虚ろな視線
どうにか一つ目を運び込むことに成功する。
もう一つは本が詰まっているだけだし、あの旅行箪笥も錠前がついていて、盗んでいくにしても開くところから始めなければならない。
室内と廊下を往復している合間に、それだけの盗みをすることは難しいだろうと思われた。
「こんな……っ。重いっ、何が詰まっているのよ、この中身は!」
バッグ二つはどうにか運び込めた。
しかし、旅行箪笥だけはどうやっても少しずつしか動かない。
中身を詰めさせたのは自分だが、これまでの旅行で家人たちがひいひいと言いながら運んでいたのを、素知らぬ顔をして気にしなかった罰が下ったのかもしれない、とアイネは過去の行動を顧みてちょっとだけ反省した。
うううっと呻きながら大きく足を開き、自分の背丈ほどもある大きな荷物を押して運ぶ姿を、友人たちが見たらどう思うだろうと、そんな考えが頭をよぎる。
だが、すぐに消えてなくなった。
彼女たちは、数日前にアイネを見捨てて、自ら去って行ったのだ。
もはや友人とも言えない、単なる顔見知りでしかない。
それよりも、旅行の装いとして着ている薄緑の膝下丈のワンピースの裾が捲れて、太ももが露わにならないかが、大いに気になった。
馬に乗る時ならば乗馬用のズボンを履いているから足を大きく開くことに抵抗感はないが、いまはスカートだ。これでは力を入れて押すどころではなかった。
このような場所で、このような行為は、伯爵令嬢がするようなことではないのだ。
そんなことよりも更に気になることが、目の前で起こっていて、それがアイネをもっと焦らせた。
「待って、何? どういうことなの」
通路の左右にはアイネが通された部屋と同じような扉がずらっと等間隔に並んでいる。
いま、その扉をうっすらと開き、こちらを覗きこんでいる人々の視線がアイネに向けられていた。
ホテル・キャザリックは王都でも屈指の一流ホテルだ。
そこに宿泊する客は、最低でも富裕層でなければならない。
だが、そんなホテルであっても、従業員となれば話は別だ。
そして、最下層の従業員――ホテルの裏側で設備を管理したり、庭の剪定をしたり、掃除をする者たちともなれば……低所得者どころか、物取りでも平気でやる奴隷たちだって、いてもおかしくない。
「大変そうですね、お客様。お手伝いいたしましょうか? 代価はその中身でもいい」
「ひっ! やめて、触らないで!」
首に奴隷の証である焼き印を押された男たちが数名、扉の中からこちらに向かって歩いてきた。
誰もが生きることに疲れ切ったような顔をしており、野卑な笑みを浮かべて近づいてくる。
暴力に満ちた生き方しか知らない連中が、そこにはいた。
口調は至極丁寧だが、その要求は物取りのそれだ。
このままでは荷物どころか、部屋に押し込まれて、命すら危うくなる。
アイネが後を振り返り、元来た道を逃げ戻ろうとした瞬間、男たちの一人がアイネに追いすがり、悲鳴を上げさせまいと手でその口を防ぐ。
廊下に力づくで叩きつけられ、左側の頬が強く傷んだ。
アイネはその勢いの強さに胸を激しく打ち、肺から息が吸い出されて、目の前が昏倒する。
視界が急展開し、仰向けにされてドレスの胸元に男の手がかかった時だった。
「お嬢様に触れるな、この無礼者」
「へぐっ!」
アイネの視界に何かが凄まじい速さで滑り込んでくる。
誰かの怒りの声とともに、男の肉体はボールにでもなったかのように飛んでいき、廊下の床で跳ねて動かなくなった。




