アイネの涙
主人が涙に暮れている間、新たな侍女となったエリーゼは、入り口であり今では彼女たちを閉じ込めている場所でもある部屋の扉をそっと開ける。
廊下とそこにある幾つかの部屋。
その住人たちの反応を、そっと窺っていた。
――手配した人員の到着が遅い。
そんな不安が、エリーゼの心に浮きあがった。
エリーゼがたまたまこの階に居合わせて、主人であるアイネの危機に遭遇した訳ではない。
偶然にアイネを助けた訳でもない。
ここに向かえという指示が、父親であるロアーを通して、アイネの夫になる大公ブラックから下されていたからだった。
「お嬢様。これをどうぞ」
「……ありがとう」
ひとしきり泣いたのだろう。
そっと手渡したハンカチで涙を拭ったアイネの表情には、少しだけ余裕が戻ったように見えた。
これから、またあの場所へと戻らなければならない。
そして、主人と荷物を安全に、大公閣下の元へと届けなければ役目を果たせなくなる。
再び、玄関をそっと開き、外の安全を確認した。
「なんでこんな目に遭わなければならないの……。そうだ、貴方! どうしてここがわかったの?」
「それは――」
余裕を取り戻したのか、アイネの顔は不機嫌一色に染まっていた。
自分が受けた理不尽な暴力と、エリーゼの登場があまりにも偶然に過ぎる、と彼女は思ったらしい。
エリーゼの返事次第では、感謝が消え、罵倒の言葉が飛んできそうなのが怖い。
自分も被害者なのですが、とエリーゼは言いそうになって止めた。
それについて理解を求めるのは、もう少し後からでも良かったからだ。
「先ほども申し上げました通り。王国騎士ロアーの娘、エリーゼと申します」
「それは聞きました。あなたの物腰から、きちんと教育を受けたレディであることも推察がつきます」
「ありがとうございます」
「だけど、それとこれとは話が別でしょう? 助けていただいたお礼はいたします。感謝のいたします。でも納得いかないわ」
アイネは心の中から湧き上がる怒りを抑えきれないような顔をした。
多分その答えは、互いが落ち合う場所、にあるような気がするエリーゼだった。
「ブラック大公閣下からは、このホテルのスイートルームに行くようにと。……私に長年仕えてくれた侍女を連れていくことを許さず、閣下が雇った侍女とその場で合流するように、と。そう聞いていたの」
水色の瞳で、アイネはエリーゼを見つめた。
透き通るような美しい淡いその光に吸い込まれそうになる。
夜明けの空のような色をしている、とエリーゼは思った。
けれど、とアイネが続ける。
「けれど、貴方はここで私と落ち合うように命じられた、と。そう言ったわ。私、聞き間違えをしていますか?」
「いいえ。それはございません、お嬢様。お嬢様の申される通りです」
「……否定くらいしてくれないと、責められないじゃない。どうして、私をこんな目に遭わせるのですか」
どうやら彼女は廊下で自分を襲った連中と、エリーゼがぐるだと勘違いしているようだ。
この誤解は解かなければいけないと思った。
「お嬢様。私が聞いたものはこの階のこの部屋。この場所に行け、という命令でした。このホテルに着くまでは」
「……は? 理解ができません」
「到着してすぐに父から伝言があったのです。ホテルの入り口に入り、カウンターでスイートルームへの来客だと告げた時。フロントの係の者から、一枚のメモを渡されたのです」
「どういうこと?」
首をかしげるアイネに、エリーゼはスカートのポケットから取り出した、紙片を渡した。
それは隅の方にこのホテルの名前と連絡先が小さく印刷された、ホテル独自のメモ用紙だった。
そこには確かにこの階とこのルームナンバーが記されている。
ロアーより、とも書かれてあった。




