最低の客室
三台分の荷物はない。たった一台のキャリーの、それも二段積めるようになっている積車の下の段を埋めたのみだ。
普段から身に付けていた衣類、靴、ドレス、その他もろもろの日常で使う品々は、旅行鞄に詰まっている。
貴族は旅行先でどのような行事に出くわすか分からない。
そのために、専用の旅行鞄が、専門の職人によって作られ、代々、親から子へと受け継がれているのだ。
鏡開き式になっているそれは重さだけでいえば相当重いようで、キャリーに積み上げるにはボーイとドアマンが二人がかりで持ち上げる必要があった。
バッグに詰まっているのは、お気に入りの本ばかりだったり、貴重品・宝飾品だけを入れたダイヤル式の錠がついた物もある。
それらを重そうに押しながらボーイと共に、客室係が案内する後ろに従って、アイネは伯爵が用意したスィートルームへと移動した。
しかし、そこは広さからしても豪華さからしても、とてもスィートと呼ぶには相応しくない、三流の物件だった。
アイネは客室係に振り返ると詰問した。
「どういうことかしら?」
「は! いえ……フロントからはこちらにご案内するように申し付かっております、お客様」
「これが、スィート? スィートを予約したはずなのだけど?」
ホテルの北側にあり、斜面の陰になって日中である今でも、陽がまともに窓から差し込んでいない。
うすぼんやりとした室内は陰気で、空気も悪く、カビが生えているような、臭気すら漂ってくるようだった。
仮にも貴族。仮にも富裕層が泊るには相応しくない場所だといえた。
アイネは誰の横やりが入ったのか手に取るように理解できる。
静かに客室係を睨むと、彼は「わたくしでは分かりかねます」と言い、ボーイに荷物をキャリーから降ろさせる。
その場所は、廊下の隅であり、彼はこれ以上関わりたくないと、必死に額から垂れ落ちる汗をハンカチで拭っていた。
「部屋の中まで運んで! 私に運ばせるつもりですか?」
「こ、これでよい、と。そう仰せつかっておりますので……はい」
「何ですって! ちょっと……っ!」
客室係はボーイに目線で合図をすると、アイネの手の中に部屋の鍵を押し付けて、逃げるように去っていく。
それに続こうとするボーイの袖をどうにか捕まえると、アイネは彼に叫んだ。
「チップを……弾むわ」
「それでしたら、はい!」
現金なボーイはアイネが差し出した銀貨を手からむしり取るようにすると、軽いバッグだけを運び入れて、アイネが室内に入った隙に逃げてしまった。
最後に残ったバッグ二個と、あの巨大な旅行鞄。いや、旅行箪笥はどうやってもアイネ一人で持ち込める重さではない。
「あのボーイ……やってくれたわね……!」
こんなことなら銀貨ではなく、銅貨にしておけばよかったとぼやきつつ、アイネはまず宝飾品が入ったバッグを室内に運び込む。
それらは思っていたよりも、重労働だった。




