王命で大公夫人となった私の話
「なぜ。貴女は……」こんなことをするような、できるような人間ではないでしょう。と、そう言いたいのだろう。
そんなことを訊かれても、なぜそうしようと思ったのかだなんて自分でも分からない。ただ指先が、足が、頭が、私の全てが、勝手に動いてしまっただけだ。
私は何も知らなかったというのに、あまりにも強欲だった。自分のことばかりで、この人のことを見ることができていなかった。だから沢山の人を不幸にした。私が、誰かを苦しめた。
ミリアス・ティナ・ロックペーニ。それは、ロックペーニ公爵家の娘であった頃の私の名。
◆◆◆
哀れな女と男の話をしようと思う。まんまと流され、長い鎖に繋がれてしまった私たちのことを。もう後戻りのできない私たちのことを。
さて、その女、私は所謂行き遅れだった。
十六になっても婚約者候補すらいない売れ残り。十六と聞けば、肉体的にはまだ若いと言える年齢だろう。平民であれば結婚などまだ先のことかもしれない。そう、私が貴族でなければだ。ふと、気付いた時には既に一人だった。周りに余っているような縁は無く、同じ年の令嬢たちの中には既に結婚式を終えている者もいた。なぜそのような事態になったのかといえば、理由なんていくらでもあった。幼い頃から変わらぬ陰気な性格。祖父譲りの珍しい若葉色の髪は魔女のようだとも言われている。それに対して平凡な黒っぽい茶色の目。なにより、左の手の甲には生まれつきの醜い痣があるのだ。物心つく前から白い手袋をして過ごしているが、私の痣のことは社交界に広く知れ渡っている。
「ロックペーニ嬢はその手袋の下に醜い何かを隠している」
今までずっと、どこでどう広まったのだろうと疑問に思っていた。しかし簡単なことだった。数年もの間、私が一度も手袋を外さないことを周りの貴族たちが不審に思ったのだという。その手袋の下に醜い何かを隠している──確かに、それは紛れもない事実であった。噂を流した者たちにとってはただの憶測なのだが、私には痛く突き刺さる。仮に、私に痣などなくそれがただの噂話であったとしても、私に対して向けられる視線にいい気はしない。それに、ロックペーニの家門に傷を付けたことには変わりない。その年で二十二になった兄には跡継ぎとしての資格や人望、可愛らしい婚約者が揃っているというのに、私には何もない。だから私は、唯一の居場所であると言えた家の中でも厄介な存在として嫌われていた。
「お前がこの家にいる資格はない。女でなければもっと使い道が……」
父には怒声と共にその言葉を浴びせられた。
「きっと呪われているんだわ」
母はどうせ見えないからと、痣の上に鞭を打った。
「公爵は情けでお前を置いてやってるんじゃない。お前を捨てたことが広まれば、ロックペーニの家門に更なる傷が増えるからだ。お前が余計な噂を広めなければ、そんな傷は一つで済んだものを」
兄は私を嘲笑った。噂は誰かが勝手に広めたものだというのに。しかし、社交界で致命的ともいえる弱点を作ってしまったことは私の責任だ。言い訳はできない。抗議する勇気もなかった。
しかし、あの頃の私にも手を差し伸べてくれた人がいた。私の護衛の一人で、名はヴィン。鼻の上に散ったそばかすが特徴的な彼は、初めて会った時に私の兄と同じ年なのだと言った。平民でありながら数年前に大きな戦功をあげ、騎士としての称号を与えられたのだという。彼も噂で私の痣のことを知っていたようだが、いつも柔らかい笑みを浮かべながら私に接してくれた。公爵家では時々、彼が隠し持っていたクッキーを貰うこともあった。
「故郷に妹がいるんですよ」
ヴィンは私をその妹のように思ってくれていたのだと思う。だから私もヴィンには平気で甘えられたのだ。ただの護衛と、その肩書きだけは重くのし掛かっている公爵令嬢。時間は限られていたが、彼といると息苦しさを忘れられた。
いつだったか。「お嬢様の若葉色の髪には、何色でも似合いますね」と公爵家の庭で笑いかけてくれたことがある。それがお世辞だとは分かっていても、嬉しかった。
私はヴィンが好きだった。見えない壁で閉鎖された空間に一人現れ、私を救い出してくれた彼。私は狂信的と言えるほど、彼から贈られる甘い優しさを求めていた。彼はそれに気付いているかのように、私の欲しいものを、言って欲しい言葉を、絶えず注いでくれた。あの頃の私であれば、彼の言うことには何でも従っていたと思う。しかし彼は善人でありただの護衛であったから、私に頼みごとなんてしなかった。一度だって。いつも私ばかり相談していた気がする。
私は彼の妹でも友人でも恋人でもなく、ただ護られるだけの人間でしかなかった。だからこれは、私が自惚れていたというだけの話である。
「結婚することになりました。お嬢様、それと妹と同い年の、故郷に残してきた幼馴染です」
それはとても残酷な報告だった。兄のように慕い、恋をした彼。ただ一つの光だと思っていた彼からの仕打ち。
「そうなの」
ヴィンは誰よりも私によくしてくれた。と同時に、私を終わりのない奈落へと突き落とした。ただ、彼に想い人がいたという事実が、ヴィンが私から離れてしまうかもしれないことが、酷く恐ろしく思えて。嫉妬ではなく、恐怖。それは自分でも驚くほどに醜い欲だった。恋心とは、果たしてこれほど気持ちの悪いものであったか。
「……おめでとう、ヴィン」
今ならば分かる。それはきっと恋ではなかった。御伽話のように繊細なものではなく、ただの依存。それまで優しくされたことなんてなかったから、自分を受け入れてくれる人がいることへの安心感を恋なのだと錯覚していたのだろう。
その暗い響きが、妙に腑に落ちる。
────リヴソン・ライ・レイシオン。それは、私が最も不幸にしてしまった男の名だ。そして彼もまた、私を不幸にした。このような私が公爵令嬢でなければ、彼はもっと幸せな道を歩くことができたのかもしれない。私もあんな思いをせずに済んだのかもしれないと、ずっと同じことを。
初めて彼と会ったのは、馴染みのある伯爵家が主催の夜会であった。父と兄は仕事で時間を作れず、母は別の大きな夜会に参加していたために、私はロックペーニ公爵家の人間として一人で参加していた。
「あっ……も、申し訳ございません」
その令嬢は顔を青く染め、持っていたワイングラスをテーブルに戻した。とある男爵家の一人娘であったと記憶していたが、数秒の動作にさえ感じる気品。グラスの中には赤紫色の液体が渦を巻いていて、ほのかに葡萄のような香りがしていた。
その時何が起きたのかと問われれば、それを答えることは容易であった。彼女がバランスを崩してしまい、私にほんの少しばかりグラスの中身が掛かってしまったのだ。誰かが落としてしまったと思われる美しい薔薇の刺繍が入ったハンカチーフを、運悪く踏んでしまったのだと。彼女の反応を見るに、本当にそれだけのようであった。誰かに頼まれてやっただとか、私を悪く思って故意にしたことではないのだと。
公爵令嬢にワインが掛けられてしまったというのに、周りは驚くほどこちらを気にしていなかったことを今でも覚えている。ほとんど関心を向けられないのだ。それは私が大人しい性格であったこともあるだろうし、あの場に私のことを気に掛けてくれる人物がいなかったのだということだった。そして、私を酷く嫌っているような者も。正直、変に注目されないことはありがたかったのだが。
しかし、場所が悪かった。左の白い手袋。丁度手首から肘の辺りに向かって、やけに悪目立ちする紫の染みができていたのだ。どうあっても誤魔化せない色、形、大きさの。
「構いませんよ。貴女に掛からなくてよかった」
私はそう言いながら、どうしようもない焦燥を悟られてはいないだろうかと必死だった。
手袋の染み。そんなもの、会場を抜けて人気のない場で手袋を脱いでしまえば簡単に誤魔化せるはずだった。新しいものへと交換すればいいのだから。そうして、私は何事もなかったかのように振る舞えばいい。
しかし私にはそうすることができなかった。その日に限り、替えの手袋をどこかに忘れてきてしまっていたのだ。確かに持ってきたと思っていたのだが、それは私の手元にはなかった。なら帰ればいいだろう、という話でもない。夜会は始まったばかり。私はこれから主催者に挨拶をしなければならなかったのだ。しかし、このような姿を伯爵に見せるわけにはいかない。仮病を使うことも考えたが、どんな形であれ、挨拶もなしにこのまま帰れば家でどんな仕打ちを受けるか。それが分からないほど子供でもなかった。とはいえ手袋を誰かに借りるということはできない。いつだったか、珍しいデザインの手袋を身に付けることが流行っていた気がするが、それもずっと前のこと。その頃の令嬢たちは手袋を好まないのだと、私自身よく分かっていた。あの場にいた誰もが、手袋など持っていなかったはずだ。第一、私にはそのように親しい令嬢はいなかった。
「ミ、ミリアス様……?」
何か不安に思ったのだろう。その男爵令嬢が私の顔を覗き込んできてから初めて、私は自分が不自然に固まっていたのだと気付いた。
そして周りも何かが可笑しいと、私たちに目を向けた。「ロックペーニ嬢の鎧ともいえるような手袋に染みができている」のだと気付いてからは、皆が私の両腕をじろじろと見つめるのだ。気分が悪かった。とても酷く。幸い、その中に主催者である伯爵はいなかった。しかし、このまま大きな騒ぎになってしまっては困る。
「ごめんなさい、少し汚れてしまったので。私は一度席を外しますが、どうかお気になさらず」
そう言って逃げるように会場を後にし、屋敷の廊下に出たのだ。彼女にワインは掛かっていないし、自分が去れば大丈夫だろうと。とにかく馬車に戻り、御者に手袋がなかったかを確認しようと。
伯爵家の持つ屋敷だというのに、そこには全く人気がなく、冷えた空気ばかりが漂っていた。
「御令嬢」
と、そこで声を掛けてきたのが彼である。それまで人の気配など全くなかったというのに、彼は突然ふらりと私の後ろに現れた。
振り向くと、まずその瞳の色が私を捉えた。甘く色のある、飴色。公爵令嬢として、私はあらゆる知識を持っていたはずだった。貴族たちについての情報もそのうちの一つである。しかし私には、自らに声を掛けてきたその人が誰なのか分からなかった。飴色の目は私の髪の色と同じように珍しいはずである。けれど、私の知っているうちにそのような眼球を持つものはいないと記憶していた。その瞳と対照的な色をした黒髪も、中々ない色。顔立ちはそこそこ整っているように見える。体格もそこそこよく、背も高い。一度見たらきっと忘れないだろう。
誰なのだ、とその時の私は不審に思った。そもそも、会場にもいたかどうかも怪しいのだ。しかし、そこに貼り付けている仮面のような笑みは明らかに貴族のものだ。服装も小綺麗できちんとしていたから、私は万が一のことを考えながらも返事をした。
「私に何か?」
己の身を案じて逃げてしまおうかとも思ったが、もし相手が私の思うような不審な人物でなければ、私はとんだ無礼を働いたことになってしまうのだと。
「突然すみません。貴女が、何か思い詰めたようなお顔をされていたので」
その時私は、貴女という単語に違和感を覚えた。まさか、私の名前を知らないのだろうかと。確かに、手袋のことを不審がられてからは社交の場を避けていた。しかし完全に顔を出していないわけではない。更にはこの髪色だ。名までは出てこなくとも、家名は判別できるはずである。私はこれでも、そこそこ名のある公爵家の人間なのだから、と。
それに彼は、私の背後から声を掛けてきた。顔を見られたはずがなかったのだ。
「お気遣いいただきありがとうございます。申し訳ないのですが、急いでいますので」
先程の言葉が口説き文句ではないということが、私には分かっていた。そのようなことが目的なのであれば、もっと他の令嬢に声を掛けるはずであると。このような目立つ髪の女といるのを見られれば、それがたとえ一時のことであったとしても、噂など一瞬で広がってしまうものだった。それに、彼のような容姿であれば女性を口説く必要もないだろう。そして、私の手袋にできている染みにも気が付いているはずだった。
となると、彼への印象は最初と同じく「不審な人物」以外に残らない。だから、その時の私は逃げることを選んだのだ。はしたなくも走って逃げてしまいたい衝動に駆られていたが、それを堪えながら早足で歩いた。
しかし彼は私を呼び止めた。
「御令嬢。私はそのようなつもりで言ったのではありません。不快な思いをさせてしまい申し訳ない。どうかお待ちを」
口を開けば開くほど怪しさが増す男。どうにかして逃げようとする私に対し、彼は全く焦っておらず、振り返れば常に浮かべているらしい微笑が目に入った。一体何を考えているのだろうと思っているうちに、彼は唇を動かしていく。
「先程、外で身なりのいい御者からとある手袋を預かりました。こちらは御令嬢のものではないですか?」
彼が差し出した長細い箱には見覚えがあった。手袋はその中。そしてようやく、馬車の中に忘れてきてしまったのだと思い出した。私は一瞬目を見開き、彼を見極めるように見つめた。
会場には招待状を持つ者しか入ることはできないから、私の御者は門前払いされていたはずだ。そこをたまたま通りかかった彼。彼は親切に私の手袋の入った箱を受け取り──ということだろうか。私は暫く考え込んだ。胡散臭いような笑みを浮かべているものの、おそらく彼はただの善人であったのだ。ならば私はかなり失礼な態度をとってしまったかもしれない、と。
「ありがとうございます。そうとは知らずこのような態度を……」
相手がどのような立場にいるのか分からないため、自分を下げる。公爵家の身分であればそのような相手は限られているのだが、一応そうしておくべきだろうと思った。
「構いませんよ」
「いえ、しかし」
「では、詫びの代わりに御令嬢のお名前を伺ってもよろしいですか?」
そう尋ねつつ、自分は名乗る気がないらしかった。やはり何か事情があるのだろうか。普通は自分から名乗るべきだろうが、この場合は仕方がない。怪しいとは思いつつ、それを上手く躱せる立場ではなかったので答えるしかなかった。
「失礼しました。ミリアス・ロックペーニと申します」
この時の彼は分かっていたのだろうか。目の前の令嬢が、自らに不幸を運んでくるのだと。
歯車が再び音を立て始めたのは、その夜会から僅か四日後のことだった。
「お前とレイシオン大公との婚約が決まった。王命だそうだ」と父は言った。
リヴソン・ライ・レイシオン。側室との間に生まれた彼の兄と十三歳差の王弟であり、若くして大公の称号を授かられた男の名だ。
彼の母、前王妃は一つ海を挟んだ小国の元王女であった。元々体が弱かったらしく、彼を産んだ数日後に逝去されたらしいが。
彼は幼い頃から社交の場を好まず、王位継承権ですら放棄している。一度も公の場に姿を現したことはなかった。血生臭いことを好み、様々な戦地へ出向いている変人。その度に戦功をあげているのだという。国王と不仲であるとも言われていて、彼については好き勝手に噂されていた。容姿が醜いだとか、顔に大きな痣があるだとか。それはどれも酷い内容である。
しかし、父に見せられた姿絵に描かれた人物は社交界に漂うどの噂とも反していた。飴の色の目に、夜の色をした髪。──リヴソンというのは、あの夜会で私に手袋を渡した男だった。今まで容姿の特徴さえも知られていなかったのだから、私が分からないのも当然であったのだ。とても戦場を好んでいるようには見えなかったが、彼が大公であるだろうとの確信はあった。父の話によると、どうやらその頃突然社交の場へ顔を出し始めたらしい。その理由までは分からないが。
その時は王命だと言われたが、当時の私は自分がなぜリヴソンと婚約することになったのか全く分かっていなかった。ロックペーニは確かに公爵家であるが、それだけである。同じ公爵の地位を持つ家と比べてもやはり平凡で、王家と血縁関係にあるわけでもない。私や家の者が突出した才能や能力を持っているわけでもなく、大公夫人とならばもっと適した相手がいるはずだったのだ。実際に、頭の中では何人かの令嬢が思い浮かんでいた。彼と会ったのはあの夜会で一度きりであるため、あちらの強い希望だというわけでもないだろう。このような私を、よりによって王命で囲んでしまう必要など全くといってなかったのである。
婚約を知らされた日から、母は私を鞭で打つのをやめた。しかし痣の上にできていた幾重もの痛々しい傷跡は、今もなお消えていない。時々じくじくと痛む気がして、私は眠る時にも手袋を手放せなくなった。私の左手は、本当に人間のものであるのだろうか。今でも時々、寝具に身を委ねながら考えている。
「レイシオン卿。この度は」
表向きでは初めての顔合わせとなっていたその茶会。しかし私が挨拶を言い終える前に、リヴソンは言った。夜会で見せた愛想笑いが嘘のように、無表情で。
「貴女を巻き込んでしまいました」
巻き込んでしまった、とのことだが、おそらく彼は被害者だった。王命であることからも不穏な空気が漂ってきている。彼にとって私との婚約は足枷でしかないのだろう。それに、彼の中では私の印象は最悪であったはずだ。あの夜会での私の態度は、けっして許されるものではないのだから。
リヴソンとの婚約により、私の家には王家との繋がりができた。しかし、それに比べて彼にはほとんど利益がない。政略結婚に愛が必要とされないのは当たり前であるが、それは互いに利益のある場合である。では、私たちの婚約にはどういった意味があったのだろうか。──きっと、行き遅れの私を無理矢理押し付けられたのだろう。彼が国王と不仲であるという噂は本当で、婚約者にはわざわざ彼に大きな利益を齎さないような家を、社交界で評判の悪い私を選んだのかもしれない。
「しかし、王命による婚約を解消することは難しいでしょう。意思など関係なく、私たちは夫婦とならなければならない」
その茶会では、私はほとんど声を発することができずに終わった。ただ彼の説明を聞き、適当なタイミングで相槌を打つことを繰り返すだけ。不本意にもかかわらず、こんな女と婚約を結ばれてしまった彼は不幸な男だ。そうやって申し訳なく思いながらも、私は彼の言葉を呑み込むことしかできなかった。
リヴソンを硬い鎖で縛り付けたのは、紛れもなく私自身であった。彼の目には、私がどれほど愚かに映っていたのだろうか。
婚約期間はたったの四ヶ月だった。いつの間にか私は十七歳になっていて、リヴソンは二十二歳。その間に予定を立てて会ったのもほんの数回で、片手で数えてしまえるほど。元から冷え切っていた関係だが、私はそれ以上ないほど神に感謝していた。リヴソンにとっては不本意なものであるようだが、私は彼の婚約者となることで穏やかな日々を過ごせていたのだ。ごく普通の令嬢として、普通の扱いを。意味のない結婚とはいえ、相手は大公だ。このまま彼と結婚すればあの家から逃れることができる。あの人たちだって下手に近付いてこないだろうという醜い下心もあった。要するに浮かれていたのだ。大切なことをすっかり忘れて。
王命であって放棄することはできないこと、そして「大公閣下はお忙しいから」と父が急かしたのもあり、私たちは流されるままに結婚式を挙げることとなった。まだ他人としか認識できていない状態ではあったものの、私個人には断れるだけの力も、先延ばしにする理由もなかったのだ。
淡々としていて、祝福する気など一切ないような、淋しい式だった。まだ数年前のことなのに、ぼんやりとしか思い出せないほどに。唇を重ねることはなく、ほとんどの動作が振りだけで終わった。彼がはっきりと私に触れたのは、指輪を嵌めた時くらいだろうか。勿論、その時も私は手袋をしていたので、指輪のおそらくひんやりとした温度を感じることもできずに、まるで広い会場の中にたった独りでいるようにも思えた。
「手袋、ですか?」
形だけでも初夜を行おうとしていたその時。私はそれから起こるであろうことの全てを覚悟していた。しかしリヴソンは予定通り寝室に現れ、寝具に腰掛けていた私にそう言った。──なぜ寝室でも手袋をしているのか、と。
嘘だ、と私は心の中で小さく嘆いた。まさか、痣のことを知らなかったのかと。そう、本来であれば父が伝えるべきなのであった。しかし、意図的にそうしなかったのだろう。父は最後まで隠しきれるとでも思っていたのだろうか。
「いけませんか?」
咄嗟に声が出た。どうにか誤魔化そうとするが、リヴソンは何も言わず私を見つめるだけだった。突然のことである。もはや隠し通すことはできないだろうと目を閉じた。
「……痣です」
父を憎く思いながらも、手袋を嵌めたままである左手の甲をよく見せた。開き直るように。許されるならば、全て悪い夢だと思いたかった。
「今、何と」
彼の様子から、やはり痣のことは知らされていないようだった。父が話していなかったとはいえ、私もずっと隠していたのだ。痣のことは知っているだろうが、彼の目にはなるべく見せないようにしようと意識して。しかしそれが徒となり、私は追い詰められてしまった。大公ともあろう方に隠しごとをしていたのだ。何か罰を受けることは間違いない。最悪の場合、家門に新たな傷が増えることとなる。覚悟を決めて式を終えたというのに、もう崩れるというのか。いっそのこと全てを曖昧にしたまま狂ってしまいたかった。
「左手の甲に、醜い傷跡があります。……私はきっと呪われているのです。陛下の命であれ、王の血が流れる者を私のような魔女が穢すことは許されないはず。幸い、私たちはまだ正式な夫婦ではありませんから、これを理由に白紙とすることもできるでしょう。申し訳ございませんでした」
ここまで来て今更、と思うかもしれないが、その時の私にはそうするしかなかったのだ。身の潔白を証明するために何かを述べようなどとは全く思わなかった。ただ頭を下げる。いっそのこと家と共に落ちてしまおうかと自棄になっていたのだ。父から名誉を奪い、母から後ろ盾を奪い、兄から婚約者を奪い、そして愚かな私も全てを捨ててしまおうと。
「失礼ですが、公爵からそのようなことは聞いていません」
「レイシオン卿……いえ、偉大なる大公閣下を欺こうとした私たちは愚かでございました。どうか私に、ロックペーニに罰を」
この後にどうなっても構わないと思った。言いながら立ち上がり、膝を付いてそのまま頭を地に下ろそうとする。しかし、彼は屈んでそれをやめさせた。力強い手で肩を摑まれて、私はどうすることもできなかった。思い返してみれば、私の口からは「どうして」と微かに漏れていたような気もする。
「見せていただけますか」
今までと同じように、冷たい声だった。彼は戦地で人を殺してきたのだ。そんな冷血な人。あの日、夜会で手袋を渡してくれたことが嘘のように思えてくる。私は彼の機嫌を窺うことしかできないと、膝を付いたまま震える手で白い絹を滑らせていった。露わになったのは、周りの肌よりも遥かに濃い色をした痣。彼はおそらく、痣の上に重ねられた直線の傷跡に気付いたのだろう。それが新たに付けられた傷であるということに。
「この程度のことで……」
沈黙を挟んだ後にそれだけ言って、彼は寝室を後にしてしまった。
しかし、それから数ヶ月経っても、私たちは書類上では夫婦のままだった。
親しいわけでもなく、彼と夜を共にすることは一度もなかったが、なぜか私は彼の屋敷にいた。その間、リヴソンは私の家のことや痣のことを一度も口に出さず、会話は色のない挨拶のみ。それに、他の者にも口外していないようだった。そんな生活になったのは、彼が私に失望していたからだろうか。しかし安定していて、穏やかな日々だった。使用人たちは普通に接してくれるし、大公夫人としての仕事も任せてくれる。公爵家では考えられないような扱いだった。
その時の私は、「なぜ彼は私と離婚しないのだろう」と不思議で堪らなかった。自分を騙し続けていた女をなぜ側に置き続けているのかと。
おそらく、同情されていたのだと思う。私の手袋の下の秘密を知って。本来ならば家ごと罰せられる可能性もあったけれど、彼はそれをしなかった。それほど私が哀れに見えたということだろう。彼が何を考えているのかは分からなかったが、今までの日常から抜け出すことができたのだと安堵していた。
そんな結婚生活の中でも、リヴソンについては分かったことが幾つかある。
月に数回ほど家を空ける時があること。
魚は平気らしいが、肉は苦手なのだということ。
私だけでなく、使用人とも一定の距離を置いているということ。
そして、茶会や夜会への出席は必要最低限に抑え、ほとんど断っていること。私への招待状が届いても、彼が全て断ってしまうのだ。結婚してからは、パートナーとして表に出ることだって一度もなかった。きっと、私のような女が妻であると思われたくなかったのだろう。あの社交界に顔を出さずに済むのはありがたかったが、どうしようもない淋しさを感じずにはいられなかった。勿論、私は彼に何かを言える立場ではない。そこにどんな理由があろうと、どんな扱いを受けようと、妻として屋敷に置いてもらえるだけで私は幸運なのだ。
「奥様。散歩もよろしいのですが、そろそろお戻りになる時間です」
ヴィンは私を「お嬢様」ではなく「奥様」と呼ぶようになっていた。かつて私が最も慕い、信頼していた相手。公爵家で務めていた彼であったが、私が大公夫人となってからも変わらず護衛として側にいた。リヴソンが公爵邸から騎士と侍女を数人連れて来ることを許可してくれたからである。結婚したという彼を再び振り回すことになってしまうのは心苦しかったが、ヴィンを推薦したのは父だった。以前から私と親しくしていたのが気に食わなかったようで、この際だからと二人同時に追い出すつもりだったようだ。少々気まずくはあったものの、ヴィンと過ごす時間はやはり心地よかった。
ずっと後悔していることがある。
それはリヴソンと結婚して、丁度半年となる頃だった。こちらの同盟国であった隣国が謀反を企てていたのだということが明らかになり、両国が同時に兵を起こしたのだ。宣戦布告があったのかすら分からないまま、いつの間にか戦争が始まっていた。最初は平民のみに徴兵の義務が課せられた。上位貴族たちはよっぽどのことがないかぎり、最初から戦地へ出向くことはない。
しかし、大公であるはずのリヴソンは違っていた。戦闘が始まってから二日と経たぬうちの夕食の席で、自ら出征すると言いだしたのである。王家からは許しをもらったとも。嫌われていることは分かっていたが、私の──妻の存在ですら、彼を止めることはできなかった。
「いつお戻りになられるのですか?」
「数日後、東の国境へ向かいます。早くて四ヶ月、長くて三年ほどでしょうか」
リヴソンは淡々と、なんの感情も籠もらない声でそう言った。彼がそういう人間だということは知っていたが、結婚してからは初めてのことなので、私は大きく動揺していた。右手で握っていたフォークを落としてしまうほど。それを使用人が新しく取り替えてくれたことにも気付かぬまま、私はただ頷いた。
「そう、ですか」
そこでようやく思い出したのだ。私の目の前にいるのは、あの大公なのだと。戦というものを誰よりも好む男なのだと。
「何も心配することはありません。貴女はここで自由に過ごしていればいい」
彼が私を見る目はいつも冷たかったが、その日の視線は心なしか柔らかいような気がした。この屋敷を出たら、殺し合いの場へ向かわなくてはならないというのに。血生臭いことを好み、様々な戦地へ出向いている変人。リヴソンはやはり、噂通りの人なのだ。私は何とも言えぬ気持ちに喉を覆われた。
──リヴソンが出征するというその日の朝。階段を駆け下りた先、屋敷の玄関にはリヴソンと並ぶヴィンがいた。
「ヴィン?」
彼には外出の予定がないはずだったから、私は思わずヴィンの名を呼んでしまった。
「奥様」
互いに少し距離をとって見つめたその顔は真剣さを帯びていて、明るい色の髪は弱々しく、じっとしているばかりでは突然ふわりと消えてしまいそうに思えた。それに、見慣れない服を着ていたのだ。畏まってはいるものの、どこか違和感のあるような──軍服。
「王家からの命で出征が決まりました。これから大公閣下と共に出ます」
彼は私にそう告げた。ヴィンはいつも私の側にいたが、所詮は平民の若い男である。そうなることは全く可笑しくなかった。
「そう」
泣いてはならない、と強く目を閉じた。ヴィンには故郷で待つ妻がいる。他人の私が泣いてはならない。それに、私の涙は夫であるリヴソンに流すべきだった。たとえそこに愛がなかったとしても。私は大公夫人で、ヴィンは誰かの夫。
涙の代わりに、私はヴィンのことをじっと見つめた。お互いに、何も言わずに。
ヴィンに抱いていた想いが恋でなかったとしても、彼は私の大切な、家族のような人だった。
「どうかご無事で」
ヴィンから目を逸らし、リヴソンに向かって礼をした。たとえ私が妻であっても、変に飾った言葉を送ったり手を握ることはできなかった。彼は私の髪色すら目に入れたくはないだろうから。
そしてもう一度、顔を上げてリヴソンと目を合わせた。
「──お待ちしております」
一瞬だけ、それを聞いていたリヴソンの目に哀しみのようなものが浮かんでいたように見えたのだ。しかし私はそれ以上何も言わなかったし、リヴソンも無言のまま去って行った。
私はもっと彼に歩み寄り、温かい言葉を送るべきだった。この時でなくとも、私は夫のことを知ろうとしなければならなかったのだ。リヴソンがどんな思いで私を見ていたのか、何を得るために戦地へ向かったのか、私はもっと考えるべきだった。私は彼の、妻であったのに。
それから三日もすると、外では誰もが私のことを噂するようになった。
「レイシオン大公は妻に興味がなかったらしい」
家柄などは関係なく、未だ安全な立場にいる貴族たちはそれを次々と広めていく。こんな時にそんなことをしている場合ではないのだろうが、彼らにとっては当たり前のことなのである。扇子の裏でひそひそと唇を動かす令嬢たちを、誰が止められただろう。
「ロックペーニのお嬢さんといえば、腕に醜い痣があるらしいじゃない。それで愛想を尽かされたのよ」
顔も知らない女がそう噂しているのを耳にした。しかし、全て本当のこと。
「きっと捨てられたんだ。政略結婚だとはいえ、可哀想に」
使用人ですらそうやって私を哀れんだ。
やはりリヴソンは、私のことを嫌っているのだろう。私たちの間に少しでも愛があるように見えれば、このような噂を流されることはなかった。私がもっと上手く立ち回り、彼がもっと私に心を許してくれたなら。考えても仕方のないことを思いながら、私は醜い渦の中でただじっと耐えていた。
「ロックペーニの名に恥じぬよう、大公夫人としての務めを果たしなさい」
届けられた父からの手紙には、その一文が書かれていた。家には戻ってくるなということだ。
戦争が終わらぬまま六ヶ月が過ぎた頃。新聞によれば、隣国は激しい傷を負っていて、平民であれば黒いパン一つ手に入れることにも苦労するほどだという。こちらの国も少しずつ景気が悪くなっていたが、平民であってもまだ生活はしていける程度だった。さらに、隣国では死者もこちらの数倍ほど──大勢出ているのだとか。その時点ではこちらが優位に立っているのだと、巧みな文章で繰り返し書かれていた。
しかし、だからと言って全く影響がないわけではなかった。新聞では毎日のように死者の名が載り、屋敷は暗い空気に包まれる。時々領地を回ってみても、それは同じであった。
食事の前になると、私は使用人たちと共に繰り返し祈った。リヴソンと、ヴィンが無事に戻ってきますようにと。
リヴソンには手紙も書いた。結婚してからはほとんど接していなかったためにぎこちない文章になっていたと思うが、構わず送り続けた。返事が来なくともいいのだと。
屋敷には沢山の使用人がいたけれど、私は常に独りだった。それでも耐えることができたのは、大公夫人という立場での仕事に追われていたからだろう。最初こそ執事長に指摘されることが多かったが、その頃には一人で書類の整理を行い、領地を守ることができていた。
「ミリアス・ティナ・レイシオン大公夫人殿。そなたの夫──弟が率いていた部隊が全滅した」
リヴソンが出征してから、一年半の月日が流れていた。
突然王家からの手紙が届いたかと思えば、王城への呼び出しで。私の到着を待っていたらしい国王は抑揚のない声でそう言った。それはリヴソンとよく似た、しかし彼のものとは全く違う冷たさを持っていた。
その時の私はそれを聞きながら、ただ「仕方のないことだ」とだけ思っていた。そう、仕方のないこと。手紙の返事が来なかったのは、私のことを好いていないということもあるだろうが、一番は手紙など書ける状況ではなかったからだろう。まだ死んだと決まったわけではなかったが、希望を持ってはいけないと分かっていた。
ただ一つ、疑問に思ったことがある。なぜ国王はわざわざ私を呼び出したのかということだ。私は噂通り、リヴソンと国王は不仲であるのだと思っていた。たとえそれがただの噂だったとしても、王である方が私にわざわざ直接伝える必要はないはずだった。ただ手紙を出せばいいだけのことである。
「面を上げよ。何か尋ねたいことはないのか」
私は跪いたまま顔を上げた。
「恐れ入りますが、陛下。何かとは、夫についてのことでしょうか?」
「それ以外にないだろう」
「でしたら、特にございません」
本当に、何もなかった。会話だってほとんどしていないのだ。そもそも彼は本当に私の夫だったのだろうかと、ぼんやり考えてしまうほど。涙すら出てこない。ヴィンのことを考えてみても同じだった。私はこれほどまでに薄情だったのかと、自分でも驚いたものである。
「やはりそなたを選んだのは正解であったな」
言葉の真意は読み取れなかったが、それが皮肉であるのだということだけは理解できた。
「あれの母親は哀れな人だった。小さな母国のために我が国へ身を捧げたというのに、産んだ子の姿をまともに見る前に死んだ。王に愛されず、国民にすら歓迎されぬままに」
リヴソンの母、前王妃の話だろうとすぐに分かった。祝福されぬ王妃。彼女の話はこれまで何度も書物や噂話で、様々な人から聞いたことがあったから。
「王妃であったはずの母親が死に、あれは歩むはずであった人生から大きく外れて生きてきたのだ。持っているのは肩書きしかない。故に、他に方法を知らぬ。上の者にただ従い、下の者には怯えている。……あれもやはり、愚かな男だった」
──屋敷に戻ってからすぐ、私は初めてリヴソンの部屋に入った。国王が放った「愚か」だという言葉に少々引っかかりを覚えたからだ。
扉を引き寄せてすぐ、微かにインクのような香りが鼻を擽り、私をその部屋へと招き入れた。使用人が定期的に清掃を行っていたから、埃一つ溜まっていない。しかし、生活感もない。必要最低限に置かれた家具に、締め切られたカーテン。それは私の髪と同じ、若葉のような色をしていた。偶然だろうか。それとも、彼が少しでも私のことを意識しようとしてくれていたのだろうか。
机の引き出しには鍵が掛かっていたけれど、その鍵は簡単に見つかった。棚に飾られた美しい模様の宝石箱の中に、一人きりで眠っていたのだ。
それを使って引き出しを開けると。
「手紙?」
見つけたのは、大切に保管されていた手紙だった。一通一通が丁寧に重ねられている。折れ曲がっていたり、破れているものはなかった。愛人でもいたのだろうかと一瞬過ったが、出征前の彼にそのような様子はなかった。そしてなにより、私にはその封筒に見覚えがあった。
その中の一通を手に取り、呟く。
「王家……」
間違いなくそうであった。他のものも、全て。裏面には王家の紋章も刻まれていた。そして、その手紙の内容というのが。
──王からの、出征命令。引き出しの中に仕舞われていた数十枚の手紙の全てが。一体、何年分のものなのだろうか。それは、思わず口を押さえてしまうほどの衝撃だった。彼は自ら望んで行ったのではなかったのか。血生臭いことを好み、目障りな私と離れることを望んだのではなかったのかと。
いや、きっと違うのだろう。
若く第二王子であったリヴソンは貴族や国民を巻き込んだ激しい王位争いから身を引き、代わりに大公の称号を得た。しかし、リヴソンは前王妃との子だ。側室との子である第一王子と比べても、血筋で言えば最も王座に近かったはずである。国王はリヴソンの反逆を恐れ、次々に出征命令を出して政治から遠ざけたのではないだろうか。
目障りな王弟を兵士として送り込むのはいいが、それが広まると王としての立場が危うくなる可能性がある。だから今までは、彼が望んだという形にされていたのだろう。様々な醜い謀によって。そして、いつしか彼もそれを受け入れたのではないかと。
その一年半で、私は彼の何を見ていたというのだろう。目の前に突き付けられた事実と、彼の表情と、声が、私の足元へ波となって押し寄せた。彼は屋敷を離れる前、淋しそうな表情をしていなかったか。何か言おうとしていなかったか。考えればすぐに分かるほどに単純なこと。彼はきっと、私が思っていたような人間ではないのだ。噂など、ただの戯言だった。
指先が段々と細かく震えていくのが分かった。
自分を産んでからすぐに死んだ母親。厄介者として扱われる日々。何年も続く望まぬ出征。そして望まぬ婚約に、結婚。知ってしまったことは、全て嘘だと思いたかった。私は自分で思っていたよりも、彼を不幸にしていたのだ。
しかし時は私とリヴソンの事実だけを置いて去って行く。私はただ、待つことしかできないのだ。鎖に繋がれた檻の中で、共に同じような環境で過ごしていた彼を。生きていても、死んでしまっていたとしても。後戻りのできない所まで来てしまった私は、ただ彼を待っている。
◆◆◆
ここまでが、私と彼の全てである。
終戦の知らせが届けられてから数ヶ月が経過したというのに、今もなお、リヴソンは帰ってきていない。
彼の部隊は組織としての力を失い全滅したとされていたが、細かいことは未だに把握できていないという。彼ら個人としては生死不明として扱われていた。しかし未だに帰還しないのだから、希望はないに等しいだろう。戦時中、そしてリヴソンを待っている間、私は既に二十歳になっていた。彼も生きていれば二十五歳だ。
ヴィン。彼は数日前に届けられたばかりである。ヴィンの仲間だったのだという男は私の元を訪れて「こいつの故郷は知らなかったけど、勤め先は話していたから」と悔しそうに語った。
「子供もいるらしいんです。無礼だとは分かっています。でも、どうかこいつを故郷に」とも。
ヴィンに子供がいただなんて知らなかった。
彼の死に私は酷く落ち込み、しかし同時に安心もした。私の知らないところで、ヴィンはちゃんと幸せだったのだ。妻と子に恵まれ、一時でも幸せを味わうことができていたのだ。しかし、子供の成長を見守ることができないとはどんなに辛いことだろうと、やはり苦しい気持ちになる。
ヴィンが死んだのは出征から一年が経つという頃だったらしい。仲間が見つけた遺体は損傷が激しく、とても運び出せるような状態ではなかったそうだ。だからその地で肉を焼き、一部の骨のみを拾ってきたのだという。戦時中にはその骨を遺族に送る時間がなかったそうだが、帰還してからはすぐに届けようと努力したらしい。だから私も、できるだけ急いでヴィンを故郷まで送った。残された妻と子供のことを思いながら、悲嘆に暮れて。
ヴィンを届けに来てくれた兵士は、リヴソンのことはまだ分からないと言った。確かに自分はあの方の率いていた隊にいましたが、皆ばらばらになってしまったんです、と。
「奥様」
侍女に呼ばれ、我に返る。溜まっていた書類を片付けていた所だったのに、考え事をしてしまっていたのだ。
「どうしたの」
ノックもせずに入ってきたのだから、それほどのことに違いない。そう思って私はその侍女に問い掛けた。すると、彼女の髪が乱れていることに気が付く。ここまでの廊下を走ってきたのだろうか。
「帰ってこられたのです」
瞼が自然と開かれる。まさかと言う前に、その侍女は涙を流した。
「旦那様が、帰還されました」
「おかえりなさいませ。お待ちしておりました」
返事はない。しかし、それでよかった。
彼のひんやりとしたその目を、久し振りに見た。以前と違うのは、そこになんの感情も籠もっていないことだろうか。出征前はまだ生きている目であったのに、今はまるで屍のようだった。
自らの部屋で椅子に腰掛けている彼を見つけた時、私は不覚にも口を押さえてしまった。リヴソンの、痛々しいその姿が目に入ったからだ。おそらく、左眼の視力を失っているのだろう。そこに包帯が無造作に巻かれているのを見てしまい、私は何も言えなかった。そして何より、左腕。それは肩から下に確かに存在しているものの、だらんと不自然に垂れていた。きっと思うように動かせないのだ。
暫く一般兵に紛れていたから簡単に連絡することはできなかったのだと、リヴソンはそれだけ言った。
おそらくその怪我のことも理由にあるのだろうが、左眼と左腕について、彼は何も言わなかった。彼はこの二年で一体何を経験し、何を見てきたのだろう。その瞳には、もはや私の姿など映っていない。
暫く沈黙が続いた。元々冷え切った関係。そこから更に二年も会っていなかったのだ。そんな私たちには、共通した思い出もなにもない。話せることなどなかった。何より、何を言っても今の彼には届かない気がしていたのだ。まるで響かないだろうと。彼の秘密を知ったところで、私には待つことしかできなかった。その後のことなど全く考えていなかったのだ。
ふと「離婚しませんか」と、リヴソンが言った。
それに対して何を言えばよいのか分からず、ただ椅子に座る彼を見下ろす。
沈黙を挟んでから、私は「この、痣のことですか」と尋ねた。
「いえ、貴女のせいでは。……妻よりも戦を優先する夫がいるでしょうか。私には、貴女の隣にいる資格がない」
リヴソンの顔には薄らと笑みが浮かんでいたが、それはどこか淋しげだった。そう見えたのは、私が彼の秘密を知ってしまったからかもしれない。
「……出征は王命であったのでしょう?」
リヴソンは短く声を漏らした。なぜ知っているのか、とでも言いたげな顔。
「部屋に入ったのですか」
「勝手に入ってしまったことはお詫びします。しかし、私は貴方の妻なのです。貴方のことを知る権利もあるはずでしょう」
きっぱり言い切ると、リヴソンは右手で目の辺りを覆い、「そうですか」と小さく頷いた。彼のこういう仕草も、そんな弱々しい声も、一度だって聞いたことはなかった。
「ヴィンといいましたか。貴女の想い人を、あんな場で死なせてしまいました」
想い人という言葉に、一瞬息が詰まる。彼は、私がヴィンを慕っていると思っているのだろう。それを聞いた瞬間、私はなぜか怒鳴ってしまいそうになった。想い人だなんて、そんなはずはないでしょうと。私の夫は貴方なのですよと。しかし、彼はきっとそんな言葉を望んでいない。私のことを好いているわけでもないのだから。それに、怪我人にそんな言葉を浴びせることはできなかった。
「左眼も、私の左腕もまるで使い物にならない。この怪我ではもう戦地へ行くことはできないでしょう。人を殺し、部下を救うことすらできなかった私は、まさしく悪魔のような男なのです。貴女を縛り付けておくわけにはいかない」
それが離婚を望む本当の理由なのか、私には分からなかった。
あの、初夜を行うはずだった夜を思い出す。あの日、私も彼に同じようなことを言った。しかし、それとは言葉の重みが違う。彼は私よりも多くのものを抱え、それに耐えてきたのだろう。
「王命など無理矢理覆してしまえばいいのです。貴女は何もしなくていい」
そこで一通りのことを言い終えたのだろう。リヴソンは口を閉じた。
「意味が、分からないのですが」
他にも何か言うべきなのだろうが、言葉が出てこない。様々な単語が喉の手前まで出かかっているものの、そこで複雑に混ざり合い真っ黒になってしまう。舌が上手く回らない。あの時の私を眺めていた彼もこんな気持ちだったのだろうか。
「離婚には応じましょう。話が纏まればすぐにでも公爵家に戻ります。しかし、回りくどい言い方はやめてください。私のことがお嫌いなら、はっきりとそう仰ってくだされば……」
瞼を強く歪めると、彼は驚いたような顔をする。いかにも人間らしい、彼はこんな表情をする男だっただろうか。
次に彼の口から発せられるのは、想像もしていなかった言葉。
「……逆です。私は、貴女を傷付けてしまうことが怖い。私といれば、貴女は今より更に不幸になるでしょう」
視界が暗幕に覆われた。一秒にも満たない瞬きが、とても長い時間の中で行われたように感じる。
「既に貴女から二年という時間を奪ってしまっているのです」
違う。私が求めているのはそんな言葉ではないというのに。
「こんな男に、貴女の人生を預けるべきではない」
彼はきっと諦めてしまっているのだ。何と愚かで哀れな男なのだろう。私という女がいるのだから、都合の悪いことなど全て押し付けてしまえばいいのに。今までの人たちがそうしたように、乱暴に扱ってしまえばいいのに。私たちは似たもの同士なのだから、縛り付けて、最後まで巻き込ませてくれたらいいのに。彼はもう藻掻くことをやめ、全てを捨ててしまおうとしている。
全てに落胆していて──それなのに、私の身を案じてくれているのだった。
「リヴソン」
結婚後に初めて呼んだ彼の名。それは甘く苦く、そして重い響きを持っている。
ただただ悔しかった。私は半年もこの人の妻であったのに、まるで何も分かっていなかったのだ。
この人は私を頼ってくれない。側にいさせてくれない。それどころか勝手に完結させて、私を突き放してしまう。私のことを考えてくれているようで、この人もまるで分かっていないのだ。自らも助けが必要な状態であるのに、何も。
「私は」
その後に続けるべき言葉を考えながら、私はリヴソンの元へ一歩ずつ近付いていく。彼は無表情でいたけれど、その飴色の右目は怯えるように私の動きを追っていた。まるで幼い子供のように。できるだけ近いものに喩えるとするならば、離れていく母親の背中を為す術なく眺めているような目。
両手で触れた彼の頬は、酷く冷たかった。しかし同時に、焦がすような熱さも感じる。それは私の手が彼と同じように冷えていたからだろうか。それとも、久々に触れた人肌を温かいと思いたかっただけなのか。
私は彼の顔を引き寄せながら、その額に自らの首筋を近付けていく。カーテンの隙間から漏れた光。それを浴びた緑の糸が、彼の頭を囲うようにはらりと垂れた。その所々が金色に染まっているのを見て、心の中に何かが染みる。それまでに、自分の髪をこれほど美しいと思ったことはない。
私はいつの間にか、リヴソンを抱き締めていた。彼の後頭部に右手を添え、それまで誰にもしたことがない優しさで。
「なぜ。貴女は……」こんなことをするような、できるような人間ではないでしょう。と、そう言いたいのだろう。
そんなことを訊かれても、なぜそうしようと思ったのかだなんて自分でも分からない。ただ指先が、足が、頭が、私の全てが、勝手に動いてしまっただけだ。そうしてあげたいと思ったから。私がそうしたかったから。
「私は、貴方の、妻です」
届いているのかも分からなくなるほど、震えた声。
それは同情でも、慰めでもない。ただ私が、目の前の彼を感じたかったのだ。このどうしようもなくなった感情をどうにかするために。そして、彼に私の存在を感じて欲しかった。
「王命など関係ありません。私は貴方を、自分の意思で待っていました。ずっと、お待ちしていたのです」
胸の辺りで、息を吸う音が聞こえた。その音が微かに震えていることも感じる。
後頭部に添えた手を緩めると、リヴソンは顔を上げて私を見た。そのまま目を合わせ、互いをじっと見つめる。もう少し近付けば、口付けてしまえるほどの距離で。
「だから、私のことを見て」
彼の瞳に映った私は酷い顔をしていた。とても美しいとはいえない。
瞼の裏で新たに作られた水滴が溜まっていく。彼の顔が認識できなくなるほどに。
目を閉じると、そこに溢れていた涙がついに零れた。
「どうか貴方のことを、教えてください」