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僕が姉上への文に紙を使わない理由

作者: 庭鳥

せせらぎが、山の空気が肌に耳に心地よい。滝に向かって歩むうちに、笑いさざめく声が聞こえて来た。あの声は妻だ。

沈みつつある日を感じながら、足を早めて滝に向かう。予想通り妻は氷高内親王の・・・・・・いや、天皇の傍らに居た。御前には命婦が数人、天皇とその妹の語らいを邪魔しないようひっそりと控えている。

「こちらにおいででしたか、天皇。良き地、良き水の地ですな。この美濃は、多度山は」

命婦の一人が泉から汲んだ水を飲み、妻の姉である天皇はゆったりと頷いた。歳を重ねてもこの従姉の美しさは衰えることがない。いや、至尊の位に就きさらに美貌を増しているように見える。

「人の噂に違わぬ名水、吉備も長屋も飲んでみるといい。涼やかな水に憂いも疲れも吹き飛ぶ、良き泉だね」

土地を名水を言祝ぐ女帝の言葉を受けて、命婦がさらに水を汲む。手渡された水を一口含めば、涼やかな香気が口から頭まで広がるのを感じた。

「どう?甘露でしょう」

無言で何度も妻は頷いている。

「この水、檜隈(ひのくま)にも飲ませてあげたいわね。明日香に引き籠もって養生していると聞いたけれど。病はだいぶ重いの、檜隈は」

我が異母姉、檜隈女王は本来なら美濃国行幸に従駕するはずだった。それが夏の終わりに高熱を出して寝込み、半月以上たった今も回復していない。

「は。姉は、いまだ伏せっていますが・・・・・・近いうち回復致しましょう。さっそく明日にでも姉の元へ泉の水を送ることにいたします」

「そうね、平城の留守居の者たちに使いを送ることになっていたから・・・・・・檜隈に送る水は、それと一緒に早馬で行かせると良いわ」

霊亀三年九月のことである。遙か祖父の時代、壬申の乱で美濃・不破の地は戦場となった。幼い頃から繰り返し聞かされてきた戦物語は、女帝だけでなく長屋王夫妻にとって馴染みあるもの、今の地位の基盤であった。祖父の時代からの功臣たちを慰撫し、さらなる関係を築くための行幸と認識している。



姉に初めて文を書いたのはいつのことだっただろう。女帝の御前から退出し、机に向かうと思いは遙か昔に飛んで行く。

まだ十にもならない童だった頃。それまで祖母と住んでいた姉の檜隈女王が、祖母の死により父の高市皇子の元へ引き取られた。初めて会う姉が嬉しくて嬉しくて、幼い長屋王はずっと纏わりついていた。

桃の花が咲いたときだった、習ったばかりの詩経にあった「桃夭」の詩を木簡に書き桃の花と共に姉に贈った。


 桃之夭夭    桃の夭夭ようようたる

  灼灼其華    灼灼しゃくしゃくたる其の華

  之子于帰    子于とつ

  宜其室家 其の室家しつかに宜しからん


  桃之夭夭 桃の夭夭たる

  有蕡其実 ふんたる有り其の実

  之子于帰 之の子于き帰ぐ

  宜其家室 其の家室に宜しからん


  桃之夭夭 桃の夭夭たる

  其葉蓁蓁 其の葉蓁蓁しんしんたり

  之子于帰 之の子于き帰ぐ

  宜其家人 其の家人に宜しからん



本当はまっさらな紙に詩を書いて贈りたかったのだが、貴重な紙を字を習い始めたばかりの童に使わせることは父の高市皇子が許さなかった。当然、母も。木簡ではなく紙に書きたかった、と頬を膨らませる弟に当たり前でしょうと檜隈女王は笑って頬をつついたものだった。

「紙は公の文書で使うもの、経典を書くために使うものよ。一度書けば終わりではなく、反故にして裏も使うんだから」

いくら祖父が天皇でも、父の地位が高くてもやってはいけないことだと姉は言う。それに木簡ならば、字を間違えても表面を削ればまた何度でも使えるでしょう?優しい姉が頭を撫でて、また文を頂戴ね、と言うからそれ以降また手習いに励んだことも懐かしい思い出だ。

「あれから、三十年近くになるのか」

過ぎた年月を思い、長屋王は再び木簡を手に取った。今の長屋王が紙を用いて文を書くことを咎める者は誰もいない。檜隈女王とて、止め立てはしないだろう。それでもやはり、姉に送る文は幼い頃と同じく木簡と心に決めて。

病で伏せっている姉に、長い文を読ませるわけにはいかない。見舞いの口上は使いの者に託すとして、木簡には天皇から多度山の泉の水を賜った旨を書く。美濃国行幸が無事に終わり、平城の京に戻る日までに姉の病が回復するよう願いをこめて。


はじめまして、庭鳥と申します。

飛鳥から奈良時代と江戸時代の歴史創作小説を書いて、文学フリマなどの同人誌即売会で頒布しています。

作品中に言及されている檜隈女王は、万葉集に名前が出てくる以外ほとんど情報がない人物で長屋王の父・高市皇子の妻か娘ではないかと言われています。この作品では檜隈女王を長屋王の異母姉として書いています。

同人誌未収録の短編小説を投稿していく予定です。よろしくお願いいたします。

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