新たなる婚約者
伯爵の満足そうな笑みは、少しだけ開いた口の奥から、漏れ出していた。
それはアイネにとって、魔王が漏らすときのような、邪悪なものをまとった笑みに聞こえた。
こぼれ落ちたワインが染みにならないようにと、彼女のスカートを拭いていた侍女も唖然として、伯爵を見上げる。
しかし伯爵の言葉が翻ることはなかった。
「現実を受け入れろ。苦手なものを克服して生きることができなければお前など生きている価値がない」
「だけど――そんな‥‥‥私の遺産を勝手に。両親が残してくれた大事なものなのに。一体、どこの誰に――」
「お前の新しい相手はブラック閣下だ。知ってるだろう?」
「ブラック? まさか……大公閣下のことですか」
「そうだな。それ以外にどなたがいらっしゃるというのだ」
これまでにない嫌な汗が背筋を伝って落ちていく。
王国の貴族の中でブラックと名のつく者はたった一名しかいない。
それは先王の弟。
大公と呼ばれる王族に継ぐ、高位貴族。
爵位として血筋として家柄としては申し分がない相手だ。
しかし年齢が、あまりにも違いすぎる。
アイネは十八歳。
大公はもう五十を過ぎると聞いた。
「お前にとっては良い相手だろう。大公閣下に可愛がっていただければ良い。そうすれば王家のみならず大公家とも我が家は縁続きになる。まあ……」
と、伯爵は言い淀んだ。
彼にも十数年の間義理の娘として養ってきたアイネに対して、少しばかりの愛情があったのだろう。
その顔をちょっとばかり曇らせて、彼ははあ、と溜息をつく。
「大公閣下は賭け事に女、暴力が絶えないとのうわさもある。若い頃の武勇伝に数えきれないほどだ。悪い意味での武勇伝だが‥‥‥お前が正しい愛情を注げばあちらも愛して下さるに違いない」
アイネは改めて軽く現実に絶望した。
そんなことまで聞いてしまったら、やっぱりこの家族には自分の居場所はどこにもないと思うわけで。
ただ一つ違うものといえば、アイネが殿下と婚約した三年間。
その間だけは、家族からこんな酷い仕打ちを受けることはなかった。
オリビエートの存在は、それまで生まれてから十五歳の婚約が決まったあの日まで。
彼女に対して家族ぐるみで行われていたいじめや迫害や差別といったものから、アイネを間接的に救うことになったのだ。
アイネはそのことに感謝していたし、だからこそ早く彼と結婚することを望んでいた。
それはこの家から出て行くため。
「そういう話だ。では食事が終わればさっさと準備に取り掛かれるように。先方は一日も早くお前をに会いたいと、そう、言われてお待ちだそうだ。」
「待ってお父様。学院の講義は‥‥‥まだあと一年、私は生徒です。卒業までどうか通わせて!」
「そんなものはない。お前は必要ない。今から結婚するという女が、学院で学んでどうする? 結婚して子供を産め。それがお前の正しい淑女としての生き方だ」
「ああ……そんな」
自分をまともな家族と認めてくれない、この伯爵家から逃げ出すための手段として、アイネは結婚を望んだのだ。
けれど、それはもし婚約破棄などになれば。
あっという間に過去の思い出が現実のものとなって彼女に牙をむき、襲い掛かってくることを……。
アイネは三年間の幸せによって、うっかりと頭の中から忘れてしまっていた。