ホテル・キャザリック
週末。
水曜日にアイネが望んだ、大公と会うまでの一時を過ごせる仮の宿は、国内でも有数の高級ホテルだった。
もう、あと少しで伯爵家との縁も切れる。
そう思えたら、アイネの心にもいくばくかの余裕が生まれてくる。
学友たちを失い、本当ならば最大の理解者となってくれるべきオリビエートに裏切られた今、その心にはぽっかりと穴が空いていて、スースーと空気が出入りしているような感覚をアイネは覚えていた。
丸い心に、大きなドーナツみたいな穴が、生み出された気がしてならなかった。
「ようこそおいでくださいました、ホテル・キャザリックへ。シュヴァルト伯令嬢アイネ様」
どこか古式めいた口上が、馬車のドアを開けアイネを車外へと導いた、ドアマンによってかけられる。
予約しておいたからこその出迎えかもしれないが、それはアイネのことを特別なレディだと知っているからに他ならなかった。
国王が下したアイネへの処置。
王太子オリビエートの婚約者としての立場を解いたというニュースは、まだ彼ら一般人の耳には届いていないのだ。
アイネはそう理解した。
今はまだ、王太子妃補として振る舞わなければならない、という暗示めいた現実の裏返しでもあった。
「ご苦労様」
チップを多めに渡すと、ドアマンの笑顔がほころんだ。
彼らは賃金の他に、宿泊客にサービスをするごとに渡されるチップで、生活をしている。
多めのサービス料に、嫌そうな顔をするはずも無かった。
アイネは眼前に見上げることのできるホテルキャザリックを無言で見上げ、それから視線を移す。
一般客が出入りする入り口となっている貴族専用のこの入り口は、一般客のそれを通り抜け小高いの傾斜を少しばかり馬車で上がらなければたどり着けない場所だった。
そこに至る坂道の前には門があり、ホテルの雇っている警備員が二名、左右に張りついていた。
丘の傾斜を利用して作られたこの場所は、ホテルの上顧客がひっそりと訪れても、誰にも分からないように作られていた。
「お嬢様、お荷物はこれだけでございますか……」
「え? ああ、そうね。それだけよ」
馬車のなかに積まれていた荷物はアイネの背ほどまでの高さがある長方形の旅行鞄、それに革製の旅行バッグが数個あるだけだ。
女性であるアイネ一人ではさすがに一度に持つことができる量ではないが、彼女は一人でやってきた。
家人も連れずに貴族の令嬢がホテルに宿泊するなど、あまり見らえた光景ではないし、感心される行いでもない。
その行為そのものが、彼女を下手をすれば貧乏な貴族令嬢と、周囲に誤認させる恐れもある。
「家の者は後から来るわ。運んでくださる」
「はい。もちろんでございます」
荷物を運ぶために移動式のキャリーが用意されていた。
それも三台も。
アイネはそれを見て、自分の持つ荷物のさもしさに、虚しさを覚える。
本当に大事な一握りの物。
亡くなった両親から譲り受けた家具や、調度品、屋敷に至るまで叔父に奪われてしまった。
大公ブラックに嫁ぐまでの間、自分は戻る場所のない流浪の令嬢となったわけだ。
ふふっ、と自虐的に小さく鼻を鳴らした。




