A-side 3
A-side akagami
首都の、それも工房街での規則に従って、ルィーさんのお店では夜の6時には竈の火を落とさなければならない。営業自体はしばらく続くものの、その時間を過ぎてからやってくるお客さんは、ほとんどいなかった。少しだけあった売れ残りのプリンやスープは、ついさっき全て、とある工房の親方さんが買い上げて下さった。
「よし。そろそろ閉めるか。あとは掃除を済ませたら、今日の仕事は終いだ」
「はい!」
最後のお客さんをお見送りした後、ルィーさんは油の染みた前掛けを外すと、手を上げて大きく伸びをした。わたしはその隙に、いち早く濡れ布巾を手にして掃除を開始した。調理台周りの汚れは、既にピカピカにしてある。残るは客席周りだ。
「この時間まで音を上げねえとはな。見直したぜ」
ルィーさんが言葉にした通り、わたしは見直されている最中だ。そう。わたしはお昼の賄い作りで、大失態を演じた。
揚げプリンは火の通し過ぎで身が硬くなっていたし、蒸しプリンの方はなんだか水っぽく、べたっとした仕上がりで、せっかく上手くできた香味ダレの乗りが悪かった。
ひとつひとつの手順は難しくない。しかし、それがいくつも重なると、途端に頭は限界を迎えて、パートナーである手足の動きを乱した。焦りと迷いは加速して、一人っきりの舞踏会で、心臓は目眩に耐えながら懸命にステップを刻んだ。けれども最早、努力でなんとかなる状態ではなかった。出来上がった主菜は、先の通り。食べる前から、盛り付ける前から味の予想はついた。
結果、焦りに焦ったわたしはフィナーレにすら失敗し、客席に運んだふたつの汁椀の中身は、一方は拍手喝采の大盛り上がりといった具合なのに対し、もう一方は観客すらまばらといった有り様だった。
それらを前にしたルィーさんの反応は、無反応、という形で示された。食べてもらえたのが不思議なぐらいだった。
「体力だけは、自信があるんです」
わたしのお料理に対する自信は、その時、粉々に砕け散った。が、心はぼろぼろでも表には出さない。そんな無様なものは、お家に帰ってから一人で垂れ流せばいい。
「ですから、後片付けは任せて下さい!」
今、わたしがルィーさんの力になれるのは、それぐらいしかない。昨日までは、やればできると、機会さえあれば活躍できると思っていた。
思い上がっていた自分が、ただただ恥ずかしい。
「そうか。そんなら任せた」
ルィーさんは前掛けを肩に掛けると、そのまま調理場の奥にある私室へと引っ込んでしまった。静けさに睨まれて、強がりの鱗はぽろぽろと剥がれ落ちる。任せてと言ったのは自分でも、いざ一人になると駄目だった。
わたしの制止を振り切って、一粒だけ、弱虫が目から零れ落ちる。大失敗したことよりも、それが何より悔しかった。無かったことにするために、机にできたシミまでゴシゴシ擦る。仕事があるのが救いだった。
掃除をする所が無くなった頃、ルィーさんが私室から顔を出した。
「まだやってたのか?熱心なのは感心するが、なにも机の裏までやる必要はねえよ」
「すみません、帰り支度しますっ」
帰り支度と言っても、納屋に置きっ放しの荷物を取りに行くだけだ。荷物を手に、ルィーさんに帰りの挨拶をと店を覗くと、調理台の前でルィーさんが頭を抱えていた。
「あのぅ…どこか、掃除しちゃいけない所でも…?」
わたしが恐る恐る尋ねると、ルィーさんはゆっくりと首を左右に振った。
「いつもと違うといけねえな。自分の晩飯作りを忘れちまってた」
日持ちのする食材は、納屋にもいくらか置いてあった。しかし、竈は既に冷たく、そこにあった残り物は綺麗さっぱり無い。食べられそうな物といえば、冷やご飯がちょっぴりあるだけで、明日の活力とするには乏し過ぎた。
「ま、一晩ぐらい、どうってことねえや。今日はご苦労だったな」
わたしなら、腹ペコのままじゃ眠れもしない。
「夕飯になるかは分かりませんが、甘い物なら作れます」
余計なお世話だとかを考える前に、それは口をついて出た。
「甘いもん?何か作れるってんなら、食ってみてえな。俺は酒より甘いもんが好きなんだ」
「では、お砂糖だけ頂きますね」
朝市で買ってあった材料を調理台に並べると、ルィーさんがそわそわと首を伸ばした。いつも通りに作るだけ。今は、あれこれ考えるのは無しだ。大事な人が、食べて、笑顔になる姿だけを想像してればいい。
ヴァレンなら、一緒に紅茶が欲しいと駄々をこねるかな。
「牛の乳の、上澄みだけを使うのか?」
「はい。朝に買っておいたんですが、上手く分離してくれてました」
それを大きめのお椀に注ぐと、お箸を束にして素早くかき混ぜる。静かになったお店で、お椀の中だけが騒がしい。
「そいつが噂の、向こうの世界の料理か」
「そうですね。多分、ですけど」
わたしが転生者であることは、先日話してあった。
向こうで生きていた頃の記憶は、今のわたしにはほとんど残っていない。自分がどんな人間だったのか、何をして、どうやって生きてきたのか。そんなことは全て、忘れてしまった。消えずに残っているのは、こちらの世界でも通用するような一般常識や、食べ物に関することぐらい。
それでも料理をしていると、忘れていた記憶が色々なことを教えてくれる。だからわたしは、料理をするのが大好きだった。料理人のような技術は無い。だからこそ、わたしはそこに、たっぷりの愛情を注ぐのだ。
色とりどりのフルーツは、酸味のはっきりしたものばかりを選んだ。それらは全部、小さめの一口大に。生クリームは、滑らかさが残るように軽めに泡立てる。甘さはあえて、強めにしよう。残った牛乳とパンの耳は、明日の朝ご飯に。パンにクリームを塗って、フルーツをたっぷり乗せて、もう一度、たっぷりのクリームとパンで挟んだら。四角く平らなそれを、三角に切る。
「彩りがいいな。食っていいか?」
ワクワクする美しい断面が覗くと、わたしも思わず手を伸ばしたくなる。
「まだです!まだ、完成してません」
パンにクリームが馴染むまで、クリームに程よくフルーツの酸味が移るまで。
「わたしが帰って、しばらくしてから食べて下さい」
その我慢が、舌とお腹の期待を膨れさせ、この一手間が、味に調和を生む。
「それぐらい待った方が、絶対に!美味しくなるので」
そう囁くのは、向こうの世界の記憶なのか、それとも今の自分の直感なのか。何も手をかけなくても、その待ち時間はお料理の一部だ。
「待てだとぉ?」
わたしの分は、ちゃっかりと布巾でくるんで確保してある。お家に帰ったら、ヴァレンの紅茶をこっそり淹れてやろう。そしたらそれを、一口飲んでから、このコを口一杯に頬張ってやるんだ。
「はい。これは大切な手順ですから」
「生意気抜かしやがって。もう随分遅ぇんだ、早く帰りやがれ」
「はい!まだしばらく、食べちゃ駄目ですからね?明日も、よろしくお願いします!」
頭を下げると、ルィーさんの返事を待たずにお店を飛び出した。もう来るなと、言われてしまう前に。
わたしがお家に帰りつく頃には、フルーツとクリームをパンで挟んだだけのものは、一体感を獲得してフルーツサンドになっていた。
紅茶と一緒に頂くそれは、舌に甘味と幸福を、お腹に小さな温もりと大きな満足感を。そして、心には勇気を灯してくれた。自信を持って言える。わたしの作ったフルーツサンドは、美味しかった。
帰ったら好きなだけ泣くつもりだったのに、胸の真ん中に宿った炎が、弱虫を全部、蒸発させてしまっていた。
やる気が溢れる。その心の炎を竈に移した。
「牛乳も使っちゃえ~」
朝ご飯を作っておこう。明日は朝からホワイトシチューを食べちゃおう。今度はきちんと温め直して、お腹いっぱいにしてから出かけよう。