクラス対抗リレーには選ばれたり選ばれなかったりであるし、仮に陸上大会で短距離走に出場したとしても地区大会すら勝ち抜けないレベルだろう。
それでも勇気は、あの引ったくり犯を捕まえたかった。自分を突き飛ばしたことなんでどうでもいい。自分の目の前で犯罪が行われ、犯人がまんまと逃げおおせるのがどうしても許せなかった。偶々そこに居合わせただけで何の関係も無いなんて理屈は、あの男にバッグを盗られて傷ついた女性の顔を見た彼には通用しない。
だから勇気は、とにかく走った。たとえどれだけ息が上がっても、心臓が悲鳴をあげるようにバクバクと脈打っても、いつ足がもつれて転ぶか分からなくても、彼はもはや50メートル以上は離れている男の背中だけを睨みつけながら体を懸命に動かしていた。
「――くそっ! 僕の足がもっと速かったら……!」
吐息混じりにそんな悪態を吐いた、
まさに、そのときだった。
『分かったピョン。力を貸すピョン』
そして、勇気は男を捕まえた。
「うぐっ!」
「――――え?」
勇気は突然の犯罪者の出現に驚いていた通行人をスルスルと擦り抜け、50メートル以上はあった男との距離を数秒足らずで詰め、背を向けて一目散に逃げていた男の襟首を掴んでいた。
それこそ、勇気本人も気づかない間に。
「――何なんだよ、てめぇ!」
男は自分の襟首を掴む勇気の手を振り払い、そしてそのままの勢いで勇気に向かって強く握り締めた拳を振り上げた。
その行為が奇しくも、瞬間移動したかと思うほどに突然自分の足が速くなった衝撃に襲われていた勇気を我に返らせた。とはいえ殴り合いの喧嘩などしたことも無い彼が咄嗟に反応できるはずもなく、それどころか慌てた勢いでバランスを崩して後ろに倒れそうになる始末だった。
それでもどうにか抵抗しようと、勇気は自分に向けて拳を振り下ろしてきた男の腹部目掛けて右脚を突き出した。
「おごえぇっ!」
そしてその脚が男の腹部に突き刺さり、男は10メートルほど吹っ飛ばされていった。
「――――え?」
「な、何だ!?」
「人が吹っ飛んできたぞ!」
「そいつは引ったくりだ! 捕まえろ!」
勇気が2度目の衝撃に襲われている間、彼の視界ではようやく動き出した通行人達が地面に倒れた男へと一斉に向かっていく光景が広がっていた。男は必死の形相でもがいて抵抗するも、男を押し潰す勢いで次々と加わっていく人間の山はピクリとも動かない。
そんな光景をテレビでも観ているかのような他人事で眺めていた勇気の下に、肩を大きく上下させて息を切らす清春がようやく追いついてきた。
「おいっ! 勇気、大丈夫かっ!?」
「へっ? う、うん、大丈夫……」
未だに要領を得ない様子で勇気は呟くようにそう答え、ゆっくりとその場に立ち上がる。
しかしそんな彼に反して、清春の頬は興奮で紅潮していた。
「っていうか、さっきの何!? いきなり速くなったんだけど! しかもあいつを蹴飛ばしたら、凄い勢いで吹っ飛んでったし!」
「えっと……」
「マジでビックリした! まるで“ヒーロー”じゃん!」
「――ヒーロー?」
清春が口にしたその単語に妙な引っ掛かりを覚え、勇気は先程の出来事を思い起こす。
突然足が速くなる直前に聞こえた、無邪気な子供のような声。
いや、というよりは、
――誰かに声を掛けられて、そいつのせいで僕の足が速くなった……?
「もう逃げたりしねぇよ! だからいい加減に降りろ!」
往来に響く男の怒号も、今の勇気には一切届いていなかった。